胸の鼓動が止まらない

            
            チチチ…と小鳥がマドカに挨拶するようにテラスの手すりに舞い降りた。
            
            ダイヤモンド・チェアに身沈め、点字の本を読んでいたマドカは顔を上げ、
 
            挨拶を返すように右手を小鳥の方に伸ばしてみた。

            すると羽ばたく音がして、小鳥は空へ帰ってしまったようだ。

            
            (…やっぱり士度さんのようにはいかないわね。)


            マドカは小さくため息をつくと、身を伸ばして庭の様子を探ってみた。

            柔らかな太陽の光が零れ、そよ風が心地よく吹く中で

            子猫たちがじゃれ合っている鳴き声が聞こえる。

            モーツァルトは士度が連れてきた犬たちと駆け回り、ボール遊びをしているようだ。

            そこへ、大きな欠伸がマドカの耳に入ってきた。

            今やこの庭の主と化しているライオンがいつもの定位置の大木の下でまどろんでいる。

            ふいに、小さな好奇心がマドカをくすぐった。

            マドカは本を片手に椅子から立ち上がると手すりを伝って庭へ降り、

            気配と匂いを頼りにライオンがいる方向へ歩いていった。

            モーツァルトが飼い主の動向に気が付いて、こちらへ駆けてくる。

            マドカはライオンに近づくにつれ歩みを緩め、ついにはその目の前までやって来た。

            ライオンはチラリと片目を開けただけで、昼寝を決め込んでいる。

            
            「ライオンさん、ちょっといいですか?」


            彼、の目の前にストン、と腰を下ろすとマドカは一応尋ねてみた。

            返事は無い。


            彼らがここを住みかにするようになってまだ日は浅いが、
           
            士度に言い含められているのか、このライオンもその他の士度の仲間たちも

            マドカや音羽邸の使用人たちに対して決して危害を加えるようなことはしない。

            かといって全ての動物が人懐っこく人間たちに接してくるかというと、そうでもない。

            目の前に人間がいても興味が無い素振りを見せたり、身を隠したり。

            遊ぼう、と寄ってくるのはごく一部だ。
 
            このライオンも前者の方で、士度以外の人間に関しては全く我関せず。

            使用人が庭を掃除するときも、マドカがテラスでお茶を飲んでいるときも、

            士度がいない時は全く表情というものをみせない。

            ただ、士度の前では喉を鳴らしたり、腹を見せたて甘えてみたり、

            時には一緒に相撲をとったりもしている。

            士度がこの庭に立ち入ると動物たちが一斉に彼の方へ注意を向け、

            庭の空気がパッと華やいだようになる−マドカはそんな一瞬を感じるのが好きだったし、

            自分も士度と同じようにここの新たな住人たちと仲良くなってみたかった。

            

            マドカはそっと、ライオンの背に触れてみた。

            相変わらずライオンは微動だにしない。

            その僅かに硬い毛からは草の匂いがし、マドカの鼻をくすぐった。

            庭で士度と語らうとき、彼は時々このライオンを背もたれ代わりにしていることをマドカは思い出す。

            そんな時、彼はこの大きな仲間のタテガミを弄ったり、喉を撫でてやったりしながらマドカの話を聞いていた。

            時にはこの獰猛な猛獣を枕に惰眠を貪ることもあるそうだ。

            士度と同じ体験をしてみたい−そんな純粋な気持ちから、マドカは恐る恐る背中をライオンに預けてみた。

            ライオンは一瞬ピクリ、と身じろぎしたがそれっきりなんの反応も見せない。

            それをマドカは彼からの許可と勝手に受け止め、身をその背に沈めた。

            そして、士度の指定席から聞こえる音を拾ってみる−

            木の上からの小鳥の囀り、木々の葉のざわめき、動物たちがこちらへ駆け寄ってくる気配、

            ライオンの浅く低い呼吸、子犬たちのお喋り、鳥の羽ばたき、遠くに聞こえる街の喧騒−

            フワリ、と涼やかな風がマドカの頬を掠め、髪が一瞬宙に遊んだ。

            
            −あ…−  

            
            −もしかしたら、ここはこの庭の中でも一番気持ちの良い風が通る場所なのかもしれない−

            それは緑の香りと太陽の匂いをヒンヤリとした空気にのせて軽やかに、優しく運んできた。

            彼は毎日この風を感じている−マドカは士度の小さな秘密を発見できたような気がして

            その口元に自然と笑みを浮かべる。

            彼のことを思うとマドカの胸の鼓動はいつも踊りだした。そう、今だって−

            
            モーツァルトはいつの間にかマドカの膝を枕にして夢の中だ。

            彼がいつも感じている風の中でまどろむのもいいのかもしれない−

            そんな風に考えながら、マドカもゆっくりと訪れる睡魔に身をゆだねた。


            
            少し長引いたヘヴンとの打ち合わせを終えて、陽が傾き始めた頃士度は音羽邸の門をくぐった。

            すると、裏庭への入り口辺りでメイドたちが数人、途方に暮れて右往左往している。

            そのうちの一人が士度の帰宅に気づいて、こちらに小走りに駆けてきた。

            
            「士度様!あの、お庭でお嬢様がお昼寝をなさっているのですが−」


            このままでは風邪を引いてしまいます−と心配そうなメイドに対して、

            そしたら起こしゃいいじゃないか、と士度は答えながら裏庭を覗き込んで、合点がいった。

            マドカはライオンに凭れ掛かり、気持ちよさそうに眠っている。

            いくら害を及ぼさないとはいえ、やはりメイドたちにとっては

            あの一見獰猛な猛獣の目の前に立つことはどうしてもできない相談のようだ。

            俺が運んでくるよ−とすぐに返ってきた士度の答えに、彼女たちから安堵のため息が漏れた。


            庭に足を踏み入れると、小鳥たちが士度の肩にとまってオカエリと囁いた。

            動物たちが一斉に士度に顔を向け、歓迎の意を示した。

            士度は彼らに返事をしながら、大木の下へと向かいライオンに声を掛けた。


            <よぉ>


            するとライオンは顔を挙げ、少し困ったような顔をした。


           <ハジメテオマエイガイノニンゲンニマクラニサレタヨ>


           そんなライオンの苦言に対して士度は僅かに苦笑した。


           <ま、可愛いもんだろ?>


           <オマエノトモダチジャナケレバ、クッテイルトコロダナ>


           本気なのか冗談なのか分からない物騒な答えを、草原の王者は返してきた。

          
          <今度は俺が預かるよ、ご苦労さん。>


          士度は逞しい友人に労いの言葉をかけ、その喉を優しく撫でてあげた。

          ゴロゴロと喉を鳴らしながらライオンはその額を士度に甘えるように押し付ける。

          仲間とのスキンシップを一通り終えると、士度はマドカを起こさぬよう、そっと抱き上げた。

          マドカの感触が身から離れたと同時にライオンは起き上がり、大きく伸びをした。

          内心迷惑に思いながらも、それでもマドカを起こすまいと動かなかったライオンに改めて礼を言うと、

          ライオンは軽いうなり声を上げてそれに答えた。

          当のマドカは無邪気にもまだ夢の中だった−



          −もうそろそろ起きて戻らなきゃ、きっと皆心配してるわ−

          
          −でもライオンさんの傍は思ったよりも気持ちがよかったな−とマドカは眠い目を擦りながら

          身を起こそうとした。

          すると、動かした足は空を切り、頭は呼吸する壁に凭れているようだ。

          寝ぼけていた思考が一気に覚醒する。

          自分の置かれている状況が瞬時に把握できず、マドカは慌てた。

          
          「目が覚めたかい、お姫さん?」


          半ばパニックになっている中、不意にからかうような声が頭の上から聞こえてきてマドカの心臓は飛び跳ねた。


          「!!ッ士度さん!?」


          「随分と気持ちよさそうに眠っていたな。」

    
          オマエの枕は困り果てていたぞ、と士度は笑いながら言った。

          
          −寝顔を見られた!?−


          とっさに自分の頭に手をやると、髪は乱れて僅かに絡まっていたりもする。

          しかも自分がいわゆる“お姫様抱っこ”をされて士度に運ばれている事実に今更ながら気付き、

          マドカは耳まで真っ赤にして訴えた。


          「すみません!士度さん、一人で歩けますから下ろしてください!!」


          まぁいいじゃねぇか、と士度は面白そうに答えると途方に暮れるマドカをよそに

          真っ直ぐマドカの部屋へと向かった−。


          全身の体温が高く感じる−きっと自分は真っ赤な顔をしているのだろう、

          胸の鼓動はさっきから激しく脈打ったまま、一向に止まる気配がない。

          
          −こんな様子じゃ士度さんに変に思われる−


          泣きたい気持ちになりながらそうマドカが考えていると、

          いつの間にか二階の自室に着いたようだ。

         
          「ホラ、夕食になったら誰かしら呼びに来るってよ」


          マドカを彼女の部屋の柔らかなベッドの上に座らせると、士度はスッと身を離した。

          急に遠くなった彼の温もりと匂いに寂しさを感じながら、ありがとうございました−とマドカは

          恥ずかしそうに呟く。

          そんな彼女の頭を片手でポンッと撫でることで答えると、

          じゃぁな、と士度は部屋から出て行こうとした。


          「あの!」


          何を続けたら良いのか分からないまま、マドカは反射的に声を掛けた。

          何だ?、と士度が振り返る気配がする。


          「あの…ホント、ありがとうございました…私、重いのに…」


          自分は何を言っているんだ、と再びマドカは絶望的な気分になる。

          士度はそんなマドカを微笑ましく思いながら

 
          「寝顔、可愛かったぜ」


          と言い残して部屋を後にした。

          
          残されたマドカは士度の言葉に目を丸くし、

          ややあってまたもや自分の身体に火が点くのを感じた。

          ベッドに身を投げ、自分自身を抱きしめる。

          警笛のように鳴り響く胸の鼓動は止むことなくマドカの耳の奥にまで届いた。

          そしてそれはいつしか喜びのメロディーに変わり、

          いつまでもマドカの耳元で、今日感じた風のように躍ってきた。

Fin.



        恋する乙女にとってはその寝顔を見られることこそ一大事、
          それを褒められることも同じく一大事…。
          士度はきっと一人大いにご機嫌だったんでしょうね、この後v