夏が近い――正午過ぎの燦燦とした光が図書室の背の高い窓ガラスからマドカの黒髪を艶やかに照らし出す。彼女の隣で寝そべっているのは、転寝モードの盲導犬、モーツァルト。
彼女は本棚が囲む五角形の部屋の中央の床に腰を下ろし、分厚い点字の本に指を走らせていた――国語辞典、“た行〜は行”――不意に、マドカの指先がは行のとあるページでピタリと止まり、彼女は調べたい目的の言葉を探しあてたようだった。
「ひ……も…」
マドカはその項目を一通り読んでみる。
―@物を縛ったり束ねたりするのに用いる細長いもの。
(……これじゃなくて……)
―A物事を背後から支配すること。引き替えの条件。
(……よく分からないけど、きっとこれでもなくて……)
―Cホタテガイ・アカガイなどの外套膜の部分。
(……これも関係がないから……じゃあきっと……)
―B女性に働かせて金を貢がせる情夫。
(……これ、なのかしら……?)
マドカは不思議そうに首を傾げた――今は彼女の屋敷に身を寄せている士度と知り合ってからたまに訪ねるようになった喫茶店で、彼と同じく奪還屋稼業で煙草を吸う口の悪いあの人が、時折口にして――そしてその度に彼の顔を曇らせる“この言葉”の意味が、マドカはイマイチはっきりと理解できていなかった――所謂“居候”の柄の悪い言葉だと思っていたマドカは、指を伝って入ってきたその情報に、虚を衝かれたように目を丸くした。
(だって……でも、それじゃあ……)
“女性に働かせて”
――私はお仕事をしているけど……それは士度さんが来る前からしていることで、
それに士度さんだってお仕事を探し始めたわけだし……私は好きでお仕事をしているわけで……
“金を貢がせている”
――そんなこと、してないし……士度さんはお金が欲しいなんてこと……一度だって……
言ったことがないし……――マドカの貌が一瞬、どこか寂しそうに曇った――士度がこの屋敷に来てから数週間――お金に限らず、彼はマドカに助けを求めるようなことをこれまでに……一度だって言った例がない。本当に……何か困ったことは無いのだろうか?彼にはきっとまだ慣れないであろう、この緑の少ない都会の中で。お金だってお仕事だって何だって……私のできることなら、手助けをしてあげたいのに……。
「…………」
心に射したそんな影を振り払いながらマドカは、ともかく、“蛮さんは間違った言葉の使い方をしているのね――ドイツ帰りだからかしら……?”――と知りたかった答えを見つけた満足感に僅かに浸り、そして次に続く言葉に僅かに首を傾げた――
(情夫……?)
“じょうふ”って、何かしら……?――
マドカはついでに下ろしてもらっておいた“さ行”が載っている重い辞書にゆっくりと手を伸ばした――
情夫――女の情人である男。いろおとこ。また、内縁関係にある男。
(……情人……?内縁……関係?)
またまた再び、温室育ちのマドカには未知なる言葉が彼女の指先で浮かんでいる――マドカは“さ行”のページを少し戻した。
マドカが一度辞書を読み始めると――なかなか図書室から出てきてくれないから困ったものだよ……――
いつか父様が漏らしたそんな言葉がマドカの記憶を優しく駆け抜け、自然、彼女の口元に笑みを作る――そんななか、次の目的の言葉がマドカの指に意味を伝えてきた――
情人――恋愛関係にある人。情事の相手。
「………!?」
ボッ……と火が点いたようにマドカの貌が紅く燃え上がる――
隣で惰眠を貪っていたモーツァルトの耳が、寝言のようにフルリと揺れた。
「………」
さらに数ページ先に戻れば、次の――まだ彼女の頭の中にはその意味が“漠然としか”インプットされていない言葉の概要を知ることができるのだが……
「…………」
マドカは顔を火照らせながら、パタン……と静かに国語辞書を閉じた。これ以上はもう……というか、“まだ”“きっと”自分が知るには早すぎる――そんなことを自分に言い聞かせながら、彼女はモーツァルトを起こさぬよう重い辞書の一冊を両手で抱えながらそっと立ち上がると、辞書を元の書棚に戻すための背の低い脚立を手探りで探し始めた――執事に頼んで置いていってもらったので、そこに上がって手の届く範囲に、この辞書が収まるスペースがあるはずだ。
(……でも結局は………)
蛮さんが言っていたことは頭からシッポまで、全部見当違いだったのね――
“女に働かせて”も“貢がせても”……ましてや“情夫”でもない“彼”を“ヒモ”だなんて……失礼にも程があるわ……!――
不満――そんな気持ちを顔に貼り付けながら、マドカは探し当てた脚立に上り辞書を戻すスペースを確認すると――多少腕にズシリとくるその“さ行”の辞典を胸の辺りまで持ち上げた――そのとき……
「―――!!?」
思ったよりも質量のあったソレがマドカの細い腕にその身を預け――彼女は重さのあるその辞典に押されるような形でグラリ…とバランスを崩した。木製の脚立は床から三十センチの高さも無かったが――自分の身体が随分と高いところから墜ちるような感覚にマドカの心臓は凍りついた――それと同時に片足が自然と脚立から離れ――マドカは次の瞬間に訪れるであろう衝撃に身を竦ませながら目を瞑った――
「…………?」
しかしながら――マドカの小さな頭や細い背中は図書館の絨毯に酷く叩きつけられることもなく、彼女は片足を揺れる脚立に僅かに預けたまま、斜めに、不自然な格好で宙に浮いているようで。
「………???」
思わず瞑った目を開け、自分が置かれている状況を確認するように耳を澄ますと――彼女の頭上から思わず漏れた安堵の溜息が聞こえてきて……
「……危っねぇな……!この高さでもこんな格好で落ちたら大怪我だぞ……!?」
「―――!!?し……士度、さん……!?」
気がつけば、彼女の背中は彼の大きな左掌にしっかりと支えられていた――彼女の貌が再び朱に染まるその間に、士度は辞典を持ったままの彼女を刹那フワリと持ち上げ――彼女を図書室の絨毯の上に優しく着地させた。
赤面しながら目を丸くしているマドカをよそに、士度は未だ彼女の手に囲われていた辞典を片手で上からそっと取り上げ、脚立を使うまでもなくそのまま書棚の所定位置にそれを戻した。
「………!!」
ズッ……と質量のある音を立てながら辞典が書棚に収まる音を聞き――マドカは彼の背の高さを改めて意識した――
私が脚立を使わなければ届かない高さを、背伸びするまでもなく簡単に手が届く彼……――
私が両手でやっと持ち上げられた辞典を、片手で難なく書棚に戻してしまう彼……――
そして……
「……なぁ、何でも一人で無理だと思ったら、使用人でも俺でも、誰でも呼べよ……」
士度は床に寝かされたままの、もう一冊の国語辞典を取り上げながらどこか心配そうに言葉を紡ぐ――マドカの漆黒の瞳がまた少し、瞠られた。
「……腕とか指とか、怪我したら困るだろ……?」
二冊目を棚に戻し――今度はマドカの頭上から彼の声が降ってくる――彼女のハートがトクン……と揺れた――
仕事でも音楽院でも屋敷の中でもお友達も……これまでのマドカの生活の中で、彼女より背が高い人はざらに居て、自分の上から声が降ってくるなんて日常茶飯事なのに……そうだったのに……――
「…………」
「…………マドカ?」
「―――!!は、はい……!!」
どこか驚いた風に士度を見上げていたマドカは、彼の不思議そうな声に意識を戻され――今日は熱を上げるのに忙しい貌を思わず片手で抑えながら俯いた。
「……頼れよ、せっかく使えそうな奴が居候してるんだからさ……」
そう苦笑しながら彼はマドカの頭をポンッ……と軽く撫で、じゃあな……――と図書室を出て行こうと踵を返す――
「……!!あ、あの……士度、さん……!!」
マドカは高鳴る心の音に導かれるままに――彼のシャツの裾に手を伸ばした――彼の少し驚いたような視線が下りてくる――そんな彼の、ささやかな仕草にも跳ねるように高鳴る心臓の音が声にまで上ってこないように、マドカは全身を制するのに必死になりながらも自らの望みを紡ぎだした――
「え、えっと……もう少しでお茶の時間ですから……今日は柚木さんがケーキを焼いてくれるっていってましたし……お庭で……一緒に……いかがですか……?」
ケーキ――その言葉を出したことにマドカは一瞬後悔した。“甘いものは苦手だ”――もしかしたらそんな理由で断られるかもしれない――彼女の貌に翳る様に浮かんだ切なそうな表情に士度が瞬きをする気配すら、彼の衣服を通してマドカにははっきりと伝わり、そのまま心の音に作用する――
「……そうだな、馳走になるか……」
――下りてきた彼の声――そして零れ落ちた彼女の笑顔とともに、その小さく優しいハートは舞い上がるように鼓動を速めた――
――そういえば……彼がこの屋敷にきてから、私の
士度はマドカを庭に導くべく、彼女の手をとった――彼の掌から伝わるどこか躊躇うような――照れくさそうな、そんな想いも、マドカの内側から温かく擽ったい感触を齎し――彼女はそれが“彼”のまた一つの……新しい“色”であることを察し、人知れず柔らかに目を細めた。
そう、彼と出会ってから……私の世界は毎日、広がるのにとても忙しくて……でもそれは……
(きっと……やっぱり……恋、なのかしら……?)
彼女は彼に寄り添うように、ほんの少しだけ――歩幅を彼に近づけた。
彼の身体は無意識にも逃げる素振りを見せなかった――そんな小さな真実も、彼女にとっては大きな喜びとなり、マドカはまた一つ、心の音色が増えたような気がした――
やがてパタン……と図書室の扉が閉まり、窓の外から聞こえる小鳥たちの真昼のお喋り以外の音が、その五角形の部屋から消えた――
<………?………アレ?>
その静寂に気がついたようにモーツァルトは目を覚ましたが、女主人の姿は既に無く……――
<……?――???>
寝惚け眼の盲導犬が図書室で一匹、首を傾げる中、その静かな空間の大きな窓の向こうには――
中庭の大きな樹の下で――お茶席用のシートを広げる士度と、バスケットを片手に微笑むマドカの姿が
木漏れ日の中の一枚絵のように、優しい刻の中で揺らめいていた。
Fin.