【7】
遠くで誰かが呼ぶ声がした。
切なく震えるその声がする方へ、私は魅かれるように手を伸ばす。
早く戻ってあげなければ・・・・あの人はきっと私を探している。
・・・・随分と、深いところにいるような気がする――ここは何処?
還り道が・・・・分からない。
彷徨う私の目の前に、いつの間にか佇んでいる一人の女の子――彼女はにっこりと私に微笑みかけた。
あなたは、誰?
(もう少し・・・彼の傍にいたいけれど・・・)
――ねえ、どうしてあの人の気配は・・・こんなにも哀しいの・・・・?
(彼はあなたの帰りを待っている・・・・)
――早く戻りたい・・・・手を伸ばして、彼に触れて・・・私の全てが彼を恋しがっている・・・・
(彼は、私のことも愛してくれたわ・・・・)
――道を・・・教えて・・・!ここは・・・
(ここはあなたも知っている闇の中。ただ気付かないほど奥の奥。道だって、ほら・・・・)
幼子にとられた手からマドカに伝わる、懐かしい
(あなた自身が、知っている・・・・そう、ただ・・・・・)
――私の中の・・・・彼の気配を感じて・・・・捕まえて・・・・・・そして・・・・・・
目に映るのは、唯一の ――― 光。
水の底から浮上するような感覚と共に、マドカは目を覚ました。
目の前に広がるのは――いつもの闇。
そして――すぐ隣から感じる・・・・彼の気配、彼の匂い、彼の・・・存在。
私の左手を優しく、包み込むように握ったまま・・・・彼は眠っているようだった。
彼の手は――氷のように冷たかった。
いった何時からそうして・・・・そこにいたの?
マドカが空いている片手で彼の手にそっと触れると、微かに彼の肩が揺れ、覚醒する気配がした。
「あ・・・・・」
――起こしてしまって、ごめんなさい・・・――
そうマドカが告げようとする前に聞こえた、彼の声。
「・・・・・マドカ・・・・悪ぃ、起こしちまったよな・・・・・」
士度はポンポン・・・・・とマドカの手をあやすようにして叩くと、ナイトテーブルの上に置いてある時計をチラリ、と見て小さく溜息を吐いた。
「まだ二時間ほど・・・時間がある。お前はもう一眠りした方がいい。」
士度はそう言いながら、身を起こしかけたマドカの身体を再びベッドへ横たえ、その頬をそっと撫でた。
その大きな手のひんやりとした感触に、マドカは思わず彼の手を取る。
「士度さんの手、こんなに冷えて・・・・どうしてそこに・・・・・・士度、さん?」
士度の手を温めるように吐息をかけながら胸元へと引き寄せた彼女の言葉に、士度の目が大きく見開かれた。
そんな彼の様子に、マドカは不思議そうに小首を傾げる。
「マドカ・・・お前・・・・・俺のことが・・・・分かるのか・・・・?」
士度の喉から掠れた声が、搾り出すようにして紡がれた。
そしてガラス細工にでも触れるように恐る恐る――彼女を胸に抱いた。
「・・・・?どうしたんですか、士度、さん・・・・?」
その刹那、マドカはその首筋に士度の震える吐息を感じたかと思うと、強く、強く、掻き抱かれた。
彼女の背が揺れる若木のように撓り、息を飲む甘い声が漏れるくらいに、強く。
「マドカ・・・・・!」
自分の名を音にした彼の熱い声にマドカは瞠目する。
そう、私は・・・・・呼ばれた。この耳がはっきりと覚えている――彼のこの声が・・・・・聴こえたのだ。
「士度、さん・・・・私・・・・・・」
マドカの細い指が士度の顔を辿った。
彼女の首筋に顔を埋めていた士度が身を起こし、彼女の顔を覗き込んでくる。
彼にしては珍しく、上気したように熱くなったその頬を、マドカはゆっくりと撫でた。
彼が――目を瞑る気配がした。
「私、夢の中で・・・・・士度さんの声を聞いたの・・・・そして、戻らなきゃって・・・・私、何処かへ行っていました・・・・?」
――そうだな・・・・――
彼女の言葉を受けて、士度が小さく苦笑した。
「とにかく俺はやっと・・・・・“父様”から卒業だ・・・・」
父様・・・?どういうこと・・・・?――マドカが不思議そうな顔をする。
「・・・・話すことは、沢山あるな・・・・」
士度はそう言うと、その存在を確かめるように、もう一度彼女を強く抱きしめた。
不自然な背中の痛みで目が覚めた。
どうも寝違えてしまったらしい。
ソファなんぞで寝るからだ――見ると、向かいに座っていたはずの青年がそこにはいない。
閉ざされた厚いカーテンの隙間から、起きたての朝の光が緩く差し込んでいた。
――酔いつぶれて眠ってしまうなんて・・・久し振りの事だ――
音羽氏は軋む身体を起こしながら、一度大きく伸びをして、立ち上がった。
飲み比べには自信があったのだが・・・・歳のせいか、それとも相手が悪かったのか・・・今は二日酔いよろしく、軽い頭痛までする始末だ。
昨夜一緒に酒瓶を傾けた娘のボーイフレンドは、顔色一つ変えずに淡々と杯を空けていた。
そして時々相槌を打ちながら、静かに話を聞いていた。
父親の娘自慢を――飽きる様子もみせず、時折微かに目を細めたりしながら。
彼のその様子を思い起こし――出会い頭は結構な口論をしたものだが――普段は寡黙で静かな青年なのだろうと、音羽氏は思った。
(最初のあの昂ぶりも・・・・マドカの為か・・・・)
音羽氏は頭を振ると、すっかり凝り固まってしまった肩を解しながら、淀んだ室内の空気を入れ替えようとカーテンを開けた。
朝の静寂を演出している朝靄が、ガラス越しにやけに心地好さげに見えた。
音羽氏は窓を開け、テラスへ出た。そして朝の新鮮な空気を思い切り吸い込む・・・・久し振りの我が家の庭の空気が、やけに懐かしく感じた。
不意に・・・・足元に何かが纏わりつく感触がした。見ると、真っ白でフワフワとした毛並みの子猫が、背を摺り寄せてきている。
そして音羽氏を見上げて、「ナァ~」と愛らしい声で鳴いた。
「おや・・・・迷子かね?これはこれは・・・・随分と可愛らしい・・・・」
音羽氏は子猫を抱き上げると、自分の目の前に掲げた。青い瞳の子猫は甘えた声でもう一度、ニャアと鳴いた。
その様子に彼は思わず相好を崩す。
マドカは小さい頃から動物好き、この子を触らせてやればきっと飼いたいと言うだろう・・・・。
「ミルクでも飲むかね・・・?」
音羽氏は子猫に話しかけ、彼を抱いたまま居間へ戻ろうと踵を返した――
と、その時、タッタッタッ・・・・と動物の足音が聞こえ、朝靄の中から大きな犬が現れた。
「・・・・!!」
音羽氏は一瞬身構えたが、目の前に現れたのは利発そうな顔をした茶色いセッターだ。
尻尾を振りながら音羽氏に近づき、クンクンと彼の匂いを嗅いでいる。
「・・・・随分と大きな迷子だな。それに毛並みがいい・・・・」
元々動物好きの音羽氏は、躊躇いも無くその犬の頭に手をやり撫でてやりながら、尻尾を振り続け愛嬌を振りまくその犬をまじまじと観察した。
そしてふと、以前娘とした電話の内容を思い出す。
(確か・・・居候殿はペットを沢山飼っていると・・・・・!!)
あることを思い出した途端、眠気は吹っ飛び、頭痛も何処かへ消え失せてしまった。
そうだ、今では“あるもの”がこの庭を占拠していると――音羽氏の足元にいつの間にかリスの群れがたむろしていた。
――いや、違う、リスではない・・・・!もっと大きな・・・・まさか、それが本当だとしたら・・・・――
音羽氏は子猫を抱えたまま、ゆっくりと首を庭の中心へと巡らした。
一段と明るくなった朝日に、靄が晴れていく。
その向こうで、立派な
「~~!!?」
音羽氏がその動物を認識した瞬間――彼と獣の目がかち合った。
背中にびっしょりと冷や汗を掻きながら動けない音羽氏を余所に、庭の王は目を瞬かせ、耳をブルリと震わすと――
まるで関心がないかのようにプイッと初老の男性から目を離し、再びゴロリと寝の体勢入った。
その大きな獣の周りには、大中小の犬猫その他、見知らぬ動物が数多にまだ半分夢の中を微睡んでいた。
音羽氏は子猫を抱いたまま、無言で回れ右をした。
そして居間のガラス戸をピシャリ・・・と閉めて、慌ててカーテンを引いた。
<モウ、イッチャウノ?>
ワン・・・!と一声、セッターが鳴いた。
モーニング・ルームのガラス扉を覗くと、まだ朝も早いというのに、娘と居候殿がテーブルを囲んで談笑していた。
メイドたちもクルクルと動き回っている・・・・
窓辺から差し込む朝日に浮かぶこの光景はどこかで・・・・ああ、そうだ・・・・昔の私と・・・・妻の・・・・・――優しい朝のひと時だ。
遠い昔の懐かしいシーンが、音羽氏を少しセンチメンタルな気分にさせた。
――そういえばマドカは
そんな思いを胸に、音羽氏は扉の取っ手に手をかけ、中へ一歩足を踏み入れた。
「・・・・!!父様・・・!!」
娘の弾んだ声が、彼をとらえた。
「――マドカ!!元に戻ったのかね・・・!?」
子猫片手に驚いた風の音羽氏の元に、マドカはモーツァルトに導かれながらやってくる。
「ええ・・・!お久し振りなのに何だか随分とご心配をかけてしまったみたいで・・・・あ、そういえば・・・・父様!!」
心底申し訳なさそうに父親に挨拶をしていたマドカであったが、途中思い出したようにその語気を強め、父親に詰め寄った。
娘が無事に元に戻ったという喜びもそこそこに、滅多に見ない娘の怒りの表情を目の当たりにし、音羽氏は思わず一歩下がる。
「な、何かね・・・・?」
「何かね、って・・・士度さんを殴ったそうじゃありませんか!!父様がそんな人だとは思わなかったわ・・・!!」
「――!!それは・・・あの時は状況が状況で私も・・・・」
音羽氏はしどろもどろに言い訳をしながら、チラリと居候殿の方を見た。彼は―告げ口したのは俺じゃない・・・・!―と慌てて無言で頭を振った。
控えていたメイドのうち数人がそっぽを向いた。執事が呆れたように溜息を吐いた。マドカは父親を問いただすことを止めない。
「・・・・ちょっと、外の連中に朝飯をやってくる・・・・」
――すぐ戻る・・・・――
士度は親子の様子に苦笑しながら、テーブルの上に置いてあった苺を一つ、口の中に放り込むと、
去り際にマドカの頭をポンッと撫でてモーニング・ルームを後にした。
「はい・・・!」
父親を詰問していたときの激しさは何処へやら、マドカは士度に対して軽やかに返事した。
その隙に音羽氏は「やれやれ・・・・」と、ようやくテーブルに着くことができた。
窓から庭の様子が伺える――数多の動物たちが喜び勇んで士度の元へ駆けていくのが見えた。
彼の肩には小鳥たちが止まり、その手を掲げると大きな鷲が舞い降りてきた。
「・・・・いい人でしょう?」
窓の外を覗く父親に、マドカは語りかけた。
「・・・・頑丈さしか取柄がないと、彼は言ったぞ?」
音羽氏はゴホン・・・と咳払いをしながら呟やき、「この子にミルクを・・・」と子猫を持ち上げながらメイドに注文した。
「謙遜しているのよ。とても・・・・素敵な人なの。私にはもったいないくらい・・・・・」
マドカは頬を染めながら、席に着く。
即座に返された執事と同じ台詞に音羽氏は自嘲気味な笑みを浮かべながらも、幸せそうな娘の表情を複雑な思いで見つめた。
「いつの間に・・・・恋なんてするようになったんだ・・・・」
手持ち無沙汰に子猫を撫でながら、音羽氏は憮然と言った。
「彼と出逢ったときからよ、父様。」
マドカは優美な微笑を浮かべながら、とても安らいだ声で答えた。
<シド・・・!サッキ、ニワニ、シラナイオジサンガイタヨ・・・!!>
――デモ、タブン、ワルクナイヒト・・・!――
外から聞こえてきたセッターの声に耳を傾けるように、マドカも見えない瞳を窓の方へ向けた。
「ほら・・・たっぷりあるんだから、慌てるなよ・・・!」
士度の声に、マドカの気持ちが自然に和ぐ。
「ねぇ、父様・・・・私、士度さんのことが、好きよ・・・・・」
煌く朝の光のように穏やかに、マドカは言の葉を紡いだ。
「・・・・そうか。」
音羽氏はティー・カップを持ち上げながら、目の前の器に盛られている赤い果実を見つめた。
苺を差し出しながら漆黒の瞳で自分を見つめる幼い頃の娘の姿が、父の脳裏を過ぎった。
「・・・・父様が母様を愛したのと同じくらい・・・・私、士度さんのことが、好きなの・・・・」
娘の声がやけに優しく、心地好く――音羽氏の耳に響いてきた。
「そうか・・・・それでは私も・・・太刀打ちができないな。」
喜びに花が揺れるような娘の微笑は、父の
「・・・さて、朝食にするとしよう。卵が冷めてしまうよ・・・・」
音羽氏が号令をかけたのと同時に、士度が戻ってきた。
「とりあえずは、及第点だ。」
誰にともなくボソリ・・・と呟かれたその言葉に、士度は首を傾げる。
――何のことだ?――
とマドカに小さく訊ねると、
幸せ色に染まった笑顔が、返事の代わりに返ってきた。
そして言うのだ。
「士度さんは私に対してどんな、“父様”だったのかしら・・・・?」
――ぜひ、聞きたいわ・・・!!――
メイドたちが進言するために嬉々として寄ってきた。
士度は一人蒼い顔をして「やめてくれ・・・・」と頭を抱える。
テーブルの上でピチャピチャとミルクを舐めていた子猫が可笑しそうに喉を鳴らした。
音羽氏は思い出の果実を味わいながら、若い連中の遣り取りを目を細めて見つめていた。
Fin.
darling →最愛の人(夫婦間・恋人同士・家族の間で男女を問わず呼ぶときに用いる)
士度×マドカとマドカ&パパさんの話を書きたかったので、発作的に・・・・。
少々長くなってしまいましたが・・・一度はやってみたかったご対面編、完結です。
弊サイト設定のマドカパパはこんな感じで・・・ということで。
お付き合いくださいました皆様、ありがとうございました・・・!