〜Please, stay by my side〜
士度がマドカと一つ屋根の下で住むようになってから、二月が経とうとしていた。
その間、マドカは3つの大都市でそれぞれ公演を行った。
それぞれの公演を前にした曲目・構成・会場の念入りなチェックや関係者との打ち合わせ、
各メディアの取材、本番の演奏に公演後のパーティー等、分刻みのスケジュールをマドカはそれぞれ丁寧にこなしていった。
自分の演奏会の準備の為に身を粉にして働いている人々や、後援をしてくれる団体、自分の音色に一時でも身をゆだね、
それを楽しんでくれる観客達の為に、マドカはいつも通り、何事もおろそかにすることは無かった。
そんな彼女が最近、小さなため息を時折漏らすことが多くなった。
休憩中や移動中、演奏が終って袖まで戻ってきた直後などに、何処か憂いを秘めた複雑な表情を一瞬垣間見せるのだ。
普段は彼女のプライベートにあまり踏み込まないマドカ付きのマネージャーもその寂しそうな表情を見兼ねて、
何か困った事や心配事でもあるのかと当の本人に聞いてみた。
するとマドカは僅かに頬を染めて、
「何でもないんです!ご心配をお掛けしてすみません…」
と、ただただ頭を下げるだけであった。
こんな状態でも、公演には全く支障をきたしてはいないので、結局マネージャーはそれ以上追及できずじまいだった。
(士度さんがいなくて寂しいなんて言えないわ・・・)
ホテルの自室にあるテラスに出て、夜風を感じながらマドカは思った。
士度に音羽邸に来るように提案したのが二ヶ月前。
困ったような顔をしてなかなかうんと言わなかった士度を、マドカとしては珍しく押し切った形で話はまとまった。
実際、音羽邸での暮らしは士度も満更でもなさそうだ。
−ここは草も花も木も空もある−
音羽邸の広大な庭にある大木の下でそう言った士度の傍らでは、彼の相棒たちがまどろんでいた。
お弁当やお茶を用意して、彼の隣に座って語らう。庭で彼の為にバイオリンを奏でる…。
−自分の気持ちをこんなにも幸せにしてくれる時間があるなんて、私は知らなかった。−
そんな、楽しい時間も仕事が忙しくてすっかりご無沙汰だ。
仕事の合間に帰宅したときも、士度が奪還屋を開業したおかげで不在の時にぶつかることが多く、
会えるのは彼が夜戻ってからだったりもした。
それでもそんな夜、彼を居間にお茶に誘うと、彼は必ず応じてくれる。
そしてマドカが話す、演奏会の様子や出会った人たちのことを、士度は時々相槌を打ちながら聞いている。
彼がマドカの話を聞いている、あの雰囲気がマドカは好きだ。
自分を優しく見つめてくれているような、彼の気配。
時々彼が話してくれる動物たちや自然の話。すこし乱暴だけれど、愛着が持てる彼の語り口調…。
…そんな彼の気配を、しばらく感じていない。
士度が、マドカのコンサートに行ってみたい、と言い出してくれないおかげで、
“客席で”自分の曲に耳を傾けてくれる彼の気配をまだ一度も感じず仕舞だ。
庭で旋律を奏でることは、もちろん好きだけれど、
自分の、“マエストロ”として舞台に上がって演奏している姿も士度には見てもらいたいと思っている。
彼に聞いてもらいたくて一生懸命練習した曲も、まだ当の本人には披露できていない。
そう、彼が傍にいるときに感じるあの心の高揚や、時々に感じることができる彼の何気ない仕草や癖を見つけたときの密かな喜び…。
時々ふいに、それらが無性に恋しくなる。
ほんの少しの間、彼と話をしていないだけで、こんなにもホームシックにかかったようになるなんて、まるで想像もしていなかったことだ。
自分のそんな事態にすこしの戸惑いと、密やかな喜びを感じながら、マドカは明日の朝には彼に会えることを楽しみにしていた。
明日のコンサート会場は、新宿。明日、士度の仕事がなければ久しぶりにお茶をする時間くらいきっとあるはず・・・。
−明日は何のお話をしよう−そう考えながらマドカは夜風が冷たくなってきたテラスを後にした。
翌日、マネージャーに少し無理を言って、マドカは予定通り午前中に音羽邸に帰ってこられた。
すると案の定士度はまだ家に居て、廊下で鉢合わせになった。
「士度さん!」
久しぶりに感じる彼の気配が嬉しくて、マドカは士度に駆け寄った。士度は元気そうだ。
早速、お茶に誘おうと口を開きかけた時、「よぉ。」とマドカに返した士度の方から言葉が続けられた。
「…ちょっと話があるんだけれど、いいか?」
「?もちろんいいですよ?」
士度の方から話があるなんて珍しい。
一瞬、彼がこの家を出て行くというあっては欲しくないシナリオが頭を過ぎったが、士度からはそんな話を切り出す時に感じるだろう、
逡巡するような気配は無い。マドカはすぐにそのイメージを打ち消して、士度からの話を内心少し楽しみにしながら、居間へ士度を誘った。
「…家賃?」
士度からの話は、「家賃を支払いたい、どのくらい払えばよいのか」という申し出だった。
庭や部屋や、時折食事まで提供してもらっているので、当然のことだと士度は言う。
しかしマドカにしてみれば、全く考えもしなかったことであった。
士度に何故だか惹かれて、彼のことをもっと知りたくなって、
彼が新宿や裏新宿を動物たちと彷徨うことになるだろうと聞いたときにはどうしても放っておけなくて、“ここ”に居てもらうことになったのに、
家賃?
何を言っているのだろう、この人は。私は別に大家さんになりたくて士度さんに住む場所を提供したわけではないのに。
−私が欲しいのはそんなものじゃないのに−
マドカも、士度の気持ちが全く分からないわけでもなかった。
タダで人の家に居候するなんて、士度の男としてのプライドも許さないだろうし、
蛮が事あるごとに士度のことをヒモだのなんだのからかっていることを、ヘヴンづてで耳に挟んだこともある。
けれど、そんなことはマドカにとっては些細なことであった。
彼にこの家に来てもらって、恩に着てもらいたいなんて一度も思ったことなんてないし(逆に自分が嬉しいくらいだ)
何より、仮に彼の気持ちを汲んで家賃を受け取ったとしても、“貸与人”と“賃貸人”という事務的な関係が士度と自分との間に
追加されるという事実がマドカにはたまらなく嫌だった。
そうしてしまえば、“家賃を払わない”という理由で、士度がこの家、そして自分から離れてしまうことも容易くできてしまうのだ。
小さな怒りの種が、自分の心の中に灯るのをマドカは感じた。
「家賃なんていりません!」
マドカの口から弾かれたように言葉が飛び出した。
士度はそれに少し驚いたようだった。それでもすぐに「でもよ・・・」と言い淀む。
−そんなにgive&takeが大事なら…少しでも私の傍に居て。もっと私の事を知って…−
「そのかわりお願いがあるんです…」
−私のもう一つの姿を、あなたの記憶に留めたい。−
マドカは士度に対するささやかなお願いを、言葉に乗せた。
Fin.
第11巻の「SHIDO&MADOKA」のマドカのお願いを補完してみました。
家賃を切り出されたときのマドカの気持ちってどうだったのかなぁ、と。
いつかこの続編も書いてみたいものです♪