「・・・父さん、ウチの犬からデカイのを一頭、放課後学校に連れて行っていい?先生の許可はとってあるんだ。」
夕食後の一家団欒、お茶の時間・・・・居間のソファに座ってシベリウスの頭を撫でながら、士音は夕刊に目を通している父親に訊ねた。
「別にかまわねぇが・・・・どうするんだ?」
士度は手にしていた新聞から目を離し、息子の方を見やる。
「今度の学芸会で使うんだ。あと・・・・猫のレオと兎一匹、鳩も何羽か・・・いいかな?」
シベリウスが士音にお手をした。
「いいけどよ・・・。サーカスでもやるのか?」
居間の観葉植物に水をやっていたマドカが士度のその声を聞いて、興味深そうに顔を上げた。
「内緒。来月の10日だよ。父さん、観にきてくれるよね・・・?」
士音が少し恥ずかしそうに士度に御伺いを立ててきた。
「そうだな・・・・仕事が入らないように調整してみるさ・・・」
士度のその言葉に士音が「やった・・・!」とシベリウスの首に抱きついた。
<坊ちゃん、良かったな・・・!>
シベリウスは士音の顔をペロリと一舐めすると尻尾を振った。
「・・・・今日の琴音は随分と大人しいのね?」
如雨露を窓際に置いてきたマドカが、士度の隣に腰を降ろしながら娘の気配がする方に顔を向けた。
琴音は士音の隣で、空いたスペース一杯に脚を伸ばしてソファの上に仰向けに寝転んでいる。
「・・・・そんなこと、ないわよ。」
そう言う琴音の声はどこか不機嫌そうだ。
「琴音のクラスは、劇をやるっていってたよな?」
士音がシベリウスの頭をガシッと掴んで睨めっこをしながら言った。“・・・・うん”と琴音は小さく返事をしただけだ。
「劇・・・か。琴音は何の役をやるんだ?」
夕刊をサイドテーブルに置きながら士度が訊ねると・・・・
「ナ・イ・ショ!!」
ガバッ・・・と起き上がり大声で言った琴音に、何故か睨まれてしまう始末だ。
そして琴音は再びボスンッ・・・と音を立てながらソファに沈む。
「・・・そうか。」
気圧されたように口籠る士度と一緒に、マドカも“どうしたのかしら・・・?”と首を傾げた。
――こんなやりとりがあったのが三週間前・・・・学芸会が近くなるにつれて、琴音のご機嫌の傾斜角度は段々と急になっていった・・・。
「ちょっと、士音ちゃん!!パパ何処にもいないじゃない・・・!!琴音のクラスの劇、あと十分で始まっちゃうのよ・・・!」
中世の王子様の格好をした琴音が、音羽邸のメイドさんお手製の青いマントを翻しながら、彼女の出で立ちに思わず振り返る保護者たちに眼もくれず、小学校の廊下を猛ダッシュしていた。頭には大きな
「じゃあお前は早く舞台袖に行けよ!!父さんは俺が探して出して引っ張って行くからさ・・・・!」
ったく、しょーがねーなぁ・・・!――そう言いながら通過していく教室を片っ端から覗いている士音は、黒のシルクハットにモーニング、白く糊の効いたワイシャツに赤い派手な蝶ネクタイと、まるでエンターテイナーを彷彿とさせるような出で立ちだ。ご丁寧に手にはステッキまで持っている。モーニングは執事の木佐さんに頼んでレンタルしてもらったものだが、ステッキは父親から借りたものだ。「欲しけりゃやるよ。」と言われたが、母親に「父様が又イギリスに行くときに使うから貰っちゃダメよ。」と言われた。(使うっていうか・・・“使わせる”だよな・・・)―その時士音の脳裏にはシルクハットを被ってステッキ片手に正装をしている、しかめっ面をした父親の姿が浮かび上がり、彼は笑いを噛み殺すのに必死だった。
「だって・・・!パパ、この間の参観日の時みたく、また来ていないかもしれないじゃない・・・!!」
士音の言葉を聞いた琴音が立ち止まり、今にもベソをかきそうな表情をした。
「・・・!!でもよ・・・ヘヴンさんとの打ち合わせが終ったら、すぐに来るって父さん今朝言ったじゃないか?絶対に来るから・・・俺がちゃんと連れて行くから。ほら、琴音はもう行って準備してな・・・?」
俯いて、大きな帽子に半分隠れてしまっている琴音の顔を覗き込みながら、士音は兄貴らしい口調で諭すように琴音に言った。泣き出す寸前だった琴音の表情が少し和らいだ。
「士音ちゃん・・・。わかったわ・・・・。ママの席は体育館の中央通路に面している列の・・・・真ん中よ。お隣空けてパパを待ってるの。お願いね・・・」
彼女にしては珍しくしおらしげに言うと、琴音はフワリ・・・とマントを翻しながら体育館の方へと戻っていった。
「まかせとけ・・・!」
士音は再び前を向いて駆け出した。一階にいないとなると・・・二階の保護者控え室か・・・?
―ホント、どーしちゃったんだろう、父さん・・・―
士音は行きかう大人たちを器用に避けながら、長い廊下を駆けていった。
一方士度は――二階の、4年3組の保護者用に設けられた控え室の椅子に座っていた。しかも数多の奥様方に囲まれて。運動場で士度のことを目ざとく見つけた“南秀一の母親”が、士度をここまで引っ張ってきたのだ。彼女は士度より後から校門をくぐったはずだが、わざわざ士度の前まで回りこんできて・・・
「あら、冬木さん・・・!こんにちは!私、南秀一の母でございます。士音君にはいつも秀一が仲良くしていただいて・・・今日は奥様はご一緒ではないのですか?」
と、赤いマニキュアをつけた手をヒラヒラさせながら一方的に挨拶をしてきた。
「どうも・・・妻は先に来ているので中で落ち合うことになっていて・・・・」
自分は彼女とは初対面なのに、どうしてこの人は“士音の父親”の顔を知っているのだろう・・・?そんなことを訝しく思いながらも、士度は適当に返事をした。親子林間学校や運動会のときの学校側が撮った写真・・・その中でも“士音君のお父さん”と“琴音ちゃんのパパ”がたまたま映りこんでいるものの注文数が3組と4組の中ではずば抜けて多いことなど、士度はもちろん知らない。
「あらあらまぁまぁ、そうなんですか・・・!きっと保護者控え室にいらっしゃいますわ!一緒に参りましょう!」
そして士度は断ることもろくに出来ぬまま、二階まで強制連行されて数多の黄色い声に迎えられたのだ。愛する妻以外の女ばかりがそこにいた。
着飾った母親たちが高い声で士度に色々と話しかけてくる。それに「はぁ」「そうですね」「いや・・・」「そんなんですか」等々、士度はお決まりの相槌を力なく打ちながら、何とかやり過ごしていた。本当は一刻も早く抜け出したかった・・・しかし、士度のこんな他愛も無い返事に奥様方は一喜一憂しながら、お喋りを一向に止めようとはしない・・・故に分厚い壁に囲まれた士度の前に道はできない。それに・・・さっき廊下で誰かが「一組のミュージカルが始まるぞ〜!」と言っていたので、士音の3組、琴音の4組の出し物はまだ先だろう・・・いくらなんでも3組の出し物が始まる時間には、彼女等も移動するだろうし・・・・。
奥様方の輪の中心から脱出できないでいる若い父親を、他の旦那様方は羨望半分、同情半分で見つめていた。
この状況から早く抜け出したがっているその父親の姿は、奥様方の都合の良い目には“照れちゃって・・・可愛いわv”という風にしか見えないらしい。しかも、30代・40代の女達の好奇心は、男のソレよりも強烈且つ強力だ。しかし、彼に注目が集まっている分、疲れた身体を引き摺って家族サービスをしている自分たちにはしばしの休息が与えられる。
――そんな風にホッとしたり、妻のはしゃぎっぷりにドキドキしたり、もうウチに帰りたい・・・と思ったりしている男性陣とは裏腹に、女性陣からはキャ〜vvと黄色い声が上がっている。「あの・・・冬木さんってお幾つでいらっしゃるんですか・・・?」との問いに「・・・34です・・・」と士度がボソリと答えただけなのに。
「冬木さんって、やっぱりお若かったんですねぇ・・・!」
と奥様のうちの一人が感心するように言った正にその時・・・
「――父さん!!いた・・・!!」
士音が「失礼します・・・!」と奥様方を掻き分けながら士度の前までやってきて、彼の手を思いっきり引っ張った。
渡りに船とは正にこのことだ。士度は思わずホッとため息をつくと、他の保護者への挨拶もそこそこに、士音に手を引かれるままに廊下へ出た。
「あら、士音君も可愛らしい格好しているのねv」 「お顔が本当にお父さんにそっくりなのねぇv」
士音もおばさんたちのそんな声をキレイサッパリ無視していた。
「もう!父さんこんなところで何やってんだよ・・・!琴音の劇がもう始まっちゃうよ・・・!母さんだってもう席に着いて待っているのに!」
士音は士度の手を引っ張って歩きながら捲くし立てる。
「琴音のって・・・一組のがやっと終る頃だろ?」
不思議そうな顔をしながらそう問いかけてくる父親に、士音は大きく溜息をついた。
「演目の順番はクラス順じゃないんだよ!1組、4組、3組、2組、5組の順番なんだ!門のところでプログラム貰ったよね!?」
たしかに、貰った。プログラムは。
士度はスーツのポケットの中に手を突っ込んだ。折りたたまれた紙切れが指を掠めた。
「貰ったが・・・見る暇がなくてな・・・ッオイ!1組の次が4組だと!?士音、走るぞ!!」
「〜!!だからさっきからそう言ってるだろ!!」
今始めて気がついたように走り出した父親の背中に士音も負けじと怒鳴り返しながら、二人は一気に階段を駆け下りた。しかし廊下へ出ると・・・後半の2組、5組の保護者達が丁度学校に着きはじめた時間帯で廊下は大渋滞。親子の自慢の脚もてんで役には立たなかった・・・。
士度と士音が人込みを掻き分けながらやっとのことで体育館まで到達したときには、その中はすでに暗く、4組の劇の幕は上がってしまっていた。冬木親子はその暗がりの中をコソコソを歩きながら、マドカが待つ席へと向かった。「例の“鍵”はまだ来ぬのか・・・!」舞台上では琴音の勇ましい声が響いていた。マドカは目の前までやってきた士度の気配に安心したような溜息を吐くと、隣に座った士度の手を握った。今日の彼女は上品な薄い藤色のスーツを着ていた。
(士度さん、良かった・・・。余りにも遅いから、お仕事が長引いたのかと・・・)
不意に、小声で話していたマドカの言葉が途切れた。そして、士度が現れた事を単純に喜んでいたその容貌に、暗がりでもわかるほどの影がさした。彼女のその急激な変化に士度も気がつく。
(マドカ・・・?)
士度の問い掛けにマドカがプイッ・・・と顔をそらした。その表情には明らかに怒りが・・・・
(Warum duften so viele unbekannten Parfüme von dir !?)
彼女の口から唐突に、しかも早口に出てきた異国の言葉に、士度は虚を衝かれる。
士度の隣に座っていた士音も、少し身を乗り出してきて“何・・・?”と小声で訊いてきた。
――小声とはいえ、内容を周りに悟られないようにする為か・・・?イタリア・・・いや、ドイツ語?
士度は脳をフル回転させながら彼女の言葉をもう一度頭の中で反芻させた。
マドカは明らかに不機嫌な顔をして、舞台の音に集中している――この状態では、とてもじゃないが“もう一度言ってくれ”とは聞けない・・・・。
(“何故・・・”、“香る”、“沢山”、“知らない・・・”――!!)
――『どうしてそんなに沢山の知らない香水の匂いがあなたからするの!?』――
(A,Aber das ist....)
マドカが言った言葉の意味を悟り、瞬く間に顔面を蒼白にした士度が慌てて言い訳を述べようとしたその時・・・
『貴様!!遅れてきた上に余所見をするとは何事か!!?』
琴音の怒声が舞台から体育館全体に響いた。士度と士音が弾かれたように舞台を見ると、琴音はサーベルを真っ直ぐ士度方に突きつけ、片手を腰にあてながら、まるで彼を見おろすようにして暗い客席を尊大に睨みつけていた。
その迫力に観客席からは「お〜!!」という歓声と拍手がチラホラと上がり、舞台の上では他の級友達が固まっていた。
(琴音ちゃん・・・その台詞はあってるけど・・・)
(客席に向かって言う台詞じゃないだろ・・・!)
(従者に言え、従者役に・・・!)
(あぁ、王子様!!素敵だわ・・・v)
(っつーか、恐いよ、琴音ちゃん・・・・)
舞台上のほかの役者たちの心中など露知らず、琴音はフン・・・と冷たい目で士度を見ると、「・・・・ともかく!鍵は我が手の内に入ったわけだ!いざ行かん、竜を退治に・・・!!」と設置されている飾り台に勇ましく駆け上がりながら再び声を張り上げた。
――かくして4年4組の舞台劇『Dragon's cave』は大いに盛り上がり、琴音が(ダンボールの)竜を木っ端微塵に退治するころには場内大喝采、彼女の熱演もあいまって4組のカーテン・コールは中々鳴り止まなかった。もちろん、校内の冬木琴音ファンが又増えたことは言うまでもない。ただ、琴音自身は客席への挨拶を笑顔で済ませた後、再び不機嫌な顔になり、急いで衣装から私服に着替えると、大成功に沸く舞台袖を足早に去って行った。そして向かったのは自分の出番の為に舞台へと向かって行った、士音が座っていた席・・・・。
「パパ・・・・!」
「・・・・琴音、遅れてすまなかった。」
娘の顔を見るなり開口一番謝罪の言葉を述べた父親に、琴音は一瞬言葉を詰まらせる。
(・・・・パパの顔を見たら、すぐにガツンッ!と言ってやろうと思ったのに。)
琴音はわざと不機嫌を顔に張り付かせたまま、少し乱暴にパイプ椅子に座った。
そして俯きながらも、チラッ・・・と士度の顔をもう一度覗き見る。
そこには、心配そうに琴音を覗き込んでいる父の姿が・・・・。
(もう・・・!パパなのにそんなに子犬みたいな顔しないでよっっ!!)
――不覚にも可愛いって思っちゃうじゃない・・・!!
「琴音、まだ怒っているのか・・・?」
士度の少し困惑を含んだ声が琴音の耳に届いた。
「〜〜!!そ、そんなことないわよ!!パパ、ちゃんと来てくれたし・・・ねぇ、ママ!?」
琴音は照れ隠しに母親に声を掛けた。しかし、その母は何故だか憮然とした表情をしている。
「・・・ママ?どうしたの・・・・?」
こんなとき、いつもならすぐに自分の旦那様を庇い立てするようなことを言うママなのに・・・・。
「・・・父様、他の奥様方とお楽しみで遅れたみたいよ?」
休憩中騒めく館内で、マドカが士度と琴音にしか聞こえないようにボソリ・・・と呟いた。
「〜〜なッ!!」 「ホント!?だったらパパ、サイッ――ん〜〜!!」
マドカからの思ってもみなかった言葉に絶句しながらも、士度は横で大声を出した琴音の口を片手で慌てて塞いだ。
(誤解なんだ!!琴音・・・!!) (だってママ、あんなに機嫌悪いじゃない!!)
父娘が僅かに背を屈めコソコソを言い合う姿を、幸い気に留める者はいなかった。そんなことをしているうちに、館内がフッ・・・と再び暗くなる。
「・・・・マドカ、お前もいい加減に・・・」
士度が心底参ったという表情をしながらマドカに言い募ろうとしたとき、
<これから、4年3組のマジック・ショーが始まりま〜す!>
と暢気な放送が場内に流れ、場は大きな拍手に包まれてしまったので、疑惑返上の説明どころではなくなってしまった。
マドカは士度を無視するかのように、舞台へ耳を澄ますことに徹している。
琴音は未だに疑念の視線を士度へと向けているし、両手に鬼百合を抱えた士度は一人ただただ大きな溜息を吐くしかなかった。
――4年3組のマジックは・・・スクリーンを使った秀一のテーブル・マジックや、孝太達のピエロ・マジック、麻弥と鈴香の美女切りマジックなど、それぞれの個性に合わせたマジックが音楽に乗せテンポよく披露されていった。そして、取りは士音の動物マジック。
モーニングを着た士音が小さなテーブルに載せたレオを運んできた。赤いピエロの帽子を被って大人しくテーブルの上に座っているメイン・クーンのレオの姿に、場内から「可愛い〜v」と声が上がる。
士音がそのレオに紫色の大きな布を掛け、
「ワン・ツー・スリー・・・・!」と合図を送ると、布の中のテーブルの高さがフッ・・・と消え、代わりに大きな生き物が布の中に現れたようだ。士音がパッ・・・とその布を取ると、そこには冬木家のゴールデン・レトリバーの姿が・・・。
もちろん、場内は拍手喝采、士度も琴音も思わず「へぇ・・・・」と感心する。士度が士音のマジックの内容をマドカに説明してやると、マドカは気恥ずかしげな顔をして小さく頷いただけだった。
舞台上の士音は挨拶をしながらとったシルクハットの中から白兎を取り出し再び歓声を浴び、最後にハンカチの下から数羽の白い鳩を巧みに呼び出して3組のマジック・ショーのフィナーレを華々しく飾った。お客様方は総立ち、士音が放った鳩は士度の見つけると喜び勇んで彼の元へ舞い降りて、場内にもう一つの微笑ましい光景を作った。その時、琴音とマドカも心の底からの笑顔を見せてくれたこと・・・・沢山の拍手よりも、妻子のそんな笑顔に少し救われた気分になった士度であった――。
しかし―― 士度の考えは甘かった。持ち直したと思っていた女性陣のご機嫌は校外へでるとまた斜めに。夕食をとるために寄ったイタリアン・レストランの個室でいくら事の顛末を話しても、「父さん、思いっきり気まずそうな顔してたし・・・!」と士音がどんなに父親のことをフォローしても、「「士度さん/パパに隙があったから、いけないのよ!!」」と言われてしまう始末。士度は仕方なく話題を変えようと、今日の学芸会のことをふってみた。士音のマジックの手際の良さを褒めると、士音は顔を輝かせて「ほんと!?」と素直に喜んだ。「先に帰したレオや他の皆にも、後でそのこと言ってやってよ・・・!」と士音は満面の笑みを士度に向けた。そんな士音の笑顔に絆された士度の心は、再び余裕を帯びてきた。
「そうだな・・・。琴音のクラス劇も大盛況だったよな。竜も良くできていたし、琴音もなかなかの男前で・・・・」
ダンッ・・・・! と琴音がテーブルを派手に叩いた。そんな彼女の突然の行動に、冬木夫妻と士音は思わず目を白黒させる。
「パパ・・・今、“男前”って言ったわね・・・?」
琴音の声には静かな怒りが籠もっていた。士度は「あ、あぁ・・・」と頷くしかない。
「琴音、女の子なのに!!今回の劇だって本当はお姫様やりたかったのに、クラスで一番背が高い人が王子様やりなさいって先生が言ったから、皆が似合うって言ってくれたお姫様役も仕方なく降りたのよ・・・!!それからは皆、予行練習のときも『カッコいい!』とか『男前!』とかそんなことばっかり・・・・!王子様役が決まったときから、ずっとずっと気にしていたことなのに、パパまでそんなこと言うなんて・・・・琴音は男の子じゃないもん・・・・!!」
琴音は一気にそう捲くし立てると、最後に「ごちそーさまでした!!」と叫んで、個室を飛び出して一足飛びに出口に向かっていってしまった。「琴音・・・・お待ちなさい・・・!」 マドカもシベリウスを促して慌てて琴音を追う。その場に残ったのは半ば放心状態の士度と士音だけ。気分を落ち着かせようと、士音がデザートのプティングを一救い口に入れた。
「え〜と・・・ほら、父さん・・・こんなとき何て言うんだっけ“藪トカゲ”?」
「“藪蛇”だ・・・・」
士度は力なくそう言うと、ナプキンをテーブルの上に置いた。
それに続いて士音も席を立つ。
琴音が促したのだろう、迎えに寄越した車のクラクションが鳴る音がした。
「あ、運転手さん車止めてください!アイス買ってくるから・・・!」
琴音のその声に呼応するように、バックミラー越しに運転手が士度に許可を求めてきた。
士度も目配せで了承の合図を送る。
新宿のど真ん中にリムジンが路駐される。
琴音が士音を半ば強引に引っ張って行ったので、後部座席には冬木夫妻が残された。
運転手はもう一度バックミラー越しに二人の様子を確認した。
向かい合って座る二人はしかし、車に乗り込んでからは珍しく一言も口をきいていない。
士度が小さく溜息を吐きながら窓ガラス越しに映る街並に目をやった。
すると、ある一角にその視線が固定され・・・・
「・・・俺も少し出てくる。」
そう言うやいなや彼は車から出て行ってしまった。
彼のその言葉を聞き、マドカがパッ・・・と顔を上げたときには既にバタン・・・と車の扉が閉まる音がした。
「あ・・・・」
先程まで士度とは自ら目を反らすような態度をとっていたのに、彼の気配が唐突に消えると彼女の顔に瞬く間に寂々とした表情が浮かんだ。その様子にシベリウスが心配そうに鼻を鳴らした。
「そうよね・・・怒ってばっかりの奥さんの顔なんか、士度さんも見ていたくないわよね・・・・」
シベリウスの頭を撫でながらマドカは悲しげにそう呟くと、シートに深く身を沈めた。
(・・・・きっと、士度さんは何も悪くないのに・・・・私ったらどうして時々こう意地を張っちゃうのかしら・・・・)
きっと他人には全く気にならない程度の移り香だ・・・。それでも、今までの人生を聴覚、嗅覚、触覚を鋭敏にして生きてきたマドカにとって、彼が今日、不意に纏ってきた様々の知らない香りは彼女の嫉妬心に火を点けるには十分すぎるものだった。彼がマドカの隣に座るまでにどんな場面に遭遇していたかを嫌でも想像させられた。自分以外の女性に囲まれている旦那様のことなんて・・・・だれだって脳裏に浮かべたくないはずだ。“士度さんのせいじゃない・・・”そう思っても、彼が近くにいる間は、その図々しい香りの数々がマドカの心の安らぎの邪魔をする。体育館で彼が隣に座っているときも、レストランでお向かいに彼がいるときも、そして、帰りの車の中でだって・・・・。
マドカがそんな物思いに耽りながら鬱々としていると、不意にカチャリ・・・と車のドアが鳴り、士度が再び戻ってきた。肩の力を抜いて背凭れに身を任せていたマドカは慌てて居住まいを正す。いくら旦那様とはいえ・・・みっともない姿はあまり見せたくないものだ。
「なんだ、
士度は呆れたようにそう言いながら、再び席に着く。
今迄士度のスーツからしていた移り香とは違う香りが、彼の方から流れてきた。
(え・・・・?)
その清楚な香りに誘われるように、マドカが士度の方に顔を巡らすと、彼女の鼻先を柔らかなモノが掠め、その香りがマドカを包んだ。
(お花・・・?)
甘い香りがする花が一輪、士度からマドカに手渡された。
「・・・そんなに移り香が気になるのなら、しばらくその花の匂いでも嗅いでいろ。」
僅かな揶揄を含んだ士度の声が、その花の匂いと共にマドカの心をくすぐった。
車窓から花屋を見つけた士度が、不機嫌な奥様の為に、戯れに買ってきた一輪。
彼のそんな小さな心遣いに(愛されている・・・)ということを実感できる、この幸せ・・・。
「はい・・・・」
マドカの眼が細くなり、その唇に柔らかな微笑が浮かんだ。
そして、まだ開ききっていないその蕾にマドカは小さな鼻を寄せて、生まれたての香りを楽しんだ。
シベリウスも顔を上げて、長い鼻先をヒクヒクさせる。
「・・・・機嫌、直ったか?」
優しい声がマドカに問いかけてきた。
「・・・・少し。」
はにかみながらポツリ・・・と呟かれた愛妻の答えに、「まだ“少し”かよ・・・」という困ったような、可笑しそうな声が返ってきた。
「いい匂い・・・何のお花ですか?」
その蕾をゆっくりと撫でながらマドカは訊ねた。
「白い・・・薔薇だ。ソイツの香りが一番強かったんでな・・・」
士度がそう答えたとき、「ただいま〜!」と琴音がリムジンのドアを開けた。後ろからは士音が両手にアイスクリーム屋の袋を持って少しウンザリしたような顔をしながら続く。
「あ、ママ!そのお花どうしたの・・・!?キレイね!」
琴音がマドカの手の中にある白薔薇に早速目をつけた。
「父様から頂いたのよ。とってもいい香りがするの・・・・」
急角度のご機嫌は何処へやら、心底幸せそうな顔をしてマドカが答えた。
「――!!パパッ!琴音の分は!?」
マドカの言葉を聞くなり、琴音が笑顔で士度にパッと両手を差し出した。
士度が一瞬たじろいだのを士音は見逃さず、アイスの袋をリムジン備え付けのクーラー・ボックスに仕舞いながら不味い顔をした。
「あ〜・・・・、買ってきたのは、それ一輪だけなんだ・・・・」
士度は琴音に気付かれないよう、彼女からソッと距離を置く。
琴音の笑顔が、再び曇り空に変わった。
「どうして・・・!?レディに“ごめんなさい”って言うときは、お花を渡しながら言うのが一番効果的だって・・・・誰かが言っていたもの!だからパパ、ママにお花買ってきたんじゃないの?ママには“ごめんなさい”で琴音にはないの??」
琴音の言葉に士度は耳を塞ぎたい思いに駆られながら、運転手に「車を出してくれ」と合図を送った。リムジンはすぐさま冬木邸へと向かう。
――いったい誰が琴音にそんな余計な事を教えたんだ・・・・。――せっかくマドカの機嫌が直りかけたと思ったら、
「琴音・・・明日はどこでも琴音の好きなところへ連れて行ってやるから・・・いい加減機嫌を直してくれ。」
「ホント、パパ?」
琴音が涙を拭きながら士度を見上げてくる。
「あ、あぁ・・・・」
涙は女の武器・・・・それをもうこの歳から使いこなすとは・・・・。
「じゃあ、明日皆で銀座の●疋屋でフルーツパフェ・・・・」
「・・・・わかった。」
士度のその言葉に琴音が「やった・・・!」とシベリウスの首に抱きついた。
泣いたカラスがもう笑った。
<嬢ちゃん、良かったな・・・>
そう言うシベリウスも士音と顔を見合わせ、もはや呆れ顔だ。
士度が小さく安堵の溜息を吐くと、マドカが白薔薇を口元に当てながらクスリ・・・と笑った。
―まぁ、いいか・・・―
ようやく、ご機嫌斜めの二人の姫君が笑ってくれたことだしな・・・・。
フッ・・・と頬を僅かに緩めた士度の姿を見ながら士音は、
(良き父、良き夫でいるって事は大変なことなんだなぁ・・・)
と、一人しみじみ感じていた。
マドカは青いガラスの一輪挿しにさした白薔薇を寝室のナイトテーブルの上に置いた。
新鮮な水にその身を浸せた喜びを伝えるかのように、その薔薇の香りが一瞬より華やいだような感じがした。
その柔らかな花弁の感触をマドカが楽しんでいると、後ろでパタン・・・と扉が閉まる音がした。
「士度さん・・・?」
ブランデーで満たされたロック・グラスを片手に士度が入ってきたのだ。
階段を上がる前に自分で作って持ってきたのだろう、彼はまだスーツを着たままだった。
「お酒、召し上がっているんですか・・・?」
マドカのすぐ後ろまでやってきた士度の手の中にあるものを、マドカはすぐに察した。
「あぁ・・・・今日は何だかそんな気分・・・・ッ・・・・!マドカッ・・・!」
マドカがクルリと振り向くや否や急に士度のアスコットタイを引っ張ったので、士度はグラスの中身が零れないようバランスを取りながら、抗議の声を上げた。
「嫌だわ・・・まだ、残り香が・・・・」
――薔薇の香りがダメになっちゃうじゃないですか・・・・
士度の首筋に顔を埋めながら、マドカの微かに震える声が士度に告げた。
シュルッ・・・・と切れのある音を立てながらアスコットタイは外され、床に落ちた。
士度は身体を僅かにずらし、グラスを白薔薇の隣にコトリ・・・と置いた。
「それは、もういいだろ・・・・」
スーツのボタンを外しに掛かったマドカのしたいようにさせておきながらも、士度は少し呆れたような口調で言った。
そして士度は脱がされたスーツをソファへと放る。
「・・・・ッ・・・ベストにまで・・・・」
「んなわけ、ねぇだろ?錯覚だ・・・・」
士度のベストに顔を寄せ、愁眉の表情をするマドカの頬を、士度は宥めるように撫でた。
しかし、マドカは嫌々をするように首を振ると、そのベストも士度から取り去り、さらにシャツのボタンに手を掛けた。
「お前が・・・こんなに嫉妬深かったとは、知らなかったな・・・・」
困ったような声がマドカの耳には痛かった。でも・・・・今は彼に呆れられても、それでも。
他の女達の匂いなど、今は絶対に感じたくなかった。寝室という、二人だけの聖域では、特に。
士度は途中から自分で脱いだシャツを、床に落ちていたベストとまとめて再びソファの方へ投げた。
露になった士度の素肌に、コツン・・・とマドカの額が当たった。
「ほら・・・これで満足か?」
士度はあやすようにマドカの髪を片手で梳いたが、彼女は俯きながらもまだ納得がいかないような顔をしている。
半日、ずっと意識してしまっていた香りだ・・・・その名残が嫉妬というペーストの助けを借りるようにして、マドカの嗅覚からこびりついて離れない。
本当は士度についた移り香なんて、もうとっくの昔に消えているはずなのに。
「どうすりゃいいんだよ・・・・」
士度の困惑した声が頭上でしたので、マドカはおずおずと士度を見上げた。
「私が・・・・全部・・・洗い流して、あげます・・・・・」
頬を僅かに染めながら小声で、しかしはっきりとそう言い切ったマドカに士度は一瞬瞠若したが、すぐにその片方の口角が上がった。
「・・・・そうしてもらおうか。」
そう言うと士度は徐にマドカを抱き上げた。
「キャッ・・・!ちょ、ちょっと、士度さん・・・!」
士度の唐突な行動にマドカは思わず抗議の声を上げたが、士度はそ知らぬ顔だ。
「お前が、俺を先に脱がしたんだぜ?それに早いとこ洗い流してもらわないと、こっちもゆっくり楽しめないんでな・・・」
彼女の心に触れるようにして降りてきた、
「木佐さん、父さんと母さんは?」
朝の紅茶を慣れた手つきで注いでくれている執事に、士音はサラダを突きながら訊ねた。
「今朝はお二人ともゆっくりおやすみになられるそうです。先程インターフォンでそうご連絡がありましたよ。」
執事は和やかな表情でそう告げる。
「ほら、パパとママ、仲直りしたんだわ。二人そろってお寝坊さんの時って、だいたい朝からラヴラヴだもの。心配することなかったわね、士音ちゃん?」
オムレツにケチャップを掛けながら琴音は士音にウィンクをした。
「そーだな・・・。でも、たかだか香水の移り香で母さんが・・・・あんなに拗ねるとは思わなかったよな。」
まるで子供みてーだったよな?――そう琴音に同意を求める士音の台詞に、
(((それには・・・・大人の事情ってものがあるんです・・・・!!)))
その場に居る執事やメイドは、子供に子供扱いされているマドカに同情の念を寄せたり、笑いを噛み殺したりするのに必死だった。
「いーじゃない、結果的には仲直りできたみたいなんだから。それに夫婦喧嘩は“猫”も食わないって言うじゃない?」
「いや、食わねーのは“鼠”だろ・・・・?」
鼠の方が猫より雑食じゃん?―― そう真顔で会話をする双子に、
「“犬”でございます、お坊ちゃま、お嬢様・・・・」
と執事は静かに訂正した。
金髪のメイドが笑いを我慢できなくなったのか、足早にモーニング・ルームを去って行った。
眼鏡のメイドは二階の寝室に運ぶために用意していたティーカップの中に、二人の台詞を聞いた弾みでジャムを落としてしまい、慌てて後片付けをしていた。
大人たちのそんな反応など露知らず、
「「そーだっけ?」」
と双子は首を傾げる。
そして士音は昨日父から“藪蛇”という言葉を習ったと、その場にいる琴音や執事やメイドに、しなくてもいい披露をするのであった・・・・。
その頃、夫妻の寝室のナイト・テーブルの上では青い花瓶に飾られた白い薔薇の蕾が、昨日よりもほんの少し、開いていた。その下では半分ほど減ったブランデーが朝日に煌いている。
そこには、昨日とは違う香りに包まれながら寄り添い眠る、二人の姿が映し出されていた。
Fin.
“Dragon’s rage”は“竜の怒り”という意味です。“dragon”には他にも“怒りっぽい人” “恐ろしい女性” “気性の激しい人”などの意味があるそうで・・・。今回のGiftリクのキーワードは『双子小説・ファミリーで正装・学校行事・スーツ士度・たまには家族から説教をされて凹む士度と・マドカの激しい嫉妬・家族がメインな感じ』でしたが・・・・果たして満たされているのかどうか・・・(正装の意味がすでに違ったり;)
思いがけずBigな素敵プレゼントを送ってくださったUMI様に捧げます…!色々とありがとうございました&これからも宜しくお願い致します…!
違う香りを纏う事になった夜の最終イベントを鑑賞ご希望の方はを通り月窟へどうぞ☆