雨音





少し湿った冬の空気が遠慮がちに木枠の扉から入ってくる。

いつもと違い――本来あるべき静かな空間を久し振りに取り戻したカフェのカウンターで
卑弥呼は淹れたての珈琲の香りを楽しんだ。
カウンターではマスターが一人静かに――珈琲ミルを回している。


仲介屋に仕事の報告をする為――そしてちょっとした珈琲タイムを楽しむ為、
卑弥呼はHONKY TONKに予定の時間より少し早めに訪れた――いつも通りの、“珈琲喫茶”には少々似つかわしくない喧騒を覚悟しながら。

しかし、カラン・・・とベルを鳴らしてお目当ての喫茶店に入ってみると・・・

そこには彼女が想像していた男同士の戯れ合いも、看板娘達の華やかなお喋りもなく――

マスターのいつもの「いらっしゃい」の声が、今日は妙にクリアに聞こえたような気がした。

訊くとGBの二人は久し振りの依頼に喜々として出掛け――後からランチにやってきたヘヴンは、その依頼主からの苦情電話に飛び出して行き――
看板娘達はコーヒー豆を買いにお使いに出ているという。


卑弥呼は白く湯気立つ珈琲に目を細めると、まだ少し熱いそれにゆっくりと口をつけた。

約束の時間まであと30分程ある――恐らく、時間キッカリには仲介屋が訪れ、ほんの少し遅れて・・・今回の仕事のパートナーだったビーストマスターが・・・・


昨夜の彼が刹那垣間見せた――哀しそうな表情が卑弥呼の脳裏にフラッシュ・バックする。





――すまねぇな・・・・――


薄い唇がそう呟いたように見えた。

首にナイフが深々と刺さり――瞬時に事切れた黒い番犬を見下ろしながら。






――突如、けたたましく響くカウンターの奥の電話の音。
卑弥呼は微かに目線を顔を上げた。


波児は卑弥呼に軽く断りを入れると、急いで電話の受話器をとる。
そして続いて鳴るのは、卑弥呼の携帯。


「もしもし・・・あぁ、レナちゃん。・・・・コナ珈琲はどの種類がいいかって?でもそのお店にはハワイ産の一種類しかないはず・・・・
沢山種類がある・・・・?グアテマラ・ブラジル・コロンビア・・・?ああ・・・違うよ・・・“粉”珈琲じゃなくって、“コナ”って種類の・・・・なんかピーって音がするよ?
バッテリー切れ・・・?夏実ちゃんは・・・?ちょっとよく聞こえ・・・・・分かった、今からそっちにいくから、待っててくれ・・・・」


そう言って電話を切るや否や、波児は「ちょっと出てきていいかな?」と、
同じく短い通話を済ました卑弥呼に訊きながら――コート掛けに掛けてあったジャケットを羽織った。


「別にいいけど・・・店、お客が来たらどーするの?」


――まぁ、適当に・・・・――


そう言いながら出口へ向かった波児の目の前で、カラン・・・と来店のベルの音が。


「・・・・なんだ、マスター出掛けんのか。」


ジャケットについた雨を払いながら入ってきた士度は、目当ての珈琲が逃げていく様を頭に描いたようだ。


「ちょっとな・・・・降ってきたのか・・・。二人で留守番しててくれ。ブレンドは丁度今サイフォンから外したところだから熱くて美味いのが飲めるよ・・・・」


――今日は奢るよ。好きなカップを使ってくれ・・・・――


煙草を口に銜えながら波児はニヤリと笑みをつくると、傘を片手に足早に店を出て行った。


「・・・・・相変わらず準備がいいな。」


降りはじめの雨に濡れたジャケットを脱ぎながら、士度は波児が消えていったドアを見ながら抑揚なく呟いた。


「マスターお得意の“第六感”ってヤツよ・・・・」


――どれで飲む?――


――どれでもいい・・・・――


卑弥呼は一番手近にあった蒼い蔦模様が入ったカップを引き寄せ――波児が淹れたばかりの珈琲を注ぐ。

いつもの席につきながらの――ビーストマスターからの小さな目礼。

卑弥呼も小さく頷くことで相槌を打つ。



外の雨脚が少し、早くなる音がした――









夜の
研究室ラボの中で――卑弥呼は依頼のデーターのバックアップを、目の前のパソコンに八つ当たりをしながらMOに落としていた。

研究室の狭い入り口の前では――次から次へとやってくる黒服を、ビーストマスターが矢継ぎ早に叩き伏せている。

こんなにも早く、敵に気づかれるなんて!!


「・・・・とれた!!」


データー転送完了の表示が出るや否や卑弥呼はMOを取り出し、パソコンの主電源を落とすと――男たちの怒号と悲鳴が響くなか、本体をドライバーで抉じ開け、
ライトの灯りの先に見えたHDD目掛けて――ありったけの腐食香を流し込む。

ジュッ・・・・と嫌な音を立てて、金属が溶ける臭いがラボを満たした。
卑弥呼がその様子を確認しながら、MOをウェストポーチに納めようとしたそのとき――


パンッ・・・・と乾いた銃声が卑弥呼の心臓を凍りつかせた。

弾かれたように視線を上げると、目の前で銃を捻り潰しながら――最後の黒服の意識を飛ばす作業を終えた相棒の姿が視界に飛び込んでくる。


「ちょっと!!怪我して――!?」


卑弥呼が士度に声を掛けた瞬間、彼女の頭上にあった大きな窓ガラスが割れ――黒いドーベルマンがガラスの破片と共に卑弥呼に襲い掛かって来た。


「――ッ!!」


その血に濡れた猛犬は荒い息を吐きながら勢いのままに卑弥呼を押し倒し――真っ直ぐに――獣を仕留めるが如く――彼女の首筋目掛けて刃を剥いた。



――噛まれる・・・ッ!!――



卑弥呼が反射的に目を瞑り、顔を腕で防御した瞬間――
ドスッ・・・・と短い音と共に猛犬の動きは止まり、首から崩れ落ちるようにドサリとその身を冷たい研究室の床の上に投げ出した。


卑弥呼が慌てて犬の半身から抜け出すと――目の前には首にナイフが突き刺さった獣の姿が。


「大丈夫か」


顔をあげると、頬に横一筋、紅い線をひかれたビーストマスターが彼女に手を差し出してくる。


「え・・・えぇ・・・・」


卑弥呼は彼の手を取りながら身を起こすと、チラリと士度の表情を見――そしてダラリと舌を垂らしながら呼吸を止めたドーベルマンに再び視線を流した。
血は、一滴も流れてはいない。


「犬狂いの病だ・・・・」


――眼も、息も、行動も
正常まともじゃなかった・・・・どの道コイツは長くなかった――



士度は膝をつき、見開いたままだった猛犬の目を閉じてやると――その犬から視線を外さぬまま、立ち上がる。


「・・・・・・・」


あぁ、彼も・・・・こんな表情をするんだ――


ラボの向こうの廊下が奥から――再び慌しくなってきた。


「・・・・この窓から、出るぞ。」


顔を上げた彼の貌はしかし、月灯りのなかとても凛々しく卑弥呼の眼に映っていた――











「仲介屋、遅くなるって。蛮達がクライアントと揉めてるみたい。」


――相変わらずよね・・・・――


「・・・・進歩しねぇな。」


士度は珈琲に口をつけながら、少し呆れたように呟いた。


そして暫くの間、掛け時計がコチコチと刻を刻む音と珈琲を飲む音だけが――広くはない店内を静かに満たす。



卑弥呼は視線だけをそっと、ビーストマスターの方へと流した。
昨夜ついたばかりの彼の頬傷はすでに――目を凝らさないと判別できないくらいにまで薄くなっている。
これも所謂“鬼魔羅の力”だろうか?

しかし彼は――ビーストマスターは、その不可思議な力について自分からはあまり口にしない。
卑弥呼とて、蛮や波児から話しのついでに伝え聞いたくらいのことしか知らない。

今まで何度か共に仕事をしてきたけれど。

彼はいつも真っ直ぐに、手際よく仕事をこなす、云わば“組み易い”相手で――動物を操り、擬態をすることで常人とは桁外れの能力を発揮し――

寡黙でいてしかし話せない相手でもなく、この界隈ではダントツに硬派でいながら自分の周りの連中にしては珍しく彼女持ち。

先住民族である魔里人の生き残り。
その胸に宿す心臓は――異質のモノ。



――ビーストマスターについて――これ以上のことを、卑弥呼はあまり知らなかった。

そして仕事で肩を並べる度に、気づかされる――隣にいるこの男のことを。


昨夜も、少し。

例えば・・・・








「・・・・ナイフ、使えたのね。」


時計の音に重なった卑弥呼の静かな声に、士度はチラリと視線を泳がせた。



「・・・・生まれたときから周りで戦、してたんだ。人並み程度には使えるさ・・・・・」


何でもないように彼は答える。


――人並み程度・・・・ね――


卑弥呼は言葉を飲み込んだ。

あの暗がりで、あの狭い空間から・・・・私の上で暴れている犬の頚動脈にナイフの柄で栓をするくらい深く、正確にナイフを投げられるヤツなんてそうそういないわよ・・・。



不意に――凍りつくような昨夜の銃声が――卑弥呼の頭を再び過ぎる。


卑弥呼は口元に控え目な笑みを浮かべながら横のスツールに置いてあるバッグに手を伸ばすと、中にあったものをゴトリと音を立てながらカウンターに横たえた。

士度は珈琲カップを置きながら、あからさまに眉を顰める。



「銃は・・・・使わねぇ。」



――嫌いだ――



そんな言葉が隣の男の顔に貼りついていた。


ここまではっきりと嫌悪の表情を見せるビーストマスターを見るのは初めてではないかと卑弥呼は思った。

過去に何かあったの・・・?

やっぱり、人を傷つけ、殺めるだけの道具は嫌い?



「・・・別に、“使え”って言ってるんじゃないわよ。構造だけでも覚えておきなさい。」


――昨日は上手く捻り潰していたけれど・・・・いつもあんなやり方じゃ、いつか暴発するわ・・・・――


卑弥呼は取り出した二丁の拳銃――
回転式拳銃リボルバー自動式拳銃オートマチック――のうち自動式を手に取ると、
慣れた手付きで
弾倉マガジンを外した。


「ほら・・・この手のモノはこうやって弾倉さえ外すだけで、もう使えなくなるわ。」


――でもプロは大抵、
薬室チェンバーに一発残しているから気をつけて・・・・――


「・・・・アンタが、銃を使うのか?」


――意外だ――


そんな意味合いを含ませた口調で、士度は銃の解説をし始めた卑弥呼に苦笑した。
まさかマドカと年齢がそう変わらないこの運び屋のバッグから――銃が出てくるとは思わなかった。


「まさか。」


しかし彼女はシレッと答える。


「一応の護身用よ・・・使えるけど使わない。あと、こんな仕事をしているせいね・・・・大抵の重火器について詳しくもなるわよ。」



――死なない為に・・・・ね――



卑弥呼の大きな眼が鈍く光る銃口を見据えながらキラリと光る。

そんな彼女の姿を目の当たりにして、士度は微かに眼を瞠った――そして思い知らされる――
裏家業この世界の業の深さを。

目の前にいる女は――時折――まだ何処か少女とも思える線の細さを垣間見せるのに――

今、目の前で・・・拳銃を扱い、生と死の狭間の危さを説いている。


(馬鹿が、何をやっているんだ・・・・)


不意に脳裏に浮かんだのは、いつも小生意気な口を利くウニ頭の姿。

人の生き方を説くのも、その眼で惑わし――絶望や希望を与えるのもよしとしよう・・・・

だが――

他人に眼を向ける前に――



――守ってやれよ・・・・――



こんなにも強く――しかし時折儚げな表情を見せる女が、銃など持たずに済むように。



「ちょっと・・・!!聴いてるの!?」



無意識に眇めた士度の視線に、不意に卑弥呼が食いついてきた。


「あ?あぁ・・・・自動式だと弾倉に十五発前後、回転式だと最大八発・・・?」


士度はリボルバーを手に取ると、
回転弾倉シリンダーを卑弥呼の見真似で軽くスイングアウトさせ、弾倉の数を確認した。


「・・・・そうよ。」


卑弥呼は一瞬言葉に詰まりながらも、気を取り直したように説明を続ける――なんだ、ちゃんと話は聴くんだ・・・・――


嫌いだと――そんな顔をしながらも。



撃鉄ハンマーが起きていない状態でシリンダーの動きを封じると・・・まぁ、私の握力じゃ無理だけど、アンタなら・・・・
そう、その部分をそうやって鷲掴みにすると発射不可能な状態になって・・・・そうね、撃鉄を落とさない状況にするのも・・・・・」



そうよ・・・・ちゃんと聴いてもらわなきゃ・・・――



「実際使うときは
安全装置セイフティが解除されているかどうかも確かめてね・・・・位置も・・・・え、使わない?」



そうでないと・・・・――



「・・・・疲れるんだから」



「何がだ?」



卑弥呼がいつの間にか口にしていた言葉に、銃の安全装置の位置を確認しながら士度が当たり前のように言葉を被せてきた。



――説明がか?――



そして珍しくどこか茶化すように声を遊ばせながら、手にした銃を軽く振る。


その姿に――今は亡き想いと――誰かの姿が重なった。



「・・・・女が男の為に泣くことよ」



その言葉に、士度が片眉を上げた。




――ほんとうに、疲れるんだから――







「・・・・だから、無駄に怪我をしたり・・・・しない為にも、ちゃんと覚えておきなさい。」



命を落としたり――その言葉を卑弥呼は心の中で呟いた。
彼の場合は洒落にならない。


もうすでに一度――落とした命だから。


彼の為に涙を流す、女の為に。



「泣かせたくないでしょ・・・・?なるべく。」



「まぁ・・・な。」



士度は手持ち無沙汰に手の中で遊ばせていた銃をゴトリとカウンターに戻した。


守るために――自身を、彼女を。


この無機質な殺戮の道具の伊呂波を覚えようとしている、皮肉。

彼は銀の銃身に映る自分の表情を見て自嘲気味に口角を上げた――
マドカには――あまり知られたくない表情だ。


「・・・・まだ終わってないわよ。次は基本操作を・・・・・」



その声に視線で軽い返事をしながら、士度は束の間の銃講義に集中することにした――


やはり自分には似つかわしくない代物だと自覚しながらも――

いつか使わざるを得ない刻がくる――そんな黒い予感のちらつきに目を顰める自分を
外側から見つめながら。












「こないわね・・・・」


二人は銃から手を離したときになってようやく――外が本降りになっていたことに気がついた。


「こねぇな・・・・」


約束の時間など疾うに過ぎたのに――この雨のせいか、仲介屋はやってこない。

店のマスターも、看板娘達も戻ってこない。



「・・・・・・」




「・・・・・・」



時計の音が雨の音色に拍をつけるように、喫茶店の沈黙を彩った。




「今日・・・・彼女は?」


――お屋敷で待っているの?――


空になった珈琲カップをなぞりながら、卑弥呼は視線を上げずに気まぐれに問うた。



「いや・・・・今夜の便でイタリアから帰ってくる。」


刹那、士度の視線が掛け時計の方へと泳いだ。



「そう・・・・迎えに、行かないの?」


時計は五時を半分過ぎようとしている。


「執事か運転手が行くって言ってたからな。」



――俺がついていって、どうするんだよ・・・・――


士度の視線は大して興味がなさそうに、棚に並べてあるカップを辿っていた。


「ふ〜ん・・・・何時の飛行機?」


「・・・・八時に着くと言っていた。」


すぐに帰ってきた返事に、卑弥呼は苦笑するしかない。


「知ってるのね、ちゃんと。」


――帰ってくる時間・・・・――


卑弥呼のどこか楽しそうな声音に、士度は“しまった・・・”と頬を引き攣らせた。


「・・・・マドカが出掛ける前に、メモを置いていくんだよ・・・」


少し気恥ずかしそうな言い訳が、卑弥呼の耳に心地よく響く。



「・・・・90分よ。」


卑弥呼はお冷が入っているグラスを口元に運びながら目を細めた。


士度が再び片眉を上げる――


「新宿から、成田まで――車だと90分かかるわ・・・・そろそろお屋敷に戻った方がいいんじゃない?」


――報告なら私だけでもできるし、理由はどうであれ遅刻してくる仲介屋が悪いのよ――


卑弥呼の言葉に、士度は呆れ顔だ。


「だから、運転できねぇ俺がついていっても何にも・・・・」


「メモ、残していった彼女の気持ち、考えてみたら?」



士度の言い訳めいた声に重なった卑弥呼の澄んだ音に――士度は言葉に詰まり、もう一度、チラリと時計をみやった。



「雨、小降りになったみたいね・・・・」



外はすでに日が落ちかけていたが――いつの間にか窓を流れる雨がどこか優しくなっている。
卑弥呼は流れ落ちる雫に視線を沿わせながら、柔らかに微笑んだ。


そのとき――
士度は徐に立ち上がると、いつも通り小銭をカウンターに転がし、ジャケットを手にとった。

そしてそっぽを向いたまま呟く――


――じゃあな・・・・――


まだどこか少しばつが悪そうな彼に卑弥呼は目を細めた。


――・・・・またね――


片手を軽く上げるだけの返事が返ってきた――

やがて、カラン・・・と音をたて、扉が小さく弾みながら静かになった。


ドアの隙間から見えた外の景色にはまだ細い雨の線が走っていたが――


その消えかけている雨音の中を駆ける足音を卑弥呼は遠くなるまで追いかけた。



本当は――降り出しそうな空を見て――過去をその哀しい音と共に運んでくる涙雨から逃れるように、少し早めにココに来たのだけれど。



「久し振りに・・・・普通の雨音・・・・」



卑弥呼はカウンターに無造作に転がっている小銭を一枚一枚、指で滑らせながら数えた。



「・・・・奢りって、言われたのに」



――お釣りまで、忘れてるわ・・・・――



そして彼女は今は座る人がいない隣の席に向かって目を細めると――


すっかり氷が溶けてしまっているお冷にもう一度口をつけ、


この静かな時間の余韻にもう少しだけ浸っていたいと思いながら、

掛け時計に視線を流した。










Fin.



お題タイトルは――どちらかというと話のシーンの全体的なBGMとして。
間間の士度や卑弥呼の心情は皆様に想像していただきたく・・・一部割愛してみました。
やっぱり士マド前提の士度&卑弥呼は書いていて楽しいです(笑)
美味しいネタをくださったPさん感謝です・・・!v

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