帰り道

朝方だったり、夕暮れ刻だったり、深夜に程近かったり――
橋の上をバイクで駆け抜ける時によく目にするなんでもない光景――
それは眼下に見える河原の広い土手道をジョギングする人の姿という、
本当になんでもない、目にした次の瞬間にはどんな人物が走っていたかなんて忘れてしまうような極々当たり前の日常風景なのだが、ここ数日になってようやく――卑弥呼は自分が良く知った相手も時折その河原を走っていることに気がついた。
やっぱり朝方だったり、夕暮れ刻だったり、深夜に程近かったり――
普通のランナーに比べると決して規則正しいとはいえない時間帯に彼は走っているわけだが、
そんな彼を橋の上から刹那目にする自分も、そんな風に不規則な時間帯に帰路についているわけだから、
卑弥呼は同業者として妙な親近感を覚えながら、そして少しの好奇心に駆られて――

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

ある日、深夜の橋の上で不意にバイクを方向転換させると、そのまま土手へと続く道へと慣れたハンドル捌きで降りて行った――


「・・・・・・・・・・・・・・・」

ジョギングをしている本人は後ろから聞こえてくるバイクの音に気がついたのか、走るスピードを緩めぬまま、無言でスイ・・・・と少し左へと避けるようにして地を駆る位置を変えた。
黒のジャージにやはり黒のTシャツ――いつもワイルドなジーンズを履きこなしている彼にしては珍しい姿だと、卑弥呼は目元のバイクゴーグルを上げながらその口元に小さな笑みを作った――
そしてそのまま、走る彼に並走するように、バイクのスピードをほんの僅か上げ――彼の隣へと追いついた。


「――随分と精が出るわね?」

――ここんところ、かなり走りこんでいるみたいだけれど?

「――アンタか……」

急に真横に走り寄ってきた卑弥呼のバイクに、ビーストマスターは大して驚くでもなく、そして走るスピードを緩めるでもなく――レディ・ポイズンの方へチラリと視線を向けると、
彼はその貌を街灯に薄暗く照らされている土手道の先へと戻した――
――彼のことだから、きっと“香り”で・・・背後に寄った段階で、近寄る主が分かったのだろう―――
卑弥呼は少し感心したようにもう一度口角を上げると、返事を促すかのようにチラリとその視線を彼へと向けた。

「・・・・・・食った分だけ、消費しとかねぇと・・・だろ・・・・・・・」

「――?」

士度は走るペースを崩さぬままそう答えたが、卑弥呼はバイクを走らせたまま小首を傾げた――
今、改めて思い返して見ると・・・・・・――仕事中も、ホンキートンクで会うときも、新宿界隈で見かけるときだって・・・・・
珈琲こそはよく口にしているが、ビーストマスターがモノを食べている姿は、しかし本当に珍しい・・・・・・というか、ほとんど見かけない。
依頼料が入るたびにやれ特上寿司だビザ食べ放題だ――などと目の前を食で満たしたがる欠食童子のGBとは違い、金の価値には相変わらず疎い割には金運が良く、彼女はセレブでお金持ちの目の前の同業者は、逞しくもシャープに整い管理された漢らしい体躯をしているのに――しかも食う金に困っているわけでもないのに、そういえば人前では驚くほどモノを食べていない――

「・・・・・・?――!!あ・・・・・・!!」

「――だろ?今まで必要以上に食う習慣なんざ、なかったからな・・・・・・」

士度は薄っすらと額から流れ出た汗を拭きながら、彼の生活環境を思い浮かべてやっと合点がいったという表情をした卑弥呼に自重気味に相槌を打った――卑弥呼の苦笑がバイクのエンジン音に混ざる。

「朝食・昼食・お茶の時間・夕食・デザート・・・・・・仕事が無い日は昼寝もついて、いくら外で食べないといっても・・・・・・これだと心配にもなるわよね・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

無言で走り続ける彼の答えは肯定だ――思い返せば居候したての頃は食事はいらないと断っておいたにも関わらずマドカが食事の時間になれば自分を探しにくるものだから、居合わせるときは一緒に食事を取ることがいつの間にか自然になった――
しかし魔里人の里でも、無限城でも――必要最小限の食事しか求めなかった士度にとっては当初から、音羽邸でのその食事の規則性と量は十分驚愕に値するもので・・・
(正直、あれだけ食うにも関わらずマドカはよく細いままでいられるものだと思ったものだ)
・・・・・最初は仕事やら散歩やら理由をつけて“音羽邸の食”を避けていたのだが、長く居つくにつれそれも徐々に限界が近づき、しかも或る夜ふと気がついた――
マドカに出される食事の量と、自分に出される食事の量の違い――多い、明らかに居候の自分の方が多い・・・・・・――
食事の回数に加えて、量まで多いとなると――不慣れな食習慣や居候の分際で等々、士度には大問題のように思われた。
そう気不味く気がついた後日、そろそろ使用人たちとも互いに慣れてきた頃合だったので、
<マドカと同じ量の食事でかまわない――>そう執事やコックの目の前で(彼にしてみれば)なんとはなしに言ってはみたものの・・・・・

<士度様、成人男性の一日に必要なカロリーは2550kcalでございまして・・・・・・>
士度の進言の内容に眼を丸くしたコックのそんな声に始まり、続いて執事が野菜やら穀物やら食事やら数字やらが載った妙な表を持ち出してきた――
<女性の場合は2000kcalですので、お嬢様と士度様が同じ量の食事をなさるということは、栄養面の管理をお任せいただいている私どもと致しましては、決して健康的なこととは思えません。しかも私どもの調理はお嬢様のご指示で脂肪や炭水化物を極力減らしたダイエット食に近いものになっております――よってただでさえ平素から士度様には食事に関して物足りない思いをさせてしまっているのではと心苦しく思っております所存故――etc.etc......>

「・・・・・・・・・・・・」

・・・・・・と、コックと執事はなんだかんだ言ってはいたが、ようするに「音羽邸の普段の食事は決して太るものではない」と言いたかったのだろう、結果士度の提案は非常に丁寧ながらも断固却下されてしまった――

・・・・・・と、なると、対策はただ一つ――自己管理、食った分まで只管燃焼。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・――!!」

ただひたすら黙々と走り続けるビーストマスターの心中を察し卑弥呼は少し気の毒に思いながらその視線を流すと、目の端に移った自分のバイクのメーターはいつの間にやら時速40キロ近くを指していた――ビーストマスターは、相変わらず並走している・・・・・・と、いうことは・・・・・・。

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・?」

バイクのスピードを急に落とした卑弥呼に、今度は士度がほんの少し不思議そうな顔をしたが、彼はその落としたスピードに合わせるようにして、自らの歩みを僅かに軽やかなものにした――

(迂闊だったわ・・・・・・)

しかし今、此処が、夜の人気の無い街外れの土手道だから運が良かった――これがもし仮に昼間だったら――時速40キロで涼しい顔をしてジョギングしている輩を目撃されたとなっては、あっという間にトップニュースだ。

「・・・・・・・それにしても、こんな夜更けにジョギングなんかしてていいの?」

彼女をほったらかしにしちゃって・・・・・・――

内心密かに冷や汗を掻きながらの卑弥呼からの問いに、士度は走りながら「あぁ・・・・・・」と小さく返した――

「マドカは今夜は音楽院の連中と食事会だとかで遅くな・・・・――?」

不意にビーストマスターの声が途切れ――彼はそのスピードを徐々に緩めながらジャージのポケットから音無く着信を知らせながら光る携帯を取り出すと、それに答えながらゆっくりと脚を止め、やがて膝に手をあて少し息を吐くと身を起こし――電話の相手と短い話をし始めた――
卑弥呼のバイクは停まり損ねて数十メートル程行き過ぎたが、やがて士度が電話の相手に相槌を打ちながら歩いてきたので――
卑弥呼はハンドルにもたれながら、今宵の散歩相手が追いついてくるのを待った――夏の夜の風に薄っすらと流れてきた汗の匂いは卑弥呼に不快感をもたらさず、彼女はむしろ好意的に眼を細めた――

「・・・・・・あぁ、そうか・・・・・・楽しかったのか。良かったな・・・・・・。あぁ・・・・・・俺も、これから帰る・・・・・・。・・・・・・・ケーキ?・・・・・・・そうだな・・・・・・わかった・・・・・・なるべく早く帰るさ・・・・・・あぁ・・・・・じゃあな、後でな・・・・・・」


“彼女”に届けられる――普段の彼の声とは少し違う、どこか穏やかな声音――そしてほんの少し、困ったような・・・・・・――そしてそう、“彼”が走るのはきっと――気まぐれに早朝か、“彼女”がいない、そんな独りのトキ・・・・・――

「――ケーキ、ですって?」

卑弥呼のからかう様な声に、士度は携帯をパチン・・・と閉じながら軽く肩を竦めた。

「また明日の朝、走るさ・・・・・・」

彼はそう何でも無い風に答えるとコキリと首を鳴らし、シューズの爪先で土手の土をトントン・・・と、数度叩いた――
帰りも彼は走って行くつもりだ――卑弥呼は呆れ半分感心半分の溜息と共に、バイクのエンジンを入れなおした――
新宿の街灯りは既に彼方後ろ――それでも、ものの30分もあれば、彼は再び喧騒を抜け、静かな住宅街に辿り着き――
愛しい者の笑顔に迎えられるのだろう。

「・・・・・・・・・・・・」

傍らで再びバイクのエンジン音が高らかに鳴り始める――士度は軽く伸びをしながら無い片眉を上げた。

「――ゆっくり、走りなさいよ?今度は街が近くなるんだから・・・・・・」

「先導、任せる。」

卑弥呼の諌め半分のアドバイスに歯切れの良い返事をするや否や――士度の癖のある髪は夜風に靡き、駆るその心地よさを楽しみはじめた――

「――!!ちょっと!!〜〜もうっ!!」

待ちなさいよっ!!――

卑弥呼はバイクのアクセルを一杯に吹かし――珍しく言葉とは裏腹な行動に出た獣使いの小さな遊び心に笑いを噛み締めると、深夜の土手に土埃を残しながら同業者を追う――
その先で刹那その速度を緩めた彼の貌はいつも通り静かなものだったが――
雄雄しくも軽やかに土を蹴る彼の姿は、この夜の帰路を
どこか楽しんでいるかのようだった――


〜Fin.〜