「………………」 短縮番号の操作を途中で止め、表参道の真ん中で琴音はパタン……と愛らしいピンクの携帯を閉じた。 そういえば士音ちゃんは今、剣道の昇級試験に集中している頃だ。 彼の実力なら初段だっておそらく楽勝だと琴音は思うのだが、 二級や一級は六年生からしか受けることができないので、四年生の今は順当にとりあえず三級から受けるそうで―― 当の士音よりも琴音の方がそれをよっぽどもどかしく思っている。 「……たまには一人も、いいかな……」 赤と黒のタータンチェックのミニスカートに、お揃いのベスト、お揃いの愛らしいネクタイに白いシャツ、やはりお揃いのベレー帽―― 流行に敏感な彼女らしい服装の琴音は、小さく溜息を吐きながら昼過ぎの東京の青空を仰いだ――今日は暑くもなく、寒くもなく、丁度よい小春日和だ。 お琴の新しい曲を習おうと花月のマンションを訪ねた今日は日曜日―― しかしながら彼は風邪で喉をやられて臥せっていると、応対に出た十兵衛に玄関先で断られてしまった。奥で掠れた声の花月が何か言っていたが、 それを制する俊樹の声が大きく重なってきたので――お見舞いを一言託けて、琴音は早々に彼らのマンションを後にしてきた。 いつもなら互いのお琴と剣道の御稽古事の後、この辺りで待ち合わせをしてアイスかクレープを食べて、電車でお家に帰るのに―― 士音の今日の昇級試験が終るのが何時になるのか分からないしお琴の練習も無くなったので、今日はこのままお家に帰ってもいいんだけど……。 「……………」 ふと視線を上げると、目の前にはクレープ屋。「新作でました!」の張り紙とミントソーダの粒が可愛いトッピングの写真、そして適度に長い列―― 琴音はポシェットの中の小銭入れの中身を確かめるとその列の最後尾に加わり、ショーウィンドウに並ぶクレープの見本に目を走らせた。 やっぱり、新作かな……?でも苺とアイスも捨てがたいし……―― 不意に――彼女の後ろに誰かが立つ気配がしたので、琴音はチラリと視線を背後に流した―― すると目に入ったのは、ベージュのスーツに派手な橙色のネクタイをした、琴音からしてみれば十分“おじさん”の域に入る長髪の男性の姿が。 琴音の意識はすぐにクレープの見本に戻ったのだが、男は彼女からのその一瞬の視線を喜ぶかのように話しかけてきた―― 「君、可愛いね?もしかしてもうどこかの事務所に入っちゃってる?」 慣れた口調と動作で男は琴音の目の前に名刺を突き出してくる――「●×芸能プロダクション」の文字が白い名刺に大きく踊っていたが、 琴音はそれを一瞥しただけで「いえ、別に……」と無関心さ最大限の返事をしながら、男の顔を見もしない。 (あぁ、まただ……面倒臭いなぁ…もう……) こういったちょっとお洒落な街中を一人で歩いていたり女友達と歩いていたりすると、琴音には時々こんな輩が寄ってくる。 パパはもちろん、士音が一緒のときも番犬代わりになっているのか、ほとんどこんなことはないんだけど……。 長く真っ直ぐな黒髪がいいのか、同年代の平均より背が高いのがいいのか、流行の服を着ているからかなんなのか分からないが、 とにかく、こんな芸能事務所の類は事あるごとに琴音にモーションをかけてくる――しかし当の本人は―― 歌うことも踊ることも大好きなのだがバイオリンを弾くことの方がもっと好きなので、芸能界に入ることなんぞまるで興味がなかった。 それでもスカウトの男は琴音の目の前で勧誘の言葉をしつこく並べてくる始末―― 「君ならすぐにティーンの雑誌の表紙に…」「今うちの事務所に入ればダンスや歌のレッスンも無料で……」 「可愛いお洋服を買うお小遣いだって手に入るし……」 「お父さんとお母さんだって、君がテレビや雑誌で活躍すればきっと喜ぶと……」 「………………」 雑誌は見る分は面白いと思うけれど自分の好みの服しか着たいとは思わないし、恥ずかしいポーズだってとりたくない―― ダンスや歌のレッスンは部活でもできるし、もっと習いたいならママのお友達に頼めば教えてもらえるし、 可愛いお洋服だってパパやママやお祖父ちゃんがたまにプレゼントしてくれるから嬉しいのよ―― それに私がテレビや雑誌に載って喜ぶパパとママの姿こそ(お祖父ちゃんはどうかわからないけど)、想像ができないわ!!――― これら全部の言葉を飲み込んで、琴音は無視を決め込んだ―― クレープ店の同じ列に並んでいるお客たちは琴音とスカウトのやりとりに気の毒そうな表情を向けながらも、ただただ傍観するばかり。 そしてスカウトの男はついに携帯電話を取り出して琴音の手に押しつけながら、 「とりあえず!!親御さんに連絡してみてよ!!」 と満面の作り笑いを浮かべ、目の前の金の卵獲得に眼を輝かせた。 これでこの子が自宅に電話をかけてくれれば、電話番号はゲット――あとは後日押して押して押しまくって言いくるめて―― そうすれば大抵の親は契約金や子どもの将来の知名度に目が眩み、 何より、小学生のやる気を引き出すことこそ、芸能界の華やかな部分を時間があるだけ語るだけで簡単だ。 「……パパもママも、お仕事中だもの……」 琴音は小声でそう言いながら、差し出された携帯電話を触りもしない。 嘘じゃないもん、パパは今日はお仕事で帰ってくるのは夜だし、ママだって音楽院のお仕事がある日だし……。 「じゃあ、後でご両親とお話をさせて頂くから、携帯に番号を……!!?イッテェ!!テメェ!誰……!!?」 迫るように琴音にまた一歩近づいた男が突如悲鳴を上げた――その声に驚いて琴音が顔を上げると、目の前には護り屋弥勒の―― 椿が男の片腕を捩じり上げているところだった。 「……身内だ、バカヤロウ――」 椿は彼にしては静かな声でそう言いながら男の腕をさらに捩じり上げ悲鳴を上げさせると、 目を丸くしている琴音が何かを言う前に視線で「そこに居ろ――」と合図をし、 喚く男を半ば引き摺るようにしながらビルの裏側に消えて行った。クレープの店の行列に並んでいる面々が俄かにざわめく―― 気づくと、琴音の順番は次の次辺りまで列が進んでいた。 「……………」 琴音はもう一度、ポシェットの中の小銭入れの中身を確認した―― 「………?お前、二つも食べんのかよ……」 それとも士音の分か?―― 両手にクレープを持つ琴音に呆れた顔をしながらザッと辺りを見渡した怪訝そうな椿に対して琴音は首を振ると、苺とアイスのクレープを彼に「はい」と差し出した。 「助けてくれたから……ありがとうだもん……!」 「……!あ゛ぁ!?ガキがそんな気ぃ使ってんじゃ……!?」 「――ありがと!椿兄さんは甘いもの苦手だから、私が貰っておくわね!」 椿の言葉半ばに急に出てきて、琴音を促しながらクレープ屋にクルリと背を向け苺クレープを受け取ったのは綺羅々だ。 そして二人は静かな裏通りを選びながらクレープ片手に歩きはじめる―― 綺羅々は久々堪能する若者らしいオヤツにご満悦だ。 「今日は士音は一緒じゃないの?」 「士音ちゃんは今日は剣道の昇級試験なの――花月さんが風邪引いちゃったから私のお琴の練習もおやすみになっちゃったし……」 でも、まっすぐお家に帰るのもつまんないし……―― いつも一緒にいる双子の兄がいないせいか、琴音の元気も常より萎んでしまっているみたいだ。 「……でも、どーして琴音に気づいてくれたの?」 あの辺り、一杯人がいたのに……――琴音が不思議そうに綺羅々を見上げると、今度は雪彦がクレープを美味しそうに齧りながら微笑みを向けてきた。 「あぁ、実は椿兄さんが――“琴音の声がする”ってあの辺りで……あ、余計なこと言うなって怒ってるよ――」 雪彦は頭の奥から聴こえてくる椿の声に苦笑すると、琴音に向かって軽やかにウィンクをした。 「ふーん……」 ――琴音はもう一度不思議そうに目を瞬かせると、フイッと弥勒から顔を逸らし――少し思案顔で再びクレープを口にしはじめる。 「「「「「「「……………」」」」」」 いつになく大人しい琴音の様子に、七人の弥勒は雪彦の中で互いに顔を見合わせる――クレープはもうすぐ互いに食べ終わる――駅はすぐそこだ。 この様子だと早々に電車に乗せて――おっとその前に狼には気をつけろと念を押して――真っ直ぐ家に帰したほうがよさそうだ。 「……ひとりで家に帰れるか?」 「―――!………」 頭上から降りてきた夏彦の声に琴音は思わず顔を上げると――彼女は僅かに微笑みながらわざとらしく頭を振った。 「……ならば仕方あるまい。送って行こう――だが今回だけだ」 琴音の小さな嘘を見抜きながらも、時貞が告げた溜息混じりの言葉に琴音は今度は嬉しそうに頷き、満面の笑みで云うのだ―― 「あのね!寄って行きたい場所があるの!」 (この歳でふらふら寄り道たぁ、とんだ不良娘だなぁ!) 頭の中でケケケケと笑う右狂を諌めながら、緋影も珍しく憂慮の表情を琴音に向けた―― 「……私が間違っていなければだが――この電車はお主の家から離れて行っているのだと思うのだが……」 「うん、でも新宿に戻るのも、そんなにかからないし――あ、ここで降りるのよ、緋影さん!」 琴音は盲目の緋影の手を引くと、都内のとある駅にポンッと降りた。水の匂いがするな……―― アナウンスがあった駅の名前からも推測すると、やはりここは大きな掘に近い駅で……―― 琴音は緋影の手を引いたまま少し歩くと、道途中にあった屋台で綺羅々にポップコーンをねだった。 そして塩味のポップコーンをつまみつつ女同士のお喋りをしながらまた少し歩き―― お堀の淵にあるボート乗り場に行きあたると、今度は 「椿さん!」 ――と椿を呼び出す。 微笑む雪彦に背中を押されるように椿が眉を上げながら琴音の前に立った―― 「……なんだよ、こんなのに乗りてぇのかよ……」 「うん!だって、ここのは乗ったことないんだもん…!」 「………………」 周りを見ると――新緑の桜の樹々の下に流れるかなり幅の広い掘では、数多のカップルたちがボート遊びに興じている。 椿の眉が今度は面倒臭そうに下がった―― だいたい七人の兄弟の中で、こんな状況の下で何故今再び自分が呼び出されたのかも甚だ疑問だ。 そうこうしているうちに、琴音は椿の黒服の裾を引っ張りながらボート乗り場のチケット売り場に辿り着き―― (ね?お願い?) そんな愛らしい表情で椿を見上げてくる――彼は仕方なく――黙ってチケットを買うはめになった。 「……………………」 ボートを漕ぐのは男の役目――このお堀に限らずボート乗り場の暗黙の掟を椿は黙々とこなしている―― 兄や弟たちに「代われ」と言っても、皆黙って首を振ったり苦笑したりケタケタと笑ったりで誰も代わろうとしてくれない―― 目の前の琴音は降りてくる小鳥たちや掘から顔を出してきたり泳いで近づいてくる鯉や鴨たちとお喋りをしながら彼らに餌をやっていて―― まるで初めての体験をするように心底楽しそうだ。 「―――おい」 椿の声に、琴音は小鳥を人差し指にとまらせながら顔を上げた――愛らしい瞳がパチパチと瞬きながら椿を見上げてきた。 「……士音や士度とは来たことがないのか?」 そんな椿の言葉に、琴音は当たり前のように首を振った。 「前に士音ちゃんと一緒に来て乗ってみようと思ったんだけど、ボートは高校生の学生証とかが無いと乗っちゃいけないんだって―― パパとは――四人乗りの家族ボートなら別のお池で乗ったことがあるけど……」 こーやって二人っていうのは、初めてだわ―― ね?――と琴音は小鳥にも話しかけたが、彼女の白く細い指にとまっている小鳥は不思議そうに首を傾げるばかり。 「………………」 「見て、椿さん―――」 まだ俺を御指名かよ……――多少疲弊を感じながら琴音が指す方を見ると、休日のせいか群れなすボートには――あぁやっぱり若人カップルばかり。 よそから見れば自分と琴音はさしずめ兄と妹か――子どもと子守程度にしか見えないことだろう。 「――私ももう少し大きくなったら、好きな人とあんな風にボートに乗るのかなぁって思いながら、このちかくを通るたびにお堀をみてたんだけど……」 今日はちょっと、予行練習してみたくなっちゃったの――― 琴音は小鳥を肩に移すと、指をピンと伸ばした両手を口元で愛らしく揃えながら椿に向かって無邪気な笑みをみせた―― 「………そうかよ」 フワリと甘い琴音の微笑みの擽ったさから逃れるように、椿は自然と視線を落とす――(ちょっと、どこ見てんのよ!)―― 綺羅々の唐突な声に気がつけば、視線の先にはミニスカートから健康的にスラリと伸びた琴音の脚が―― 愛らしく内股で揃えているとはいえ――それに相手は小学生。 それでも椿は綺羅々の声と共に反射的に目を掘の水面へと移した。 そしてまたらしくなくすぐに脳裏を掠めるのだ―― たかが ふと気づけば、琴音は再び鴨や小鳥に空から水面からポップコーンをおねだりされ、子供らしくはしゃぎながらボートでの散歩を堪能しているようだ。 そういえば、ここの風は心地好い――オールが水を跳ねる音、小鳥や琴音の囀り、近くも遠くも無い位置から聴こえてくる電車の音、ボートの上の人々の声―― (都心にも――こんなところがあるのだな……) 緋影の声が柔らかな陽の光と交叉したような気がした。 琴音の手から飛び出した小鳥が今度は椿の肩にとまり、彼の貌を覗き込んでくる――いつもならすぐに振り払っているところだが……―― 琴音はクスクスと笑っている――甘えてくる小鳥に椿がなんとはなしに触れると、目の前の少女の笑顔のような柔らかさが彼の指を撫でた。 「―――しかし、知らない大人には決してついていっては……」 「大丈夫よ、時貞さん!パパのお友達としかこんなことしないもの!」 風見鶏の屋根が見えてきたあたりで、琴音はクルリと弥勒の方を振り返り軽やかにウィンクをした。 「……士度に宜しく伝えておいてくれ。近々共に仕事をすることになっているからな――」 そんな琴音に苦笑しながらの夏彦の言葉にも、元気な返事が返って来た。そして―― 「あ、そうそう椿さん――耳貸して?」 「あ゛ぁ?お前はホント、遠慮ってもんがねぇな!」 そう言いながらも椿は手招きをする琴音の方へ体を傾けてやる――すると…… 「〜〜〜〜〜!!!?」 「今日はありがと!またねっ!!」 そして琴音は手を振りながら足取り軽く家の方へと駆けて行く―― 「………………!!?」 後に残されたのは呆然とする椿と、 (あと六〜七年で喰べ頃かもな!) (やめろ右狂……あの冬木士度の娘だぞ……) (あらぁvおませさんね♪それに干支一周ちょっとの歳の差なんて……!) (いや、あの父親は本気で殺しにくるな――我らも腕を磨いておかねば) (……お前ら、何を前提に話しているんだ……) (ちょっと椿兄さん!しっかりしてください!!相手は――) 「―――ウルセェぞ!バカヤロウ!!」 思わず叫んだ椿の声に、近くの木々で休んでいた鳥たちが驚いて一斉に飛び立った―― 「あれ、椿さん?こんなところでどーしたの?」 後ろから不意に声を掛けてきたのは、スポーツバッグを持った琴音の双子の兄の士音だ。 そして珍しく大きく脱力し――眉間に皴を寄せっぱなしの椿の表情に、士音はただ不思議そうに瞬きをしながら首をかしげたのだった。 〜Fin〜 ◆ブラウザを閉じてお戻りください◆ |