lovely Days


「また・・・クビになったの?」

家政婦斡旋センターの所長は所長室の机の上で頬杖をつきながら
橘遥たちばなはるかの履歴書に再度目を落とした。
そう・・・今回で三回目。また宿無しに逆戻り・・・・。

「お料理も、お掃除の腕も、落ち着いて仕事ができるという面も、家政婦としてはバッチリなのに・・・。三回とも“愛想が無い”ということで切られるなんてねぇ・・・」

今回は雇い主はともかく、お子さんが懐かなかったということだけど・・・・――眼鏡を上げなら中年の女所長は大きな溜息を吐いた。

「・・・申し訳ありません。次のお宅こそは・・・頑張ります・・・・。」

簡素な木製の椅子に座っている遥が肩を落とすと、「別に性格が悪いわけではないのに、どうしてかしらねぇ・・・・」
所長はフォローとも非難とも取れるような口調でそう言いながら、もう一度溜息を吐いた。

「・・・・はい。」

どうして、いつもこうなってしまうのだろう・・・私は真面目に、精一杯、与えられたお仕事をこなして、それ以上に役に立ちたいと思っているのに・・・・。
そう、結局はこの顔のせいで・・・「冷たい感じがする」「愛想がない」「もう少し笑えばきっと可愛いのに・・・」
そんなことをチラッと言われて・・・お暇を出されてしまうのだ。
ただでさえ吊り眼で、鋭い顔つきをしているのに・・・その上私は感情を表に出すのが下手で・・・・でも、小さい頃からそれは直らなくて・・・・。

「今はあなたに合うような求人は来ていないのよ・・・どうしてもって言うなら、駄目元でこちらの面接を受けてみたら?」

同情めいた口調でそう述べながら、所長は遥に一枚の用紙を手渡してきた。

「音羽・・・マドカさん・・・?あの、盲目のバイオリニストのですか?」

求人欄の雇用主の名前を見て、彼女は目を丸くする。

(テレビで何度か見たことがある、あの音羽マドカさん・・・?)

クラシックにはてんで疎い遥でもその名と容姿を知っているくらいの、日本が世界に誇る著名人だ。

「そうよ。音羽様宅のメイドさんの一人が・・・・彼女もうちから紹介したのだけれど・・・寿退職しちゃったのよね。それは前々から判っていたことだから、もうだいぶ前から募集が掛かっているのだけれど・・・。住み込みでそのお給金だもの。他の紹介所からもわんさか応募者が集まるわよ。書類審査の締め切りはもう終ってしまったけれど、審査をされる執事さんとは懇意だから、何とか見るだけ見てもらうわ。運がよければ三日後が二次試験の調理の実技よ。」

はい、早くこの書類を書いてしまってね・・・!――新たな申し込み用紙を渡されて、遥はお礼もそこそこにその記入にとりかかった。

(メイドさん・・・家政婦さんじゃないのね・・・調理の実技って何を作ればいいのかしら?・・・・倍率、どのくらい・・?・・せめて書類審査だけども通ってくれれば、試験仲間から他のお宅の募集も訊けるかもしれない・・・・。あら・・・?動物アレルギーの項目がある・・・・音羽さん、ペットでも飼ってらっしゃるのかしら・・・?嫌いな動物・・・?ペットは一種類じゃないの・・・?)

――今朝方、荷物一つで仕事先を追い出された遥は、もうそんなことしか考えられなかった。



遥が二次審査前に所長からこっそり聞いたところによると、一人の募集に、全国から73人の応募があったそうだ。
そして書類審査に通ったのが僅かに20人。
何でも、「動物アレルギー」の項目と「嫌いな動物」の項目に何かしら記入した人達は、軒並み落とされたらしい。
――動物は飼ったことがなくて、孤児院にいたころ飼育小屋の兎や鶏やヤギの世話をしたくらいだけれど・・・・あ、院長さんには内緒で野良猫に餌をやったりしたわ・・・。動物達の目はどれもとても愛らしくて、好き。とにかく、書類を書いたとき嫌いな動物が思い浮かばなくて良かった――。
話を聞いたとき、遥は安堵の溜息を吐いた。

(音羽さんって・・・・動物好きだったのね。)

遥はそんなことを思いながら、エプロンをパンッ・・・ともう一度叩いて、気合を入れた。
場所は某調理学校の調理実習室。これから20人の一時審査通過者が一斉に実技審査を受けるわけだ。
課題は『朝食(洋食と和食の二種類)』。

(バイオリニストで、海外生活も長かったって聞いたから・・・・洋食オンリーの人だと思っていたけれど。ご家族の方が御所望なのかしら・・・?でも、雇用主は音羽さん御本人だし・・・)

そんな疑問符を頭の中で巡らせながら、遥は卵をボールに滑らした。



(・・・・二次審査にこの私が通過できたなんて、嘘みたい・・・・!)

某音楽院に設けられた待合室で、遥は他の5人通過者と面接の順番を待っていた。
他の受験者同様、なるべく落ち着いている風を装いながらも、遥の顔は緊張のあまり蒼くなっていた。
最終審査に残ったのは6人・・・遥の面接の順番は五番目だ。今日は雇用主である音羽マドカ嬢本人も審査員として参加するらしい。

(あ・・・・そういえば・・・今まではセンターからの派遣で、面接は無かったから・・・・)

遥はパッ・・・と他の受験者を見回した。
――皆、図ったかのように若くて、しかも眉目秀麗。

若さは、問題ないとして。

――落とされる、このキツイ顔のせいで・・・!――

遥は身体がスッ・・・と冷えていくのを感じた。





「こんにちは、橘遥さん。」

マドカの明るい声が面接室に響いた。

「よろしくお願い致します・・・」

雇い主の顔をゆっくりと見る余裕などあるわけもなく・・・遥はペコリと控え目に一礼をした後、勧められるがままに、パイプ椅子に腰を掛けた。



何問目の質問だっただろう・・・・マドカ嬢が動物に関することを訊いてきた。

「橘さんには、お嫌いな動物は無いのですね?」

アンケートにも出ていた質問だ。

「はい、動物は・・・何でも好きです。」

遥が思っていたよりも小柄で細身のマドカ嬢はニコニコしながら質問を続けた。

「そうですか・・・。それでしたら、大型犬とかも大丈夫ですよね?」

「はい、大丈夫です。以前ヤギの世話もしたことがありますから・・・ある程度大きな動物には慣れています。」

ヤギだって、田舎ならともかく、この東京砂漠では随分と大きな部類に入るだろう・・・遥はそう思い、正直に答えた。

「それは良かったです・・・!では、例えば・・・ライオンさんとかはどうでしょう?怖くないですか?」

「・・・は?」

・・・ライオン?あの、サーカスや動物園にいる、ライオン?でも例えばって・・・ライオン並みに大きな
何か・・がいるってことなの・・・?

「・・・お嬢様は、あなたが“ライオンを目の前にしても怖くないか”と、お聞きです。」

マドカの隣でメモを取っていた執事の冷めた声で、遥は我に還った。

「――!!は、はい・・・!あの、ライオンは・・・・大丈夫です!噛み付かれたりしなければきっと・・・!大きな猫みたいなものですし・・・あのフワフワした
たてがみにはぜひ一度触ってみたいと思いますし・・・・あ、すみません・・・・」

遥は頭に浮かんだことを軒並み言葉にしてしまい、思わず赤面した。
執事がフッ・・・と溜息を吐いた。マドカ嬢のニコニコした表情は変わらない。

「そうですか。質問は以上です。ありがとうございました、橘遥さん。最後に少しだけ・・・・」

マドカは静かに席を立った。執事は彼女と同時に立ち上がり、彼女の椅子を引いた。
マドカはモーツァルトに導かれて、遥の目の前までやってきた。そして彼女の突然の行動に眼を丸くしている遥を覗き込むようにしながら、

「失礼ですけれど、お顔を触らせていただいても宜しいでしょうか?私、目が見えませんので・・・・」

と、遠慮がちに訊ねてくる。

「あ・・・は、はい!もちろんです・・・!」

マドカの言葉を最後まで聞く前に彼女の意図を察した遥は、彼女の手が自分の顔に届きやすいよう、僅かに背を前に倒した。

スッ・・・とマドカの両の指が遥の頬を撫でた。そして彼女を顔をゆっくりと辿っていく。

(あ・・・柔らかい。この手が、あの素敵な音色を・・・。指も細くて長くて・・・奇麗・・・・)

目の前を滑る白い手を半ば呆然としながら見惚れていると、目の前のマドカの唇が綺麗な弧を描いた。

「・・・ありがとうございました。面接は、以上です。お疲れ様でした。」

小柄な少女は遥の目の前で軽やかな声でそう述べ、ペコリと会釈をした。

遥の後ろではいつの間にか移動していた執事が、面接室の扉を無言で開け、退室を促している。

「どうもありがとうございました・・・」

手ごたえがまるでなかった・・・・そんな絶望的な気分を抱えながら、遥はマドカに向かって深々とお辞儀をした。



(お、大きい・・・・!)

音羽邸の門前で遥は思わず荷物を取り落としそうになった。
彼女の目の前にそびえ立つ洋館は前回お世話になっていたお宅の優に三倍、塀の外側には芳しい緑の香りが漂っていた。
仮の住まいとして宿泊していた安宿に届いた合格通知。あの大勢の中から何故自分が選ばれたかなんて皆目見当もつかなかったが・・・。
感激のあまり、宿の枕を涙で濡らしたのはつい昨日のことだ。そして今、橘遥は新しい雇用主の自宅前で呆然と立ち尽くしていた。
人々がようやく活動し始めたばかりの時間帯、遥はインターホンの声に導かれるままに門をくぐり、音羽邸へと足を踏み入れた。

「・・・・で、彼女達があなたとこれから寝食と仕事を共にする、音羽邸の先輩メイド達です。あなたの部屋については後ほど柚木さんに案内してもらってください。皆さん、自己紹介を。」

到着早々の遥自身の自己紹介後、執事の木佐の無機質な声がエントランスに響いた。

柚木絵麻ゆずきえまです。分からないことがあったら遠慮なさらずに何でも聞いてくださいね、橘遥さん。」 
優しい声でそう言った彼女は、丸い眼鏡をかけた穏やかな貌に、静かな微笑を湛えている。長い栗色の髪はアップにされ、メイドハットに上品に納まっていた。
優しそうなその先輩に大きな安堵感を持ち、遥は笑顔で会釈した。

香楠カナン・ウィステリアよ。宜しくね。仲良くやっていきましょ。」
肩まで伸びた軽くウェーブの掛かった金髪を惜しみなく晒している彼女の口から思いがけず流暢な日本語が飛び出してきて、遥は驚きつつも会釈を返す。
金髪、青い眼、透き通るような白い肌・・・・どこからどうみても異国の人なのに、その話し振りは一般の日本人と寸分も違わない。
遥の瞠目に、「私、
日本こっちで生まれたハーフなの。」という明るい声が返ってきた。

「の、
野萩霞のはぎかすみです・・・!よ、宜しくお願い致します!」
明らかに緊張している口調で、半ば慌てるようにお辞儀をした一番年少の彼女は、黒髪ストレートのおかっぱ頭、顔のソバカスが愛らしかった。
僅かに頬を染め、終始俯き加減の彼女を見て、“妹がいたらこんな感じなのかな・・・”と思いつつ、宜しくお願いします、とお辞儀を返した。

「こちらのお屋敷にお住まいなのはお嬢様と、あとお嬢様のお客様が長期滞在中です・・・・この他の使用人は、通いのコック、同じく通いの運転手兼庭師、そして週に幾度か訪問される家庭教師の女性です。コックの仕事は昼食からなので、お嬢様とお客様の二人分の朝食はメイドが作ることになっています。後で改めて詳しく説明しますが、この屋敷全体の掃除と、庭の落ち葉掃き等の簡単な庭掃除もメイドの仕事で・・・」

延々と続く木佐の説明文を、遥は一言一句聞き漏らさぬよう、真剣な表情で耳を傾けていた。絵麻と香楠は慣れたもの、穏やかな表情で聞いている。霞の顔からは相変わらず、緊張の色が抜けていなかった。香楠が欠伸を噛み殺す気配がしたそのとき、木佐の後ろから可愛らしい声がした。

「あら・・・橘さんはもうお着きだったんですか?ごめんなさい、お出迎えもせずに・・・」

マドカ嬢が彼女の盲導犬と共にゆっくりと廊下を歩いてきた。その後ろには背が高い男性の姿が・・・・。

「と、とんでもございません、お嬢様・・・!これから宜しくお願い致します・・・!」

遥は突然現れた新しい女主人と、まだ得体の知れない背後の男性の存在に多少緊張しながらも、腰を深く折り曲げた。
何故だか霞も一緒に慌ててお辞儀をしている。

「士度さん、新しいメイドさんの橘遥さんです。」

マドカ嬢が背後にいる男性に振り返りながら、穏やかな声で遥を紹介した。

「そうか、よろしく。」

短く、無表情にそう言った男の視線は、ほんの一瞬だけ遥を捕らえたようだった。
その視線はすぐに外され、彼はメイド達の前を通り過ぎて玄関へと向かった。マドカも当たり前のように彼に続く。

(・・・・!この人が、お客様・・・?とても気難しい人なのかもしれない・・・)

二年間家政婦を務めてきた経験が、もう一度会釈をする遥の脳裏に警笛を鳴らした。

(マドカお嬢様の“お客様”、冬木士度様よ・・・。)

いつの間にか遥の隣まで来ていた香楠が、遥に耳打ちをした。遥はハッ・・・とした表情で香楠を見やった。
一方、香楠の表情は何故だかどこか楽しげだ。

「士度さん、今日は何時頃お帰りですか・・・?」

遥はマドカ嬢の方へ視線を戻した。

「そうだな・・・昼過ぎには戻れそうだ。」

扉の前で立ち止まり、マドカを見下ろす青年の顔は相変わらず無表情だが、その声には彼女に対する親しみが込められているような感じがした。
遥の、多少虚を衝かれたような眼の動きを見て、絵麻は小さく微笑んだ。

「そうですか・・・!でしたら、お茶の時間をご一緒できますね。クッキーを焼いて、待っています・・・あの、甘くないものを・・・・!」

(あれ・・・?)

マドカ嬢の喜びに弾んだ声を、遥は初めて聞いた。

「また午後に・・・いってらっしゃい、士度さん。」  「あぁ、行って来る。」

マドカ嬢の声が少し艶っぽく聞こえたのは気のせいだろうか?
青年は短く答え、ドアを開けた。

(あれれ・・・?)

「「「「いってらっしゃいませ、士度様・・・!」」」」

執事と他のメイド達の息のあった挨拶を不意打ちのように耳にし、遥も一拍遅れながらも今日何度目かのお辞儀を慌てて繰り返した。

マドカ嬢は外門が閉まる音が聞こえるまで、彼を見送るようにその場に立っていた。
やがて扉をパタン・・・と閉め、クルリ・・・と振り向いた彼女の表情はまるで・・・

(お客様・・・?マドカお嬢様の・・・恋人・・・・?)

遥の不思議そうな顔を余所に、再び木佐の長い講義が始まった――。


「彼氏・・・よねぇ?何となく。」

昼休み――使用人達の溜まり場である食堂で番茶をすすりながら香楠が言った。

「私も、お二人は恋人同士だと思うのですが・・・・」

絵麻は薄灰色の毛糸で編み物をしながら呟いた。

「そうですよ!絶対!!だって、私見ましたもん!あの嵐の夜、お二人が二階の廊下でキ、キスをしているところを・・・!」
それで、“そういうことは見て見ぬフリをするのも使用人の役目である”って後で木佐さんに怒られましたけれど・・・。

――最後は憮然と言いながら霞はチョコレートを摘んだ。

「そうなの・・・。マドカお嬢様は音楽家でらっしゃるので、恋人がいらっしゃるとしても同じ業界の方だとばかり思っていて・・・。あの士度様はワイルドな感じがするので、ちょっと意外だったわ・・・。それに・・・・」

遥はその視線を裏庭の方へと向けた。あの後・・・・執事にお庭を案内されて、まさか“本物”のライオンを目にするとは思わず、思わず腰を抜かしかけた。
面接にお嬢様が仰った“例えば”は、“本当のこと”だったのだ。実際その獰猛な獣を目の前にしてみると・・・・(その物体がたとえ昼寝をしていても)足が竦んで、鬣をさわるどころの話ではなかった。
ライオンだけではない・・・・様々な種類・大きさの犬や猫、アライグマやみたこともないような猿、兎にモルモットに・・・何だか見慣れぬ動物達。
木の上からは数種類の鳥の声がしていた。――これらが皆、あの“士度様”のペットとは・・・・。
執事の話によると、このペット達は皆その飼い主にすこぶる従順で大人しく、今迄使用人たちとトラブルになったことも無いらしい。
注意すべきは、“余計な刺激を与えないこと”。ただそれだけだそうだ。

遥の視線に気がついた香楠が徐に口を開いた。

「ホント、最初は皆吃驚するしかなかったわ。あのお嬢様がいきなり、“自分よりも年上で数多のペット付きの得体の知れない寡黙な宿無しの若い男”を連れて来て、『大切なお客様です』って私たちに紹介したのよ?でも、その士度様はともかく・・・・お嬢様のご様子からあれは・・・・最初から彼にかなりのご好意をよせてらしたわね・・・。」
今もそうだけれど、お嬢様のそんな様子を見ているともう、可愛らしくって・・・!

――香楠がコロコロと笑った。

「でもマドカお嬢様は以前よりもなんだか少し・・・大人っぽくなられたわ。可愛らしいのはそのままですけれど、時々表情とか、仕草とかが・・・」
――とても女性らしくてらっしゃるもの・・・。

絵麻は手を止め、毛糸を籠に片付けながら柔らかな声でそう言った。

「“恋する女はキレイになる”からですよ、きっと!それに、マドカお嬢様からは“士度様大好き!”オーラがさりげなく出てますし・・・!」

うんうん・・・と一人頷きながら霞は力説した。

「そう・・・。私、今朝方士度様に初めてお会いしたとき、何だか冷たそうな・・・難しそうな人だなって思ってしまったから・・・」
――でも、マドカお嬢様がお好きなのだから、きっといい人なのね・・・・。

湯飲みに目を落としながら恥ずかしそうに呟く遥の正直な感想に、他のメイド達は思わず苦笑してしまった。

「たしかに・・・士度様は一見恐そうに見えるけれど・・・」

「でも、良い方ですよ。力仕事とか、時々手伝ってくださいますし・・・あら、もうこんな時間・・・そろそろ仕事に戻らないとですね。」

「この間、温室に穴が空いたときも、士度様が身軽に温室の屋根に飛び乗って・・・・」

霞が嬉々として説明する士度のエピソードを聞きながら、遥も香楠と絵麻に続いて席を立った。
それにしても・・・・

――皆、今日が初日の私にも気軽に話しかけてくれて・・・・お嬢様もお優しそうだし・・・・お客様も結局は良い方だそうだし・・・・執事の木佐さんは少し恐そうだけれど・・・――

(ここで、頑張りたい・・・ここに、居たい・・・・)

初日からそう思えるような職場に巡りあえた事に、そして早々に気が置けない友人になってくれた同僚たちの心遣いに、遥は心底感謝した。
そして遥はメイドキャップをもう一度整えながら、先輩たちに続いて食堂を後にした。

雑巾片手に遥は、二階にある一室のバルコニーの拭き掃除をしていた。
“先日の嵐で屋敷のあちこちが大分汚れたので、丹念に拭いて、ピカピカにしてください。今日はお天気がいいのでついでにワックスもかけて・・・・”
そして遥は此処を割り当てられた――雑な仕事をして、初日から“使えない奴だ”とは絶対に思われたくない・・・。
遥はバルコニーの白い床の上に四つんばいになって、そこにこびりついているチリや泥をヘラや洗剤をめい一杯使って落としに掛かっていた。
このところ雨風が続いたので、白く上品なバルコニーには目立たないながらも小さく細かい染みや汚れが一杯だ。
しかも普通のお宅よりも広いバルコニー。これは・・・思ったよりも重労働になりそうだ。
遥は額に浮かんだ汗をタオルで拭いながら、一息つき、白い板ばかりを凝視していた目を休ませようと何となく庭の緑へ目をやった。

(あ・・・お嬢様。・・・・と、士度様?)

仕事に懸命になりすぎていて、庭にご主人様たちがいるなんて気がつかなかった。
二人は大きな樹の下にシートを広げ、ピクニック宜しくティー・タイム。
しかしレースの敷物の上に載っているのは、急須と・・・湯飲み?
洋館や洋風のガーデンには何だかミスマッチだ。
二人の周りでは犬やら猫やら小動物やらが、やたらと鼻をヒクヒクさせている。

「今日はお煎茶のクッキーを作ってみました・・・!だからお茶もお紅茶ではなくお煎茶で・・・・」

マドカ嬢がニコニコしながらミニバスケットを開けた。その笑顔も、面接のときに遥が見た笑顔とはまるで違う、何だか幸せ色の笑顔・・・・。
そしてその隣に座る青年の顔も、今朝方見たときよりも何だか優しげに見えた。

「はい、士度さん・・・・アーン・・・!」

草色のクッキーをマドカは一つ掴むと、そう言いながら士度の方へと差し出した。

「アーンって・・・マドカ、お前な・・・」

青年の少し困ったような声に思わず噴出しそうになるのを遥は懸命に堪えた。

(性格、堅そうだもの・・・士度様。)

――やっぱりああいったことをするのは苦手なのね・・・・。

それでも何度かマドカに促されて、士度が躊躇いがちにそのクッキーをマドカの手からパクリと口にする姿に、思わず遥の頬も緩んだ。

「どう、ですか・・・?美味しいですか?・・・・・良かった!今度は紅茶味や珈琲味のクッキーに挑戦してみますね・・・!」

マドカ嬢の透き通った声は遥がいる二階のバルコニーまでよく届くのに、青年の声は聞こえたり聞こえなかったり。
レトリバーがミニバスケットからクッキーを一枚掠めた。チチチ・・・と可愛らしい声でマドカの肩に舞い降りた小鳥が、カケラを彼女の手ずから貰っている。
士度の傍らで寝転がっていたライオンが徐に立ち上がり、まるで猫が人に甘えるようにして、その大きな頭を士度の肩口に擦り付けていた。士度はそんなライオンの鬣を掻くように撫でてやっている。それに便乗したマドカのはしゃぐ声が庭を愛らしく飾った。

(ライオンが、あんなに懐いているなんて・・・!マドカお嬢様もあの猛獣が恐くないのかしら?士度様が隣にいらっしゃるから・・・?)

広いお庭で大好きな人と肩を並べながら手作りのクッキーを食べたり、動物たちと戯れたり・・・・そんな優しい時間が、ゆったりと流れている夢のようなお屋敷。私の、新しい居場所・・・今度こそ、長く居られれば・・・――

――そんなことを思いながら恋人たちの小さなデートを見つめていた遥の後ろで・・・「コホン・・・」と誰かが咳払いをした。

「〜〜!!」

その人の気配に全く気がつかなかった遥が慌てて後ろを振り向くと・・・

「手元がお留守になっていますよ、橘遥さん・・・・!」

執事の木佐が眉間に皺を寄せながら遥の背後に立っていた。

「も、申し訳御座いません・・・!」

木佐の一睨に遥は顔面蒼白になりながら、再度白いバルコニーの床に顔を近づけた。

夕焼けの中、カラスが人々に帰宅の時間を告げていた。
バルコニーの掃除の後、階段の雑巾掛けを終えた遥が今度はティー・ルームの花瓶の水を取り換えようと目的の部屋に入ると、その部屋の窓ガラス越しに、この屋敷の主とお客様の姿が見えた。

(あ・・・・)

二人はライオンの胴に背を預け、肩を寄せ合うようにして眠っていた。マドカは小首を傾げる様にしてその白い頬を士度の肩口に乗せていた。
士度は天を仰ぐようにして目を瞑っている。二人の手は投げ出した士度の脚の上で柔らかに繋がれ、大きな茶色いセッターがその長い鼻先を士度の腹部に乗せ他の動物たちと同じく惰眠を貪っていた。

ザッ・・・と庭の木々が揺れた――風が出てきたのだ。――このままではお二人が風邪を引いてしまわれる・・・・起こしてさしあげなくては・・・

遥がテラスへと続くティールームの外扉の取っ手に手をかけたそのとき・・・士度の眼がパチリ、と開いた。
そして次の瞬間、彼の鋭い視線が遥の顔を捕らえた――士度の膝の上に顔を預けていたセッターもパッと面を上げその長い首をティー・ルームの方へ向けた。

「――!!」

ぐっすりと寝ていたはずのお客様といきなり視線がかち合い、遥は一瞬石化した。
しかし、彼が遥に意識を集中したのはほんの数秒・・・青年はすぐに視線をまだ眠る恋人の方へ向け、彼女の頬に僅かに流れ落ちる長い黒髪を掻き上げながら、その白い耳朶へ何事かを囁いた。彼女の瞼がゆっくりと上がり、漆黒の瞳が現れる・・・・その表情はどこかまだ夢をみているようだった。青年が彼女の背を支えながら立ち上がらせようとすると・・・・彼女は甘えるように両の腕を青年の方へとさしだし、その白い貌を青年の方へ向けながら、何かを呟いたようだった。青年は呆れたように溜息を吐きながらも・・・・彼女の背を支え、もう片方の腕を彼女の膝裏へとまわすと、そのままその小さな痩躯を持ち上げた。彼の腕の中の彼女は目を細めて微笑むと、その逞しい胸元に頬を寄せて、もう一言。青年は彼女の髪の香りを嗅ぐように、その精悍な顔を彼女の緑の黒髪に刹那、寄せた。彼の傍らにいたセッターが尻尾を振りながら青年を見上げた・・・その気配に気付いた青年は苦笑しながらセッターを見下ろし――それはまるで一人と一匹が会話をしているような不思議な光景。

遥がそんな彼等の姿を、頬を染めながら我を忘れたように見つめていると、“士度様”が“お嬢様”をお姫様抱っこで抱えたままこちらへやってきた。
二人を凝視してしまったことを恥ずかしく思いながらも遥は急いで取っ手に手をかけ扉を開けると、自分はパッ・・・と脇に控え、その女主人とお客様の為の道を作った。

「どうも。」

青年は短く、表情無くそう言うと、彼の腕の中で再び小さな寝息を立てている少女を抱えたまま、ティー・ルームを通り抜けて行った。

一方遥は件の“お客様”の足音が聞こえなくなるまで、その場から微動だにしなかった・・・いや、できなかった。
あの“お客様”と一瞬目が合っただけなのに・・・その一瞬から今迄、心はまるで蛇に睨まれた蛙状態だ。

(やっぱり・・・士度様に慣れるのには、なんだか時間が掛かりそうだわ・・・)

それでも―― 自分は今後もあの二人から目を離すことが出来ないだろう・・・・
なぜなら・・・二人が仲睦まじく寄り添うその姿は、遥の心に今まで感じたことがないような安らぎを、緊張を和らげてくれるような穏やかさをもたらしてくれるから。また、そのせいか――自分はこの屋敷に来てまだ一日目だというのに、もっとずっと長く仕えているような錯覚に遥は陥っていた。

(・・・不思議な方たち。)

そして、不思議な、お屋敷。

遥は目的の花瓶を持ち上げながら、これからたくさん遭遇するであろう、未知なる経験に思いを馳せた。
そして戯れに視線を庭へ戻すと、あのセッターをはじめ数匹の犬猫たちがこちらを見ていた。

(あなたたちとも・・・・仲良くやっていきたいわ。)

まるで遥の心の声が聞こえたかのように、一匹の子猫がニャアと鳴いた。

誰かが――こちらへ近づいてくる気配がしたので、士度は反射的に目を覚ました。
その気配へ意識を泳がすと、一人のメイドがティー・ルームの扉の前で突っ立ってこちらを見ている。
見慣れない顔・・・誰だ?
<ケサ、キタ、アタラシイ、ヒト、ジャナイ?>
周りにいる動物の中の誰かが士度に囁いた。――そうだ・・・今朝方玄関先にいた・・・なんでも新しいメイドとか・・・・―
獣の言葉と重なるように状況を理解した士度は、すぐにそのメイドに関心がなくなり、その視線を隣で眠るマドカへと向けた。
彼女の頬の上には彼女の長い緑の黒髪が流れ落ち、その白い容姿を半分ほど隠してしまっていた。
夕暮れの匂いを、秋の初めの風が運んできた――もうそろそろ屋敷の中に戻ったほうがよさそうだ。
士度はマドカに握られたままの指をそっと抜き取ると、彼女の髪を掻き上げながら、その柔らかい耳朶に口を寄せた。

「起きろ、マドカ。身体が冷える前に中へ入ったほうがいい・・・」

多少の憂慮を含んだその声に誘われるように、マドカの長い睫がピクリ・・・と動き、漆黒の瞳が瞬いた。その表情はしかし、まだトロン・・・としていて、彼女の思考がまだ半分夢の中にいることを窺わせた。

「ほら・・・このまま此処にいると、お前、風邪引いちまうから・・・・」

士度が彼女の背を支えながら、マドカに立ち上がるようにと促した。すると、マドカがスッ・・・と両の腕を士度のほうへと当たり前のように差し出した。
そして次の瞬間、彼女の唇から突いて出た言葉は・・・・

「士度さん、だっこ・・・・。」

彼女のその甘い口調と言葉を聞いて士度はまず目を丸くし、そして次の瞬間、呆れたように溜息を吐く。

(こいつ・・・寝惚けてやがる・・・)

それでも士度は、「よしよし・・・」とまるで子犬でもあやすかのように言いながら、マドカを抱いて立ち上がった。
フワリ・・・と宙に浮く感覚にマドカは目を細めた。そして彼の厚い胸元に頬を寄せ、彼の匂いを肺に満たす・・・。

「士度さんから・・・・太陽の匂いがします・・・」

―ポカポカと暖かくて、いい気持ち・・・・

その温もりを離すまいと、マドカの小さな手が士度のシャツを握り締めた。

「お前の髪からも・・・夕焼けの香りがするぜ・・・」

彼女の髪の匂いを士度が捉えたときにはマドカはすでに、夢の中の住人だった。

<マドカ、キモチヨサソウ・・・!ボクモ、ダッコ!>

セッターが士度を見上げながら尻尾を振った。

<残念ながら、今は両手が塞がっているんでな・・・それにお前、さっきまで俺のこと枕にしていただろ・・・?>

士度のからかうような言葉に、

<ア、バレテタ?>

とセッターはバツが悪そうに耳を伏せた。
士度に言われてモーツァルトが銜えたミニバスケットの中身は気がつけば既に空っぽ。
葉っぱの味がするクッキーは意外にも獣たちに好評だったようだ。

<コンドハ、コウチャッテイウ、ノミモノモ、ヨウイシテネ・・・>

木の上から誰かが士度に声を掛けた。

「聞いたわよ。初日から早々にサボっていたって・・・」

香楠が輝く金糸の髪をブラッシングしながらニヤリと笑った。

「あ、あれは・・・!お庭にいらっしゃったお嬢様と士度様のことを見ていたら、たまたま木佐さんが・・・」

理由はどうであれ、手元がおろそかになったことは変わりない。パジャマ姿の遥は顔を真っ赤にして俯いた。

「あーでも、わかりますよ!お二人が一緒にいると、ついつい目がそっちに行ってしまうんですよね・・・!私もそれで木佐さんに4回位注意されちゃいました。」

牛乳をグラスに注ぎながら霞はペロリ、と舌を出した。

「霞さん・・・あなた、そんなに注意されていたの・・・・?」

――木佐さんの本当の雷が落ちる前に善処しないと・・・。

絵麻が心底心配そうに霞の方を見つめる。一方霞からは「気をつけます・・・!」と反省しているのかしていないのか判らない元気な返事が返ってきた。

「でも、ねぇ・・・・私たち現在進行形の恋愛ドラマを毎日、 
ナマで観ているわけでしょ?目を離せる訳がないじゃない・・・?」

そんな香楠の言葉に、一同ハッ・・・と息を呑んだ。

「そう考えると・・・」

遥はマドカが士度にアーン・・・とクッキーを差し出している光景を思い出した。

「私たちのお仕事って、とても・・・」

霞の脳裏には、今朝方、まるで旦那様を送り出すようにして士度に“いってらしゃい”と言っていた女主人の顔が過ぎった。

「・・・美味しいのかもしれません・・・ね?」

腕の中で眠るマドカをお姫様抱っこしたまま階段を上る士度の姿を思い出し、絵麻は思わず頬を赤らめた。

「・・・・でしょ?」

“士度さん、おやすみなさい・・・”そんな彼女の声の後、小さな甘い音と息を詰めるような声が二階の廊下から聞こえてきたことを皆に話そうと思っている香楠は、長い髪をゴムで縛りながらウィンクをした。



ドラマはまだまだ始まったばかり。
永遠にエンディングがこないことをそれぞれが密かに願いながら、四人のメイドは一日の締めくくりに、それぞれが目撃した名場面の感想話に花を咲かせた。




Fin.




秋南様より“月窟/1600リクエスト”『新人メイドは見た!〜微笑ましき日常〜』でした。
オリキャラ一杯で申し訳ございません・・・!今回のキリリク内容に便乗して、当サイトのメイドさんを全面的に表に出した一品となりました。
この四人のメイドさんは他の話にもちらほら、『音羽邸裏庭小話』にもその性格設定が出ていたりします。
ちなみに、“香楠”というお名前はChatの時に秋南様から直々に命名していただきましたvご協力感謝致します・・・!
オリキャラを登場させたりいじったりするのは大好きなんですが、“名前を考えること”にいつも四苦八苦。
士音の級友達に続いてメイドさんsのそれぞれの名前にもちょっとした法則(?)を入れてみました。
ともかく――メイドさん話は書いていて楽しかったです。
少しでも秋南様のお気に召せば幸いです・・・!&またのリクエスト挑戦をお待ち申し上げております!
この度は素敵リクをどうもありがとうございました・・・!