愴雨



「奴は・・・墓を掘り続けたんだ。」

「其処にあった屍の数だけ・・・・」

「分かるか?十をいくつも過ぎていない奴が、延々と・・・・・・」

「手の皮がボロボロになり、その爪が剥がれて血を流しても止めることなく・・・・」

「俺らが着いた頃には、最後の墓を埋めているところだった・・・・長の墓を・・・・・奴の、オヤジさんの・・・・」

「話を、したい?何の為に・・・?無理だろ、俺だってこうしてお前らと面と向かっているだけで時々・・あぁ、分かってるさ、薫流・・・」



薫流に服の袖を引かれて窘められたことで、劉邦は言葉を切った。
蜘郎森人が躊躇いがちに口を開こうとする前に、劉邦は薫流の背に片手を当てながら踵を返す。

「とにかく・・・とかくアイツに関しちゃ、アンタらは・・・あの嬢ちゃんの事だってあるだろう?昔も、ついこの間も・・・アイツの“一番大切なモノ”に手ぇ出して辱めといて・・・話も何もないだろう。」


もう一度よく考えてみるんだな――劉邦は振り向きざまに吐き捨てるようにそう言うと、深い森の中へ足を踏み入れた。


「今は、その時ではないということだ。」

アンタたちには今はまだ・・・奴の気持ちなぞ汲めんよ――


そんな言葉と共に薫流のウサギ帽がフワリと揺れ、彼女もまた森の中へと溶けていく。


森人の横で黙って話を聞いていた美隷が、困惑した表情で彼を見上げた。
森人は魔里人達が消えて行った森を悲しみに満ちた表情で見つめていた。


「それでも・・・我々は新たな歴史を作るために、先へ進まねばならない・・・」


そうでしょう、父上?――

霧人の決意に満ちた声が地獄谷の入り口で木霊したが、森人は何も答えることができなかった。

兜と蟲の業から解き放たれた、あの時の感じた解放感、自由への喜び、未来への希望が――今ではとても愚かしいものに感じられた。

自分が生まれるとうの昔から脈々と続いていた憎しみと殺戮の連鎖が、今、この時代に終りを告げ、これから新しい時代と歴史を築いていくのだと――光溢れる中、そんな晴れ晴れしい思いが身を、心を駆け巡り、見るもの全てが美しく見えたのに――


(この手に染み付いた血は・・・・落とせんか・・・)


森人は自らの掌を見つめながら細く溜息を吐いた。


何も終わってなどいなかったのだ――鬼里人と魔里人の間に横たわる溝は、未だに先の見えぬ深淵のままだ。


そして森人は、あの時は深い眠りについていた一人の青年の顔を思った――全ての元凶というべき鬼魔羅を今はその胸に抱く、彼の面差しを。


(四木族・・・確か冬木の長の子・・・・冬木、士度・・・か・・・)


とても穏やかな寝顔をしていたと思う――しかし、彼の怒りが、彼の一声が四木族を再び集わせ、
つわものどもを地獄谷へ導き、最終的には復活を遂げることこそできたが、鬼里人の最終布陣を全滅にまで追いやったのだ――


(あれは・・・狼だった・・・)


最終決戦場となった広場で彼と対峙したとき――それは一瞬の出来事だったが――互いの眼がかち合った瞬間、自分は命を奪われていたのだと思う。
しかし自分は刹那に見えた彼の獰猛な瞳の中に確かに――深い“哀しみ”を見たのだ――そして事切れる瞬間、思った――
鬼里人われわれは触れてはならぬものに触れてしまったのだと。
瞼を閉じるその前に最後に映った光景といえば、背後に居たはずの霧人が屍となって眼の前に横たわっているその姿。
業と兜に引きずられるがままに生きてきた結果が――父とは名乗れぬがままに最愛の息子を目の前で失う事になろうとは、思いもしなかったことだ。
ただ愛する女性と、成長していく息子に付き従って生きることこそ、自分の最上の喜びであり、使命であり、それがずっと続くものだと思っていたのに。


(結局、我々自身では・・・何も変えることができなかったのだ・・・・)


青年の幸せを奪った結果、鬼里人は望むべき解放を手に入れたが――彼らには深い傷跡が残っただけだ。
人の不幸の上に成り立つ至福の喜び――それは何と愚かしい響きであろうか。

森人が苦渋の面持ちで作った拳を、美隷がそっと両手で包んだ。

「いろいろと思うところがあるだろうけれど・・・まずは彼と言葉を交わさねば・・・」

そうすればきっと、道も開けてくるわ――穏やかな笑顔を取り戻した彼女は、いつになく眩しく見えた。

「そうだな・・・・」

森人は微かに微笑みながら、霧人の方を見た。

「・・・分かっています。二度、あいまみえ、敗北を喫した相手ではありますが・・・この際、その恨みは忘れましょう・・・」

息子の少し悔しそうな言葉に、森人は目を細めた。
先の戦いで、霧人も大人になった――それは妻が言うように、開ける道の道標なのかもしれない――そんな思いが森人の心を解した。


しかし数日後――彼は自分の考えが甘かったことを思い知る。


四百年の憎しみと殺戮の連鎖が一夜にして終焉を迎えるなど、夢物語にしか過ぎなかったのだ。



「お話することは何もないとのことです。大変申し訳ございませんが、お引取り下さいませ。」


網一族の親子三人は、意を決して訪れた音羽邸の玄関先でこんな言葉を浴びせられていた。
目の前にいるこの屋敷の執事は、その言葉こそは非常に礼儀正しいものだが、彼の無表情に整った貌はどこか、この三人責めているようにすら見えた。


「しかし、こちらとてそれなりの覚悟を持って参上致した次第。冬木士度殿から直接お言葉を賜るまでは帰るわけには・・・・!?」


表情を変えないままの執事を霧人が睨み付けたとき、廊下の奥から一人の女性が現れた。
見間違うはずも無い――一度は自分たちがその姿を王として頂いた女――音羽マドカだ。


「木佐さん?お客様ですか・・・?どなたが・・・!!」


訪問者の気配を察したマドカは明らかな動揺をみせた。
その美しい貌がサッと蒼ざめ、彼女は盲導犬を促して踵を返そうとする。


「お待ちくだされ!マドカ殿・・・・!!」


森人が執事の制止を振り切りながら彼女の元へ駆け寄ろうとしたその時――マドカに向かって伸ばしたその腕を誰かに掴まれたと思った刹那、自分は霧人と美隷の前まで投げ飛ばされていた。

「父上・・・!」

霧人が叫び、美隷と共に彼に駆け寄る。
床に打ち付けた頭を振りながら森人が顔を上げると、眼の前に立つは怜悧な視線で彼らを見下ろす一人の青年――冬木士度の姿がそこにあった。


「貴様ら・・・どのツラ下げて
音羽邸ココへ来たんだ・・・?」


鋭利なナイフのように冷たく鋭い眼差しと静かな声が、三人の心を凍らせた。
そして森人は、どこからどう来たのか、全く気配を感じさせずに唐突に現れた目の前にいる男の存在に畏怖の念すら感じていた。

その後ろにいる小柄な女性を守るようにして佇む青年の瞳から発せられる言葉は、明らかな怒気と静かなる悲しみ、そして果てない――憎しみ。


「伝えたはずだ・・・貴様らと話すことは何も無い。帰れ。」


士度の感情の無い声がエントランスに響いた。
士度はマドカの肩に手をかけながら彼女を促し、三人の訪問者を一瞥すると、クルリとその場に背を向ける。


「ま、待て・・・!四百年の確執が溶けた今、鬼里人と魔里人の今後について共に話し合うのが今のキサマの義務であ・・・・ッ!」


霧人がそう言いながら士度の肩を掴もうとしたとき、チリッとした波動が彼を捉え、その手は何かの力に弾かれた。
そして振り向いた士度のバシリスクの如き一睨みに声を奪われる。
霧人の代わりに、低い声がその場を支配した。


「確執が溶けた・・・?全てが終わったと言うのか?・・・・そうだな、最初は俺もそう思っていたぜ・・・・だがな――」


――今日、テメェらのツラ見て、はっきりと分かったことがある――


低く、静かな声とは対照的に、士度が己の拳を握る猛々しい気配が、マドカの心に不安をもたらした。
彼女が士度に声をかけようとした刹那、赫怒の声がその場に居る者たちを圧倒した。


「俺は貴様らが一族にしたことも、
マドカこいつにしたことも、まだ何も許せちゃいねぇ・・・!貴様らが言うこと為すことは全て奇麗事に聞こえるぜ――話し合う?それが時期尚早だってこと、浮かれすぎていて分かんねぇのか、貴様らは!」


パリンッ・・・・


彼の怒号と共に、三人の頭上にあったシャンデリアの電球が数個割れ、その破片が彼らの上に降り注いできた。
背後でメイドの息を飲むような悲鳴が小さく聞こえ、美隷が眉を顰めながら顔を押さえた。
そんな中でも霧人は、未だ落ちてくるガラスの欠片を煩わしそうに払いながら士度の腕を掴んだ――

「キサマは元は一つであった我らが一族の平和を――!?クッ・・・・!」

しかしながら霧人の腕は尋常ではない速さで、間髪入れずに士度に捻りあげられる。
後手をとられ、その痛みに眉を寄せる霧人の背後から、非情なまでに冷たい視線と、冷徹な声が囁くように降ってきた。


「霧人・・・お前、また屍に――」


戻りたいのか?――


「士度さん・・・!」


士度の言葉の最後を遮ったのは、彼の腕に縋ってきたマドカの存在と、彼女の声だった。

クンッ・・・と、か弱い力で士度の腕を引っ張り、彼を見上げながら彼女は声を絞り出す。


「士度、さん・・・・お部屋に戻りましょう?」


ね・・・・?――マドカの懇願めいた声に、憤怒に彩られていた士度の気配が氷解したようだった。
彼は刹那、憂いの表情を浮かべると、霧人を突き放し、もう一度踵を返した。


「士度殿・・・!」


森人の声に、士度は立ち止まりはしたが、振り向きはしなかった。


「――今は何も話すことはねぇよ。何度も言わすな。帰れ」


有無を言わさぬその言葉と、彼の背中が告げている拒絶の意志に、鬼里人の三人ができたことと言えば、途方に暮れることのみだった。


「私は諦めませんぞ、士度殿・・・!」


森人が声高に述べたが、士度はなんの反応も示さず、マドカと共に廊下の奥へと消えていった。


玄関の扉が重い音を立てながら開けられた。


「どうぞ、御引き取りくださいませ。」


執事の慇懃な言葉が無機質に響き、メイド達がガラスの破片を片付ける為に箒を持ち寄ってきたので、鬼里人の親子は黙ってその場を辞すしか手立てがなかった。



「・・・悪りぃ、みっともねぇところ見せちまったな。」


自室で自嘲気味な声を出した士度に、マドカは首を振った。
しかし、彼女は彼にどんな言葉をかけていいのかまるで分からなかった。
自分の頭の中にあるいかなる言葉も、彼の哀しみを孕んだ心を慰めるには安っぽい気がしてしまい、マドカはただ心配そうな表情を浮かべながら、彼の前に立ち尽くすばかりだった。

すると不意に――士度が何も言わず何かをドサリとベッドの上に置いた。
そして箪笥の引き出しやクローゼットを開け、何やら細々とした物を取り出し、荷造りをしているような気配がした。
不安に気持ちを擽られたマドカがベッドの傍に駆け寄り、士度に声をかけようとすると、先に口を開いたのは彼の方からだった。


「明日は一日、戻らねぇから・・・・」


士度は手を休めることをしないまま、ポツリと呟いた。
士度の言葉に、マドカの眉が下がった。

「・・・・お仕事、ですか?」

自分が知る限り、彼は仕事に必要最小限のものしか持っていかない――ベッドの端に腰をかけながら、マドカは躊躇いがちにその荷物の方へそっと、手を伸ばした。しかしその手は何かに触れる前に士度の大きな手に包まれ、遮られる。


刃物とかあるんだ・・・気をつけろよ――彼女に注意を促す言葉だったが、咎めの鋭さは微塵も無かった。
士度はマドカの手を取ったまま、一旦作業を中断し、自らも彼女の隣に腰を下ろした。


「いや、墓参りだ。明日は・・・俺らの村が落ちた――いわば命日だからな。」


あの様子だと、今日来た奴らはそんなこと、知りもしないだろうがな――士度は抑揚無くそう言いながら、手の中にある彼女の甲を親指でそっと撫でた。


「無限城に居る頃は――毎年そこを詣でることすら叶わなかったが・・・これからは親父・・・長や、お袋の朽ちた墓を整えてやることだって――マドカ?」


その小さな頭を士度の肩に唐突に持たせかけてきた彼女の行動に、士度は僅かに目を見開いた。
サラリと落ちた彼女の緑の黒髪が、彼女の表情を隠す。


「私も・・・行きます。」


ご一緒します――マドカの淀みない声に、士度は目を瞠った。

普段の彼女が口にするであろう、「一緒に行ってもいいですか?」や「一緒に行きたいです」という問いかけではなく――必ず共にいくのだという決意がそこに現れていた。


「だがな、マドカ・・・山の中だぞ?それに何もねぇ廃村だ。屋根はあるが、野宿に近いことをすることに――」


「お墓参りでしょう?お墓があれば、お参りはできますし、お山だって・・・モーツァルトもいますし、私、頑張って登ります・・・!野宿だって、士度さんと一緒なら平気です・・・!」


私も・・・士度さんのご両親のお墓参り、したいです――顔を上げ、真摯な面持ちで自分を見上げてくる彼女の貌を、士度は喫驚の思いで暫く見つめていた。

やがて彼は小さく溜息を吐くと――


「明日は早いぞ」


そうからかうように言いながら、彼女の頬をスルリと撫でる。


「はい・・・!大丈夫です・・・!」


そんな軽やかな彼女の笑顔は、鬼里人たちのと対峙で鬱屈としていた士度の気持ちを少なからず和らげた。

彼女の―マドカの想いが単純に嬉しかった。

そしてそんな彼女の隣にいる自分を――今は亡き家族に見てもらいたいという思いがこの胸のどこかにあることを、士度は今更ながらに気付いたのだった。



「ごめんなさい・・・・」


士度の背中の上で、マドカは泣き出しそうな声を出していた。


「もういいから・・・謝んなって・・・・」


士度は彼女の涙声に困惑しながら、獣道を真っ直ぐ里へと目指していた。
一方マドカは、自己嫌悪の渦の中にいた。途中までは上手くいっていたのだ――朝、K峠まで車を出してもらって、そこから徒歩で森に入って・・・夏の涼やかな木漏れ日の中を並んで歩いて、緩やかな沢を下って、太陽が真上に来た頃には、野原でお弁当を食べて・・・。緑色の空気を肺一杯に吸い込みながら、燦燦と降り注ぐ太陽の下、彼と二人で自然に親しむことができることに喜びを感じ、交わす言葉の一つ一つが嬉しくて、途中出会った動物たちと交流することも楽しくて――半ばピクニックにでも来た様な気持ちになっていたのがいけなかったのだろうか――野原を抜けた辺りで、足が急に動かなくなったのだ。気持ちとは裏腹に、普段よりも長く歩いたことに、身体が無理をしていことに彼女はそんな状態に陥るまで、気がつかなかった。
目に見えて歩みが遅くなったマドカを心配する士度に、「大丈夫です・・・!」を何度も繰り返し、脚に響く鈍い痛みから、十数歩歩いては立ち止まるという行為の連続の結果、とうとうマドカは士度に担ぎ上げられてしまった。

「一人で歩けます・・・!」

ヘトヘトの状態になってもまだそう言い募る彼女に

「俺がお前を背負った方が目的地に早く着く」

そんな風に言われてしまえば、返す言葉も無い。

そして自分を背負って歩き出した彼の様子で初めて気がついたのだ――今までの彼の“歩み”は自分のスピードにどこまでも合わせてくれていたのだと。
荷物を手にかけ、マドカを背負いながらも、士度は二人並んで歩いていたときとは桁違いのスピードで道なき道を駆け抜ける。普段から、マドカは彼と一緒に歩いていて疲れるということを知らなかった――それは何も言わない彼の優しさだったのだと思い出したように再認識し、マドカの目頭は熱くなる。そしてその好意を知らぬとはいえ、当たり前のように受け取っていた自分が随分と卑小なものに思えてならなかった。

彼の歩の速度が弱まったとき、マドカは彼の背に頬を預けながら申し訳なさそうに、やっとのことで呟いた。

「私・・・自分で来たいって言ったのに・・・・とんだお荷物になってしまって・・・・」

涙交じりの彼女の声に、士度はギョッした。もしかしたら泣いていたのかもしれない――シャツが僅かに濡れたような気がした。
士度は彼女をあやすように、彼女を背負う体制を立ったまま整えた。


「お前、軽すぎて荷物のうちに入んねぇよ。」


ぶっきらぼうな声に誘われるように、マドカが彼の背中の上で瞬きをする気配がした。
士度は続ける。


「俺が十かそこらのときにはもう――お前が三人分くらいの重さの荷物を背負って、峠を越えたりしたものさ。」


だからマドカ背負ったって、全然重さを感じねぇ――そう言いながら士度は再び歩みを速める。


「それに―俺だってお前が来るって言ってくれたこと、嬉しかったんだ。だから遠慮なんかしねぇで、俺の背中で寛いでろよ」


彼のこころなしか明るい声に、マドカの心は救われる。


「はい・・・」


少しはにかむような彼女の声を心地よく耳にしながら、士度はこっそり、額の汗を拭った。



「立てるか・・・?」

「はい・・・」

着いた――そう告げた士度の声が、少し枯れているのに、マドカは気付いた。
彼の背に長い間背負われていたお陰で、足の痛みはもう無い。
モーツァルトは仕事の再開に尻尾を振りながら、士度にハーネスをつけてもらっている。
目の前にあるという、既に滅んだ士度の故郷は、今まで通ってきた緑の世界とは明らかに隔絶された空気を醸し出していた。
夏だというのに極端に冷えた空気、薄くなった鳥の囀り、木々のざわめきはどこか暗い響きを孕んでいた。


里を目の前にした士度の雰囲気は、普段の彼とは明らかに違っていた。
今、隣にいるのは確かに彼自身のはずなのに――昨日、鬼里人たちと対峙していた時の猛々しさや冷酷さも、共に暮らす音羽邸での穏やかな雰囲気も、動物たちと語らう彼の清漣の様相も――全てが融合し、超越した空気を彼は纏っていた。
そして、その外側を包むのは――声にならない愁嘆の感。

彼の気配を今、逃してしまえば、彼は消えてしまうのではないかという焦燥感にマドカは駆られた。
マドカは黙って彼に手を伸ばし、その逞しい腕に触れてみた。
触れた指先から伝わるのは、いつもの彼の空気だ――マドカは小さく安堵の溜息を吐くと、士度の表情を探るように彼を見上げた。


「――大丈夫だ、行くぞ。」


その言葉とは裏腹に、士度は硬い表情のままだった――そして二人は、今は魂が眠る場所へと足を踏み入れる。

夏の盛りには似つかわしくない底冷えするような風が、二人を迎えた。



今は誰も住まうことはない、士度の里には――百いくつもの土墳がところ狭しと並べられていた。
そして夏なのに――この冷たい空気がそうさせているのか、死者を悼むように村の方々で咲き誇る彼岸花。

士度はその土墳の一つ一つの前で立ち止まり、崩れた土の形を整え、神酒を供え、無言の祈りを捧げていた。
マドカは座って待っていていいと言われたが、彼女は士度の傍から離れず、彼の後ろで黙ってその様子を覗っていた。
しかし、その行為が二十をいくつか過ぎたあたりから――彼女の細く綺麗な指が、死者が眠る土に伸ばされた。
マドカは士度の行為を真似るように、懸命に墓の形を整えようとする。膝をついたことで、真っ白なウォーキング・パンツが土で汚れた。

お前の大事な手が土で汚れる・・・それに何かの弾みにで切れたりしたらどうするんだと、士度はマドカの行動を制したが、彼女は彼の言葉を頑なに聞き入れようとはしなかった。彼女は服や手が土に塗れることに頓着せず、黙々と作業を続ける。
そんな、彼女にしては珍しいくらいの頑固さに根負けした士度が、荷物から軍手を取り出し、せめてこれをつけてくれと頼み込んだことでその場は納まった。

そして二人は黙々と墓を巡った――半分を少し過ぎた頃、士度が土墳の列から少し離れた場所へと移動した。マドカも自然、彼についていく。
そこには・・・土墳は無く、墓碣が一つ立ててあるだけだった。
マドカはその楕円の石の形を整えながら、誰のものかと問うた。
この村の巫女であった者の墓碣だ――そう静かに士度は答えた。
彼女の遺体は
やしろと一緒に燃えてしまい、ちゃんと埋めてやることができなかったと士度は神酒を供えながら呟いた。
歳は確か――今のお前と四つか五つくらいしか違わなかったような気がする――墓碣の埃を払いながら、どこか懐かしそうに言う士度に、
懇意にされていた方なのですか?――とマドカが小さく首を傾げてきた。刹那、士度から躊躇いの気配が感じられた。
さあ、どうだかな・・・・――少し困ったように士度は答える。マドカは目を瞬かせた。
そして彼はその墓碣に向かって目を細めると、徐に立ち上がり、マドカの手を取った。
するとマドカは甘えるように、コツン・・・と額を彼の腕に触れさせてきた。
どうした、疲れたのか?――そんな彼女の様子に、士度の心配そうな声が降りてくる。
いいえ・・・大丈夫です。あと半分・・・!気持ちを込めてお祈りしましょうね・・・?――マドカは明るい声を出しながら、士度に向かって微笑みかけた。
そうだな・・・――彼が緩く笑ったような気がした。
そして士度は彼女の肩を抱きながら、土墳の列へと戻っていく。行きがけ、マドカは外れにある墓碣にチラリと注意を向けた。
夏なのに――秋色の優しい空気がその周りにだけ漂っているのは、きっと気のせいだと――彼女は思った。



夕日が山の端に沈もうとする頃、二人は手足を土や泥で真っ黒にしながら、ようやく最後の土墳の前までやってきた。その一対の墓も一連の墳群とは少しはなれた、村の中心部に近いところにひっそりと祀られていた。

そのうちの一つは、自分の母親のものだと士度は言った――物心つく前に病で死んでしまったので、ほとんど覚えていない――そんなことをまるで独り言のように彼は付け足した。そして最後のひとつは――この村の長――俺の親父のものだ・・・・――残りの神酒をその墓に飲ませながら、懐思の眼差しで士度は語る。――もっとも俺の親父の前に、“長”であった人だから・・・・“親父”なんて、数えるくらいしか呼んだことがねぇけどな――彼の哀傷の声に誘われるように、マドカは士度に寄り添った。
きっと、素敵なお父様とお母様だったんでしょうね・・・――
どうだかな・・・――
士度さんを見ていれば、わかりますよ?きっと、ご両親に愛されて育ったんだなぁって・・・・――
彼女の言葉に、士度は意外そうに眉を上げた。
そうか?――
そうですよ?――
今もそうかもしれねぇけれど、ガキの頃はもっと捻くれてたぜ?――
あら、そうなんですか?それでも・・・・そう、思えるんです――
そう言いながら日が落ち始めた空を清清しく仰ぐ彼女は、どこか誇らしげだ。
そんな彼女の姿は、赤い夕焼けよりも眩しく士度の目に映った。
だとよ・・・――
そんな彼女の姿を目の端に納めながら、士度は二つの墓に向かって呟いた。
そして心密かに思う――
なぁ、俺にも闇の言葉を、暖かさを理解してくれる奴ができたんだ・・・長、俺は少しでもアンタが言うような戦士に近づけているか・・・?――
隣にいるマドカはいつしか、二つの墓標の前で祈るように目を瞑り、手を合わせていた。
あぁ、今、こんなにも穏やかな気持ちでこの墓に向かえるのは――
きっと
マドカこいつお陰だ――士度は真摯に祈る彼女の綺麗な横顔を見つめながら、自分の中を占める彼女の存在の大きさを、改めて痛感する。孤独を感じていた心に光が射し込んできたのも、唐突に終わってしまった鬼里人との一件を乗り越えられたのも、それに昨日だって・・・目の前にいる仇に牙を向けずに済んだのも・・・・全て、彼女が隣にいたからだ。そして今日も――温室育ちにも関わらず、慣れない土や泥に塗れながら、俺の傍で魔里人の為に共に祈ってくれている――
冷たい夏風に揺れる彼女の墨色の黒髪を追うように、士度はフラリとマドカの方へ近づくと、ポツリ・・・と肌に水滴が当たった。

雨・・・・?――

マドカが再び空を仰いだ瞬間、パラパラと細く暖かい雨が、二人の肌を濡らしていった。

狐の嫁入りだ・・・直ぐに止むさ・・・――

士度がマドカの背後から、その痩躯を唐突に抱いてきた。
彼の突然の行動に僅かに目を瞠りながらも、彼女は直ぐに肩の力を抜いて彼に身をもたせかけた。

そう、ですね・・・――

マドカは目を瞑った。
大好きな彼の匂いに交わるように、柔らかな雨の香りが、村を染め上げている冷たい土の薫灼と静かなる緑の芳艶をよりはっきりと浮かび上がらせた。

あぁ、この雨はきっと――泣けない彼の代わりに、空が泣いてくれているのだわ――


夏に咲き誇る異端の彼岸花の香りが、雨に煽られより一層強くなったような気がした。


夕焼けと、紅い華で彼の人の里は真っ赤に染まる――


二人は刹那の雨が止むまで、その墓標の前に立ち尽くしていた。


互いの身体の温もりが、冷たい夏の空気を忘れさせていた。



「少し冷たいだろうが・・・・我慢してくれ。」

「あら・・・冷たいですけれど・・・何だか気持ちよさそうですね!」

素足を戯れに泉に浸すと、マドカは満足そうに士度を見上げた。

泥だらけの身を清めるために、二人は村の裏にある森に入った。
その森の奥には小さな洞窟があり、その中では小さな泉が滾々と湧き出ていた。
月明かりに蒼く光る水は清浄。
士度は泉の中央は深いから行かないようにとマドカに忠告すると、

「じゃあ、俺はそこの岩端で見て・・・いや、後ろ向いて、いるからよ・・・何かあったら呼んでくれ。」

そう言いながら、マドカと一緒に水浴びをしようとするモーツァルトを「お前は俺と後で浴びればいい」と引っつかみ、緩い岩肌を登っていった。

マドカは「はい・・・!」と軽やかに返事をすると、着替えとタオルを手頃な高さにある岩肌に置き、土で汚れた着衣を脱いで裸になった。

そして涼々とした水に、その身を浸す――最初はその冷たさが肌を刺すようで、マドカは身を震わせたが、徐々に慣れてしまえば、天然プールの心地よさが、日頃の疲れを取り攫ってくれるかのようにマドカの身体に浸透してきた。

マドカはその優しい水に身を委ねるように肩まで浸かり、耳を澄ました。

聞こえるのは――洞窟の雫が一定の間隔で落ちる音――外から聞こえる木々のざわめき――動物や虫の小さな鳴き声――泉が湧き出る音――そして、モーツァルトと士度さんのヒソヒソ話。

<ネェ、シド、ナンデ、ウシロ、ムイテルノ?>

マドカト、オシャベリスレバ、イイノニ――モーツアルトの無邪気な声が洞窟の中を木霊する。

<人間にはいろいろ事情ってもんがあるんだよ・・・・!>

士度の言葉に、マドカは密かに目を細めた。
肌を重ねるようになっても(ときどきシャワーだって一緒に浴びるのに)――こういうところで、彼はとても律儀だ。

マドカはそんな彼の生真面目さを好ましく思いながら水の感触を存分に楽しみ、疲れを癒した。




どのくらいそうしていただろうか――やがて彼女はゆっくりと立ち上がり、今は暖かく感じる夜風に身を晒す。

「士度さん、もうそろそろ上がりますね・・・・!」

マドカの愛らしい声に、「おう」と答えながら無意識に首を回らすと――
「――ッ!」――彼の目に飛び込んできたのは、岩間から差し込む月明かりの中に佇む、彼女の白く、柔らかな姿態。
濡れた長い黒髪が白い肌にピッタリと張りつき、そのなだらかなラインを扇情的に輝かしている。
マドカは士度の視線にまるで気付かぬ様子で、夜風を楽しむかのようにその姿のまま、小さく身を反らせた。
その媚態に士度は慌てて目を逸らし―― 一人深い溜息を吐いた。

<ネェ、ボクラモハヤク、ミズアビ、シヨウヨ!>

士度の通常より激しい動悸を感知しないモーツァルトが、尻尾を振りながら催促してくる。

<そうした方が・・・いいみたいだな・・・>

僅かに擦れた声で士度は答える。


「着替え、すぐに終わりますから・・・!」


マドカの呑気な声が、やけに残酷に洞窟に響いた。

蝋燭の灯りが揺れる音が、耳に心地よい。

マドカは今朝、新宿を出る前に士度が彼女の為に調達してきてくれた寝袋の中で、小さな欠伸をした。
今は人が住むことがない廃屋の一間が、今宵の宿となった。


「ほら、今日は疲れただろ・・・固い床で寝にくいかもしれんが・・・早めに休んだほうがいい・・・」


そう言いながら彼女の髪をその長い指で梳いた士度自身は、身を起こしたまま眠る気配がない。

マドカは彼の手にそっと触れながら小さく頷くと、ゆっくりと目を瞑った。
士度は彼女の頭をゆっくりと撫で、「おやすみ」と一言告げた後、立ち上がり、彼女から少し離れたところで背を向け、その場に座り込んだ。
蝋燭の仄かな明かりの下で、木を削るナイフの音だけが静かに響いた。


マドカは――目を瞑りながらも、彼の存在に意識を集中させていた。

今日、彼の里に初めて来て、改めて思い知らされたこと――彼は、“冬木士度”という人間であるのと同時に、一人の“魔里人”であるということだ。
魔里人という一族の誇りと精神が、彼の血の深いところにまで根を張っていて――彼自身を形作っているという現実がそこにはあった。
彼のその誇り、高潔さ、そしてその一族に対する畏敬の念を、自分も大切にしたいと、マドカは思う。
しかし時折感じる不安――そう、今だって――それは、彼の意識も存在も、どこか自分の知らない処へ溶けていってしまうのではないかという焦燥感。
いつか彼が―― 一族の為に生き、一族の為に働くことを決心したとき、彼は自分の手が届かないところへ飛んでいってしまうのではないかという、心が千々に乱れんばかりの悲しい想像が、マドカの心の奥で身を擡げてきた。

彼の身も、心も、遠くに感じたくないのに――今だって、こんなに近くにいるのに、時折揺れるその背中の気配は、はっきりと伝わってくるのに――狂おしいくらいの不安が、この身の中に渦巻いている――


マドカは目を瞑り、身じろぎ一つしないでその未知なる不安と戦っていた。

すると不意に――カタン、カタン・・・とナイフと木片が床に置かれる音がした。

士度が立ち上がる気配がし、蝋燭が音を立てて揺れた。

そして彼は静かにマドカの前までくると、目を瞑ったままの彼女の耳元で小さく囁いた。


「どうした?眠れないのか?」


その声に誘われるように、マドカはばつが悪そうにオズオズと瞼を開けた。


「はい・・・ちょっと・・・」


そしてマドカは甘えるようにその身を寝袋ごと士度に近づけた。
彼は僅かに苦笑しながらも、大きな体躯を固い床の上に横たえ、彼女の細い身体を自分の胸元へと引き寄せる。


「こうしていれば、少しは眠れるか・・・?」


士度の胸元に顔を埋めたマドカが、ゆっくりと頷いた。






やがて聞こえてくる、彼女の静かな寝息。




士度は蝋燭の灯りに揺れる二人の影を見つめていた。




「なぁ、マドカ・・・俺、お前が傍にいる限り・・・道を見失わねぇで進んでいけるような気がするぜ・・・・?」




眠る彼女には聞こえないその声で、士度はポツリと呟いた。



だからさ、マドカ――



・・・・・・・・・――








夢と現の狭間で、マドカは計り知れない安堵感に包まれていた。

声が――聞こえたような気がする。


その言葉に――幸せに心が打ち震える夢を見た――?




翌朝、気がついたら彼は隣に居なかった――マドカは朝の空気に導かれるように、外へ飛び出す。

士度は――夜明けの光の中にいた。

マドカの瞳にはその光は映らなかったが、昨日はほの暗い冷たさの中にあった魔里人の里が、何故だか今日は霧が晴れたように煌々とした雰囲気を醸し出していた。

そして何より――

朝焼けの中に佇む彼の清清しい気配が、彼女の昨夜の不安をも何処かへ掻き消してしまった。


「士度さん!」


彼が微笑む気配がした――そう、彼の中ではまだ、何も終わっていないのかもしれない――けれど彼の中で新たな時が紡ぎだされる音を、マドカはその耳で確かに聴いた。
そしてその音は自分の中でも鳴り響く。

変わらないのは、目の前にいる――揺ぎ無き存在。


マドカが伸ばした手を士度はしっかりと掴むと、彼女を自分の元へと引き寄せた。


そして彼女の耳元で囁かれたのは、夢の中で聞こえた彼の声――





目の前で咲く彼女の優しい笑顔を、士度はどこか満ち足りた表情で見つめていた。


この笑顔さえあれば、自分はこれから対峙せざるを得ないどんな困難にも打ち勝つことができるだろう――そんな確信めいた想いが、士度に希望の活路を見出していた。


悲愴な想いだけを胸に足を踏み入れたこの故郷を、この朝日のような気持ちと共に去れる時が来るなんて、想像すら出来なかったことだ。



また来るぜ・・・今度も、二人でさ――


士度は昨日最後に詣でた墓を見やると、眩しそうに目を細めた。



マドカの声に顔を上げた士度の後姿を、朝日に淡く照る二つの墓標は、優しい光を湛えながら見送っている。




彼岸花の花弁を滑る朝露が、若い二人の気持ちを代弁するかのように浩然と煌いていた。




Fin.



キリリク@月窟2000ヒット踏襲者、鈴美様のリクエストから、「士度とマドカが一族のお墓参り」でした。
お盆の季節にリクをしてくださったのに、大変お待たせして申し訳ございません、鈴美様・・・!(涙)
そして過分に長く・・・あぁもう本当にごめんなさい;
でも士度とマドカは必ず通るであろう道、「魔里人の里のお墓参り」を書けて、魔里人好きとしては幸せでしたv
自分の中では、あの魔里人と鬼里人の戦いで二つの部族の問題がキチンと解決したとは到底思えないので、最初にちょこっと鬼里人の皆さんにも登場してもらいました。その辺りの後日談とかも、また機会があれば書いてみたいと思っています。

書き応えがあるリクエストを、どうもありがとうございました鈴美様!
またの挑戦をお待ち申し上げておりますv