「………ッ………」

普段寸分の狂いもなく執事服を纏っているこの身は――今は、ほどよく使い込まれた山岳ウェアに包まれ、背中にはシェラフやコンロや携 帯食や緊急用のテント等々を詰めたザック、靴にはアイゼン、手には念の為のピッケル、そして――
ヘッドライトの先を照らすのは闇夜と白い世界――吐く息さえも凍りそうな冬の富士の世界に響くのは、今は穏やかな風の音、
目的が同じ者達のアイゼンとピッケルが雪の上を進む音、ヤッケの下の自分の心臓の音、そして――脳裏で反芻されるのは、つい数時間前まで一緒にいた、あの人との束の間の――
二人だけの時間……。


ミツバチたちの休日


眼鏡のメイドを彼女の実家に送り届ける前に、執事の木佐は釣り目のメイドとおかっぱのメイドも自分の車に乗せて、新宿の駅まで送り届けた。
釣り目のメイドがおかっぱのメイドの大荷物と自分の荷物を上司の承諾を得る前にさっさと後部座席に放り込み(トランクはすでに登山用 具で一杯だった)、
おかっぱのメイドを急かしながら自らも後ろに乗り込んでくれたのは、眼鏡のメイドを自然助手席に座らせる為の――彼女からの寡黙なが らもありがたい配慮だったのだろう。

二人の部下を駅で降ろして「「「「良いお年を…!」」」」の挨拶を終えた頃には、ようやく日が傾きかけた頃合いだった。
同乗を恐縮する眼鏡のメイドに遠慮は無用と告げながら、彼女を隣に気を抜くと自分の目尻が下がりそうになるのを堪えるのに執事は必死 だった。

――今日の彼女はいつも通りの髪型で。しかしその身を包むのは、いつもの給仕用の制服ではなく、今日はミドル丈のブラウンのダウンジャケットに――荷物があるからだろうか、もしかしたら初めて目に するのかもしれない、タイトなブルージーンズ姿。
細すぎず、かといって張りすぎず――いつもは丈の長いメイド服に隠れているそんなスラリと形の良い脚線が、今日はそのカジュアルな服 装を楽しんでいるかのように溌剌と目の前にあるのがいささか目の毒……いや、密かなる保養だったりする。
道中の会話は他愛のないものだった――今日、出掛ける前に居候殿にお願いしたことの復習、ここ一週間で一番寒い今日の天気、他のメイド達の帰省準備の様子、冬の富士の醍醐味、彼女の実家に集まる家族の話・・・・・。
4WDが高速を走る音、風を切る音、そしてラジオから控えめに流れるジャズをBGMに、本当に他愛のない、日常の出来事のおさらい――それでも、そんな二人だけのささやかな時間が、執事の木佐にとっては何にも換えがたい至福の時だった。
彼女のやさしい眼差しが細まる瞬間、零れる控えめな笑み、心地の良い声音、いつもよりどこか弾んでいるように聴こえる彼女の言葉・・ ・・・。まっすぐに前を見据え、両手にハンドルを握りながらの中でそんな彼女の気配を垣間見る――だから良いのだろう。そうでなけれ ば自分は、平素とは裏腹に相好を崩しっぱなしになってしまうだろうから。

目的地なんぞに到着せずに、このままずっと、年が明けるまで夜明のドライブと洒落こみたい――そんなことを思ってしまうときに改めて気づかされる――自身の、想いに。


「―――そうなんです。ときどきお一人で居間にいらっしゃるとき、士度様は木佐さんがマガジンラックにいれてある『山と渓谷』の雑誌 を……」

そのとき不意に――何かに気がついたときに眼鏡のメイドの言葉が途切れ、彼女はダウンジャケットのポケットから携帯電話を取り出した。
控え目なベージュ色に輝く彼女の携帯は無音で静かに震え、着信を告げていた。ディスプレイに映った名前を見て、彼女の眉が困ったよう に下がった。

「どうぞ?大事な用事かもしれませんし……」

すぐそこにパーキングエリアもありますから、そこで一休みもしましょう――上司からのそんな気遣いの言葉に柚木はホッとしたように会釈をすると、運転席に気持ち背を向けて声を潜めながら電話に出た。

「もしもし、たっちゃん…?うん、今、車で移動中なの……え……?……そんな、急に………だって……いつも言っているでしょう?お見合いなんて………」

「―――!!!?」

後続車も列をなしている休憩所の入り口で、急ブレーキを踏まなかった自分をまずは褒めるべきだろうか――肝が冷える、心臓が口から飛び出そうになる、思考が停滞する――とは、まさにこのことだろう。

帰省ラッシュに混雑するパーキングエリアで指示棒を忙しなく振る係員に誘導されるままに、執事の四駆は空きスペースに滑り込んだが、それはまさに無意識の運転で――
夜明け前の冬山登山に挑むときよりも、身が凍る思いだった――「すみません、弟からで……すぐに戻ります……!」――そう云いながら携帯片手に彼女が車を降りたときも、自分がどんな返事をしたのかまるで覚えていない。

「………見合い………」

ただ、意味もなくそう呟いて、木佐はシートに深く身を預けた――ラジオから聴こえてくるジャズ、車の空調とエンジンの音――パーキングエリアの喧噪さえも、彼の耳には果てなく遠く聴こえ、ただ心が急にどうしようもなく虚ろになったような気がした。

もしかしたら、彼女は―――

「……………………」

彼は唇を噛み締めた――執事として大きな屋敷の存在とそこに居を構える人々の生活を支える仕事の際は、常に現状と先のことを考え、冷静に行動するプロであると自負できるのに――
自分のこととなると、こんなとき――どうすればいいのか、まるでわからない。

不意に――お屋敷に滞在しはじめてから久しい、居候殿の姿が木佐の脳裏をよぎった。
彼は寡黙で――年齢のわりには巷の他の若者達とは違い浮ついたところがなく落ち着いた雰囲気を醸し出しているが、かといって器用な性格であるわけではない。
どちらかというと、自分の感情を言葉にして伝えるのは得手ではない方で――しかし、彼の心は、自分を含め周りの者に何故か伝わってくるのだ――そこには無意識の誠実ささえ垣間見ることができる。
そして彼は――おそらくは永遠になるであろう愛を手にいれた。それは心が徐々に近づき、寄り添い――とても穏やかで、そして優しい、愛。
音楽の神に見染められたお屋敷のお嬢様と、獣達と共におそらくは過酷な運命の中で生きてきた彼が互いに惹かれあい、交りあった運命の絃はどこから紡ぎだされたのか――それを想像するのは、とても難しい。
一方、同じお屋敷の同じ職場でもう五年近く共に働き毎日顔を合わせ言葉を交わし、対抗心も反発心も無く、むしろ良好な上司と部下との間柄、住まいも同じ従業員棟だというのに――

伝わらない――伝えられない――想い。

お嬢様と士度様――あのお二人の心は、いったいどのようにしてひとつになったのだろう――

ジャズのリズムが木佐の心を慰めるようにハミングした。
手袋をしているはずなのに、所在なさげに膝の上にのせてある両手がどうしようもなく冷えているのが彼の心をまた少し、悲しくさせた。





「着きましたよ~!!」

「……やっと………着いた……の?」


はい!ここから車で30分のところです!!――そんなおかっぱメイドの言葉に、釣り目のメイドはホッと息を吐いた――東京のそれよりも 真っ白な息が彼女の前をフワリと舞った。
上司である執事に新宿駅まで送ってもらって、新幹線に飛び乗り2時間、さらにふたつの路線にそれぞれ1時間乗り、無人駅を降りて、一時 間に一本しかないバスを捕まえて、その最果てで降りて――これからまた車で1~2時間ばかりかかるのではと危惧していたので、30分とは ありがたい……。

「………白いわ」

目の前は白くないところを探すほうが難しいほど一面の銀世界。遠くに民家らしきものも見えるが――それも日が暮れた中に灯る明かりでようやくわかる程度だ。

「あ、除雪してあるところ以外は歩かないでくださいね……!!埋まって抜け出せなくなっちゃいますから……あ、お兄の車きた!!」

霞の声に遥が振り向くと、向こうからライトをつけたシルバーのピックアップトラックが少し慎重な運転でやってきた。
スポーツタイプの車なのに、後部に荷台がついている――霞の実家が農家故の選択か。

「……変わった車ね?」「えへへ♪お兄もちょっとこだわっているみたいですよ?ふぉおど?のエクスなんとかっていうスポーツトラックなんですって!でもこんな田舎だから浮きまくってて……!」

「すんません…!!遅くなりまして……」

おかっぱのメイドの台詞に重なったのは、トラックから降りてきたガタイの良い青年――

士度様より少し背が低くて、士度様には敵わないけれどおそらく肉体派的な体格で、士度様ほどではないけれど、どちらかというと眼つきが鋭い方で……あ、でも性格は士度様よりは……少し社交的かしら……?

――釣り目のメイドの遥は霞の兄と会釈を交わしながら密かにマン・ウォッチング。そこで比較の基準が自然とお屋敷のお嬢様の彼氏殿になってしまったところに、彼女は心密かに苦笑した――上司の執事がその対象にならなかったのは、霞の兄はどちらかというと野性的に見 えたからだろう。
雪国の寒さをまるで感じていないかのような明るい様子で荷物を兄に預ける霞と長兄の兄妹関係は、遥にはえらく良好に見えた。

「遥さん…!後ろに乗りましょ!」

霞は遥が手にしていたボストンバッグを幌が付いている荷台に乗せると、彼女の手を引っ張ってトラックの後部座席に導いた。

「雪しかなくて吃驚したんじゃないですか?」

「そうですね……一人で来たらきっと迷子になっちゃいますね――えっと……」

あ、ご挨拶が遅れまして、霞の兄の大地です――

運転席から身を後部座席に僅かに捩じらせ、爽やかな笑みを浮かべながらそう言ってきた青年は、やはり居候殿よりは饒舌のようだ。

「橘遥です。お世話になります――お忙しい時期にすみません……」

「いやいや、もとが大家族なんで一人や二人増えたところで……」

ちっとも変わりませんよ――

そう言いながら彼はトラックのアクセルを踏み込んだ。

「ホント、前にも言いましたが沢山いるんで吃驚しないでくださいね…?」

うちに着いたら紹介します!――久々の帰省が嬉しいのか、霞のテンションはお屋敷いるときよりさらに5割増しように感じる。

「晴美と夕香がいっとったぞ~“頼んでたポーチをお姉がちゃんと……――」

「あるある!ちゃんと買ってきてあるってば!!ほら、旭と太陽に頼まれてたペンケースだって!!」

肩にかけていた大きなバッグからラッピングされたプレゼントをいくつか取り出しながら霞はひとり賑やかに、大地は前を向きながらも、それに楽しそうに相槌を打っている。

(……兄弟か……いいなぁ……)

そんな霞の姿に、遥は一人密かに目を細めた――思い出されるのは、孤児院にいるときの記憶。年長の兄貴分が自分達年少組の面倒を見てくれていたけれど、何か粗相をしてしまえば彼も怒られてしまうので、気を使いながら行動することを覚えたのも、大分早い時期だったと 思う。
そんな彼らも、中学を卒業すると院から出てしまって――誰かに甘えることに躊躇いを覚えてしまっているうちに、自分が“姉貴分”になっちゃて……。

(みんな、どうしてるかな……)

霞と大地の弾むようなやりとりを遠くに聞きながら、遥は車窓を覗き込んだ――その下は田畑だろうか、目に映るのは白い平原――その中に時折光る灯。
細雪が風に煽られ、窓に薄らと張りついてくる――こんなささやかな雪にさえ、幼少時代は仲間たちと、院長やシスターと大騒ぎで……。

「遥さん…!!寝るとこ、私と一緒でいいですか?その方が夜中までお喋りできるし……!」

「え、えぇ……。あなたさえよければ……」

急に話を振られた遥は、それでも少し目を丸くしながら答えた。大地はその様子をバックミラーから見ていたようだ。

「……橘さん、少しお疲れでしょう――夕飯こさえ終わるまで、霞の部屋で休んで……」

「――!!いえ!お手伝いさせていただきます……!!夕飯時にじっとしているなんて……」

「落ち着かないですよねぇ?だって私達………」

「―――霞もすっかりメイドさんだなぁ……」


遥の即答と霞の溜息に大地は思わず苦笑した――家事をやらせれば皿を割る、フライパンを焦がす、家業を手伝わせれば鶏を逃がす、田植えで尻もちをつく、若い稲まで刈っちまう――
長姉のくせにときには妹や弟たちにまで庇われていたこの一番大きな妹も、都会に出て“少しずつ”成長している様子が、年に二度ばかりの帰省の様子でよくわかる。

「うちね、竈もあるんですよ、かまども!!」

――初めて来るお客様は、大地の妹のテンションを邪険にするでもなく、かといって一緒にはしゃぐでもなく、上手い具合に会話をしている――良い仕事仲間のようだと、おかっぱメイドの兄は密かに安堵の溜息をついた。

「……………」

我が家の明かりが見えてきた――まだ少し距離があるがクラクションを鳴らせば、やんちゃな双子が飛び出してくるだろう――

細雪はいつのまにか、牡丹雪に変わっていた――煙突から出る煙が、少し寒そうに風に揺れていた。







<Hey,まだ寝てろって……>

<………
基地ベースまであと、どのくらい……?>

まだ眠い目を擦れば、後部座席で膝を枕に貸してくれているアレクの武骨な指が優しく彼女の唇をなぞった――ハマーはまだ動いていた。
途中食事やら買い物やらをしていたお陰で、車窓からオレンジ色の夕日が射しこむ時間になってしまっている。

<――30分くらいだな。どうせ今夜は寝る時間なんてないんだ。今のうちに爆睡しとけよ――着いても抱いて運んでやるぜ?>

冗談でしょ……――

運転席から聞こえてきたアレクの兄のウィルの声に香楠は呆れたように手を払う仕草で反応すると、その金髪をもういちどアレクの膝の上に預けた。

<試合……何時から……?>

<22:00――勝利の美酒に酔いながらの新年といきたいな……なぁ、カナン?>

<そうね……>

金糸の髪を戯れに弄りながら声音静かに言うアレクに香楠は小さく欠伸をしながら答えると、再び目を瞑った――

<……メイド様はお疲れのようで。しかしなぁ……よく続いてるよな……あのカナンが“メイド”なんてよ……>

<――ま、俺達が軍人やってるくらいだからな……。しかし想像ができねぇよな……コイツが床磨いたり飯作ったり?>

ウィルとアレクは声を抑えながら可笑しそうに言葉を交わす――聞こえているはずの香楠は寝た振りを決め込んでいた――試合の後は、きっと“勝利の美酒”を味わって――身体の奥までHOTに燃え上がるんだわ……――

戦闘機の音が聞こえる――ベースが、近くなってきた。
ウィルが窓から誰かに声をかけている――あぁ、相手も基地の人間ね……。

<へぇ……“あの”ウィステリア少佐の娘さんが!?>

――まだ、パパのことを覚えている人達がいるんだ………お星様になっちゃってから、もうだいぶ経つけれど……。

<……きっと皆言うぜ、目元が似てるってさ……>

目を瞑ったまま動かない香楠をそのままに、後部座席に投げ出されていたグローブの状態を確かめながらアレクは独り言のように呟いた。

<…………>

香楠は目を開けたが、微動だにしなかった。

夕焼けに照らされているアレクのシャツの色だけを、彼女は見つめているようだった。







コンコン……

「――!?す、すみません!!今開けます……!!」

車の窓を小さくノックする音に我に返り――蓋付きの紙コップで両手が塞がっている眼鏡のメイドの会釈姿を目にした木佐は、慌てて助手席のドアを開けた。

「ごめんなさい、遅くなってしまって……お疲れだろうと思って珈琲買ってきました……ブラックでよろしかったですか?」

「あ、はい……ありがとうございます……あの………」


珈琲を受け取りながらも少し心配そうな表情の木佐に、絵麻は気づいたように目を瞬かせた。

「……あ……電話……そうなんですよ、お見合いなんてお恥ずかしいんですけれど……」

父が亡くなってから、毎年親戚中が熱心になっちゃって……今度はお医者様ですって……吃驚ですよね……――

絵麻は心底困った顔をしながら、飲むにはまだ熱すぎるだろうドリンクのカップを両手で包み、視線を落とした。
彼女の言葉に、木佐の心臓がツキリと痛んだ――もしかしたら、彼女はメイドでいることよりも……もっとずっと幸せな人生を手にしようとしているかもしれないのに――
それを心の底から望めない自分の狭量にも、舌を噛んでしまいたい思いがした。


「でも……私、辞めませんから………」

「柚木、さん………?」


自分はまだ何も言っていないのに――そんな自分が望む答えを彼女の方から口にしたことに、木佐は思わず目を瞠る。
彼女は視線を落としたまま、僅かに頬を赤らめた。

「私……今の仕事が好きなんです……。木佐さんも、香楠さんも遥さんも霞さんも――皆さんとても良い方ばかりですし……それに、お嬢様もとてもお優しくて……士度様も……。お嬢様は、士度様がいらしてからはどんどん素敵な女性になられて……私、そんなお嬢様にお仕 えできることをとても誇りに思っています――きっと、お二人は御一緒になられて……家族も、増えますよね?私……お嬢様のお幸せなお姿を、許される限りずっと見守って……お仕えしていきたいんです――あの大きなお屋敷をこの手で綺麗にして、そしてそこに温かい御家 族が生活して――それを身近に感じることが、私にとっての幸せなんです……――あのお屋敷や、お嬢様や士度様や、木佐さんや皆さんが――今の私にとって、離れがたい、とても大事なものなんです……だから……」

「柚木さん……」

だから、メイドの一人がお見合いをするからって、慌てて後任を探しちゃったりしないでくださいね…?私、辞めませんから……!!――

絵麻はその視線を一瞬木佐に向けながらそう言い切ると、照れ隠しなのか再び視線をカップに落とし――ゆっくりとドリンクに口をつけた。

「……はい、もちろんです……」


木佐は心の底からの安堵感を隠すように声音をわざと抑えながら――彼女の横顔を見つめ、その紡がれた言葉に感謝するように応えた。

手のなかにある、珈琲カップが今ほどありがたいことはない――

そうでなければ自分は――喜びのあまり彼女の手を取り、もしかしたら抱き締めてしまっていたかもしれないのだから。

初めて聞いた彼女の仕事に対する思いは、自分のそれと本当に良く似ていて――それは、泣きたくなるほど交叉するもので……。


「柚木さんがいてくださると――私も本当に心強いです……」


彼女への想いは秘めたまま――本心を――今度は少し、上司らしく言えただろうか――?

彼女からは嬉しそうな微笑みが、カップの中の甘い――チャイの仄かな匂いと共に返ってきた。

木佐はようやくシートに身を預け、珈琲を口にした。

手にはいつのまにか血行が戻っていた――痛いほどに鳴っていた心臓も、今は穏やかだ。

「――!?雪………」

絵麻の声に木佐が顔を上げると、フロントガラスの向こうに見えるのは風に舞う粉雪。

見ると彼女目を細めながら黄昏時の雪を見つめている――

「綺麗ですね……」

「えぇ……ほんとうに……」


どこかうっとりとした絵麻の言葉に返事をした木佐の視線はしかし、深々と降る雪ではなく、助手席の彼女に向けられていた――

そして彼は彼女に気付かれる前にそっと――その視線を粉雪に預けた。





「え~改めまして、兄の大地です。24です――」「妹の晴美です。高一です。」「妹その二の夕香です!中二です!」「旭でっす!小4で す!」「太陽ですっ!同じく小4!」「父の森一です、いやぁ霞が別嬪さん連れて来るって言った日にゃもう……」「ちょっと父ちゃん! !――母の霧子です、いつも娘がお世話になっております…!」「祖父の林蔵ですじゃ。霞はあちらでなんぞ御迷惑かけてませんかのぉ……」「まぁまぁお爺さんったら……祖母の朝子です、寒い中ようこそお越しくださいました。」

「……橘、遥です――すみません、大晦日なのに急にお邪魔することになってしm……」

「いやいやいやいやこんだけ数がいるんで今更一人や二人増えたところで――」「まぁまぁまぁまぁそんな遠慮は御不要ですよ!いつまでも玄関にお立ちになってないではようこちらにお上がりになって……!」「あ、お荷物お持ちします」「コートはこっちへどうぞ!」「俺 、お茶いれます!」「おねーさん、番茶と緑茶どっちがいいっすか?」「この酒もうちの米を使こうとりましてな……」「おかずはできとりますよって、あとはご飯が炊きあがれば――蝗の佃煮なんぞはお試しになりますやろか?」「……すんません、騒がしくて……」「あ、 遥さん!このお煎餅もうちの米で作ったやつですよ、これがまた美味しいんだわ~!」

「あ……ありがとうございます……」

外はすでに真っ暗、雪が静かに降り続けているというのに――霞の家の中は屋内を照らす電灯よりも数倍も明るく、夏の野に一杯に咲く向日葵のように賑やかで――人が多いのは孤児院でもそうだったけれど、この雰囲気は遥にとってはまるで別世界だった――

「しっかし大晦日にお嬢さんが実家に帰らなんだら、御家族の方はさぞかし寂しい思いをなさるんでしょうなぁ……」

一升瓶から手酌で陽気に酒を飲んでいる霞の父の何気ない一言に霞は固まり、一方遥は旭からお茶を受け取りながら気にするそぶりをまったく見せずに、答えた。

「あ、私、孤児院出身なので一人身ですのでその辺は問題ないんです」


「「「「「「「「「「……………………」」」」」」」」」」


遥が野萩家を訪問してから初めての静寂が居間を支配し――ズッ……と遥がお茶を啜る音だけがその場に響いた……。

「~~馬ッッ鹿霞!!そげんことははよ言っとかんかい!!」「~~!!ご、ゴメンなさい!!私伝えるのすっかり忘れてて……!!」「 まぁまぁまぁ何も考えもせんと失礼致しました……!!」「“こじいん”って?」「親御さんがおらん子たちが一緒に暮らす学校みたいな ところ……」「え、じゃあ“ひとりみ”って?」「……家族おらんと………」「若いのに苦労されておりますのじゃなぁ……」「もう心配いりませんよって、あんたさんさえよければ、毎年うちに来んさいな……!!」「す、すんません、騒がしくて……」

「い、いえ……!!こちらこそ申し訳ありません……」

騒がしい周りの中で、大地と遥は互い星座で頭を下げあった――すると台所の方から甲高い電子音と、玄関の方からは控えめなチャイムの 音が――「あら、ご飯が炊けたみたい!」「お、誰か来たかんか?」「――!!きっと売り子の人だよ!お姉来て来て!!」「え、何々? 寄木のアクセ?燻製とか?」「……私も………」「ありゃ、晴美まで行くのかい、旭、太陽――裏から2キロの米袋持ってきてくれんかの?」「行ってくる――でもなんで?」「売り子さんにお歳暮ってさ」「霞!酒の肴に燻製買っといてくれ!」「遥さん!見て見てコレキレ ーですよ!」「ほんにもー賑やかで……すんません……」

家族の騒々しさに平謝りの大地に遥は自然笑みを漏らしながらもう一度会釈すると、霞の声のする方へと足を向けた――すると玄関先でアイヌのような先住民の民族衣装を着た年頃十六・七の少女と、その隣には十四・五歳位の少年が丁度荷物が一杯積んである
背負子しょいこを降ろして品物を広げたところだった。玄関先に広げた敷布の上に所狭しと並ぶ美味しそうな肉や魚の燻製はともかく、野萩三姉妹は 寄木細工で出来た腕輪やブローチや髪留めを目を輝かせながら見つめている――

「……この子たちは?」

「あぁ、山二つくらい先に住んでいる、先住民の子たちです――なんて部族だったかなぁ……ともかく数年前までは別の先住民と良くわからんのですが諍いがあって山から下りれんかったらしいんですが、それももう落ち着いたってことで――たまぁにですが、最近、野菜や花 の種や、燻製や寄木や民具をここらに売りに下りてくるんです。値段も手頃だし、少ないが品が良くて珍しいって、皆喜んで買うとるみたいです――」

少し遅れやってきた大地に遥が小声で問うと、そんな答えが返ってきた――

「……………」――ハンカチーフだろうか――どこかで見たことがあるような不可思議な文様が綺麗に染め抜いてある少し大判の布を売り物の中から遥が手にとると、

「あ、それ……士度様のバンダナに似てません?」

こーゆーの好きそうですから、お土産に買っていきましょうか?――霞が遥の手元を覗き込みそんなことを言うので、合点がいった。どこかで見たと思ったのは――お屋敷の居候殿がよく巻いている、バンダナの柄と良く似ているからだ。
一方、売り子の少年と少女は少し目を丸くしたようだった。

「お兄お兄!私、この髪留め欲しい!」「――あ~分かった分かった……晴美は何か気に入ったのあるんか?」「……このペンダント、綺麗……」「お嬢様には、このブローチどうでしょう?あ、私はこの仔犬の彫り物にしようかなぁ!」「素敵なお土産だわ。彫り物はそっちの猫も可愛いんじゃない?」「燻製!忘れんと買うとかんと、爺ちゃんと父ちゃんがまた嘆くけん!」

米袋を一緒に運ぶ旭と太陽とを従えながら、霞の母も売り物が並ぶ敷布を覗き込んでくる――そして小振りの米袋を息子達から軽々と受け取ると、晴美にペンダントを試着させている少年と少女に差し出した。

「いつも良いもんをありがとね!ここの燻製切らすと晩酌が進まんと、うちの人はゆうとりますわ。菜種油も美味しかったき、また持ってきてな!これ、少ないけんどお歳暮やけん、納めてくださいな。うちで作った米やから、味は御墨付きやで!」

「ありがとうございます」「嬉しいです……菜種の方も、次回必ず……」

売り子の二人は控えめながらも丁寧にお礼を言うと、少年の方がその米袋を苦も無く受け取り、背負子に器用にくくりつけ始めた。
大地は妹達にせかされるままに、財布を軽くするはめになった。

「じゃあ、この髪留めとペンダントと……あ?仔犬?――そう、それと……あぁはいはい、燻製……魚の奴も肉の奴も二束ずつ……」

女達の意識が、品物をより分けていた大地の手元から自分達のお目当てに向いた瞬間、大地は声を潜めながら「あとこの猫も……」――そうつけたし、遥が一瞬手にしていた小さな木彫り猫の飾りも売り子少女の方に差し出した。少女は黒髪を愛らしく揺らしながら仄かに微笑した。

「じゃあ、私は……うん、霞、清算は後でいいわよ……お嬢様に……このブローチと、私は敷き布と……やっぱり燻製も美味しそうね…じゃあお屋敷の皆で食べる用に両方一束ずつ……あとは士度様にはこのバンダナ……」

「その染め布はお付けします。お土産にどうぞ」

遥の相手をしていた少年は、彼女がバンダナを手に取ると迷わずそう告げてきた。
遥が小首を傾げている間に少年は素早く計算し、バンダナの代金を除外した金額を遥に伝えた。

「え……でも……」

「――いいんです。私達の方から、使って頂きたいですから………」

代金を受け取り、品物を片付けながら少女は頬を赤らめた――
霞の母も肴の燻製をひとつオマケにつけてもらったせいか、売り子の二人を存分に労った後、ホクホク顔で食事の仕度へと戻っていた。

少年と少女は、荷物を手早く背負子にまとめ、「それでは皆さん、良いお年を……」そう言うと野萩家の玄関を開ける――牡丹雪が漆黒の空と白い大地に舞っていた。

「あぁ……結構降ってるなぁ。荷物も多いし、車で送ろうか?」

大地が外の様子を見ながら気の毒そうに告げたが、少女は黙って頭を振った。

「今から歩けば、この街の最終のバスには間に合います。慣れているので大丈夫です。お心遣いありがとうございます」

少年は凛々しくそう応えると、二人はもう一度会釈をしながらパタン……と静かに扉を閉めて去って行った。


「……最終のバスってぇのも、確か彼らんところから山一つ手前までだからなぁ……」

バス停だってここから五キロはあるのになぁ・・・・――頭を掻きながら驚き半分、呆れ半分で呟いた大地の言葉に、霞と遥は目を瞠る。

「まぁでも……オマケしてくれてよかったですね…!!」

「そう……ね……」

遥は手元の染め出しのバンダナに視線を落とした。更紗にどこか似て異なるおそらく手製のそれは、オマケにしてはあまりにも良い品だった。

(まさか……ね……?)

遥の脳裏にふと浮かんだのは――彼らとどこか雰囲気が似ている、お屋敷の居候殿の姿。

「ご飯できたわよーー!!」

霞の母の元気な声が玄関にまで響き――野萩家の面々は遥の手を引きながら賑やかに――声のする方へと身体を向ける。

「すんません、騒々しくて……」

後ろから手を合わし申し訳なさそうにしている大柄の霞の兄に、遥は可笑しそうに眼を細めた。






<俺らの女神に勝利の祝福を……>

幕一枚で隔たれたリング裏――アレクのキスが香楠を唇を掠め、ウィルは彼女の両手を包んでいるグローブに口づけを落とした。

<勝ったら……今夜はお祝いしてくれる?>

<もちろんさ……今回の相手は海軍のセイレーンって渾名の魔女だけどな、お前の腕と脚が鈍っていなきゃ、2RでKOできるぜ?>

派手なショートパンツにスポーティーなカーキのタンクトップを身につけている香楠はアレクの台詞に目を細めると、ボクシンググローブの具合を確かめるように互いを打ちつけると、その端正な貌を引き締めた。

<勝つわ。私を誰だと思ってるの?>

<俺らのカナンだよ>

<Good Luck!>

香楠はグローブをアレクとウィルが差し出してきた拳に合わせると、基地の即席リングアナが大袈裟に吼える口上と派手な音楽の只中に飛び出して行った――久し振りの試合、久し振りに――自分の本性を解き放つ、瞬間。

<WAJBY女子キックボクシングスーパーフライ級チャンピオン!!“あの”伝説のウィステリア少佐の愛娘!!“帰ってきた”香楠・ウィステリア!!>

<気合、入ってるな?> <ま、久し振りだし、1Rは様子見だな……>

セコンドとしてリングサイドについたアレクとウィルは伝わる香楠の気迫に口笛を吹いた――しかしそれは大晦日の在日米軍基地の一大イベントの熱気と歓声に掻き消され音にはならなかった。

試合の後の夜景も薔薇の花束も、食事も、ワインも、上等なベッドも――準備はすべて整っている。
遅くとも30分後には――今年一番の彼女の笑顔が見れることだろう。

やがて鳴るゴングを待ちわびるかのように、香楠は真昼のように輝く照明とむさ苦しい歓声が飛ぶ基地の簡易闘技場をグルリと見わたした。
奥の方で賭けのオッズが黒板に大きく書かれている――自分のことを知らない兵士もいるからだろう――3:1で対戦相手に多く賭けられていた。アレクとウィルは今晩一儲けできそうだ。

闘争心剥き出しの、気の強そうなブルネットのセイレーンが自分を睨みつけているが、香楠はそれに感知しなかった。

1Rで撃ち合いを楽しみ、2Rで仕留めて――後は…………。

今日の事が上司である執事に知れたら即行クビが飛ぶかもしれない――あぁだけど……

(案外、士度様辺りが庇ってくれたり、ね……?)

そんなことをチラリと考えながら、香楠はゴングと共に飛び出して行った――まずは挨拶代りの一発、クリーンヒット。

兵士達の悲鳴が聞こえる――あんた達のポケットマネーは全部、私の信者の懐の中に入るのよ!!









「お、
ひさぎが来たぞ……!!」

元日、夜明前、富士山頂―― 一足先に出発していた仲間達は皆で手を叩いて笑顔で木佐を迎えた。

「ひーさーぎ!!久し振りの元日登山の割には、いつもよりペースが速かったな?」


初日に間に合わないかと思って俺らはひやひやしてたのになぁ!!――

大学の登山部仲間達が、ようやく荷物を降ろした木佐を労いながら彼の肩に手をかけてきたり、沸かしたばかりの珈琲を手渡してきたりした。


「夢中……だったからかな………」


今日の彼女とのひとときをひたすら反芻しながら一歩一歩前に進み――気づいたら頂上はすぐ目の前にあった。こんなに苦を感じずに登れた冬山は初めてだった――そう、思い出していたのは、今日の彼女、いつもの彼女、明るい仕事仲間達、お嬢様と居候殿――そして、未来の、ささやかな夢。

その夢は本当にささやかで――今はまだ幻に近いけれど――いつか本当の勇気を知れば、希望があれば――叶うかもしれない、優しい夢。


「――ほら、楸、いいタイミングだ」


初日だぞ――


「――――ッ………」


友の言葉に雲海の方を見れば、その最果てが地球の丸さに沿うように神々しく輝き夜が白み――

夜と夜明の境が視界に広がる――そして夕焼けよりも濃厚な橙色が夜の色をグラデーションのように徐々に塗り替え、
燃える太陽が全てを支配するかのようにゆっくりと昇る――そして旭の輝きと共に空色が弾け、雲海の上に青い朝が生まれる――

生まれたての、何よりも白く青く――日本で一番、宇宙に近い朝が。


「あぁ………」


この感動を、共に分かち合いたい人がいる――

いつか、自分の隣でこの朝を共に迎えて欲しい大切な人が自分にはいるという――

これは、幸せだ。

今は夢でしかないがこれは……。


「―――!?………楸?どうしたんだ………?」


目に微かに涙を浮かべている木佐を心配して、隣の仲間が声をかけてきた。


「いや………」


木佐は手袋を外すと涙を拭いながらも初日を見つめ続けた。


「――幸せだな……ってさ………」


「………そうか―――」


向こうで仲間が記念写真を撮ろうとはしゃいでいる――木佐は促されて隣の友人と共に呼ぶ方へと駆けて行った。

頂上のあちこちで新年を祝う歓声が上がり、それはいつまでもいつまでも止むことが無かった。







「皆さん、どうしているでしょうね……?」


「きっと楽しくやってるさ………雪に降られ過ぎてなきゃいいがな………」


除夜の鐘を聴きながら、ティーテーブルの上で、蝋燭を灯しながらの年越し蕎麦――
蕎麦だけじゃさみしかろうとマドカが作ったのは、洋風のツマミだ。

執事やメイドがいてくれりゃ、もうちっとはマシな準備もできただろうに――
それでも大いに満足そうなマドカの様子を見つめながら、士度は密かに苦笑した。

彼女曰く――和洋折衷の大晦日もまたお洒落で良いものらしい。


庭の動物達はとうに夢の中、夜更かしフクロウだけがテーブルに鎮座し、
小さなお皿に用意された餌を黙々と啄んでいた。


「ね……お土産話、楽しみですね……?」


「そうだな………」


はにかむ彼女の笑顔は、目の前で燈る明かりよりも柔らかく。

そして最後の鐘の音とともに――ゆっくりと年が明ける――


二人はそれに気付かぬまま、二人きりの大晦日の夜を心地よく分かち合っていた。

フクロウの大きな瞳は、蝋燭の灯りと恋人達の姿が温かく映っていた――


~Fin~


久し振りのリハビリ更新はお屋敷の外のメイドさん執事さんでした☆士マドが少なくて申し訳なく;;
霞のお兄さんとか香楠の二人のBFとかいろいろ他にも書きたかった割愛シーンはリクエスト次第で短く拍手SSで書こうかと・・・・。
最近メイド萌えが再び・・・ビクトリアンガイドとかは秀逸ですなv

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