初夏の風と太陽が清々しく緑を照らすある日の午後――
HONKY TONKのベルを鳴らしたマドカが一人だったことに馴染みの連中は別段不思議に思わなかったが(音楽院のしごとを終えた後の彼女がその彼氏と
訊けばモーツァルトは夏風邪をこじらせてしまって主治医に命じられるまま渋々と自宅療養中。今日はこれから士度と一緒に近所の公園へ向かうと言う――
その公園に、新しいオルゴール時計が設置されるそうなんです――毎日、定時に違う曲目のオルゴールを鳴らすそうなんですけれど――今日は初日ですから、三時から特別に全ての曲目を通して鳴らしてくださるということを聞いたので、士度さんと待ち合わせて・・・・・・
“彼”の話をするときの彼女の言霊は、どこか幸せそうな音色となって聴く者に笑顔を与える――そうなんだ・・・今日はお散歩にも良い日和だし、丁度良いね・・・はい、どうぞ……――波児は珈琲カップの取っ手をマドカの指先にコツンと当てた――彼女はお礼を述べながら、その熱を測るようにカップの胴を白い指先でそっと巡り――まだ少し熱いと感じたのだろうか、彼女はカップから手を離し、そのまま御冷にそっと口をつけた。
オルゴールかぁ…いいなぁ…!!私も一緒に行っても…――君達は明日の分の豆挽きとランチの下拵えが終わってからね・・・・・・
レナの台詞に間髪入れずに重なった波児の言葉――カウンターの端の席に座っていた蛮は煙草を銜える口の奥で苦笑した――この喫茶店のマスターは、自分のアルバイトに出歯亀根性は植えつけたくないらしい。同じことを思ったのか、ヘヴンの口元も控えめに――しかしどこか可笑しげに歪んでいる。
それから暫く――ヘヴンと蛮が珍しくまともに何やら仕事の会話をしている最中、夏実とレナと銀次はマドカを巻き込み黄色い声を出しながら、世間話に興じていた――
明日のランチから出すプチトマトは私がベランダで育てたもので――最近、蛮ちゃんの煙草の量が増えたのが心配で――新宿でエステの勧誘に騙されるところだった――最近お庭のワンちゃんが仔犬を産んだので士度さんが・・・・・・――
そのとき――控えめに鳴っていた有線から漏れた、DJの軽快な声。
――さて、今日のラッキーさんは誰かな!?今の気分を色で表してみよう!!今週の30位から20位までのカウントダウンの後に今日のラッキーカラーを発表!!
「あっ・・・!!私は今日は赤!!」
毎日この占いに便乗しているのだろうか――レナが真っ先に飛びつくような声を出した。
「私は・・・青かな?良いお天気だし!」
レナの声に重ねるように夏実も早口な音を出して占いの結果を待ちわびるような表情で頭上から聞こえるビートにリズムをとっている。
「あ…じゃ、じゃあオレは…緑、緑!!今日のジャケットの色だし……!!」
バタバタと慌てながら色を口にした銀次に――もう、それっていつも着てるものじゃない!!――とレナと夏実が銀次の髪をワシワシと掻き回しながら高い声を出しながら突込みをいれている――そのとき……
「私は今日は……白、かしら?」
マドカが元気な三人組に微笑みながらゆったりと声を出した――そんな彼女に――白だといいねぇ!――今日のブラウスと同じ色だね…!!――銀次とレナは楽しそうに相槌を打ったが、夏実と――若人組の会話を何気なく耳にしていた年長組は不思議そうに顔を上げた。
「嬢ちゃん……色……」
蛮の怪訝そうな声に、マドカが静かな微笑を向けたとき、頭上で再びDJの声がけたたましく響いた。
――お待たせ〜!!今日のラッキーカラーは……Welcome暑い夏!!山に海に高い空にコイツがあればHOTな夏をウキウキ気分で満喫できる夏雲の“白”!!今日白い気分の彼氏彼女はお外に出て初夏を満喫してみよう!!このブースの外も朝からP-KAN、何で俺はモグラのように・……
DJの自虐ネタを他所に、――マドカちゃん、当ったり〜〜!!――今日のデート、大成功の予感だね!!――銀次とレナは再び、DJの声をどこか嬉しそうに聴いていたマドカの目の前をチョロチョロとはしゃぎ回っている。一方、不思議そうに首を傾げながら何かを言いあぐねている夏実の様子を汲むように――ヘヴンが感心したよな声を出した。
「マドカちゃん、色のお勉強したことがあるんだ?」
盲目のマドカが色占いに参加するとは、思っても見なかったことだ。
「はい、家庭教師の先生が――この世は色に溢れている――と仰って……私自身は“色”の本当の姿を見ることはできませんが、“色”の概念やそれぞれの色がどのような性質をもっているかは知っておいた方がよいと……」
だから、世界を彩る色の数々が―― 人の視覚や感情にどのような影響を与えるかということを教えて頂きました――例えば、今日感じた白は・・・“心を明るく素直にして、体を軽くする色”、赤は“緊張を高めたり、身体に力強いエネルギーを満たす色”、そして青は…“人の不安を和らげ、心と身体を鎮め、知的な活動をサポートしてくれる色”・・・という風にです。お会いする人を色の持つ意味でイメージをするのも、色彩という感覚を学ぶ良いトレーニングだと先生は仰っていました――
マドカは珈琲のカップを柔らかくなぞりながら穏やかな表情で言葉を紡いだ――へぇ……――半分しか分からなかった銀次の、それでも感心したような溜息のあと、夏実が御冷を足しながらマドカに控えめに質問をしてきた。
「じゃあ……ここにいる人たちにも、マドカちゃんは色のイメージを重ねていたりする?」
津々とした興味を隠しきれていない彼女の声に、マドカは優しく微笑みながら――はい――と明るい声を出す。
「そうですね……例えば夏実さんは“黄色”――爽やかなレモンを感じさせるような……レナさんは“オレンジ色”――元気ではじけそうな暖かい色だと……銀次さんも“黄色”かしら?でも、どちらかというと、私が子どもの頃に習ったお日様の色のイメージがあります――」
じゃあ、私達は…!?――刹那途切れたマドカの言葉に、ヘヴンが手を上げながら楽しそうに続きを促す――彼女の言葉が続いた。
「ヘヴンさんは……紅色、かしら?大人びていてどこか妖艶な色だと聞いています。でも私はどこか優しい紅色に感じられて――ちょっと憧れちゃいます・・・マスターは深い青――皆を優しく見守ってくれているような、きっと海のような人……」
ねぇねぇ、蛮ちゃんはどんな色!?――銀次の張り切り声に蛮が余計なことを聞くな!!――と彼をカウンターに沈め、マドカは少し困った顔をした。
「蛮さんは、紫……どこかミステリアスで……ちょっとイジワルな色かしら?」
マドカの言葉にその場がドッと華やいだ――ただ一人、苦虫を噛み潰したような表情の蛮を除いては。
だっていつも士度さんのことをいじめてばかりいるんですもの……――いつもはそのことに対して苦言を呈さないマドカの、頬を僅かに赤らめながらのささやかな反抗に、――可愛いわぁ……!!――とお腹を抱えながら笑うヘヴンの高い笑い声が蛮の機嫌をさらに損ねる。
「嬢ちゃん……やっぱ最近猿マワシに少し似……」
「じゃあじゃあ士度!!士度は何色!?」
笑いで揺れながらの銀次の声に、マドカの頬がさらに紅潮した――そして言いあぐねるように視線を僅かに落としたのに気づいたのは、波児のサングラスの奥の瞳だけ。
そのとき――喫茶店のベルが再び鳴り――彼女の待ち人がようやく目の前に現れた。
予定の時間より少し遅れて待ち合わせ場所にやってきた士度は、急ぐからと自分は席にもつかずにマドカを連れ出した。
彼女も彼の行動に救われたように席を立ち――その場にいる人に丁寧にサヨナラを告げると、彼の右腕にそっと手を添え――二人は早々に喫茶店を後にした――時計を見る限り、時間にはかなりの余裕がありそうなのだが――会うなり息がピッタリの彼と彼女の行動に、大人組はもはや苦笑するしかない。
「……オルゴールの他に、何か予定があったのかな?」
ねぇ?――蛮に同意を求めた銀次の台詞に、――さあなぁ……?――と返される可笑しそうな声。
マスタァ……やっぱり私達も公園……――まだ時間があるから明日の準備が終わってからね……?――
「……しかしまぁ……ずいぶんと美味しいタイミングで入って来たわね、
スケジュール帳を捲りながら呟くヘヴンに、蛮はフンッ……と鼻を鳴らした。
「猿のくせにチキンなんだよ……」
そしてその紫煙の瞳は黒眼鏡の奥から喫茶店の奥へと向けられる――ちょっと躊躇っていただけじゃないか…――またからかうなよ?――波児の諌めるような言葉に、蛮はしらねーよ…――と悪魔的な笑いを返した。
「猿でチキン…?どーゆーこと??」
ねぇ蛮ちゃん…!!――顔にハテナマークを浮かべる銀次を、不適に微笑む蛮は軽くあしらうばかり。
本日の午後の天気は――日没近くから所によりにわか雨が……
「あれぇ…?マドカちゃんと士度さん…大丈夫かなぁ?」
こんなに晴れてるのに――頭上から流れてきた天気予報を聞いて、夏実が心配そうな声をだせば――でも、マドカちゃんのバッグに折りたたみの日傘入ってたような……――レナがお皿を拭きながら気がついたようにポツリと呟いた。
波児がチラリと垣間見た窓の外は、初夏の青空と太陽がまだ晃々と輝いていた。
「……疲れて、ねぇか?」
「いいえ?でも少し暑いですね……」
でも、これからもっともっと暑くなるんですよね……――そう少しはにかみながらマドカは隣を歩く士度を見上げた。
そうだな……――深く、静かな声が降りてくる――公園に入ったのだろう、家族連れの賑やかな声や――やはりオルゴールの序幕を見に来たのだろうか、いつもより少し多く聞こえる、明るい声の数々。
少し休むか……――喧騒の中でもマドカにははっきりと聞こえるそんな士度の言葉に、彼女は安堵の表情を彼に向ける。正直、少し多くなった人の流れと、望んだとはいえ炎天下に近い中のお散歩に、少々一息入れたいと思っていたところだった。
噴水の水の涼やかな空気と音が聞こえてきた――目の前のベンチが空いたらしく、士度はゆっくりと彼女を木製のそこへと導いた。
そして代わりに自分の肩に掛けていた彼女のバイオリンケースを、彼女のすぐ隣に置いてやる。やはり少し疲れていたのだろう、白杖をベンチに立てかけながらマドカがホッと溜息を吐く姿に士度は優しく目を眇めた。
「すぐそこに店が出ている…何か飲むか?」
立ち上がりながらの士度の言葉に――アイスティーがあれば御願いします――とマドカは噴水から流れる風に目を細めながら答えた。しかし――行ってくる――そう言いながら踵を返そうとした士度にマドカは気づいたように小さく声を掛ける――
「どうした・・・?」
再び自分の目線まで降りてきてくれた彼の気配を少し擽ったく感じながら―マドカは遠慮がちに問うてみる――すぐそこって・・・どのくらいですか?
あぁ・・・――刹那、士度が目を丸くする気配がした。一方、自分の問い掛けが甘えているように感じたのか、マドカの頬は仄かに桃色に染まっている。
「噴水の右斜め向かいで・・・・ここから直線で30メートルもない。お前のこともよく見える距離だ。」
心配するな――そう言うや否や、ヒュッと短く鳴らされたのは彼の獣笛――すると、近くにいた鳩達が数羽、マドカが座っているベンチにパタパタと飛んできてクルクルと喉を鳴らしながら挨拶をしてきた――どこか不安そうだったマドカの貌に光が差す――
何かあったら、すぐ呼べ――そう言ったのはマドカにか鳩にか――士度は彼女の柔らかな手を一度握ると、再び立ち上がり、人が列を成すスタンドの方へと駆けていく。
マドカはゆっくりと目を瞑ると、彼の足音が遠ざかっていく軌跡に――公園の喧騒の中で溶けて消えてしまわないように耳を済ませた。
列の最後尾に着いたのだろうか、彼が立ち止まる気配――その数メートル先では、ジューススタンドの売り子が注文内容を復唱する声が聞こえる。
黙って、ただ黙って――こうやってドリンクを買いに彼がスタンド前に並んでいる姿は、今までの彼を知る人達からしてみればきっと新鮮に映ることだろう――そんな彼の変化にマドカは少し申し訳なく思う反面、どこか心が弾んでいる自分の想いを隠せないでいた。
少しずつ、少しずつ――己の大切なスタンスを崩すことなく、それでも自然に、一歩一歩――
洋風の屋敷の中で、いつの間にか窮屈な顔をしなくなった彼。
お茶の時間に、怪訝そうな顔をせず自然に付き合うようになってくれた彼。
そして、マドカと隣り合って――こうやって散歩に出ることに、硬く照れた素振りを見せなくなった彼。
そんなちょっとした
(ねぇ・・・ほら、見て?)
――カッコイイヨ?
不意に――マドカの前を通り過ぎた若い女性の声がスタンドの方へと流れた気がした。
その声に相槌を打つ同い年くらいの二人の女性の声には何処か感嘆が含まれていて。
耳に急に飛び込んできた近い距離の会話に、マドカは刹那、目を白黒させる。
(今時に珍しくワイルド・・・・一人、かな?)
(カノジョいるかもよ・・・?)
(でも・・・・意外と男友達と来ていたりして・・・・)
(・・・・!!そしたら、かなりラッキーじゃない?)
そんないかにもナンパ目的の会話をしながら、はしゃぎながら、三人娘達の駆けていく先は――
(え・・・・?・・・・・――!?)
何となく嫌な予感がして彼女達の気配を追ってみれば、かしまし娘達が辿りついた先は――スタンドの列に並ぶ彼の――真後ろ。
そんな思ってもみなかった状況にやきもきするマドカとは裏腹に――士度はすぐ後ろに並んできた女達に刹那視線を流しただけで――その後は全く気にする気配は無い。
それでも、マドカの耳に聴こえるのは――どうやって“今日のターゲット”に声を掛けるかを押し付けあう今どきの女の子のヒソヒソ話。
するとそこへタイミング良く――マドカにとってはすこぶる悪く――士度と馴染みのカラスが彼の肩に舞い降りてきて――マドカがベンチで一人悶々とするなか、女の子達はそのカラスを都合の良い当て馬にして、士度に黄色い声を掛け始めた――カラス、凄いですね!――他にも何か飼っているんですか!?――今日はやっぱりオルゴールを・・・――
見知らぬ若人に急に、一方的に話しかけられた士度は――順番が近づいた列から離れるわけにもいかず――精一杯短い受け答えで困惑を隠せぬ応対をしていた――
(もう・・・・・アイスティーはいいですから早く戻っ・・・・――!?)
離れた距離にいる彼に神経を集中させすぎていたのだろうか――マドカはいつの間にか近づいてきていた三人の若い男が彼女の目の前に立ったことに、ジャラリと鳴る鎖の音に聴覚が邪魔をされるまで――まるで気づかないでいた。
「・・・・・?あの・・・・どちらさまでしょうか・・・・?」
「音羽・・・・マドカ、さん?」
サインをお願いしたいんだけど?――マドカの質問にふてぶてしくも質問で返した男は、ガムを噛みながら――ボールペンと、何やらチケットの半券のようなモノをマドカの目の前に差し出してきた。
カタン・・・・とマドカのすぐ隣に立てかけてあった白杖が倒れる音がして、一人が彼女の隣に黙って腰掛けてくる――まるで彼女の退路を断つかのように。
そんな彼らの――決して好意的ではない気配を瞬時にして悟ったマドカは、内心竦み上がりながらも――差し出された紙とペンをとりあえず受け取ろうとおずおずと手を伸ばした刹那――
「――!!」
彼女の隣にあったバイオリンケースをもう一人の男が引っ手繰るようにして持ち上げ、あまりに突然の事にマドカが上げる声さえ失っている間に――男は有名人の高価なバイオリンを抱えそのまま脱兎の如く走り出した――そしてマドカの隣にいた男もいつの間にか逆の方向に逃げ出し、目の前にいた男は筆記用具をさっさと引っ込めると悠然とその場を立ち去ろうと踵を返した――しかしそのとき――
「ギャッ!!」
マドカから十数メートル先で男の無様な声が公園内に響き渡り――走り出した勢いのまま喉元に士度の通りすがりのようなラリアットを喰らった置き引き犯は
「な、なんだよ・・・・!!」
重いキーチェーンを腰からぶら下げ、肌を黒く焦がしたいかにもチンピラ風情のその男は、一歩後ろに下がりながらもポケットに手を突っ込むことを忘れなかった。
一方――無表情に最初の獲物を仕留め、取り戻したバイオリンケースを小脇に抱えた士度は静かに口を開く。
「大の男が三人がかりで――目の見えねぇ女から置き引きってな・・・・お前らいったいどういう了見だ・・・・?」
「――!!〜〜うるせぇ!!」
後半明らかに怒気を含んだ彼の諌めの言葉は――小物に恐怖を植えつけるのには十分過ぎた――男はいきなりポケットからバタフライナイフを取り出すと、そのまま真っ直ぐ士度の顔目掛けて突き上げてきた――白昼の公園に響いた悲鳴は、事の成り行きを呆然と見守るしかなかった公園の利用者達の声――
士度はそんな喧騒のなかヒラリとその得物をかわすと――男の手を握り潰すようにしてナイフを地に落とさせ――悲鳴を上げた男の身体はそのままフワリと逆さに宙に浮き、次の瞬間には士度の背後にあった噴水が大人一人分の体重で激しい水飛沫を上げていた――士度は男の様子を確認する素振りも見ぬまま、真っ直ぐにマドカの元へ踵を向ける。
「士度・・・さん・・・・?」
突然――目の前で瞬時にして起こった出来事を把握しきれないまま――マドカはおずおずと士度の気配がする方へと手を伸ばす――するとその白く儚い手は大きく、温かい掌にしっかりと包まれ――彼女にようやく安堵の表情をもたらした。
そして彼女の膝に置かれるのは、攫われたばかりのバイオリンケース。
「ちょっと待ってろ・・・」
バイオリンケースから手を離すなり士度は――ベンチから数十メートル離れたところでカラスに襲われ悲鳴を上げている最後の一人の方へ足を向けた。
そしてマドカと、数多のギャラリーが耳にしたのは――お前も頭を冷やして来い――そんな感情の無い低い声と――空を飛ぶ男の悲鳴――そしてもう一度、噴水の水が飛び散る派手な音。
「・・・・・・・・・・・」
マドカがその漆黒の瞳をまん丸くしていると――彼の手がパンパンッ・・・とついた埃を払うように鳴り、士度はゆっくりとマドカの方へと戻ってきた。
そして倒れていた白杖の土埃を払い、彼女の手にそっと握らせながら言うのだ――
「騒がしくなっちまったから・・・・場所を変えるか・・・・?」
――と。
「―――!!・・・・・・はい・・・・!」
あまりに唐突で―― 一瞬の出来事で――心が竦み上がった瞬間から怯える暇も涙する暇もないくらいあっという間の出来事だったけれど――これだけは分かる――
士度の右手に手を添え、ベンチから腰を上げながらマドカは幸せ色に染まる自分の頬を感じた――士度からはもう――殺伐をした雰囲気も、空気を凍りつかせるような怒気も感じられない――いつもの、マドカの隣にいる――彼女にだけ向けられる彼の気配。
場所を変える途中通り縋ったジューススタンドから、売り子の若者が慌てて飛び出してきた。そして士度の目の前にカップを差し出す――ご注文のアイスティーです――と。
「あ・・・・悪ぃ・・・・・」
そう言えばそうだった――喧しく話しかけてくる娘達に適当に相槌を打ちながら、マドカ御所望の飲み物を丁度注文し終えたとき――彼女の声を感じたような気がして振り向いてみれば、見知らぬ男が三人――そして慌てて飛んでくる見張り役の鳩達――眉間に皺を寄せながら、鴉にターゲットを教えたのもそのときだった――
どこかばつが悪そうにジーンズのポケットから小銭を取り出そうとする士度に、売り子は急いで掌を見せた。
「お、御代は結構です・・・・!!」
――?しかし・・・・・――結構です!!――怪訝そうな顔をする士度に、売り子はもう一度繰り返しながらアイスティーが入ったカップを彼の手に押し付けてきた――そんな中パラパラと・・・そして徐々にパチパチと大きく鳴り響き始める――彼の活躍を称えるギャラリーからの数多の拍手。
(すげぇな・・・) (見た!?人が空を・・・・) (ナイフ避けたの!!かっこ良かったよね〜!!) (格闘家か?TVじゃ見たことないけど・・・・) (――ほらぁ!!やっぱり彼女いたじゃない・・・!) (闘う
マドカはそんな周囲の反応に――喜びを噛み締めるかのように目を細めながら彼を見上げた――すると当の本人は――何故か嫌な冷や汗を掻きながら硬直しているようで――
「――?士度、さん?」
そんな彼の気配にマドカが不思議そうに瞬きをすれば――
「――ッ!!い、行くぞマドカ・・・・」
どこか上ずった声で彼は小さくそう言うと――いつもより少し足早に――マドカを急かすようにしながら公園の奥の方へと歩を進める有様で。
(もしかして――照れちゃった?) (かも、ね!でもやっぱりイイ男だったね〜!!) (いいなぁ・・・彼女!!)
士度の後ろに並んでいた女の子達のそんな声が遠くマドカの耳に聞こえてきた――マドカはもう一度目を細めた――その“イイ男”の隣を歩いている自分をどこか誇らしく――そして突然の賞賛に困り果てているそんな彼のことをいっそう愛しく想いながら。
一方――手を握りつぶされた男は――空を飛ばされ未だに気を失っている男の隣で、打ち付けられた体の痛みで相変わらず噴水から出られないまま――凶悪な目でひたすら悪態をついていた。
いくら置き引き未遂とはいえ――過剰防衛もいいところだ――音羽マドカの連れの凶暴性を週刊誌に売りつけるか、さもなくば・・・・・・
「訴えて慰謝料をタンマリ――〜〜!!!!?」
「そりゃあ・・・・・無理なんじゃねぇか?」
突然水中を走った微電流に男は舌を噛み、気を失っていた相棒は叩き起こされる――見ると金髪の青年が悪戯好きな笑みを浮かべながら片手を噴水に突っ込んでいて、その周囲からは目に見える放電が――そして皮肉に満ちた声の主は、噴水に座り込んでいる男達の頭上から、フゥ〜・・・と紫煙を吹きかけてきた。
「士度とマドカちゃんを苛めたね!?」
それをまた訴えるなんて・・・・許さないです!!――金髪の青年は鴉に突付きまわされた男を後ろから羽交い絞めにしながら立ち上がらせる――ナイフの男の胸倉を掴み上げたのは蛮だった。
「猿マワシのアフターケアなんて真っ平御免なんだがな・・・・」
見てたおばちゃん連中に話聞いてみりゃ、お前ら悪者決定〜って連れ共が五月蝿くてよ・・・・――男が歯軋りをしながらチラリと噴水の外を見ると――喉を潰された男はサングラスの中年男と、若い女の子二人の手によってすでにロープでグルグル巻きの状態。
「今日あったこと、綺麗サッパリ忘れてもらおうか?」 「〜〜!?忘れられるかッ!!」
蛮のちゃかすような声に男は唾を飛ばしたが――
「忘れられるのよ――私の手にかかれば、ね?」
蛮の背後から顔を覗かせた褐色の肌の小柄な女性が、細い指に小瓶を挟み――それを器用ににくるりと回した。久し振りにいつもの喫茶店を訪れてみれば、明日の下拵えは済んだから皆で公園にオルゴールを聴きにいくとかでちょうど店仕舞いをしているところで――公園に着いてみれば、奥の方でビーストマスターが拍手の渦の中、硬直している有様で。
「さて・・・と・・・お約束だがお前ら纏めてそこの便所の裏までお付き合い願おうか?」
ウニ頭は本日二度目となる悪魔の微笑を浮かべ、銀次は――なんか学園ドラマみたいだねぇ〜!!――と妙にはしゃぎながらグッタリとしているチンピラを引きずり蛮の後に続いていく。夏実とレナも思いがけないイベントに妙な気合を入れながら、ロープで身動きが取れない置き引き犯をトイレの裏まで転がして行った。
「・・・・マスター、今日から一週間分の私の珈琲代、ビーストマスターにツケ、で」
そんな騒がしい四人組に呆れ顔でついて行きながら、卑弥呼は波児の笑いを含んだ――了解――の一言の後、少し考える素振りをみせた。
「・・・・でも今回は三人分だから・・・・やっぱり珈琲にランチもつけて一週間ね・・・・」
「ちょっとアンタ、ガメツイわよ!?やっぱり蛮に似てき・・・・・」
「煩いわね!!コッチだって商売なんだから!!これでも破格で安い方よ・・・!」
「・・・・士度君なら何も言わずに払うと思うけどなぁ・・・・・・・」
きっと彼と彼女は――この公園のどこかで、静かにオルゴールの音に耳を澄ますことだろう――彼らを包んだ慣れぬ喧騒を、忘れるかのように。
そして公園のトイレの裏には、座らされ――悔しそうに一同を睨み付ける悪党の姿が。
卑弥呼は三人の前に立ちはだかると――慣れているであろう喧嘩に見事に敗北した男達を見下ろしながら、妖艶にも不敵な笑みを浮かべ――もう一度くるりと香水の瓶を楽しげに回した。
「だいぶ来ちまったが・・・・・ココからでも聴こえるか?」
オルゴール時計がある噴水広場からかなり離れた公園内の、他に人影が見当たらない小さな丘の上で、士度はマドカが座る位置に己のジャケットを敷いてやった。
「聴こえますよ、きっと・・・・」
有名なヨーロッパの職人さんが作ったものだそうですから、きっとこのくらいの距離まで良く響くはずです・・・・それより・・・あの・・・・・――
・・・・喧嘩、大丈夫でした?――腰を下ろしたマドカが心配そうに士度を見上げてきた―― ――?あぁ・・・・・・・――マドカの隣に座りながら、士度は自嘲気味な声を出す。
「
大した怪我はさせてねぇから安心しろ――そう言いながら、彼は己の拳を緩く握った。
「――!!そうじゃなくて・・・・!!」
私が心配しているのは、士度さんの方です・・・・・!――マドカは少し怒った風に――怪我、してませんか・・・・?――次の刹那、心配そうに――士度の頬に両手を当てた。彼が目を瞠る気配――
「いや、どこも・・・・してねぇ。」
するかよ、あの程度の運動で・・・・――そう気を取り直したように付け加えられた彼の台詞に――よかった・・・・――と彼女の柔らかな溜息。
「無茶、しないでくださいね・・・・?」
隣に座る士度の手に触れながら、マドカはコツン・・・・と甘えるようにその硬い腕に頭を預けた。
別に無茶でも何でもねぇよ・・・・――
――壊れ物に触れるかのようにどこか躊躇いがちに彼女の手に触れてくるのは、彼の武骨な指先。
やがて遠くでゆっくりと奏でられるオルゴールの音――マドカは音のする方へ顔を向け――士度は――あぁ、マドカがよく弾いている曲だ・・・――そんなことを、まだ太陽が元気な青空の下でぼんやりと思った。
オルゴールのメロディーが空に吸い込まれるように響く中――ポツリとマドカが呟いた。
――今日・・・・喫茶店に迎えに来てくださったとき・・・・・
――?
――どうして直ぐに入って来なかったのかなぁ・・・・って・・・・・
――!!・・・・・それは・・・・・・
マドカの言葉に虚を衝かれたかのように士度は瞠目し――次に紡ぐ言葉をいつまでたっても見つけ出せないでいた。
すっかり黙りこくってしまった彼に――マドカはその気持ちに触れるように――その身をそっと彼の方へと近づけた。
本当は――心の片隅で分かっていた――“彩り”を知らない自分に――山に沈む夕日、燕が飛ぶ夏の空、どこまでも広がる蒼い海、風に揺れる緑、野に香る花々――この世の自然の美しさを、風景を、めくるめく自然の“色”を――見せてやりたいと誰よりも願い――その叶わぬ願いに狂おしいほど心を痛めているのは――他でもない――私の隣にいる彼だから。
そんな優しい彼はきっと――“色”のことを話す私の姿を――きっと・・・・・・・
――でも・・・・ね、士度さん・・・・・・私、士度さんが・・・・
マドカのその声に――視線を落としていた士度が僅かに目線を上げた。
――だって・・・・ちょっと意地悪かもしれませんけど・・・・・・私の中の士度さんの“色”は、何だか独り占めしておきたかったから・・・・・・・・・
俺が――その答えを遮るかのように扉を開けたのは――そう・・・・聴くのが怖かったからだ―――
マドカは疾うに知っているかもしれない自らの答えを――士度は音無く心の中で反芻した。
己の色は――血の赤――虚無の灰色――恐れを抱く者を拒絶する闇の――黒。
ずっとずっと――自分の心は、そんな“色”の中をただ
――光の色なの・・・・・
不意に――彼女の幸せそうな声が耳に飛び込んできた。
――私、光も・・・感じたことがないけれど・・・・でも、士度さんと出会ってから、初めて・・・・初めて“光”の明るさを知ることができたの。
それに、いつか先生が仰っていたわ、“光は全ての色を含んだ色”をしているって・・・・明るく輝いていて、向かう先を教えてくれるって・・・・・士度さんと出会ってから、ようやくその本当の意味が分かったわ・・・・・――
――今日だって・・・・離れていても、見えなくても・・・・士度さんがいるところは違うの・・・・・そこだけ、私の闇の中ではっきりと輝いていて・・・・・
彼女の言霊は誇らしげに――そして溢れる愛しさに頬を染めながら――オルゴールの音色の中で静かに、浸透するように士度の心に紡がれた。
――・・・・・・・・そうか・・・・・・・・
――そうよ・・・・・?
微かに和らいだ彼の気配に、その声音に――マドカは心地よさそうに目を瞑る。
――そして夜の士度さんは・・・・闇の色。全てを優しく包み込んでくれるような・・・・・柔らかで居心地の良い・・・・・私の闇と溶け合って、新しい世界を私にくれたわ・・・・・・
――そうか・・・・・・・
ふと彼女の頬に触れてきたのは――逞しい彼の指先――掌――そしてゆっくりと降りてくる彼の気配――そっと引き寄せられる、彼女の華奢な
――ねぇ・・・・・
あなたの瞳に映る私は――どんな色ですか・・・・・・?
その言葉は音にならないまま、吐息と共に攫われた――
オルゴールの音色は夕暮れ前の夏空に高く舞い上がり――二人の世界を抱くかのように蒼天へと広がっていく――
少し冷たくなった風も――霧雨を告げる白い雲の輝きも――想いを確認しあう恋人たちの間をすり抜けるように光の中へと消えていった――
それは――蒼い空を――青い海原を――自由に駆ける翼の色。
煌煌と輝く太陽の
そして誰よりも――この心の琴線に
Fin.
以前から一度チャレンジしてみたかった、二人と色のお話でした。
視覚を超えた"色”や“彩”、色が氾濫する世界の中で、無意識に私達は感じているのかもしれません・・・・。