そう・・・たまたま彼と仕事の日取りも場所も重なって――
私のブランチ・コンサートが終わってから落ち合ったのは、京都――宇治川の
鵜飼を見ることができる部屋だと聞いたので、彼はあまり良い顔をしないのではないかと思ったけれど――
夕食の頃、鵜たちの鳴き声と、薪火の音、そして屋形船でそれを鑑賞する人たちの様子を彼は窓辺から見て、苦笑していた。
ああ、
魚がいなくても、川に潜って獲る振りをして――そうすれば、歓声と・・・餌が貰えることを知っている――賢いものだ・・・・
薪火が弾ける音が聞こえ、水が撥ね――屋形船の上からは感嘆の声が途絶えない。
<ア・・・アノ、ウエニ、イル、ニンゲン・・・>
鵜達が旅館の三階の部屋から見下ろしている私たちに気付いたようだった。
<コンニチハ?> <ガンバッテイルデショ?> <アシタモ、ミテ、クレル?>
鵜達は繋がれている綱を力いっぱい引っ張りながら、彼に向かって次々と挨拶をし始めた。
急に言うことを聞かなくなった鵜達に、鵜匠たちが困惑の声を上げている。
彼は鵜達に二言三言、返事をして――また明日な――そう言うと――飯を食おう、と私の手を取った。
あまり俺らが見ていると、奴らの仕事の邪魔をしちまう・・・・――そう言いながら、彼は私と一緒に窓から離れた。
彼が立ち上がり私に近づいたとき、浴衣の共衿から彼の湯上りの香りが夏の初めの風と共に涼やかに流れ、
彼の素肌の匂いに私の身体は自然に火照る。
こんな私の恥じ入りたくなるような心の高揚を彼は知らぬまま――魚の骨は俺が取ってやる――そんな暢気で優しいことを言いながら、上品に並べられているであろう京料理の献立を、私に少しずつ説明してくれた。
<士度ト、マチアワセ?>
「そうよ。士度さんがお客様との打ち合わせが終わったら、昨日と同じお茶屋さんに来てくれるって・・・それから一緒にお買い物に行くのよ?」
マドカは初夏の木漏れ日が心地よい宇治川沿いの土手を、モーツァルトと一緒にゆっくりと歩いていた。
旅館の茶室を借りて依頼人と会うと士度は言っていた――この散歩に出るとき、旅館の広い玄関ですれ違った背の高い二人の男性――彼らが依頼人だろうかとマドカは思った。何故なら――そう、ただ、出掛けにすれ違っただけなのだが――その二人からは俗世とはかけ離れた雰囲気と、どこかヒンヤリと冷たい空気が感じられたからだ。それは士度が時折垣間見せる、魔里人としての彼の姿にどこかしら重なるものがあった――刹那の出会いは、そんな感覚をマドカにもたらした。
二人の男性は、一風変わった盲導犬を連れた小柄な彼女に何の興味も示さず、一瞥もせず・・・ただ、マドカの隣を音も無く通り過ぎると――そのまま中へと上がっていった。
今日の彼は忙しい――午前中は依頼人に会って、その後は夜までずっとマドカといると言っていたが――夜中にまた仕事に行くと言う。
穏やかな日差しの下、川に遊ぶ鷺の声が、マドカの脳裏に昨夜の会話を運んできた。
――夜中って・・・何時ごろですか?
――お前が寝た後。
士度は缶ビールを飲み干すと、空いた缶を和卓の上に置いた。
――・・・・じゃあ、私、明日は士度さんが帰るまで寝ないで待っています!
士度の返事に、夜中に置き去りにされるような一抹の寂しさを感じ、マドカは仲居によって寸部の狂いも無く敷かれた布団の上で少し拗ねた声を出した――士度がクッ・・・と喉の奥で笑う音が聞こえ・・・マドカは僅かに頬を膨らませながらプイッと顔を逸らす。こういった仕草はとても幼い仕草だということをマドカは頭で理解していたが、(士度さんが、悪いんだもの・・・)――不機嫌な表情をしたまま、マドカは眼を瞑った。――そんなに難しい仕事ではないからな――そう言いながら、マドカの躊躇いがちな提案に快く賛同してくれたのに…夜中に、隣から居なくなるという淋しい状況に陥ることなんて、聞いていなかった。
――そんな顔するなよ。
そう言いながらも、士度の声は機嫌が良かった。
幼子をあやすような彼の声に神経を逆撫でされたマドカが更に顔を背けると――浴衣姿の士度は彼女の隣に腰を下ろし、自分の方を向こうとしない彼女の頬に手をあてた――急に接近してきた彼に、ピクリ・・・とマドカの肩が揺れると――空いた片手に彼女の細い手は包まれる。
――ちゃんと、お前を寝かしつけてから行くさ・・・。
首筋に彼の唇を感じた刹那、耳元で囁かれ、甘い擽ったさに身を捩りながらもマドカは士度をキッと睨みつける。
――明日は、寝ません・・・!ちゃんと、起きて士度さんのこと、待っています!
だから、寝かしつけるなんて無理ですよ・・・!――そんな彼女の強情な言葉に、士度の眼が細まった――そして言うのだ、
――なら、今夜、試してみるか?――お前、絶対朝まで起きねぇから・・・――と。
士度のそんな台詞にマドカが驚いたように眼を瞬かせると――彼女はポスン・・・と柔らかな布団の上で組み敷かれた。
そして頬に落ちる優しいキスと共に、彼の手がマドカの浴衣の共衿の間から忍び込んできてようやく――マドカは士度が言わんとしていたことを理解した。
しかし、とき既に遅く。
二組、訪問者に心地よい眠りを提供するために敷かれた布団は、その夜一組しか用をなさず――今朝方、士度に起こされるまで、マドカは夢すら見ない深い眠りに落ちていた。
着乱れた自分の浴衣と枯れた声が、マドカに昨夜のことを嫌でも思い出させて――顔を真っ赤にしながら彼に投げつけた枕は、案の定楽々とキャッチされてしまう始末で。
――よく眠れただろ?
今朝の彼も、大層機嫌が良かったのだ。
<何、買ウノ?>
頬を僅かに染めながら、困ったような、しかし喜びを隠しきれないような、そんな少女らしい初々しい貌でマドカが士度との戯れ合いをなんとなく反芻していると、愛犬が唐突に声をかけてきた。
マドカはハッと我に還り・・・少し気恥ずかしげな表情をしながら、朝の散歩に専念する為、気持ちを切り替えることにした。
「そうね・・・緑茶にお抹茶に・・・夏用の扇子も士度さんに選んで貰おうかしら?あとはヘヴンさんに頼まれたかんざしに・・・そうだわ、それから・・・」
シッポを振りながらマドカの話を聞いていたモーツァルトがピタリと歩みを止めた。
一歩遅れて、マドカも立ち止まる――彼女の麦藁帽子の白いリボンも、風に流れるのをやめた。
<階段、ダヨ。>
お喋りをしながら歩いても、忠実な愛犬はその職務をきちんとこなしているようだ。
「ありがとう、モーツァルト。」
マドカは昨日士度と共に歩いた道の感触を思い出しながら、愛犬に先に進むように指示を出した―― ゆっくりと、一段、降りて・・・・
もう一段――
<マドカ!!> 「――!!」
昨日は士度と共に軽やかに降りることが出来た石段は――マドカが思っていたよりもその段差がバラバラで・・・彼の手に引かれていたから、昨日は何の苦も無く降りることができたのだ。
自分の身体が大きく傾き、足が段から離れる感覚をマドカは感じた。
「・・・・大切なお方ゆえ、冬木殿・・・何卒、よしなに、よしなに・・・・」
和装を着こなした二人の男が、士度の前で深々と頭を下げた。
「今回の依頼、確かに引き受けた。」
眼を伏せ、目礼を伴い返した士度の言葉に、初老の男性と若いお付の者は救われたように顔を上げる。
その時――「ワン・・・!」と茶室の外で犬の切羽詰った声がしたので、依頼人の二人はあからさまに顔を顰めた。
「モーツァルト?」
士度は自分の名を呼び続ける友人の声に只ならぬものを感じ、依頼人に軽く断りを入れながら立ち上がると――勢いよく茶室の障子を開けた――士度の姿が見えるなり、モーツァルトの吼え声はより一層大きくなった。
<士度!!マドカが・・・!!>
「!?マドカがどうしたって・・・!」
士度が驚愕と不安の表情を隠さずに彼女の名を紡ぎながら縁側から下りた刹那、どこからともなく――透明でいながらも深く、貴やかな香の香りが漂ってきた――覚えがない香りのはずなのに・・・どこか懐かしく、思考を彼方へと誘う、悠久の匂。
(・・・駄目だ!今・・・は・・・マドカの・・・ことを・・・・)
しかし柔らかな風と共に士度に纏わりつくその香りは、クスクスと笑うように彼の五感を手繰り寄せて行く。
「・・・冬木殿?如何なされた?」
彼の動揺を心配する声を遠くに聞きながら、士度は嗅ぎ慣れぬ不可思議な匂いに支配されるように――意識を飛ばした。
マドカは、士度と待ち合わせを約束した茶屋の長椅子に腰掛けていた。
眼こそは合わせないが・・・隣にいる人の存在が気になってしかたがない――彼女にしては珍しく、そんな表情で。
一方――石段から足を滑らせ、落ちそうになったマドカを助けた張本人は・・・マドカの隣でノンビリと抹茶を啜っている。
自分とモーツァルトの気配以外はまるで感じなかった正午前の散歩道に唐突に現れ――マドカの身体をフワリと支えながら石段から降ろしてくれた不思議な人――お礼を言いながら名前を訊いてみても、「名乗るほどの者ではございません」とにこやかに言い、それでも何かお礼をしたいのですが…とマドカが申し訳なさそうに言い募ると、「それでは暫しお茶のお相手をお願いしたい」と、マドカが何も言わぬうちに数ある茶屋の中から迷うことなく、士度との待ち合わせ場所の茶屋を選んで・・・マドカをその軒先の長椅子に座らせたのだ。
気がついたらモーツァルトのハーネスは、マドカの手にはなかった――私の盲導犬が近くにいませんか?――マドカがそう訊ねると、隣の人は「何、そのうち戻ってくるでしょう・・・私は犬が嫌いなので丁度良かったです」と、悪びれもせずに言ってのけた。
しかもマドカは――このつかの間の茶飲み友達が男性なのか女性なのか・・・さっぱり分からなかった。眼の見えない彼女は普段、その人の声や体格や雰囲気や匂いや気配で・・・大抵すぐに相手の男女の性の判断がつくのだが、今回ばかりは皆目見当がつかない。声は高くもなく、低くもなく、どこまでも中性的で・・・和やかな雰囲気を醸し出していはするが、気配はどこまでも透明。助けてくれたときに差し出された手の感触も、男性のものとも女性のものとも分からぬ、サラリとしながらも少し湿った風の何とも形容し難い感覚をマドカに伝えた。そしてその存在を唯一誇張するのは・・・薄っすらと漂う古風な香の匂い。
(・・・幸庵さん達みたいな、狐さんかしら?)
冷抹茶に口を付けながらマドカがボンヤリ考えると・・・・
「ちなみに私は狐狸の類ではありません。」 「・・・!?」
と、間髪入れずに涼しい声音で“答えて”きた。
「あの・・・それでは、どちら様でしょうか・・・」
――この人は…人の心が読めるのかしら…?――
抹茶茶碗を膝の上にそっと置きながら、マドカは恐る恐る訊いてみる。
「すでに形を成して・・・二千年余り。その気になれば人の心を読むことなぞ造作もない・・・そんな輩ですよ。」
「・・・・」
・・・二千年?――マドカの頭は混乱するばかり。
自分は今・・・・人ならざる者と一緒にお茶を飲んでいるのだろうか?
それともただ・・・からかわれているだけ?
どこかぎこちない沈黙の中で、隣の人が上品に抹茶を啜る音だけが暢気に響いた。
マドカは急に恩人のことが怖くなった――この人が・・・士度が来るまでマドカと共にこの茶屋にとどまっているとは限らないのだ。
下手をすれば、このままどこか知らないところへ連れて行かれるかもしれない。
それに、急に居なくなってしまったモーツァルトのことも気になる・・・何より、その愛犬が傍にいない今の自分は、いざ、何かあったとき・・・ここから逃げ出すことすら叶わない。
「・・・まぁ、そんなに警戒をしなさんな、お嬢さん。私は基本的に無害ですよ・・・?」
まるで彼女の思考をなぞったようなその応えに、マドカの心は脅えるばかりで。
(士度さん!早く来て・・・!)
――不意に――その不思議な恩人は刹那、その眼を見開き――そして柔らかな笑みを作った。
「・・・・昔話を、しましょうか。」
「・・・・?」
マドカの焦りと不安を知ってか知らずか、見知らぬ恩人は静かに言った。
そして蒼天を気持ちよさそうに仰ぎ見ながら、語りだす。
「あなた方の言う昔――私から見ればつい昨日のことのようですが・・・まだ年端もいかぬ少年が父親のお供で、初めて遠く京の都を訪れたのです・・・・」
揺蕩う宇治川の流れのごとく、ゆっくりと、そして自然に・・・語らう人の声はマドカの耳に入ってきた。
その音はマドカの焦燥を和らげるかの如く、鈴の音のようにコロコロと心地良く響く。
マドカは、霧のように涼しげな気配を漂わす隣の人の方へ見えない瞳を向けた。
「鞍馬山の奥深く・・・父親は久方振りに旧友を訪ね、話に花を咲かせておりました。しかし、少年には大人達の難しい話が分からない。彼はこっそりと語らいの場から抜け出し・・・一人野山で動物たちと戯れていたのです。その時分、私も彼の親父殿に会う為に、丁度その少年の傍を通りがかりましてね・・・人の子にしてはあまりにも見事に動物たちと会話をするので・・・私は時を忘れて彼を観察しておりました――」
語り部は、隣に座る少女が息を嚥む気配をどこか好ましく感じながら、話を続ける。
「暫くして、少年は私の存在に気がつきました。驚いた私は思わず・・・その身を“元の姿”に変えてしまい、彼の足元に転がる形になってしまいました――少年は私を拾い上げ・・・匂いを嗅いだり、陽にかざしたりしながら・・・一緒に覗き込んでいる兎の仔に向かって言いました――<香木だ>――<これをいくつかに分ければ・・・薫流や、飯を作ってくれる姐や達の土産になる。>――そして徐に懐から小刀を取り出すと・・・私に向かって振り上げたのです。」
先程までの警戒心はどこへやら、少女は身を乗り出すようにして語り部の話を聴いていた。
あの少年といい、この少女といい――まったく、私のことを楽しませてくれる・・・――悪戯心に火が灯るのを感じながら、木漏れ日の下での物語りは続く。
「しかし、その刃は――振り下ろされることはありませんでした・・・私が“元の姿”にも関わらず、少年を睨み付けたせいでしょうか、それとも、香木とはいえ、形を成したモノへの情けでしょうか?少年はそのまま私を抱えると――拾ったものだと親父殿と我らが旧友の元へ連れて行ってくれました。その時の彼らの驚きようと言ったらありません。この私が――大人しく人の子の手によって運ばれたのですよ?その気になれば、私は眩い光で少年の目を潰して、飛び去ることも容易だったのですから――」
どこかでカラスが鳴く声がした――その声につられるように、茶屋の軒先に座る二人は空を仰ぎ見る。
――あぁ、もう戻らねば・・・・
少し名残惜しそうに語り部が呟いた。
少女が隣に座る人に何かを訊こうとしたそのとき――相手の方が先に口を開く。
「そして今宵――嬉や私は再び“あの少年”に会うことになる――何、お恥ずかしながら少しばかりドジを踏みましてね。やれ発掘だ発見だのと言う欲深い人間に捕らえられ、頑丈な箱に詰められ・・・山奥からこの地までつれてこられてしまったのですよ――私の周りには紅い透明な線が幾重にも張り巡らされ・・・助けに来てくれた旧友たちにも手が出せない状態で。今、ですか?あぁ、今は・・・ほら、そこにある平等院の朋友達の力を借りて・・・意識だけはこうして散歩に出られるのです。」
コトリ・・・と器を静かに長椅子に置く音がし、語り部が立ち上がる気配に合わせてマドカの頤も自然に上がる。
何故だろう、光を感じたことが無いはずのマドカが、太陽を背に彼女を見下ろす語り部を仰ぎながら眩しそうに眼を細めた。
「話を・・・聞いてくれてありがとう、お嬢さん。久し振りに穏やかな時を過ごすことができました。何かお礼がしたいのですが・・・欲しいものはありませんか?ささやかなモノである限り・・・何でもご用意致しましょう。」
(欲しいもの・・・?)
恩人からの突然の申し出に、マドカは目を瞠りながら逡巡した。
しかし、常日頃の願いが、マドカの脳裏を軽やかに舞う――
望む、ささやかなモノ――それは、彼との――
語り部の目が柔らかく細まり、その人は風が触れるようにマドカの手をとった。
「・・・・よろしい。今すぐとはいかぬ願いですが・・・叶えてしんぜようぞ?」
せめて今は白昼の夢だけでも・・・・
突如――澄んだ高貴な香りがマドカの痩躯に纏わりついたかと思うと――
フワリ・・・と、心が身体ごと浮くような感覚が彼女の全身を駆け抜け・・・・彼女は一瞬にして思考を奪われた――
――見知らぬ子供の声がした――
女の子の声だわ・・・。 昔の私によく似た声。 それでもこの子の方が少しおてんばみたい。 ママを探しているの? でも迷子にしては随分と明るい声で。 そしてその子は私のスカートを握りながらもう一度言う―― 「ママ!」 ママは私なの? 「パパ!」 その子はそう言いながら私の隣へ手を伸ばす―― パパも隣に・・・いるの? 「ほら、ママ!」 小さな女の子は小さな手で私の手を柔らかく掴むと 私の隣にいる人の手に重ねる。 その人の匂いが、気配が、手の温もりが・・・ 私の感覚を優しく包み込み 心に鮮やかな愛の喜びを運んでくる。 そう、あなたが隣にいること。 |
男の子の声だ。 昔の俺によく似ている。 ああ、こっちの方が少し素直そうだ。 「父さん」? お前の親父さんはどこにいるんだ? そしてソイツは俺の手を取ると・・・・もう一度。 「父さん!」 親父・・・?俺が? 「・・・母さん!」 ソイツは笑顔で俺の隣へ手を伸ばした―― お袋さんも隣にいるのか? 「ほら、父さんも・・・!」 ソイツは俺の手を引っ張ると・・・ いつの間にか隣に立っていた女の手を握らせた。 彼女の黒檀色の長い髪が、絹の肌が、柔らかな雪色の貌が・・・ 俺の視覚の全てを染め上げ 心に穏やかな愛しさを芽吹かせる。 そうだ、お前が隣にいること・・・。 |
そう
望むのは
ささやかな幸せを奏でる
――未来――
「・・・ッ!!?」
士度は弾かれたように顔を上げた。
気を失っている場合ではない・・・モーツァルトが、マドカから離れて・・・・
しかし、この身の内を掠め、後に残るのは・・・・この初夏の太陽のように明るく、滔滔とした香り。
「俺は・・・どのくらい意識を飛ばしていた?」
士度は先程と同じように縁側の外に立ったままの自分を訝しげに確認しながら、依頼人たちに問うた。
「・・・?いえ、刹那たりとも・・・冬木殿。貴殿は今し方縁側から下りたばかりではありませんか。」
若い方の依頼人が不思議そうに応えたとき、初老の男性は士度の周りを漂う香の匂いに気づき、困ったように目を瞬かせた。
「冬木殿・・・恐らくは“あのお方”が御戯れを・・・」
「〜〜!?ともかく・・・!!とりあえず、また今夜な!」
士度はそう言うや否や、彼女の愛犬と共に風のようにその場から走り去ってしまった。
二人の依頼人をそこへ残して。
「・・・・やれやれ」
そう言いながらも初老の男性は楽しそうだった。
「まったく・・・これから御自らを助けに向かう者をあのようにからかうとは・・・」
あのお方も人が悪い・・・
若い付き人が溜息を吐きながら眉を顰めた。
「何・・・昔、肝を冷やされた軽い意趣返しじゃろうて・・・」
初老の男はスッと音もなく立ち上がりながら雲ひとつ無い空を見上げた。
きっと今宵も良い月夜。
天の鳥が久々に羽を広げるには丁度良い・・・。
そして二人の依頼人は唐突にその場から姿を消した。
数枚の漆黒の羽が、茶室に静かに舞い落ちた。
「マドカ・・・・!!」
息を切らしながら散歩道を駆け抜け、士度が目的の茶屋を真っ直ぐ目指すと・・・・そこにマドカは一人ぼんやりと座っていた。
彼女は愛する人の声を聴くや否や顔を上げると、彼のその切羽詰った声に不思議そうに首を傾げる。
彼女の両手に納まっている焼器の中の氷は、まだ抹茶を涼やかに冷やしていた。
「大丈夫か!?お前が知らない人に連れて行かれたってモーツァルトが・・・」
彼女の両肩を少し痛いくらいに掴みながら、士度は焦心を隠さずマドカの様子を確認する。
そんな士度をマドカは黒い瞳を瞬かせながら見上げ・・・もう一度愛らしく首を傾げながら、愛犬の方も見やった。
「そんな・・・だって、いなくなったのはモーツァルトの方で・・・私は・・・」
モーツァルトは<チガウヨ!マドカガ、消エタンダ・・・!>と耳を伏せながらも抗議する。
「誰かと一緒にいたのか?」
少し落ち着きを取り戻した士度が、語り部がいた場所に腰をかけ、マドカの手をとった――
その場を漂う語り部の残り香に、士度は気がつかなかった――彼の意識はどこまでも、彼女の方へ向けられていたから。
マドカの瞳はまだどこか、夢を見ているよう。
「私・・・石段から落ちそうになったところを誰かに助けられて・・・そして、その人と暫くお茶を・・・」
しかしマドカの手元にあるお茶は、まだ淹れたてのように澄んだ若葉色で。
「そして・・・“士度さんの”・・・子供の頃のお話を聞いて・・・・」
「・・・俺の?誰だ・・・?この界隈で俺のガキの頃を知っている奴らなんざ、今日の依頼人くらいしか・・・」
士度の当惑の声をどこかウットリと聞きながら、マドカは続ける。
「それから・・・欲しいものをくれるって・・・願い事を叶えて・・・・」
マドカの台詞に士度は眉を寄せた。
ひととき、共に茶を飲んで・・・たったそれだけのことで願い事を叶える――そんな旨い話があるものなのか?
「お前、きっと・・・稲荷狐にでも化かされて・・・・」
「・・・?でも・・・・狐狸の類ではありませんって、その人が・・・・」
マドカの声が、段々と現の世界に戻ってきたようだ。
その事に安堵感を感じながら、士度はとりあえず茶屋の主人にも事の顛末を訊いてみた――
しかし彼も――マドカが誰かと話をしていたことや、お茶を二人分出したことは覚えているが、
彼女がどんな人物と、どのくらいの間、どんな話をしていたかは――まるで記憶に無く、首を傾げるばかりで。
「白昼夢でも見たのか――?」
マドカを長椅子から立ち上がらせながら士度が呟くと、
「でも・・・とても幸せな夢だったような気がします・・・」
マドカはとても満ち足りた微笑を士度に向けた。
――そうだ、この笑顔を・・・・
俺もさっき、どこかで・・・――
束の間の既視感はしかし、マドカに腕を引かれたことで泡となり消え去る。
「士度、さん?行きましょう?」
ほら、今日はポカポカと絶好の散歩日和ですよ・・・・
心地良い夢から覚めた軽やかな声と共に、麦藁帽子のリボンがフワリと揺れる。
「なぁ・・・願い事って、お前は何を願ったんだ?」
自分の少し武骨な指に絡めてくる彼女の細い指のしっとりとした感触に眼を細めながら、士度は戯れに訊いてみた。
「何・・・だったかしら?きっとささやかな・・・でも、とても大切なお願い事だったと思います。」
幸せが・・・身の内から浸透してくるような、そんな願い事――
そう言いながら士度を見上げてきた彼女の白い貌は、眩しいくらいに優しく綻び士度の視覚に潤いをもたらす。
「今日は私・・・お香も買っていきたいです。」
マドカの声が無邪気に弾み、士度を源氏香の匂い香る土産物屋へと引っ張っていく。
このはしゃぎようだと・・・・きっと午後には疲れてしまって、今夜寝かしつけるのは簡単そうだ。
マドカが知ったらまた頬を膨らませそうな事を考えながら、士度は苦笑交じりに彼女の後をついて行った。
すると――突如、日の光が高く煌き――異なる空間から誰かを呼ぶような美しい鳥の鳴き声が二人の耳に木霊した。
士度とマドカは立ち止まり、天を仰ぐ。
――ここで出会うたのも何かの縁・・・・どうか、お幸せに――
その旋律と共に、大きな翼が何処かで――少し窮屈そうに羽ばたく音がして――
再び、現世の静かな喧騒が戻ってきた。
その日は日暮れまで――穏やかな陽の光が枯れることがなかった。
起きてあなたを待っています――そんな風に意地を張っても、彼の声が、唇が、指が――私はこの身に触れる彼の全てに思考を奪われ、昨夜と同じように深い眠りに落とされてしまった。
気がついたのは、明け方――彼が音も立てずに戻ってきたとき――寝ている私を背後から抱きしめて、首筋に甘えるようにキスを落として・・・・
「あと三時間程は眠れる・・・」そう言いながら、あっという間に夢の中。
腰元に回された彼の温かな大きな手に触れると、柔らかな夜の香りと・・・そう、あの語り部と同じ匂いがしたように感じたのは気のせい?
背後から聞こえる愛しい彼の鼓動を子守唄に、私は再び眼を瞑った。
朝起きたら、また枕を投げつけてやらなくちゃ・・・まどろみの中で、そんなことを思いながら。
翌朝――朝食の席で仲居や他のお客の間を飛び交う噂話。
「なんでも、先日発見された伽羅の香木で出来た鳳凰像が昨晩、博物館から盗まれたって・・・」
「警察が捜しているようだけれど・・・人が入った気配も無ければ、警報機も鳴らなかったそうだよ?」
「ああ、でも赤外線装置の電源はネズミに齧られてショートしていたって聞いたなぁ・・・」
「日本最古の国宝級だって偉い先生方は言っていたけどねぇ・・・・」
「・・・・物騒な話だよな。」
大方、鞍馬山の天狗がお迎えにでも来たんだろうよ・・・――
そう何食わぬ顔で士度さんは呟くと、カリリと美味しそうな音を立てながら沢庵を齧った。
今朝方見せてくれた昨夜のお土産――小さな桐の小箱には、翡翠や瑪瑙、珊瑚に真珠、紅玉・碧玉、瑠璃に水晶、孔雀石――其の他、ありとあらゆる宝石が所狭しと詰め込まれていた。
蒼瑪瑙でお前の耳飾りを作ったら似合うだろうな・・・――
石をいくつか私の耳元で合わせながら
今朝の彼も、大層機嫌が良かった。
士度が黙々と箸を動かす様子を楽しみながら
クスリ・・・と、香り立つ朝の緑茶の温もりと共にマドカが微笑むと――
大きな鳥が羽ばたく音が、何処からともなく聞こえてきた――それは昨日の昼間感じた音よりも大きく、伸び伸びとした、自由を謳歌する音。
そして二羽のカラスが長く啼く――誰かに挨拶をするように。
士度も湯呑み片手にその悠久の聲に耳を傾けているようだ。彼の口元が小さく綻ぶ気配がした。
昨日の白昼夢が、朧気ながらマドカの脳裏を掠めていった。
「・・・・産まれてくる子は、女の子だと思うんです。」
ゴホッ・・・
彼女の唐突で、しかもかなりの衝撃を伴った涼しい発言に、士度は大いに咽た。
ゴホゴホと咳が止まらない彼を、マドカは向かいの席で「大丈夫ですか?」ときょとんと見つめている。
「で・・・できたのか!?」
大声こそは出さなかったが、驚愕を隠せない半ば震えるような声で士度は冷や汗混じりにマドカを凝視する。
付き合い始めて一年は疾うに越して二年近いが、結納も、結婚もまだ・・・することはしているが、これでは順序がまるで逆・・・。
湯呑み茶碗からピシッ・・・と小さな悲鳴が上がった。
「・・・・いえ?ただ、なんとなく・・・そう思っただけで。でも、“いつか”産まれてくる子は、女の子かなぁ・・・って・・・」
途中から頬を赤らめながら、マドカは幸せそうに、少し恥ずかしそうに綺麗な微笑をその貌に浮かべた。
暢気に微笑む彼女の目の前で、士度は大きく脱力する。
湯呑み茶碗はその一生を終えることを免れた。
「吃驚させるなよ・・・」
お絞りで額に浮かんだ汗を拭っていると、マドカがテーブルの上で何かを求めるように手を彷徨わせていた。
「何だ・・・?」
士度がその柔らかい手に自分の硬い手を重ねると・・・マドカはニッコリと彼の手を握った。
「士度さん、今日は何処へ行きましょうか?」
新幹線の時間まで、まだ大分ありますから・・・――
士度の手の甲を細い指が楽しそうになぞる。
「・・・・そうだな・・・・」
先程の彼女の唐突な台詞が耳から離れぬまま、士度は今日の予定を述べていくマドカの愛らしい声を聴いていた。
そろそろ、一緒になりたいという・・・女としての願望が無意識に出たのだろうか・・・?
――そして士度の脳裏に浮かんだのは、昨日の刹那の夢――
(俺は・・・男だと思うぞ?)
何となく、そう思いながら、士度は口元に微かな笑みを飾った。
今朝の彼女は、朝から大層機嫌が良い――初夏の蒼いそらと宇治川の静かな流れを彼女の澄んだ声に重ねながら、
今度は士度が、マドカの白い手の甲をゆっくりと撫でた。
Fin.
奇譚…夜にも珍しく面白い物語・言い伝え。表題の〜綺譚〜は雰囲気を出すための造語です。
お話の中でどことなく“綺”の雰囲気を感じていただきたく。
3万HIT記念企画のアンケートより表@動物モノ・ 不思議グッズで未来の夢を見る二人・とにかくほのぼのの甘々を是非!・お子様をからめた話で…
以上をMixさせて頂きました。
不思議グッズはこの場合・・・“お香”になるのでしょうか?リクを下さった皆様、ありがとうございます・・・!
何ともファンタジックな話になりましたが、語り部さんの風貌等、想像を楽しんでくださいませ♪
少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。
伽羅という香木は昔から大変高価なもので、黄金一枚で160g程しか買えなかったそうな・・・補足までに☆