Midnight Dxxxxx




「――!!?嘘ぉ……!?」

深夜の歩道橋の真ん中で、水色のパーカーに紺のジャージ姿といういつもの仕事着とはかけ離れた格好をしている音羽邸の年少メイドが、目を真ん丸くしながら小さな悲鳴を上げた――
その瞬間、彼女の目線の先に居た小柄な若い女性と大柄な中年男が下の道路からこちらに顔を巡らせたので――
「―――!!」そのおかっぱそばかすメイドは反射的に身を翻しながら、歩道橋を一目散に駆け下りて――静かな夜の公園を一気に駆け抜け、外套の燈仄かな閑静な住宅街を疾走し――
そして大きなお屋敷の裏口に飛び込むと慌てて鍵を閉め――
「〜〜〜!!……!?」止まぬ動悸と驚愕にいまだ眼を見開いたまま扉に背を預け、そのままズルズルとしゃがみこんでしまった。

「う……そぉ……」

あんなに楽しみにしていたのに手にしていることさえ忘れられていた早売りのファッション雑誌は、しゃがみこんだ彼女の足元にパタリと落ちた――
そばかすメイドは呆然としながら、先程の――このお屋敷に勤めている間今まで一瞬たりとも想像したことのなかった光景を、もう一度反芻してみる――

「え……え゛ぇ〜〜!?」


あぁやっぱり信じられない――どうしてなんであの方が……!?――

音羽邸のお屋敷の裏口で独り頭を抱え独りバタバタと悩んでいる年少メイドの様子を風見鶏の屋根の上から覗いていた梟が、不思議そうに首を傾げる――
昼間そそっかしく動いている彼女は、夜もやっぱりどこか騒がしい――まるでそんな事を言いたげな表情で。

「――!!」

つい先程目に飛び込んできたことを頭の中で繰り返し繰り返し反芻しながら開いた口を塞ぐこともできないままでいると、台所の方から見慣れた懐中電灯の明かりが遠くゆっくりとこちらの方へとやってくる――
帳簿確認の残業をしていた執事が丁度、使用人棟へ戻ってくるところだった――その明かりを見るや否や彼女は急いで棟に飛び込み、もう結構な深夜にも関わらずバタバタと些か大きな足音を立てながら仕舞いにはバタン!!と自室の扉を閉め――
買ったばかりの雑誌をその辺に放り出すと、着替えもそこそこにベッドへと潜り込んだ――
そして頭を巡る“今日見た大ニュース”を…明日いったい誰に報告したら良いものか――そもそも信じてもらえるのだろうか――
そんなことをグルグルグルグル考えているうちに、彼女はいつの間にか睡魔に攫われてしまっていた……。




「……30点」

「――ちょッ!!嘘じゃないんですってばぁ!!」

二ヵ月半遅れのエイプリル・フールネタとしても、
(あんたにしちゃ頭を使った方かもしれないけれど)あんまりにもありえないから、30点――

翌朝、すっかり気も漫ろだった朝のミーティング後に早速――とりあえず、“興味”という観点が先行しそうな金髪の同僚に昨夜の顛末を話してみれば、この反応――
必死に訴える後輩の様子に、金髪のメイドはもう一度呆れた風に頭を振りながらわざとらしく溜息を吐いた――

「あんたの今回の想像力は拍手物よ――流石に私もソレは思い浮かばなかったわ……お嬢様や木佐さんが聞いたら卒倒しそうね?
“あの士度様がクルマの運転をなさっていた”なんて――あるわけないでしょ!!?」

しかも深夜の公道でバックの練習なんて――顔は後ろを向いてたんでしょ?バンダナ巻いて運転している輩なんて案外結構いたりするものよ……――

「――!!た、確かに後方確認しながらバックしてましたけど…でもあの体格とかバンダナとか絶対士度様でした…!!それに…お顔がはっきり見えなくても何故か……とにかくアレは士度様だったんです!!」

「…………」

他の同僚と上司である執事の存在を気にしての小声にせよ、顔を真っ赤にしながら必死の表情で訴えてくる後輩に金髪メイドは少々同情しながらもまだ半ば信じ難い表情をしながら少し考える素振りを見せた。

「……とにかく、お嬢様の彼氏の未確定な――噂話をそのまま木佐さんに伝えるわけにはいかないわ。それに車に興味を持ち始めた男程厄介なものはないから、仮にもし本当ならお嬢様にもお知らせしなければならないし……朝食の席で、ちょっと確認してみましょう?」

「……確認って、士度様御本人に直接お伺いするってことですか?」

そう言いながら心配そうに眉を下げる後輩メイドの目の前で、先輩メイドはチッチッチッ…とわざとらしく人差し指を振った――

「ほら、そこ!早く朝刊とテーブルの準備を…!!」

そのとき厨房から聞こえてきたのは、コソコソとお喋りをしている部下達を窘める執事のよく通る声。

「は、はい!ただいま…!!」

おかっぱメイドは上司のお咎めに飛び上がりながら、金髪メイドと共に慌ててその足を厨房へ向けた――

まぁ、まかせなさいって……!――

そう茶目っ気たっぷりにウィンクをする先輩メイドの様子に一抹の不安を感じながらも、おかっぱメイドは真っ白なレースのテーブルクロスを広げた――
その横では金髪の彼女が鼻歌を歌いながら朝刊の折り目をいつも通り正しく整えていた……。




「―――?」

「――!!失礼致しました……」

奇麗に磨かれたトレイに乗せられた朝刊を士度がいつも通り手にし、社会面を捲ろうとすると――パサリと落ちてきたのは、普段は入っていないはずの一枚の広告――
「新車フェア」と大きな文字で打 ってはいるが、ほどよく高級なRV車とスポーツモデルタイプの二台がノーブルさを売りにするように緑に囲まれた道を走るなんとも長閑な広告だった。
士度はいつもは当たり前のように入っていない広告に刹那眼を瞬かせたが、席に着いたまま手を伸ばし大して急ぐでもなくそのチラシを拾うと、
朝からの失態に顔を青くしながら足速くやってきた執事にその二つ折りの中身に目を通さぬまま手渡した――そして珈琲をお供に、彼女を待つ間のいつもの新聞タイム……。

(………チラシには御興味ナシ、か……)(みたいですね……――!!?か、香楠さんっ!!)


本日の朝食係から外れていた二人は廊下側の扉から中腰になり折り重なるようにしてコッソリと居候殿の反応を伺っていたのだが、気がつけば目の前に大きな影が立塞がり、
そこにはいつのまにか限界まで小さく折り畳まれたチラシを手に静かに鬼のような形相をした執事の姿が――

((〜〜〜!!?))

金髪メイドとおかっぱメイドは思わず廊下側へ後退りしたが時既に遅し――モーニング・ルームで給仕をしている釣り目のメイドが何かやらかしたらしい賑やか組に少々呆れた視線を送ったりしている――
しかし居候殿はそんなことには気がつかず、やはり静かに活字タイム。
――二人のメイドはモーニング・ルームの扉をその表情とは裏腹にゆっくり静かに閉めた執事の無言の威圧によって、一歩、また一歩と廊下の隅へと追いやられ……


これはなんですか(・・・・・・・・) !!!?」

「「〜〜〜〜〜!!!」」


お嬢様にも居候殿にも毎度全く必要にもされず関心の対象にもならないが故に抜くことを徹底されているチラシを目の前に押し付けられ――
冷や汗交じりの乾いた笑いで誤魔化したり、涙目になるしかなかった……。





「――15点。」

「〜〜!!?だーかーらぁ!!嘘じゃないんですってば……ン!!」

「――――シッ!!」

思わず大声を出してしまったおかっぱメイドの口を、金髪メイドは塞ぎにかかり、理由を聞いた後心底呆れた表情で二人を見下ろす長身の執事は辟易としたような溜息を吐いた。

「……“あの”士度様が、どうして、何の、必要性があって車を運転されるのですか?音羽邸には私とお抱え運転手もおりますし、なにより何方よりも自然志向の士度様が……」

執事の小言は階上から眼鏡のメイドとマドカの声が聞こえてきたことで、ここで途切れた――そして“あとは言わずともお分かりですね!?”と語る視線が二人の部下に注がれ、
おかっぱメイドと金髪メイドは頭を垂れるしかなかった――




朝方、そんな勘違いのすったもんだがあったくらいで、音羽邸はこの日も平和だった――仕事上がりの充足感を胸に、執事は夜の散歩から帰るところだった。
今日は少し早めに業務を終えることができた――仕事着のベストを脱ぎ、襟元を寛げた白シャツと黒のスラックスというラフな格好で住宅街の裏道を抜け、24時間営業のスーパーで自分の生活必需品を軽く買い足して――
深夜営業の本屋にも立ち寄り、新刊の文庫本を見て回り、『山と陵谷』を購入し――夏の終わりの夜風を心地よく思いながら例の歩道橋にさしかかった、丁度そのとき・・・…。

「だいぶ上達したじゃない…!」「こん調子やと、あと二〜三回で教えることはなくなるのぉ!」

マニュアルでこんだけできるんじゃきに、ATなんぞ楽勝ぜよ!――そんな声が響く道路で、黒のランティスが広い道路を短く切り返しUターン、そして決して乱暴ではない運転で滑り込んできたその車体を、若い女性と訛り言葉の中年男性が声軽やかに迎えている――
こんなところで路上教習……?しかもマニュアル車から…?それにしてもやっぱりランティスのルーフラインは良いものだ……――ッ!!!?
今では見かけることが珍くなってしまった車種に執事の羨望の視線が固定された次の瞬間――彼の眼は驚愕で見開かれ、危うく手にしていた荷物を落としてしまうところだった――


「だいたい、覚えることが多すぎるんだよ……」


シフトとかギアとかクラッチとか……実際まだよく解ってねーぞ?――

――そうぼやきながら渋々とランティスから降りてきたのは、その声もさることながら、歩道橋からの遠目に見てもその姿は紛うことなく、“あの”居候殿のお姿。


「〜〜〜〜〜!!!?――???!!!」


歩道橋の上で独り絶句している執事をよそに、

「――でもとりあえず教えたことはできてるし……。身体で覚えているみたいだから、いいんじゃない?」

「そうじゃそうじゃ!感は悪くないようじゃきに、そんうち嬢ちゃんとドライブにいくのも夢じゃないぜよ!」

「―――ッ……だからそれはねぇっって………そんなことよりさっきアンタが叫んでた“ハンクラッチ”って何なんだ?」

ランティスのルーフ越しに深夜の無人の道路で言葉を交わし始める三人――そんなマニュアル車講習会話の中に居候殿の声と姿があることは俄に信じられないことだが、
自分が夢を見ていない限りにおいてはこれは現実であり……――

<ホゥ>

「―――!!?」

無意識に口を半分開けた状態で茫然自失としていた執事の耳に飛び込んできたのは、低く静かな鳥の声――
見ると歩道橋の欄干には夜鷹や梟など夜目の利く鳥たちが見物とばかりに歩道橋下を見下ろしており、そのうちの何羽かはギャラリーの仲間に入った執事に興味を示したようだった。

「…………ッ」

こんなギャラリーを従えての夜間教習……野萩さんが“士度様”だと後姿で確認できたのも頷ける……。
――そして執事は彼にしては珍しく、その場から駆け足で仕える屋敷に向かって立ち去った――自分の存在は彼らに気づかれなかっただろうか――?
背後からランティスの扉が閉まる音、そしてスムーズな心地よいエンジン音が聞こえてきた――そして鋭い急ブレーキの音、
何かを指示する二つの声――そして再び発進する音、高鳴るエンジン……――

徐々に遠くなり、やがて聞こえなくなったそれらの音は、それでもやはりまだ執事の頭の中で響いていた。


「―――………士度、さまが……運転……を……???」


沢山の疑問符と共にやけに喉が渇いた声で独り言ちたその台詞を聞いたのは、音羽邸の勝手口付近で夜の集会をやっていた猫たちだけ。
――混乱した思考のままいつのまにやら屋敷に戻ってきていた執事は、やはり目を白黒させたままフラフラと自室を目指した――
普段は知らないものだと思っていた“疲れ”と“齢”というものを、久しぶりに感じた夜だった……。






――いつもの喫茶店に向かう途中のお嬢様は未だ半分泣き出しそうだった。
居候殿が今後車を運転するとなると――購入するであろう車の駐車スペースの確保も新たに要る、お抱え運転手の仕事も必然的に減ってくる――
等々、使用人たちにとってもそれ相当の“準備”が必要となるので(実際通いのお抱え運転手は“クビ”覚悟で魂が抜けたように蒼白になっていた)、
朝一番に事の事実を確認しようと執事が朝食の時間までソワソワしていると、「士度様は今朝はお仕事の打ち合わせとかで早くお発ちになりました」と早番だった釣り目のメイドが淡々と事務連絡――
頭を抱えた執事は、年少のメイドと共にとりあえず事の次第をマドカに伝えたのだが………――

「え………?」

と、彼女は絶句したきり、思案顔――そしてその表情がだんだんと憂いに変わり、しまいには泣き出す一歩手前まで来てしまい――
正直朝食どころではなくなってしまった。

「「「「木佐さんがお嬢様を泣かそうとしてるッッ!!!」」」」

とメイド達に攻め立てられた執事は弁明すら部下たちに奇麗さっぱり無視され、モーニング・ルームを追い出された――そのとき執事はハタと思い出す――


<そんうち嬢ちゃんとドライブにいくのも夢じゃないぜよ!>

<……だからそれはねぇっって。>


「……………」


この件を、お嬢様にお伝えするのを忘れていた……いや、もしかしたら自分はわざとお伝えしなかったのかもしれない……。

「……………」

ドライビングテクニックを身につける――しかし“彼女”は隣に乗せない――

普段の居候殿からは想像し難い言動の数々に彼の思うところを執事は把握しきれないまま、珍しく大きな溜息を吐いた。
――慣れてきたと思っていた執事の自信を打ち砕くように、居候殿は相変わらず不可思議な御方だ――
そんな風に途方に暮れながら廊下で執事が珍しく熊のようにうろうろと待つ中、十数分後やっと出てきた眼鏡のメイドの話によると……


<士度さんが…お車を運転するようになったら、今以上にひとりでお出掛けすることがきっと増えちゃいます……>
<お隣に乗せてもらったとしても……運転される方は常に前を向いてなければいけないんですよね……?>
<私、リムジンの後ろの座席で士度さんと並んで座ってお話する時間がとても好きなのに……>
<男の人って、車に夢中になると性格が変わるって本当ですか……?>
<車を使ってお仕事にどんどん出かけちゃったら……でも、士度さんが車の運転なんて……どうして……>
<あ……モーツァルトと一緒だと、私は後ろの席で、士度さんは運転席で……>


――こんな風に恋する乙女の心配事でお嬢様の胸は張り裂けんばかりだそうだ。そしてもうすでに――当の本人が不在である今、執事と年少メイドの目撃証言から、
あの褐色の肌をした居候殿の仕事仲間のお嬢さんにまずは取り急ぎ「彼に運転を教えていた理由」を訊こうと――例の喫茶店に早々に待ち合わせの約束を取り付けたとのこと…。




――褐色の肌の彼女は待ち合わせ時間より少々早くやってきた。
ちょっとしたポーカーフェイス振りがどことなく居候殿に似ていると、珍しく女主人に同席している執事は思った。
一方卑弥呼はちらりと喫茶店の店内に目をやりながらマドカの眼の前に座った――喧しいいつもの二人もいない、ビーストマスターも彼女と一緒ではない……
となると、このお嬢さんの用事というのは……

急にお呼び立てしてすみません……――そう前置きをした後、マドカの少し震えた声が事の真相を求めてきた――

あぁ、ここ数日の見物人の中に……お嬢さんのトコロの使用人もいたのね……

「………………」

彼女の心配そうな声を無言のうちに聞きながら、卑弥呼は注文しなくともやがて目の前にだされた珈琲に静かに口をつけた――
そして思い出されるのは、十日とちょっと前の、つい最近の出来事――あれは、馬車サンと、ビーストマスターと組んだ“仕事”の最中で……


依頼人宅から盗まれたシルバーのBMWを回収するのが今回の目的だった――もう少し詳しく言うと、
“そのトランクに納まっている中身事”回収するのが、絶対条件――
事を急ぎつつも明言を避ける依頼人から、依頼を引き受ける条件として引き出したその肝心の“中身”の内容は、
ようするに“違法な薬物系”だった――正体をひた隠しにしようとしてはいたが、その言動と支払の良さから、政治と国が絡んでいたのだろう――
自分たちの失態の迅速な回収を、彼らは金に糸目をつけずに緊急に依頼してきた――そして、そんなことをさせる盗人達もやはりそれなりのところから依頼されていたのか、
卑弥呼や士度の予想を超えて少しは切れる頭と行動力を持っていた――

まず彼らはGPSで追ってきた馬車のトラックを撒菱という古風な手とはいえ、見事に止めて見せた。
馬車は細い山道でパンクして大きくスリップしたトラックをジャックナイフの形でギリギリになんとか停車させると、
大きく左右に振れたトラック内で体勢を崩した卑弥呼と士度を置いていの一番にタイヤの状況を確かめにトラックを降りた――そのときに彼が後頭部に食らったのは、鉄パイプの手痛い一撃。

<馬車さん!!?>

助手席から起き上がりシートベルトを外した卑弥呼が見た光景は、崩れ落ちる運転手と――彼を襲った突然の襲撃者が、トラックから飛び降りると同時に放ったビーストマスターの回し蹴りによって昏倒する姿――
そして……

<ちょっ!!?ヤバい……!!>

ガードレールから外れた崖に向かってノーブレーキの無人状態でゆっくりと進んでいくBMWの姿――敵は“奪われるくらいなら証拠隠滅”という手に出たらしい。
卑弥呼はトラックを飛び降りると、いつの間にやら降って湧いていたナイフ使いの三人はビーストマスターに無言のまま任せて、彼女は全力疾走でBMWの運転席に乗り込みハンドルとブレーキに意識を集中した瞬間――

<―――ッ!!!>

後部座席からの、やはり予想がしていなかった一撃が卑弥呼の視界を一瞬にして真っ白にした――

<――!!?レディ・ポイズン!?>

今回の相棒が乗ったにも関わらず、その進行方向を崖下に定めたまま進むBMWの異変に士度が気づいたのが幸運にも早かった――
彼は奪還物の方に余所見をしながらも、向かってきた最後のナイフを敵の悲鳴と共に叩き落とすと、前進を続けるBMWの後部座席から棍棒片手に転がるように降りてきた覆面を鳩尾に一撃で沈黙させ、そのまま眼の端に収めた運転席の光景に思わず顔を蒼くした――

<オイッ!!レディ・ポイズン!!>

運転席で力なく突っ伏している卑弥呼はその声にピクリと反応したようだったが、まだ意識が朦朧としているらしい――彼女を乗せたままの車は当り前のように前進を続け、緑が遠く下に広がる崖まであと十数メートルと迫ったそのとき――

<――!!サイドブレーキじゃ!!ビーストマスター!!>

<――!!?>

痛む頭を抱えながら漸く気がついた馬車の叫び声が掛けっ放しだったトラックのエンジン音の中響いたが、ビーストマスターの動きが一瞬固まったことに今度は馬車が顔を蒼くする番だった――

サイドブレーキ……――そんなカタカナ用語を、山育ちのビーストマスターが知っているはずが……――ない。

そんな状況の中慌てて駆け寄ろうとした馬車の足がまだ残る打撃の余波で縺れ、彼を再び道路に縫い付けた瞬間、
ガラスが激しく割れる音とビーストマスターの咆哮と共にギギギギギ……と嫌な音を派手に立てながらBMWのタイヤが路を進む音が止まった――

馬車が飛び出しそうな程に打つ心臓を抱えながら視線を上げると――BMWのフロントピラーがありえない方向に曲がり、重力と慣性の法則にし従っていた2トンはあろうかというその高級車はその動きを剛猿に擬態したビーストマスターによって無理矢理停止させられていた。

<………止めよったわ……>

まさかの、最も原始的な方法で、寡黙な奪還屋は力任せにターゲットを止めた――方向を変えたといっても左車輪が宙に浮いた状態のソレを、彼はもうひと気合い入れることで安全な位置につけると、運転席で未だはっきりとしない意識の頭を振る卑弥呼の救出に取り掛かった――






「……………」

あれはBMWの7シリーズ……しかも新車だと2000万近くする代物だったわ……――
意識が戻ったとき、崖っぷちであり得ない態でボロボロになったそんな高級車を目の当たりにして、そして事の顛末を馬車から聞いて――腰を抜かしそうになったことを卑弥呼は覚えている。
依頼人がそのBMWのトランクの“中身”にしか興味がなかったの事が幸いした――
実際、フロント部分が半壊したシルバーの高級車を目の当たりにした依頼人はその“中身”の確認の方に必死で、芸術的にひしゃげたBMWに関してのお咎めはなく、修理費を依頼料から差し引かれることを頭の中で計算していた卑弥呼と馬車に安堵の溜息を吐かせた。
「「……………」」
そしてそんな車の価値も値打もその操縦方法同様全く分かっていないビーストマスターに二人の視線は密かに、そして自然に向けられた――
今まで卆なく仕事をこなしてきた“彼”にも、ついに覚えてもらわなければならないことができた――お互いの身を守る為にも、これからよりスムーズに仕事をこなす為にも……



「――卑弥呼、さん……?」


ふと気がつくと、目の前の盲目の彼女は心配そうに卑弥呼の答えを待っていた――コンサート会場やテレビの中の彼女からは、あまり想像がつかない、このまま声をかけないと泣き出してしまいそうな……そんな表情で、マドカは手元のティーカップをギュッと握りしめることで零れ落ちそうになる涙を必死に堪えているようだった。


「……仕事、よ。」

そんな卑弥呼の一言に、マドカの漆黒の瞳が不思議そうに瞬いた――追及されたら危険な仕事のどの部分を省いて話そうかと頭の中で思案しつつ、卑弥呼は表情を変えぬままもう一度、珈琲カップに口をつけた。


「仕事の都合でね、彼に車の構造を知ってもらう必要があったから、ちょっと練習しているだけなの。別にビーストマスターは……」


「―――じゃあ、車乗れるようになっても、マドカちゃんと二人きりでドライブに行きたいとか思わないの?」

「だから、ねぇって言ってんだろ……!」

そのとき不意に喫茶店の外から聞こえてきたのは、ビーストマスターと仲介屋の声――その会話の内容に喫茶店内のメンバーの視線が思わず入口の扉に固定され、マドカの大きな瞳が悲しそうに揺れたそのとき――士度がその扉の取っ手に手をかける気配がした。

「ちょっと!それって冷たいんじゃない?」

しかし後ろから畳み掛けるような仲介屋の声に、喫茶店の扉を開けようとした士度の手がピタリと止まった。


「〜〜〜!!あのな!両手塞がった状態で得体の知れない機械操縦しながらマドカ隣に乗せるなんて危険なマネ、俺はわざわざしてぇとは思わねえな……!あーゆーシロモノが必要なときは、マドカんトコロには長けた人間が二人もいるしよ――それに苦手なんだよ、あんな無機質なモンをどーにかするのは……」

「……士度クンってホンッットにマドカちゃん大事なのねぇv」


へヴンがニヤニヤと士度を茶化している表情が見えてくるような声音が、張り詰めていた喫茶店の空気を瞬時に和ませた。

「……うるせぇよ―――ッ!?マド、カ……?」

照れ隠しなのかなんなのか、仲介屋への半ば投げやりな返事とともに漸く喫茶店に入ってきた士度と、後ろで含み笑いをしていたへヴンの目に飛び込んできたのは――真っ赤に赤面しながら俯いているマドカの姿、相変わらずね……の表情の卑弥呼、居候殿に席を譲る為に慌てて立ち上がった執事、そしてカウンターから冷やかしの表情で機嫌よくこちらを見ている波児と夏実とレナの姿――

「マドカちゃん、いいなぁ……」

ほぅ……とどこかウットリ溜息を吐きながら夏実が呟いた言葉に士度の顔も人知れず赤面したのを波児は見逃さず、一人こっそり苦笑した――


「し、士度さん…!!帰りましょう……!!」


自分でもわかるくらいに貌を真っ赤にしたマドカは卑弥呼にお礼を言いながら彼女にしては珍しく少しバタバタと立ち上がると、支払いを執事に任せモーツァルトと共に士度を促しながらどうしても早くこの喫茶店から逃げ出したいようだった。


「――お、おぅ……」

マドカに引っ張られるままに、着いたばかりの士度も常連組への挨拶もそこそこに喫茶店の外へと消えて行ってしまった――支払いを終えた執事がリムジンのドアを開けるためか――少し慌てた様子で居候殿のすぐ後ろへついていった。


「………珈琲を飲みに来たんじゃないの?彼……」


予想外にも長々と説明する手間が省けた卑弥呼のどこか笑いを含んだ声に、「初な二人を見るのってやっぱり楽しいわ〜vv」とコロコロと笑うへヴンの声が重なり、夏実とレナの羨望の声も加わって――波児は暫く、女性たちの恋愛談義の聞き役に徹することとなってしまった……。





「――だから、仕事でだな……“万が一”必要になった時の為に……」

「もう、いいんです……」


ちょっと吃驚しただけですから……――リムジンの後部座席で相変わらず頬を染めながら、マドカはキュッ……と士度の腕にしがみついた。士度は彼女の好きなようにさせておいた。
心臓がまだドキドキしている……――逸る自分の胸の奥の鼓動を感じながら、マドカはそっと目を伏せた。耳の奥で再生される、彼の少し乱暴だった声がマドカにはどうしようもなく愛しく感じられた。


「悪ぃけど……やっぱり、こーゆー機械は、俺は苦手だからな……。馬とかになら、乗せてやれるんだが……」

「――お馬さんの方が士度さんらしくて……私、好きです………」


語尾を小さく呟きながら彼にまた少し近く寄り添うと、あやすようにポンポンッと彼女の膝に触れてきた大きな手の感触に――マドカのハートが再び駆け足をし始めた。
手を伸ばせば、ほら……指を絡めて、繋いでくれる……やっぱり、彼が隣にいるときは、例え車の中でも――私の闇の中で、触れて愛を感じたくなる……――


バックミラー越しのそんな恋人たちの微笑ましい様子に、リムジンを運転する執事は優しく眼を細めた。
「お嬢様だってきっと若い方とのドライブの方を選ばれるに決まっています……」そう肩を落としていたお抱え運転手さんの失業の悩みもこれで奇麗に解消、浮ついていた二人のメイドも、平常勤務に戻ることだろう――


お昼は何を御所望になるかな……あぁ、その前に喫茶店でお飲みになれなかった珈琲をお出しして………。

今となっては彼のドライビングテクニックをもう少し拝見してみたかった――まだ暫く真夜中の教習が続くようなら、次回は夜食のご用意でも……――そんなことを考えながら、執事は慣れた動作でハンドルを切った。
どんな車の動きにも、やはり居候殿は運転席にはまるで興味がなさそうだ――しかし、それが彼らしい……――

自動で開いた門の先で、出掛けは乗っていなかった居候殿の姿を発見した件の二人のメイドが目を丸くしている。
事の顛末を聞きたがってくるであろうそんなメイドたちに、喫茶店での出来事をどう説明しようかと執事は思いながら、幸せそうに言葉を交わしあうお嬢様と居候殿の為に、
恭しくリムジンのドアを開けた。




〜Fin〜



お嬢様の彼氏は、MIDNIGHT DRIVER★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜★★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜★