いつもより二倍の量の珈琲豆で、いつもより半分の量が抽出された濃く、香り高い珈琲の匂いを控えめながらも満足そうに吸い込みながら――
執事はその高貴な色合いの液体を、たっぷりと氷が入ったグラスに上から優雅なスピードで注いでいった――パチパチと小気味良く鳴る氷の音が耳に心地良い――マドラーで気持ち掻き混ぜられた後、窓から入る正午前の柔らかな日差しの中動きを止めたソレは、大人の芳香を放つ見目も美しい澄んだアイス珈琲。
「……よし。」
氷と珈琲の量と――グラスのデザインのバランスをもう一度確認した後執事は小さくそう呟くと、そのグラスと、恐らく使われないであろうストローを銀のトレイに載せ――
ティーワゴンを静かに押しながら、黙って厨房を後にした。
執事は珈琲が好きだった――
仕事柄、そして女主人が紅茶を好むことも相俟ってティーアドバイザーの資格も持ってはいるが――
珈琲マイスターの資格は大学在学中にわざわざ習得した程に、彼は珈琲が好きだった。
しかし残念なことにここ音羽邸では――毎日珈琲を淹れる必要があまりなかったのだ――つい最近までは。
紅茶なら他の使用人だって訓練の結果、自分と同じように上手に淹れることができるようになったし、このお屋敷のお嬢様も盲目ながらその嗅覚と味覚を活かして――
自分で好みの味と香りをブレンドすることができるくらいに、そして人を頷かせるくらいに美味しく――紅茶を淹れることができる。
そのお嬢様のお父上も男性にしては珍しく甘いものが好きなせいか、珈琲よりも紅茶を好んで飲むし、
通いのコックは“料理の味が分らなくなる”と、基本仕事中は珈琲に口をつけず、
お抱えの運転手は“木佐さんの淹れる珈琲は上品過ぎてどうも慣れない”ともっぱらの缶珈琲派。
せめてメイドの誰かに珈琲好きがいればよかったのだが、彼女たちが好きなものと言えば……抹茶に緑茶にミルクにコーラ……
「・・・・・・・・・・」
というわけで、今まで執事は毎日に自分ひとりで飲む為か、珈琲派の来客があったときにしかその“珈琲マイスター”の称号を活かすことができなかったのだが――音羽邸に居候殿がやってきてから、そんな彼の生活は一変した――
寡黙な彼に朝の飲み物を訊いてみれば、珈琲がいいと言う――これで毎朝珈琲が淹れられる――執事はそのことを単純に喜んだ。
昼食後の飲み物はいかがなさいますかと居候殿に声をかければ、きまって珈琲がいいと言う――食事と珈琲のバランスについて研究ができると執事はご満悦だった。
お茶の時間には――お嬢様が紅茶を淹れれば紅茶を、使用人が用意する場合は珈琲を注文する――
日に三度以上珈琲を淹れることができるなんて、珈琲マイスターとして理想的な環境だ――執事の本棚に珈琲の専門書が増えていった。
夕食後の一杯も――居候殿はやはり珈琲をご所望になる――
音羽邸には自然、買い足される珈琲豆の種類が増え――執事の一声で新しいサイフォンやパーコレーターが厨房の片隅にお目見えした。
「・・・・・・・・・・」
とにかく――音羽邸に初めて迎えた居候殿は、珈琲にこだわりがある執事にとってお仕えするには理想的な人物だった――
もちろんTPOや食事に応じて日本茶etc.に切り替わる場合もあるが、特に公言するわけでもなく、味を五月蝿く言うわけでもなく、ただ珈琲がお好きな寡黙な居候殿。そんな彼の好みの味を、その日その時々に出した珈琲に口をつけたときの微細な表情の変化から読み取る密かな楽しみを見出したのも彼がやってきてからだ――酸味が強すぎるのはお嫌い、アメリカンもお好きではなさそうだ、深い味わいでコクがあり、多少の苦味がある豆がきっとお好みで……
新しくブレンドをしてみた今日のアイス珈琲は果たして士度様のお口に合うだろうか?
「・・・・・・・・・・」
そんなことを無表情にも内心懐かしそうに思いながら執事がティーワゴンを押して行くと、ティールームへと続く廊下から庭の様子が見えた――
当の居候殿がシャワーヘッドと盥とシャンプーを駆使しながら、裏庭のテラスの前で五匹の仔犬のシャンプーに大忙しだ。
この春生まれたセッターとレトリバーの合いの仔を、大型犬の仔犬を御所望のお嬢様のご学友や仕事仲間の方々が引き取りにくるというのに――
朝、庭に出てみれば、五匹の仔犬はひっくり返した植木鉢の土に身体を目一杯擦り付けながら遊んでいて見事に土塗れ。
お嬢様の午前のレッスン時間の間に、居候殿が仔犬を洗って乾かしておく――そんな手筈に今朝方相成ったのだった。
大きな盥の中で泡塗れになりながらキュンキュンキャンキャン啼いている仔犬達は、今日は素足にサンダルを引っ掛け、半袖のシャツの袖を肩まで捲くり上げてその逞しい二の腕を露にしている居候殿の大きな手によってガシガシと次々と汚れを落とされ――
それでも微温湯が気持ちいいのか、大して暴れることなく比較的大人しく洗われていた。
「・・・・・・・・・・」
執事は足を止め、目の前に広がるそんな光景を(やはり傍目は乏しい表情ながら)少し羨ましそうに眺めていた――自分も元来は生粋の動物好き――
できることなら居候殿とご一緒に、あの可愛らしい仔犬と思う存分泡塗れになって……
「・・・・・・・・・・」
いや、それはいけない……――執事とは常に沈着冷静でいて静謐な立ち居振る舞い佇まいを崩してはならない――
それは仕事時間内では叶わぬ願い――“我慢”だ――
執事は悩ましげな顔で小さく頭を振りながら、それでももう一度庭の方へと視線を泳がせた――すると……
仔犬達の汚れを綺麗さっぱり落とした居候殿が、今度はその泡を洗い流そうとシャワーヘッドのスイッチをオンにした途端……――
「・・・・・・・!!」
勢いよく流れ出てテラスの大理石を弾くシャワーのお湯に吃驚した仔犬達は一瞬にしてパニックに陥った――
<……!!こら!!落ち着けお前ら……!!>
盥から転がり落ちるようにして逃げ出し、脱兎の如く駆け出した仔犬達の鳴き声に、居候殿の珍しく慌てた声音が重なり――
庭の芝生へ飛び出して行った仔犬は事情を察した父犬と母犬によってすぐさま通せんぼをされたが、
残りのうち二匹はドアが開いたままのティールームの方へパニックのまま駆けて行く――
ティールームの上等な絨毯を仔犬達のびしょ濡れの有様で汚されたら不味いと思ったのか、
盥の中でひっくり返って溺れかけていた一匹を片手で拾い上げながら立ち上がり、二匹が駆けていく方向へ注意と足を向けたとき――
<――!!おい!!お前らそっちへは行くな―――――――ッあ゛!!?>「―――――――!!!!!!!?」
――ゴンッ……<〜〜〜〜〜〜!!!!!!!>
「………?士度さんの……悲鳴……?」
奏でる音を不意に止め不安そうに顔を上げたマドカの様子に、彼女の傍らで小休止用のお茶を淹れていたメイドが慌ててレッスン室の窓を開け庭を確認してみると――
目に入ったのは、庭を元気に走り回る仔犬達と仔犬片手に固まる居候殿の姿。
「あらあら、ワンちゃん達が逃げちゃったみたいですね……!!一匹は捕まえたみたいですけれど……」
いつもの賑やかなお庭と士度様ですわ……!!――メイドの目にフィルターが掛かっていたのか単に近眼だったのか――どちらにせよマドカはメイドの言葉を信じ、彼を案じたことが杞憂に終わったとホッと胸を撫で下ろしながら――彼女は再び弦に弓を軽やかに滑らせ、彼とランチを共にする楽しみを心の片隅に置きながら――いつもの時間までレッスンに集中することにした。
―――そんな音と声にならない悲鳴が窓ガラスを通して聞こえてきそうなくらい(いや実際聞こえてきたのかもしれない)勢い良く、
居候殿は中庭のテラスを堂々と飾る大理石のテーブルの脚角に足の小指を………
そう、図らずとも目撃してしまった執事にもその痛みが伝わってくるような錯覚を覚えさせるほどに勢い良く――
庭から混乱したまま回れ右をして戻ってきて不意に士度の足元に突っ込んできた仔犬を避けようとして――ぶつけてしまい、
その唐突な痛みのあまり仔犬片手に思わず身を屈めようとした際さらに……
ゴッ……――<――!!?……!!〜〜〜!!!!>
居候殿が手の中で暴れた仔犬を抱えなおそうとしたはずみにその肘をテーブルの端にぶつけ――ついに彼は片膝をついてしまった。
「・・・・!!?・・・・・・!?!?!?」
事の一部始終を目の当たりにしてしまった執事は大いに混乱していた――あの士度様が――
あの温厚篤実謹厳実直剛毅朴訥天衣無縫天空海闊思慮分別容貌魁偉恬淡寡欲隠忍自重の士度様がテーブルの角に足の小指を……!!?
執事は考えた――常日頃にないもの凄い勢いで思考をフル回転させた――
――この場合偶然の目撃者である自分が真っ先に飛んでいって「大丈夫ですか!!」と労わりの声を掛けるべきかそれとも――
いや、もし仮に自分が同じ状況に陥った場合にそんなことをされたら冷汗三斗の思いでとんでもなく赤面するに違いない――
かといって艱難辛苦の様相を堪えるように耐えてらっしゃる士度様を目の前にしたまま見ぬ振り知らぬ振りをすることは
私にとっても九腸寸断の思いとなることは間違えようのないことで……――
ふと手元のアイス珈琲に目をやると、氷が溶けて程よい濃さ、程よい冷たさに仕上がるまであと少し。
「・・・・・・・・・」
執事はアイス珈琲に埃が入らぬよう、ペーパーナプキンで軽く蓋をすると――彼にしては珍しく忙しなく、廊下を厨房の方へと駆けていった。
「………ッ……」
<……ゴメンネ、シド……ダイジョウブ?><カラダ、ベトベトスルヨォ、シド……>
<モウニゲタリシナイカラ……イタクナイ?><ナメタラ、ナオル……?><ハナニ、ミズハイッタ……>
テラスの椅子にどっかりと腰を下ろし、痛みを堪えるかのように項垂れる士度の足元や膝や肩には、
件の仔犬達がへばりつきながら士度の足を舐めたり甘えたり泣き言を言ったりしていた――
するとそこへ執事がいつも通りにやってきて、銀のトレイを差し出しながらいつもの落ち着いた口調でこう言った。
「士度様、アイス珈琲をお淹れ致しました。」
「……あぁ、悪ぃ………!?」
尾を引くような独特の嫌な痛みに微かに顔を歪めながら士度がチラリと銀のトレイに視線を流すと、
そこには高潔にその存在を主張する見るからに美味そうなアイス珈琲と――その隣に小さな氷嚢が二つ、さらには小型の救急箱が――
「・・・・・・・・・(……見たな?)」
「・・・・・・・・・(お大事になさってくださいませ。)」
視線が交わると同時に男同士の無言の会話は一瞬にして終わり――士度は自嘲気味な溜息と共にもう一度短く礼を言いながらアイス珈琲と氷嚢を受け取った――
「……っと、その前に……こいつ等の石鹸を全部流しちまわないとな……」
禿げちまう――そう言いながらまだ残る痛みに眉を寄せながらも腰を上げかけた居候殿を、執事は“どうぞ、そのままで……”と穏やかに制した。
「士度様はそのままお寛ぎください。私が彼らを洗いましょう……」
そう言うや否や“失礼致します”と、執事は士度の目の前でスーツのジャケットとベストを脱ぎ空いている椅子の上におくと、
糊がパリリと利いた白いワイシャツの袖を、肘上まであっという間に捲り上げてしまった。
「――!!でもよ……」
「もっとも、彼らさえよろしければ……の話ですが……」
手間を取らせるのではと言い澱んだ士度に、執事は遠慮がちにそう付け加えながら仔犬の方を見つめた――
そんな執事の眼差しから彼の真の気持ちを察することは、士度にとっても決して難しいことではなく……――
そして士度の号令のもと、仔犬達は次々と盥の中に飛び込み――執事は控えめな表情ながらもやはりどこか嬉しそうに、シャワーヘッドに手をかけた――
そして士度は今度こそ氷嚢を、いまだに赤く痛む二箇所に心置きなくあてがうことができた。
ときどき指を甘噛みしてくる仔犬達に密かに目を細めながら――チラリと大理石のテーブルの方に視線を流すと、そこにはやはり使われないままのストローと……
綺麗に飲み干され、残りの氷と共に涼やかに日の光を反射する磨き上げられた透明のグラス。
あぁ、この充足感……!!
――そして肘を氷嚢に当てながらも――肩に舞い降りてきた小鳥に優しい表情を静かに向けた居候殿を間近に見ることができた穏やかな喜びを胸に、
執事はすっかり綺麗になりこちらも満ち足りた表情の仔犬達にタオルを当ててやりながら居候殿に声を掛けた――
「アイス珈琲の御代わりはいかがですか――?」
Fin.
ネタ提供SPECIAL THANKS!!to pomepome様♪
もともと表Web拍手御礼SS(その拾四)として書いたのですが、拍手の表示規定字数をオーバーしてしまい、拍手に載せることができなくなってしまいましたので、急遽番外編として短編枠でGallery掲載となりました(笑)
“拍手SSなんだから短く短く・・・”と思いつつ書いたはずなのに・・・;でも書いていてめっさ楽しかったですv
壷過ぎるネタ提供ありがとうございました!!vv