「・・・・・・・・・」


その場に立ち尽くしたのはたっぷり20分程。
12時間の“たった一人での”フライトを終え、痛む頭を抱えたまま迎えの人々で賑わう異国の到着ロビーに出て辺りを見回してみても――出掛けに執事が教えてくれた「冬木士度様」と大きく書かれたプレートを持ったお迎え役の若い日本人男性とフランス人男性二人の姿はどこにも無く――向こう側に見える複雑に交差する移動回廊や、全く理解できない鼻にかかった発音のアナウンスの響き、忙しく歩き回る異人達の波――どれもこれもが士度の頭痛と気分を急降下させていった。


「・・・・・・・・・」


ついに到着ロビーが自分ひとりになってしまった頃、荷物といえばワンショルダーの革製のナップサックを肩に掛けただけの士度は小さな溜息を吐きながら――とりあえず目の前にあるカフェに向かった。片言の英語で珈琲を注文し、念のため到着ロビーが見える位置の席に腰を下ろす――幸か不幸か飛行機は定刻に着いた――この頭痛が治まる頃には、自分のお迎えがやって来ればいいのだが。

そうでなければ自分はこの右も左も言葉も習慣も分らぬこの地で――いったいどうやってマドカの元に辿り着いたら良いものか。

何せ自分は今――このフランスという国の地図も辞書も案内本も持ち合わせないまま、パスポートと現金と必要最低限の荷物で――たった一人でこの地に降り立ったのだから――


the stray Wolf



それは籍を入れ、式を挙げてから間もない頃だった――二人の絆は以前にも増して深まったにせよ、二人の日常は大して変わらず――大きな変化と言えば、表札が増えたこと(マドカはバイオリニストとしては音羽姓を使用するので音羽の表札もそのままだった)と、寝室が一緒になったこと(もともとのマドカの部屋を改築して広くした)ぐらいだ。
使用人に「これからは旦那様、奥様と御呼びした方がよろしいかと」と進言されたときは二人で丁寧に、しかし即答で断った――マドカは毎日“奥様”なんて呼ばれると、一気に歳をとってしまう気がするという理由から、士度は“旦那様”の聞こえが今の自分には大仰な気がしてならなかったのと、マドカの父親がまだ健在で――居候から一家の主となった身が早々にその様に呼ばれていると心証良からぬのではないかという見解からだった。しかしマドカは自分はともかく士度が“旦那様”と呼ばれることに多少の執着心があるらしく――挙句の果てには“士度さんが口元にお髭を蓄える年齢になったら、<旦那様>と呼んで頂くことにしましょう?”――ね、そうしましょう?――そんな事を言ってくる有様で。

それはともかく――まだ二人が“新婚”と呼ばれるに相応しい頃で、士度が“旦那様”と呼ばれるには程遠い時分の事だった――


日差し穏やかな夏の終わりのある日の午後――いつも通りライオンを枕に午睡を満喫していた士度の隣に、柔らかな花の香りを身にまとったマドカがゆっくりと腰を下ろしてきた――士度がゆるゆると眼を開け、首を巡らせ彼女の方を見ると――今日の彼女はその膝の上に茶菓子やサンドイッチが入ったバスケットではなく、ガイドブックらしき本を持っている――眼の見えないマドカには少々不可思議な光景だ。

と、なると……――
士度じぶんに見せる為にもってきたのかと彼が身を起こすと、案の定彼女はその本をページを開いたまま微笑みながら士度に手渡してきた。
みるとそこにはシンメトリーの豪奢な西洋風の建物が。


「オペラ座っていうんです。」


士度の手元を覗き込むようにその見えぬ写真に触れながらマドカが言った。

今度の海外公演はパリで……ここは普段は文字通り歌劇を上演する場所ですけれど、今回は特別に私とオーケストラのコンサートを催してくださることになって……――


そうだ……一週間後、マドカはフランスへ行くと行っていた――通称、花の都へ。十日間も“旦那様”と離れるなんて寂しいわ……――そんなことをベッドの中で言っていたような気がする……。

しかし、こんな由緒正しそうな――写真上の外見だけでも芸術家の魂と年月の荘厳さを垣間見ることができる劇場で、マドカがメインのコンサートが開かれるとは――
彼女マドカの静かなる実力には今更ながらに舌を巻く。


「へぇ……凄ぇじゃねぇか……」


オペラ・ガルニエ、通称“オペラ座”――写真の脇に書いてあるその建築物の簡単な説明文と、その古典様式とバロック様式の集合体である劇場の写真をもう一度眺めながら士度が素直に感嘆の声を出すと、マドカの頬が微かに染まり――そして彼女は少し恥ずかしそうに、士度をチラリと見上げてきた。


「…………?」


士度は一瞬不思議そうに彼女を見下ろしたが――彼女のその表情、その仕草――それが“何かを士度にお願いするときの合図”であることを次の瞬間悟り――彼の脳内は“彼女のお願い”の中身を弾き出そうと目まぐるしく動きだす――


まさか一緒に来てくれと――?いや、滞在日と俺の仕事が重なっていることはマドカも知っているはず……それに飛行機には
挙式の時このあいだ乗ったばかりじゃねぇか……俺が 飛行機アイツを苦手なこともマドカは知って……それともコンサート用の新しいドレスだか鞄だかが欲しいから買い物を一緒にか……?その位なら今からでもいつでも何処にでもついていって……――


あの……お仕事って9日のお昼にはお帰りになるって……――


「……!!あ、あぁ……一応、その予定だが……」


忙しく回っていた彼の思考を遮るかのように聴こえてきたのは、マドカの遠慮がちな声と――彼の希望的観測が早くもガラガラと崩れ去る音。


「あの……午後の早い便に乗って頂ければ……次の日のお昼近くには現地に着きますから……」


「――!!?し、しかしだな、マドカ……」


確かに――何かがかなり間違って予定が変更にならない限り、マドカが言う日の昼時には帰れる仕事だ――しかし今までは――舞踏会付きの一件を除いては海外の演奏旅行について来て欲しいなどとは一度たりとも言ってきた例が無い彼女が、何故今回になってそんな事を口に出してきたのかが、士度には皆目見当がつかなかった。あまりにも急な話に二の句が告げないでいる士度を余所に、マドカは更に彼の近くに身を寄せながら懸命に言葉を続ける。


「あの……スポンサーの方が、“新婚さんなので、旦那様もぜひどうぞご一緒に”って……私はその日の夕方までオペラ座で音あわせがあるので、士度さんと直ぐには合流できませんが……担当者さんがちゃんと士度さんを空港までお迎えに行って、ホテルにお送りしてくださって……夕方まで市内観光をしてくださるって仰っているんです……夕方にはホテルに戻って着替えて頂いて、そこのカフェで私と合流してお茶をして……そのまま一緒に7時から演奏会に……」

――打ち上げのパーティーは翌日の夜にご招待した皆様と……


「――!!ちょっと待てマドカ……!!俺はいつだってお前のバイオリンが聴けるし、コンサートにだって時間があるときには……」


行ってるじゃないか―――既に最初から最後までスケジュールが決まってしまっている状態に士度は無駄だと何処かで確信しながらも小さな抵抗を試みたが―― 一方マドカは半分涙目になりながらも士度のシャツに縋りつきその愛らしい唇を動かしてくる。


「あ、あの……だって……お忙しいのは分っているんです……私の我侭だってことも……でも……でも……オペラ座でメインで演奏ができるなんて、一生に一度のチャンスかもしれないんです……だからこそ士度さんには聴いてもらいたくて……観客席から見守っていて欲しくて………」


――ダメ、ですか……?


「―――ッ!!」


シャツに縋られ、潤んだ漆黒の眼で見つめるように見上げられ――そんな風に切なげに震える声で、唇で囁かれ、手に指を絡められながらお願いされたら――


――……駄目じゃねぇけどよ………


そう答えるしかないじゃないか―――
飛行機に一人で乗るなんざ真っ平だ――そんな
子供ガキのような言い訳なんざ口にもしたくない――
きっと仕事で疲れている――今、腕の中に納まってるこんなにも小さく華奢な身体で頑張っている
マドカコイツのことを考えると、自分の体力なんざ底無しに近いものだ――それに何より……


「駄目じゃ、ねぇよ……」


「――!!士度、さん………」



彼女の細い頤をそっと持ち上げながら、すっかり伏せてしまっていたその
かおを覗き込むと――彼は今度ははっきりと、肯定の意思を伝えてきた――その優しい声音に――彼女マドカの不安げな表情に柔らかな光が射し、彼の貌を確かめるように彼女はそっと彼の頬に手を添えてきた――その細い指先を覆うのは――彼の温かく、大きな手。


それに何より――傍に居て欲しい――ただそれだけの願いを、こんなにも必死に伝えてくる彼女の想いを愛しいと思わない程――己の心を偽れる自分ではない。


――お忙しいのに……急な話でごめんなさい……


――なんてことねぇよ……


申し訳なさそうに身を寄せてくるマドカの腰を支えるようにしながら、彼は彼女の手にくちづけた。
ピクリと愛らしく動く指先を辿りながら視線を流すと、そこには頬を朱に染め上げる彼女の貌。


――飛行機……苦手なのに……一人で乗ることになって……


――いつか言ったろ……“そのうち慣れる”ってよ……



それでも謝罪することをやめようとしない彼女の唇を黙らせるかのように、その細腰がフワリと持ち上げられたかと思うと――次の瞬間には彼の膝の上でそれ以上声が出せない程に深く、深く舌を絡めとられ、マドカは涙に濡れた瞳を瞑った。


互いに繋いだ左手の薬指がカチリと鳴る愛しい音にマドカの心は更に震え、苦笑するかのように微笑んだ彼の唇から流れ込む慈しみの想いに――胸の奥の鼓動は呼応するかのように柔らかな音色を奏で始める。


秋の初めの午後の風の心地良い冷たさが、微かに火照り始めた二人の肌に優しい足音を残していった――二人の間で吐息が漏れたその刹那、零れ落ちた彼女の涙を――武骨な彼の指が攫い――その細い躰を彼女の想いごと優しく抱きしめることで、不器用な言の葉の代わりを彼女に捧げた。















「・・・・・・・・・・・・」


カフェの時計を見上げると、既に待つこと1時間半……待ち人来ず。



「・・・・・・・・・・・・」



相変わらず機内ではずっと調子が悪くて――あの独特の閉塞感と身体に浸透してくる圧力は未だに慣れなかった――フライトアテンダントが心配するほど機内食にはほとんど手をつけず仕舞いで、睡眠のお供に胃にブランデーを流し込んだ後はひたすら眼を瞑っていたおかげで、そろそろ腹も空いてきた。しかし――今、まず自分に必要なのは外の空気と日の光――こんな無機質な
空間ところではとてもじゃないが飯を食う気になんぞなれやしない――



「・・・・・・・・・・・・」



士度はジーンズのポケットの中から、一枚の紙切れを取り出した――そこには几帳面なアルファベットでホテルの名前が。

市内観光の際に万が一にでも案内人と逸れたら――タクシーに乗ってこの紙を見せれば、宿泊されるホテルに行くことができます――そう言って空港まで送ってくれた執事が手に握らせてくれたものだ。市内観光をする前に(本当は
市内観光そんなものはあってもなくても士度にはどうでもよかったのだが)コイツが役に立ちそうだ――別段個人的な興味がある場所でなし、必要な時には世話役がなんでもござれ、加えてかなり直前まで仕事をしていたこともあって――初めての土地だというのに地図や案内本の用意もなく、土地の言葉も分らず、英語といえば聞いて簡単な事柄を理解できる程度、話すとなると――必要最低限にまで短く……いや、かなり不安で怪しい……。

ぶり返してきた頭痛に眉間に皺を寄せながら士度は残りの珈琲を飲み干した後カフェを後にし――聞きなれないアナウンスが響く空港内の案内板に眼を走らせた。
“Taxi”――目的の文字を見つけるとあとは矢印の方向に進むだけ――何度か同じ場所を行ったり来たりしながらも、途中すれ違った麻薬探知犬がタクシー乗り場の場所を教えてくれたお陰で士度はやっとのことで外に出ることができた――

並んでいた白いタクシーに適当に乗り込むと、褐色の肌の若い運転手が愛想よくフランス語で話しかけてきたが、こちらといえば首を傾げることしかできない――英語で短くフランス語が話せない旨を伝え、ホテルの名前が書いてある例のメモを見せると――帰ってきたのは感嘆するような口笛。


<兄さん、ずいぶんとリッチなホテルに止まるんだね!!そりゃ市内までバスじゃなくタクシーを使うはずだ…!!>


仏語は話せないと言ったはずなのに………Taxiという単語しか聞き取れず困惑顔の士度に運転手は豪快に笑いながら「Let's go!!」とフランス訛りの英語の合図と共に勢いよくアクセルを踏んだ。





走り出してから数十分後――



「・・・・・・・・・・・・・」




やっぱり空港で昼食を食べれば良かった―――士度は緑とコンクリートが物凄い勢いで流れていく外の景色を眺めながら疲労がドロドロと沈殿していくような居心地に顔を蒼くしていた――泊まるホテルがよもや車で一時間近くもかかるところにあるとは思ってもみず――こんなに長く再び“乗り物”に乗ることすら予想外、よくよく考えてみれば、自分は車という文明の利器には裏新宿を出るまでほとんど無縁で――マドカの元に身を寄せるようになっても、音羽邸に出入りをしている運転手や執事、馬車のおっさん、そして仲介屋が運転する車――そのくらいの経験しかなく、そして今日になってやっと理解できたのは――
彼らの運転はみな上手かった・・・・・・・・・・・・・ということだ。
それに比べこのタクシードライバーの運転ときたら――派手なロックをラジオから流しながらもの凄いスピードで急ブレーキ急発進はあたりまえ、自分の運転に酔うように口笛交じりに豪快にハンドルを捌き――乗ったことはないが……仕事先で見かけたジェット・コースターとはきっとこんな乗り心地だろう――グラグラと揺れる頭でそんなことを考えていると突然、


パンッ!!



「―――!!?」


鋭い派手な音と同時に通りを我が物顔で駆けていたタクシーがグルリとスピンをすると、運転手の怒鳴り声と劈くようなブレーキ音と共にその白いタクシーはピタリと止まった――そして周りからは野次やクラクションが鳴り響き――突然の出来事に士度が眼を白黒させる中、運転手はやはりブツブツと文句を言いながら車を降りると、今度は後輪のタイヤの前で悲惨な声を出した。

大方タイヤがいかれでもしたのだろう――そう思いながら渋々と外へでると――案の定見事にパンクしているタイヤを目の前にした運転手の大げさな嘆き方はともかく、久し振りに肺に流れ込んできた外の空気が妙に心地良かった。


Monsieurムッシュー!!悪いがここまでだ…!!この通りタイヤがお釈迦でこんな道のど真ん中じゃ直ぐに交換なんてできねぇからな……目的地までいけなかった侘びだ、ホントは50頂くところだが……しかたねぇ、サービスだ!!30でいいさ!!>



自然の風にホッと一息ついていた士度に運転手は母国語でまくし立ててきたが、士度のいかにも慣れていない「……英語で頼む」の一言に、


<Thirty Euro!!Discount!!>


――同じく不慣れな英語が返ってきた。


(サーティー・ユーロ……30ユーロか……)

ジーンズの後ポケットから財布を取り出してみれば――渡しておいた金を執事が現地通貨に両替して財布に詰めておいてくれた紙幣は50と100の文字が躍るものばかり。


(……確か、欧州では事あるごとにチップも必要だと……)


音羽邸で初めて学んだそんなことを反芻しながら士度が黙って50Euro紙幣を運転手に手渡すと、


<……待ってな、釣り持って来る。>


そう言いながらその若い運転手は車の前ドアに手をかけた―― 一方士度は、その50の数字がついた紙幣で運転手もチップを含めて納得してくれたと思い込み、ナップサックを片手に踵を返す――


<――!?Hey,Monsieur!!>


釣りも受け取らずに立ち去ろうとする客に運転手は思わず声を出した――士度が小さく首を廻らすと、


<気前良くありがとな!!そこの階段を上っていけば サクレ・クールだ!!観光にはもってこいさ…!!>


そう大声で言いながら、目の前に見える狭くて急な階段を指差している――その階段は高い丘へと続き――その頂には眼を引く白く大きな建物が。


(……もしかしてあの丘の上だか向こうだかに……俺らが泊まる宿があるのか?)


親切な運転手だ――士度が片手を挙げることで礼の代わりにすると、向こうも同じように手を振ってきた。


――ホテルに着いたら、まず少し休もう……


運転手と同じように野生的な運転のお陰で未だにグルグルと身体を巡る酔いと闘いながら、士度は丘を目指す階段を少し重い足取りで上り始めた。









「・・・・・・・・・・・」



十数分後――士度の目の前に聳え立つのはホテルのホの字も無く、連なるドームが印象的な白亜の巨大な建物――そしてその周りを行き交う様々な肌の色の観光客の群れ、群れ、群れ。


「このサクレ・クール寺院は1873年に……」


目の前を通り過ぎその建物の裏側に消えていった日本人の観光客の団体から聴こえてきた声で士度はようやく、その立派な建物が死者を追悼するものだと想像はできたが――如何せん今の自分には異国の寺を見学する気も余裕も全く無い。


「・・・・・・・・・・・」


とりあえずこの丘から下りた方がよさそうだ―― 一体あの運転手は何を言いたかったのかと不思議に思いながらとりあえず歩を進めていると丘の下へと続く階段が眼に入ったので――士度は人の波から逆流するように、そのあまり人気の無い階段を一気に駆け下りていった――






「・・・・・・・・・・・」



途中出会った雀に人が沢山集まる場所はどこか(そうすればきっと何か目的地までの手がかりが見つかるだろう――士度はそんなことを考えていた)と問えば南西の方角だという答えが返ってきたので、とりあえず道なりに足を向けてみれば辿りついたのは小さな広場。
こじんまりとした広場に――その周りには数多のカフェが軒を連ね、広場のあちこちで画家たちがイーゼルとカンバスや画板――そして運よく手に入れたお客達を目の前に筆を振るっている、そんな穏やかな活気に満ち溢れた空間に士度は迷い込んでしまった。

大した距離を歩いていないのに妙に疲労感を感じるのはきっと、身体がまだこの地に慣れていないからだ――

適当な店にでも入って食事でもするか――そう思いながら心許無く広場に眼を走らせていると突然――少し腰の曲がった一人の小柄な老人が士度の直ぐ傍までやって来て、彼のシャツをクンッと引いてきた。


「………?」


フランス語で懸命に話しかけてくるその老人を士度が不思議そうに見下ろすと、彼はもう一度士度のシャツを引きながらついて来いと合図を送っている――杖を片手にした優しげなご老体が外国人の自分に何の用だろう――何か手伝って欲しい事でもあるのだろうか……――そう訝しげに思いながらも其処此処に連なる画家達のスペースを縫いながら士度が彼の後をついていくと、連れて行かれたのはカフェと芸術家の塊の境界線に近い、広場のあまり目立たぬ位置。そこにはやはりイーゼルとが画板と椅子が二つ置いてあって……椅子の脇には“Portrait 20Euro~”と書かれた小さな看板が。


「・・・・・・・・・・・・」


老人は席を勧めてくるが、ようするにこのご老体も画家であって客引きだ――悪ぃな……――似顔絵なんぞに全く興味が無い士度がそんなことを日本語で呟きながら踵を返した瞬間再び――彼のシャツは老人の弱弱しい力にしかししっかりと掴まってしまった。


<15Euroでもいいんじゃ!孫に小遣いをやりたくての……そう時間はとらせんので、少しの間でいいから座ってくれんかのぉ……口に合うか分らんがホレ、珈琲もお出しするぞ?>

ステンレスのポットとその脇に置かれた紙コップを指差しながら尚も懸命に士度に言い募ってくる老人が言っていることは彼には全く理解できなかったが――他の画家達よりも分が悪い場所柄、地味な服装、古い折り畳み椅子――あまり客を得ることができていない事は士度にもなんとなく想像ができた。


――丁度どこかで一息つこうと思っていたところだしな……


脚の長い折り畳み椅子の座り心地は必ずしも良さそうには見えなかったが、賑やかなカフェの空間よりもこの日陰の薄暗い一角の方が士度には余程居心地がよさげに見えた――何やら飲み物も貰えるようだ――小さな人助けと自分の休憩も兼ねて彼がその勧められた椅子にナップザックを掛け腰を下ろすと、老人は喜びの声をあげながら上機嫌に温かい珈琲を紙コップに注ぎ、皺くちゃの手を微かに震わせながら士度に手渡してきた――士度の短い礼にもその老人は目を細めながら頷き、イーゼルの目の前に立つと木炭を取り出し早速ポートレートに取り掛かりはじめた。


<お兄さん、一人旅かい?随分と細い眼をしているけれど雰囲気からして日本人かな?フランス語は分らない?バンダナが良く似合っているよ……おや!!肩に雀が来たね!?これは珍しい…!!今日はこれから何か良いことが起こりそうだねぇ……!!>



「・・・・・・・・・・・・」


まるで言葉が分らない士度に対しても老人は飽くことなく話しかけながら木炭を巧みに操っていった――士度の肩にパタパタと舞い降りてきたのは先程この広場を教えてくれた雀――この小さな友人が士度の耳元で片言ながら老人の言葉を真似するように囁いてくれたので、一人黙って座っている分にも退屈はしなかったのだが――


<お前らの言葉は、こんな異国の地でも分るのにな……>


苦笑交じりにそう言いながら蒼い空を見上げた士度に雀は不思議そうに首を傾げた――初めて異国の地を踏んだときは人間はもちろんのこと、海を渡った場所にいる動物たちとも意思の疎通ができないのではないかと心配をしていたのだが、結果的にそれは杞憂に終わった――空を越えても動物達は日本にいるときと同じように人懐っこく士度に話しかけてきたし、獣笛だって……――


ピッ……!!


「―――!!?」


士度の肩の上で突然警戒音を鳴らした雀に視線を移した瞬間、士度の背後をローラーブレードを履いた二人の少年が物凄い勢いで駆け抜けて行き――彼が座っていた椅子に掛けてあったナップザックを引ったくり、行き交う人に当たるのも並ぶイーゼルを倒すのもお構い無しにその小さな広場を駆け抜けて行った――


<――!!?
Au voleur 泥棒だ!!>


手にした木炭を取り落としながら叫んだ老人の一言に、カフェで談笑していた観光客達も、芸術の秋に興じていた画家たちも一斉に顔を上げたが――その直後に高い空に鋭く響いた笛のような音に一同は目を丸くし――そして何かに導かれるように広場から木立ちから小さな森から一斉に飛び立つカラスや鳩や雀や――その他諸々の鳥達の軌跡を追うようにその頭を空へと向けた。

そしてその鳥達の向かった先で上がった悲鳴と同時に、士度のナップサックは放りだされ――それでも盗みを働いた二人の少年は、鳥達の鋭い嘴から逃れられずに広場の外れの石畳の上に転がりながら悲鳴を上げ頭を抱えるのがやっとの状態だ。


「……爺さん、珈琲ごちそーさん。」


士度は財布から適当にお札を一枚取り出し唖然と鳥の群れを見つめている老人の手に握らせると、イーゼルに掛けてあったビニール袋の中にある消し具用の食パンを一握り拝借し、そのまま広場の外れへと立ち去って行った。


<……!!
Merciありがとう……Au revoirさようなら……!?――Monsieur旦那!!>


丁度良いところまで描き上がった似顔絵を置き去りに立ち去ろうとする客人を老人は慌てて呼び止めたが、肩に雀を乗せたままの彼はその声に気づかぬままざわめく広場を横切り、途中ナップサックを拾い上げながら鳥達の群れの中に何ら躊躇することなく足を踏み入れた――


手にしたパンを肩の上の雀に与えながら、そして残りを増えるばかりの掠り傷に悲鳴を上げる少年の近くにばら撒けば、鳥達は一斉に人を襲うことを止め――餌に群がったり、戯れるように士度の腕に舞い降りたり。一方、17~18歳位の二人の少年は、突如目の前に現れた大柄の東洋人がナップサックの持ち主だと気がつくと慌てて逃げようと身体を起こしかけたが、士度は二人に足を引っ掛け再び地面に這い蹲らせると、少年のうち一人が首に巻いていた長いスカーフで二人の手を縛り上げて石畳に転がしてしまった。ナップサックの中の多少の着替えとパスポートは無くしてもどうとでもなりそうだが、今夜のマドカのコンサートのチケットだけは――誰にも渡せない大切なものだ。それを他人にどうこうされて堪るか……――しかし世界中どこにでも――裏新宿の餓鬼共のような輩はいるんだな……――


<Police! Police!>


誰かが警察を呼んだのだろう――万が一状況説明で事情聴取なんざされたら面倒だ――士度が階段を下りかけたとき、ずっと肩に止まっていた雀が名残惜しそうに囁いた。


<サリュー、シド……>


<そうか……お前の棲家はここら辺か……>


少し寂しそうに彼が呟くと、雀は甘えるように士度に一度頬ずりをした後ゆっくりと飛び立った――そしてまだ灯る前の街灯の上から見送るように囀る。


<オ ルヴワール、シド……> <Sault,Shido.....> <Au revoir....Shido.....> <サリュー……>


盗人の足止めを手伝ってくれたカラスや鳩達も彼に心地良い別れの言葉を捧げながら階段の手摺に止まったり、暫く並走して羽ばたいたりしてくる――この国の、意外に綺麗な響きの別れの言葉を士度は思いがけず鳥達から教わった。


旅をすれば、出会いと別れがつきものだ――知っていればあの爺さんや、この街までつれてきてくれた運転手にも言ってやれたのに―― 一抹の旅愁を感じながら未だ喧騒が止まない広場を背後に、士度は長い階段を少し軽くなった足取りと共に降りていった。





<やれやれ……置いていかれてしまったね……?>


久し振りに会心の出来かと思った東洋の青年の似顔絵は、持ち主に見つめられぬままディーゼルの上で鎮座している。しかし何故だろう、満更悪い気はしない――屈強な外見に似ず雀と友達になれるようなあの青年の不思議な雰囲気と、細く鋭い眼差しの奥に垣間見られる仄かな優しさを白い紙に認めていくと、何か……普段とは超越した、そんなことが起こるのではないのだろうかという漠然とした感覚に、最近はあちこち軋み始めて老体が高揚するのを感じていたからだ。

そして老画家は思い出したように手の中にあるお札を確かめてみた――


<―――!!?これはこれは……>


手にした緑色のお札に老人が眼を白黒させていると、山高帽を被った一人の紳士が後ろから話しかけてきた――


「Monsieur、すみませんがその絵を……」













いい加減に腹が減った……―――太陽の位置を見る限り、もうすぐマドカが大好きなお茶の時間だ――

階段を下りきり空腹を抱えながらぼんやりと当てもなく彷徨っていると、士度の眼に偶然飛び込んできたのはあまり客の入っていないオープン・カフェ。そんなカフェの目の前に立っているガラス張りの小洒落た案内板の中には、バイオリンを優雅に奏でるマドカのポスターが貼ってあった――マドカがフランスへ旅立つ前に見せてくれたポスターと同じものだ。
士度は暫くその案内板の前に立ち、彼女が眼を瞑りながら優しく調べを奏でている姿を見つめていたが――彼の感慨を邪魔するかのように思わず鳴った空腹の音に眉を寄せると、とりあえず珈琲以外の何かを胃の中にいれようと、紅と黒の雨避けが印象的なそのカフェに足を踏み入れた――ここなら、彼女の姿を目の端に収めながら食事ができる――そんな柄にも無いことを頭の隅で想いながら。そんな士度が適当なテーブルを探すために視線を走らせていると、すぐさま一人のギャルソンが飛んできて、愛想よく士度を日当たりの良い席へ案内した。


<ようこそCafé
Chatnoirシャノワールへ。お茶ですか?それともお食事?>


何事か尋ねてきた淡い金髪のギャルソンに士度が答えあぐねていると、その給仕は客がフランス語を話せないのだと直ぐに理解したのか

「メニューを置いていきますね?」

英語で親しげにそう言うと、ドリンクメニューとランチメニューの二つをテーブルの上に置いて立ち去っていった。


「・・・・・・・・・・・・」


ここは地元の人間が使うようなカフェなのだろうか……パラリとランチメニューらしき薄い冊子を士度が捲ってみても、絵も写真も載っていない……何が書いてあるかまるで分らない……これではまた……“cafe”を頼むしか手がない……

パラリ、パラリとメニューを捲りながら士度が難しい顔をしていると、不意に向かいの席に誰かが座る気配が――見ると――前髪を眉の辺りで上品に切りそろえたマドカに良く似た黒髪の――しかしその貌は柔和な美しさの中にもどこか勝気な性格を其処此処に垣間見せている澄んだ栗色の眼の白人で、着ている服も腕に竜の刺繍が入った深いVネックの黒いシースルーロングスリーブに、同じく黒に深紅の薔薇の刺繍が入ったコルセット風の衣装を身に着け、スカートもギリギリまで短い黒光りする革製、長く黒い網タイツにヒールの高いロングブーツ……どちらにせよ、一瞬士度の頭を過ぎったマドカとは正反対の格好をした二十歳そこそこの女が目の前に腰を下ろしていた。


「…………?」


誰だ、コイツ……――士度が訝しげに眼を細めると、その女性は屈託なく微笑みながら士度の手からメニューを取った。



<フランス語が読めないんでしょ?私が代わりに頼んであげるわ……シモン!!>


メニュー片手に女が近場にいたギャルソンに向かって手を振る――士度にメニューを渡したのと同じ給仕が、今度は顔を曇らせながらやってきた。


<マリー……お前、また………>


何かを言いかけた給仕に向かってマリーと呼ばれた女は――仕事の邪魔をしないでよね……!!半分は人助けなんだから!!――と鋭い視線で一瞥すると、気を取り直したように食事を注文し始めた。

<Thon Micuit Marche au gingembae et pument d'espelitte, salade de mangue, piquillos er papaye vert, Paleron braise PDT et Nage de furits a la verveine...et un verre de vin rouge,s'il vous plait!!>

<はいはい……>

蒼い眼の給仕は溜息混じりに注文を書きとめると、人知れず士度に同情の視線を送りながら店の中へ入っていった。一方、一人会話に取り残された士度は、満足そうにコチラを振り向いた見知らぬ女に呆気にとられるばかりで――


<ねぇ……300でいいんだけど、どう?>


後でガイドもするわよ……?――


途端、頬杖をつきながら艶っぽく甘えるような声を出してきた女に、士度は今日何度目かの「英語で頼む……」という台詞を口にした。すると女はニッコリと笑いながら頷くと、メモ帳とペンを取り出して何やら書きとめ始めた。士度が彼女の手元に視線を落とすと――

“2h,300Euro+guide”の文字が。


(“h”は確か“hour=時間”の略で……guideは……――!!)


「案内か……!!」

<Yah!! I'll act as a guide for you too !!>


合点がいったかのような士度のリアクションに女も嬉しそうに眼を細めた。彼女も発した“guide”の単語に、士度はやっと希望の光が見えた――ようするに、この女は花月よろしく案内人の類で――高いのか安いのかは皆目見当がつかないが、ともかく二時間300Euroの単位で個人的なガイドをしてくれるということなのだろう……――彼がジーンズのポケットからホテルの名前が書いてある例のメモを取り出して女に見せながら“此処に行きたい”と覚束無い英語で言うと、女はそのメモ書きを見て刹那眼を丸くしながらも、“OK,OK!!”と愛らしい笑顔で頷いた――どうやら交渉成立のようだ。
雇いたい旨をどのように彼女に伝えれば良いのか分らなかったので、とりあえず士度は財布の中から100Euroを三枚取り出し目の前にいる女に手渡した――


<――!!前払いでくれるの…!?Merci, monsieur!!>


女は大袈裟に喜びながら「私、マリーっていうの……!宜しくね!!」と士度に握手を求めてくる始末で――士度自身といえば少々戸惑いながらも自分の名前を告げながら慣れない西洋の習慣にぎこちなく応じた。


<お待ちどう……って、嘘だろ!?交渉成立かよ……!!?>


士度の目の前にマグロとパパイヤのサラダを置き、赤ワインをグラスに注いだシモンと呼ばれたギャルソンはマリーの手元にあるお札の額を一瞥するや、信じられないと言った顔をして女の方を見やった―― 士度はというと――やっとマドカと待ち合わせをしているホテルに向かう目処がついて安心したのと空腹が進んでいるのが相俟って、何やらフランス語で会話をする男女に構うことなくフォークを手にして食事に取り掛かる――


<ちょっと待てよ…!!お前だって彼の左手の薬指に気づいてないはずないだろ!?あの形と柄じゃどっちか分らないが……絶対奥方か
婚約者フィアンセか恋人がいるだろう……!!>

<今更何言ってるのよ…!!だってここはパリよ…!?異国の男は
パリココに夢を求めにやってくるんだから…!!それに後ろめたかった300ポンッと出さないわよ……!!>

でも待って……彼、シルバーの装飾結構つけているから……もしかしてファッションリングかも……訊いてみるわ――

「ねぇ、あなた…結婚してるの?」

<――!!直球かよ!?>

食事中の客の薬指を指しながらコロッと声音を変えたマリーのあからさまな質問に、シモンは思わず顔を押さえた――しかし当の客はフォークを使いながら当たり前のように「している」と短く答え――そしてこのカフェの目の前にある案内板を指差し、ホテルのメモをもう一度女の目の前に掲げた。

<……マドカ・オトワと?> <――!?馬鹿ね!!そんなはずないでしょ!!>

シモンが驚きと共に口にした名前に頷いた士度を余所に、マリーは心底呆れるように即座に否定した――

<だからっ!!多分この高級ホテルで奥さんと待ち合わせして、今夜のあのコンサートに一緒に行くのよ……今日はきっと奥さんとは気分転換に別行動で挙句迷子になって……ほら、彼、サラダ平らげたわよ……!!>


早くメインディッシュを持ってらっしゃいな、訳のわかんないこと言ってないで…!!―― マリーに半ば切れ気味に急かされ、シモンは慌てて店の中へ入っていった――
チラリとワインを口につける彼の方に目を流すと、彼の視線は案内板の方を向いていた――今日のコンサートをよっぽど楽しみにしているのね……――そんな彼の容姿は鋭い目つきながら決して悪いほうではない――むしろ好みだとマリーは思った。それに加えアジアの男には珍しい背の高さと、この屈強な身体つき――きっと相当タフな方だろう――さらに言えば前金を出してくれる羽振りの良さから推測するに恐らくは日本人――それなら世界的に有名なマドカ・オトワのコンサートを遥遥聴きにくるのも納得いく――ちゃんと満足させてあげて、上手くいったらあと50は上乗せしてくれるかも……――

ふと気がつくと、久し振りのお客が下げ忘れられたデザートメニューを彼女に差し出してきていた――彼の分はちゃんと頼んだはずだ……と、なると――


「私に?ご馳走してくれるの……?」


簡単な英語でそう尋ねると、彼は無表情にも頷いた――確かに、二人でテーブルにつきながら一人で食事をするのはあまり居心地が良いものではないだろう――それにしても……


<優しいのね……?>


メニューを受け取りながら静かに言ったマリーの言葉に、彼はほんの少し首を傾げた――そして案外可愛い仕草もするものだ――マリーは小さな微笑を浮かべながら久し振りに触れた優しさに心躍っていた――今日はきっと――思い出に残る二時間になりそうね……――


<なぁ、マリー……そんな仕事しなくても生活費が欲しいならウチで雇ってやるし、小遣いが欲しいならまた昔みたいに向かいの公園に立てばいいじゃないか……!!お前だって、まだ夢を捨てたわけじゃ……>

<~~~!!!煩いわね!!せっかくいい気分になっていたのに……!!いいじゃない、ピガールやブランシュの組織に属しているわけじゃないし、私一人で平和にやっているんだから……!!それに観光客相手だからちゃんと気をつけてすれば後腐れないし………ほら、彼、私にデザート奢ってくれるって……!!ちゃんと紳士じゃない?私にはオレンジとグレープフルーツのジュレと紅茶ね……!!>


士度の目の前にメインディッシュの牛肉とトマトの蒸し煮料理を滑らせながら心配そうにマリーにまくし立ててきたシモンに対して、彼女は青筋を立てながらメニューを突き返した。給仕はというと、本当ならばこの一見強面ながらも実は気の良さそうなお客に一言忠告してやりたかったのだが、目の前にいる女がその隙を与えず――彼はナイフとフォークを手にしたお客を目の端に収めながら仕方なく再び店の中へと入っていった。

一方士度はというと――酸味のあるトマトと口当たりの良い肉に満足しながらも、顔を合わせる度に喧嘩の如くの言い合いをしている案内屋と給仕の関係をいささか奇妙に感じていた。目の前にいる女は、
士度じぶんと話すときはしおらしく見えるのに――髪の色も目の色も容姿も全く違うので兄妹きょうだいには見えない――かと言ってその様子から恋人同士にも見えない、俺や薫流のように幼馴染の類か……?――

まあ、そんなことは無事にホテルにさえ案内してもらえれば自分には全く関係の無いことだが――大して量が多くないメインディッシュを士度がさほど時間をかけずに平らげると、今度はスイカやラズベリーやネクタリンやイチゴ――赤いフルーツの盛り合わせの香草添えが柑橘類のジュレと共にすぐさま運ばれてきた。ギャルソンは相変わらずマリーという女に何やら懸命に話しかけているが、一方の彼女は最早デザートに集中するかの如く、男に対して憮然とした態度で何も返さなかった。

やがて士度の皿とワイングラスが空になると――給仕が持ってきた勘定書きに32の数字があったので、士度は50Euro札を出すとそのまま席を立った。

<ちょっと待ってくれ!!チップを貰ったとしても15は返すぜ!?>

ナップサックを手に取りそのまま立ち去り兼ねないお客を目の前にシモンは慌ててウェストポーチから紙幣と小銭を取り出す――さすがのマリーも目の前にいる彼のこの金銭感覚には目を瞠る有様で。

<宿泊先のホテルといい、この金離れといい……見た目はバンダナだがコイツはきっと良い所のお坊ちゃんだぜ……?>

<………まさか。>


耳打ちをしてきたシモンの声と同時にマリーは士度の上から下までもう一度観察すると、今度は小声で否定した――確かに長い髪をワイルドにバンダナでまとめている―― 一見はどこにでもいそうなチンピラ風の青年だが――けれどよくよく見ると、シャツとジーンズというシンプルな服装は、しかし靴までも紛う事無くさりげに良い品だ――身に着けているシルバーのアクセサリーも、どれも洗練されたデザインで重厚感があるものばかり。その眼光からは無知な浅はかさは垣間見られず、心を見透かされそうな――どこか理知的な風にさえ感じてしまう――こんな……何にも窮した風でない彼だからこそ気まぐれに、私みたいな女の相手をする気になったのかしら……?――

マリーは自分の暗い考えを振り切るかのように小さく頭を振ると、お客の腕に己の細い腕を絡めながら「いきましょ、シド?」と促した――接触した瞬間の彼の驚いた顔が何だか新鮮で気分が良かった――


聖母マリーの名が泣くぞ……>


溜息を吐きながらのシモンの言葉に、


<同じ
マリアマリーでも私はマグダラの方よ……!!>


戸惑う士度に寄り添い歩を進めながらマリーは振り向きざまに小さく舌を出した。

そんなマリーの一方的なお喋りとハイヒールが石畳を行く高い音が角に消えて聞こえなくなるまで、シモンは二人の背中を見送っていた――そしてふと落とした視線の先にあった少し派手な口紅の付いたティーカップに向かって、彼はもう一度、小さな溜息を吐いた。








「ここよ、私のアパート。」


「………?」


カフェから歩いて十分少々――石造りの小さな二階建ての建物を指差して、マリーはウィンクをしながらコルセットの胸の辺りを摘む素振りを見せた――


――あぁ、そうか……


夕暮れ近くなって外も少々冷えてきた――案内前にその薄い上着と必要以上に短いスカートを着替えるんだな……そのままじゃきっと、黙っていても風邪を引く――

そんな、ある意味至極健全な解釈と共に、士度はマリーに手を引かれるまま一緒に二階へと上がっていった――自分は玄関の前で待つつもりでいたのだが、彼女が手を離そうとしなかったので士度は半ば強引に彼女の部屋の中に入れられてしまった。

――そこは入って直ぐ小さなダイニングキッチンとシンプルな居間が見える狭い住まいで――


「ね、そっちの部屋で待ってて?」


マリーがコルセットの紐を解き始めたので、士度は慌てて彼女が指し示した奥の部屋の扉を開けて中へ入った。ここまで来る道中といい今の着替えといい……異国の女というものは異性に対してあまり節度や遠慮というものがないのだろうか……?――少々ゲンナリしながら顔をあげると、士度の目に深紅のベッドカバーが飛び込んできて――その狭い部屋一杯に置かれているのは唯一、一台のダブルベッドだけ。


「・・・・・・・・・・」


何だってこんなところで待たなきゃならないんだ………――三歩前へ進めばもうベッドにダイブするしかない狭すぎる部屋に辟易しながらも、案内人が着替えをしているであろう扉の向こうに戻るわけにもいかず……


「・・・・・・・・・・」


ホテルに着いたら着替えをしてマドカを待つ前に、少し横になる時間があるだろうか……――そんなことを考えながら手持ち無沙汰に士度が扉の前に突っ立っていると、


<お待たせ~!!>


マリーの明るい声が聞こえたので、やっと出発できると彼はドアノブに手を掛けた――

しかしその扉は士度が力を入れるよりも先に開かれ――


「―――――!!!?」


目の前に現れたのは肌の色まで透けるような薄いブラックランジェリーのみを身に着けたマリーの姿。半ばパニックに陥った士度を、マリーはガーターベルトで留められた細かい網タイツで包んだ細い脚を軽やかにステップさせることであっという間に三歩下がらせると、そのまま押し倒す勢いで彼の首筋に飛びつき、士度が状況を完全に理解する前に彼の背をベッドへと預けてしまった。


「~~~ッ!!ちょっと待て!!お前ガイドじゃないのか!?」


思わず後ずさりながら声を荒げた士度を、その細い躰で圧し掛かるように追いかけながらマリーは事も無げに言う――


「“ガイドも”って言ったじゃない?300前払いで貰ったんだもの……普通コッチが最初でしょ?」


――楽しみましょ?


深紅のルージュで妖艶に彩られた唇をピンク色の舌でチロリと舐めながら、マリーは悪びれもせずもう一度ウィンクをしてきた。


「~~~!!そんなつもりはない……!!」


案内屋だと思って雇った相手は実は春を売る女だった――
こうやって客商売をする女共は無限城にも居たじゃないか……!!――体調不良のせいか、慣れない街にいるせいか――ともかく自分の迂闊さに内心舌打をしながら、肩に手を掛けてきた彼女を力任せに引き離すと、女は吃驚したようにペタン……と彼の膝の上に尻餅をつく――力を入れすぎたか?――士度が慌てて彼女から手を離すと、マリーは士度を覗き込むようにしてとんでもないことを訊いてきた――


「こんなに嫌がるなんて……あなた、もしかして……ゲイなの?」


「~~~~??!!違う!!」


――じゃあ、いいじゃない……!!

そんな勝手なことを言いながら士度のシャツをたくし上げ、カチャカチャと勝手にベルトを外し始めた彼女を止めさせようとその華奢な肩を掴もうとしたとき、彼女の白い掌がジーンズの上から徐に彼の中心に触れてきた。


「―――!!!」



直接ジーンズなの?ワイルドね……やっぱり、好みだわ……――


何事かを呟きながらマリーが胸元から取り出した小さな四角い袋を口に銜え――そしてその細い両手をもう一度彼のベルトにかけようとしたそのとき――


<―――!!>


あっという間に躰が反転させられ、次の瞬間には天井が見え――そして気がつけば彼の冷ややかな視線が彼女を見下ろしていた。



「……悪ぃが、こうやって遊ぶ趣味も暇もないんでな………」



それはマリーにとって聴き慣れない異国の言葉だったが――視線を切り裂くような彼の怜悧な眼差しと、心を抉るような深い声で――今までになくはっきりと拒絶されたのだということを、彼女は嫌が応でも思い知らされる。

彼女がショックを受けてしまったようにすっかり固まってしまうと――彼はベッドに押さえ付けていた彼女の両手を急に離し、床に落ちていたナップサックを拾い上げ、何も言わずにベッドルームから出て行ってしまった。


<…………>


マリーは放心したまま身を起こすと――刹那自然と零れ落ちてきた涙に自分でも驚いたように目を瞬かせた。


<…………ッ……>



いくら瞬きをしても止まらぬ涙、声を押し殺そうとしても漏れる嗚咽は、彼に対する恐怖からではなく――あの視線に竦んだ心がどうしようもなく揺れているからだ――怒りや蔑みを越えた彼自身の強い意志を叩きつけられ――自分の、誰かに救いを求めるような渇いた心を見透かされて――

暖かくなることを望んでいた彼女の白い肌は見る間に冷たくなり、
繻子サテンのベッドカバー零れ落ちた彼女の涙が、その紅を更に朱に染めた。冷たく閉ざされた扉の向こう側からやがて聞こえてくるであろう、玄関のドアが閉まる音を聴きたくなくて――マリーは細く白い膝を抱えながら、涙に濡れた顔を伏せた。








「・・・・・・・・・・」


キッチンに掛けてある時計を見上げると時刻はもう4時に近かった――彼女とホテルのカフェで落ち合う約束は5時半――7時から始まるコンサートを前に、どうしても一度顔を見たいから――そう言ってくれた
彼女マドカの為にはなんとしてでも時間までにはホテルに辿り着きたい……――

思いがけず襲われる危機から脱したのは良いがさてどうしたものか――時間の確認の為に、ナップサックから封筒に入ったチケットを取り出してみると、一等席の自分のチケットに重なって、もう一枚、三等席のチケットが。確か急に渡仏できなくなった仲介屋の友人の分をマドカに戻してくれと預かった一枚……。


「・・・・・・・・・」


士度はその二枚のチケットが入った封筒を片手に、思案するように眉を寄せた――このチケットをただの紙切れにしてしまわない為にも……外に出てもう一度タクシーを拾うことを試みるか……それとも……


すると――何気なく泳がせた士度の視線の隅に入ってきたのは、音羽邸で見慣れた譜面台――音符が見えないマドカが楽譜を読むことは無いが、時々訪れる伴奏者や同僚の為にレッスン室に何台か置いてあるのを士度も度々目にしていた――そして脱ぎ散らかされた衣服が無造作に掛けてある色褪せたソファの上にそこだけ妙に整然と置いてある、古びたバイオリンケース。


「・・・・・・・・・」


士度が譜面台の前に立つと、立てかけてある楽譜にはビッシリと何かを書き込んだ跡が――そして士度はソファの上のバイオリンケースにもう一度視線を落とすと、良過ぎる自分の耳に嫌でも聞こえてくる女の啜り泣く声にますます眉を寄せながら――少々困惑気味に頭を掻いた――









<………ん、お金なら……返すから……>


再び鳴った寝室の扉が開く音にマリーはビクリと肩を揺らすと、涙を拭きながら言い訳のように呟いた――しかし目の前に現れた彼が思いがけず手にしているのは――ソファの上に脱ぎっぱなしだった薄手のセーターとロングのタイトスカート、それにコートハンガーに掛けてあったトレンチコート。
士度はそれらの衣服を彼女の目の前に放ると、ホテルの名前が書かれたメモを無表情にもう一度彼女に見せた。


<………ッ……あなた本当に……彼女のところに行きたいんだね……>


マリーは困ったように微笑みながら、彼の左手に光る指輪を切なげに見つめた――よく見るとそこには比翼の鳥の紋様が――それは男女の深い契りの証。


<愛してるんだ………じゃあ私なんかがいくら誘惑しても躯すら手に入らないはずだよね……>


どこか少しぎこちなく差し出されたハンカチを受け取りそれで涙を拭いながら、“今、ちゃんと着替えるから……”――マリーはそう言うと、ベッドの上に投げ出されたスカートに手を掛けた。彼女の意図を理解したのか、彼は頷きながら再び寝室から出て行く。


<……律儀な男……>


今の今までほとんど裸同然の下着姿を目の当たりにしていたというのに上着とスカートを身に着けるときにすら、わざわざ席を外すなんて……裏組織と関わりを持ちたくなくて、歓楽街ではなく観光地の麓にあるカフェで――迷い込んできる観光客を週に1回か2回、相手にすれば食うに困らずの毎日。例え左手の薬指に輝くものがあったって……ちょっと甘えて、可愛い声を出して――アパートに連れ込んでしまいさえすれば、いつもなら上乗せがくるくらいの商売が簡単にできていたのに――

セーターを手繰り寄せながらマリーは零れ落ちてきそうになる涙をもう一度拭うと、今度は悲しいのか可笑しいのか――噴出したくなる声を静かに殺した。

そしてあの男にそこまで一途に思われている彼の先にいる女性が――どうしようもなく羨ましかった。












初めて任された大きな仕事――それは世界的に有名なマエストロのご主人を空港まで迎えに行って、パリの街を案内して、ホテルまで送り届ける――ただそれだけのことであったのだが――上司からその案内係に指名されたコンサートを主催するスポンサーの二人の新人社員は、パリを初めての訪れる日本人が好みそうな観光ルートをそれこそ寝る間も惜しんで何パターンも調べ尽くし――空港からパリ中心部、最後の観光スポットからホテルまでの距離とかかる時間――その方の昼食の好みが何にせよ即座に対応できるように、あらゆるジャンルのレストラン――それら全てを抜かりなく文面化して毎日手元で検討していたのに――最後の最後に、最悪の事態が彼らに降りかかってしまった――その計画書の最終稿を清書する際に――睡眠不足のせいで脳が溶けていたのか、それとも単純なタイプミスか――お迎えする方が搭乗されている飛行機の“到着時刻=11時”のところを“1時”と打刻してしまったせいで――その失敗に気がついたときには時既に遅しの11時ジャスト、慌てて車を飛ばして国際空港へ向かえば、運悪く渋滞に巻き込まれて冷や汗塗れで到着したのがそれこそ1時過ぎ――当然の如く客人は最早空港にはおらず、航空会社に問い合わせてみても、“そちらの便は定刻通りに到着致しました”という彼らにとっては非情な答えが返ってくるばかりであった――大学で日本学を専攻していた仏人の新人は、相棒の日本人の青年に“サムライが切腹するときの心情がやっと理解できた”と空港からパリ市内に戻る車の中で呆然と呟き、方やその日本人の相棒は、今の時点から首を切られるまでの過程をハンドルを嫌というほど握り締めながら分刻みで想像せざるを得なかった。
怒鳴られるのを覚悟で上司に一部始終を報告すると――案の定烈火の如く罵声を浴びせられたが、マエストロ・音羽がオーケストラとのリハーサルを終えホテルに到着する5時半までにパリ中をひっくり返してでもムッシュー・冬木を見つけ出せ!!――との命令が下ったので、新人二人組はそれこそ血眼になってパリ市内のありとあらゆる観光地を虱潰しに探したが――事前に音羽嬢から聞きだしたご主人の特徴――身長は182cm、躯つきはガッシリとしていて、目つきは少し鋭いけれどきっと優しい眼差しをしていて、たぶんワイルドな感じで、額にバンダナを巻いていて、肩に時々鳥を乗せている物静かな人――そんな目立つ日本人はどこにも見当たらなかった――そして更に運が悪いことに――5時に終わるはずのマエストロのリハーサルが順調に進みすぎ、20分も早く終わってしまったのだ――

そして彼女はリハーサルが終わるや否や、伴侶の観光を一手に引き受けたスポンサー会社の担当責任者に対して満面の笑みで訊ねたのだ――

「士度さんは……主人はもうホテルに戻っていますか?」


――と。そして二人の新人の上司にあたる人物が肝を冷やしながら搾り出すようにして答えた現実に――マドカは顔を真っ青にしながら卒倒しかけ、眩暈に揺れたその細い身体を隣で同じく顔を蒼くしたマネージャーと近くで目を丸くしていたオーケストラの指揮者に慌てて支えられる始末で。




<………クビだってよ。>


テアトル広場で怒声と共に切れた携帯電話を力なく握り締めながら新人社員は肩を落とした――後50分で冬木氏を見つけられなければ……明日からもう来るなってさ……――
“警察を……”“苦手な飛行機に乗った後はきっと具合が悪いはずなのに一人でなんて……”“ホテルにも着いていないなんて、きっと何かあったんだわ……!!”――そんなマエストロ・音羽の涙ながらの声をボスの怒鳴り声の奥から聴いてしまえば、自分達が仕出かした事の重大さを否が応でも思い知らされる――すっかり放心してしまった相棒に力なく返事をしながら、仏人の片割れは深くなった夕焼けの色を哀しげに見つめ、その視線を広場で後片付けをし始めた画家達に何とは無しに流した――


<―――!!?おい!!あの絵!?>


一人の中年の画家が最後に仕舞おうとしていたカンバスに描かれているのは――数多の鳥に慕われるように囲まれた、背の高い男性の後ろ姿――その額には見慣れぬバンダナがはっきりと描かれている。


<――Hey!!monsieur――!!その絵…その絵……!!> <いつ、どこで描いたんだ!!?>


転がるように目の前に飛び込んできたスーツ姿の二人の青年にその画家は目を白黒させながらも、満足そうにその絵を掲げた――


<――めったにお目にかかれない良い構図だろ?二時間ほど前かな……ここ一年ばかりこの広場で盗みに脅しに営業妨害に――悪さをし尽くしていた悪餓鬼共をこの人がひっ捕まえてくれたのさ……>

<鳥がなぁ……カラスや雀や鳩共が、その男の言うことを理解するかのように動いてたんだぜ?不思議な光景だったなぁ……>

隣で帰り支度をしていた画家も、物語を語るように呟いた。

ホラ、その時分に居たここいらの画家達は皆何かしら“表現した”はずだぜ?――その光景をよ……――


何処からか聞こえてきたそんな声に青年達が顔を上げると、残っていた画家達の手にあるのは――


風に戦ぐシャツやバンダナ――肩の上の雀――逞しい腕に舞い降りるカラス――静かな眼差し――鍛え上げられた躯――そして青年の、精悍な貌―――それらをありとあらゆる角度から、それぞれのタッチで。


<それで………この人は……今はいったい何処に……>


すっかり渇いてしまった喉でやっとのことで搾り出してきた青年の問いに、画家達は顔を見合わせながら残念そうに答えた。

<さぁなぁ……ポリースや野次馬が集る前にどっかに消えちまったもんなぁ……>

<感謝状モノだって言ってたんだがなぁ……どう見たって地元の人間じゃぁなかったな……>


<………!!で、彼はどっちの方角に……>


画家が指差した階段は確かに――本人は分っていたのかいないのか、彼が向かうべき方角だった。
二人の青年はお礼も画家達にお礼をいいながら、片方は携帯電話を、片方は車のキーを取り出しながら絵の中の人物が鳥達と共に下っていった階段を猛スピードで駆け下りて行った――





着替えを済ませ、涙ですっかり落ちてしまった化粧を直したマリーの姿は――やはりその髪型も相俟ってだろうが、先程の仕事着仕事メイクのときよりもやはり少し――ほんの少しマドカに似ていると士度は思った――会いたいという思いが――陽が傾くにつれ募るせいだろうか――



改めて外へ出ると――彼女はもはや士度と腕を組もうとはしなかったが、それでも彼に精一杯近い位置を歩いた――女性のエスコートに慣れているのだろうか――
自分マリーの歩く速度に自然と合わせてくれる彼の優しさが妙に擽ったかった。

マリーはアパートから歩くこと十数分の位置にあるメトロを使い、迷子の彼を目的地にまで連れて行ってやることにした。7つの駅を滑るパリ名物の地下鉄の様子にも彼は大して興味を示さず――しかし気づいたのは、車内から時折見える駅の時計には視線を固定させていたこと。けれどマリーは彼が気にしている時間をあえて訊かなかった。ホテルに着くまであと少し、そのほんの少しの間くらい――彼を独占していたかったから――


<ほら、コンコルド広場よ……?>


メトロを降りて目の前に見える天を目指すオベリスクを指差しても、彼はチラリと視線を流しただけで――“今は”なのか“いつも”なのかは定かではないが――観光というものに、本当にまるで興味が無いようだった。
マリーは小さな溜息をつきながら、士度を促し街の中に鮮やかに広がる緑の公園の中に入っていった――本当は脇の道路沿いを真っ直ぐに行けば、すぐにホテルが見えてくるのだけど――パリの穏やかな部分を少しでも見せてあげたくて。

すると――自然を目にしたせいか、公園に入ってから彼の表情が少し和らいだ気がした。歩道を飼い主と共に散歩する犬達は不思議なことに彼とすれ違う度に士度を見上げ、嬉しそうに尻尾を振ってきた――それを見下ろす彼の視線もどこか優しげで――


<動物……好きなんだね?>


自分には向けられたことのない彼のそんな眼差しをマリーが哀しそうに見つめながら独り言のように呟くと、


「そうだな……」


短い英語で思いがけず返事が返ってきた――


<――!!ねぇシド…!!フランス語が解るの!?>


少し先を歩いていた彼にマリーが驚いた声を上げながら追いつくと、彼女の顔を見下ろしてきた彼はやはり少し困惑顔だ――そしてやっぱり「英語で頼む……」の小さな一言が。


<……さっき、ちゃんと返事をしたじゃない……――!?>


マリーが不満そうに士度を見上げると――彼の脚を伝って肩まで昇ってきたのはこの公園に住む一匹のリス。驚くマリーを余所に、士度はそれがまるで当たり前のようにその小さな友達の相手をしてやっている――マリーが恐る恐るそのリスに向かって手を伸ばすと――<――!!>短い口笛と共に士度に何かを囁かれたリスは、愛想よくマリーの肩に飛び移ってきた。

やっぱり、彼は不思議な人だ―――今までで一番穏やかに降りてくる彼の視線に密かに頬を染めながら戯れてくるリスの相手をしてやっていると、向こうの木立の間に見えたのは――彼が一心に目指していた、ホテルの名前。


<………シド、あのホテルよ………>


「―――!!」


マリーは一度目を伏せ――馬鹿正直な自分を心内で叱咤しながらも、彼の背後を指差した――すると彼は弾かれたように後ろを振向き――そして例のメモの内容とその豪奢でいて上品な看板の名前を確認すると、ホッと小さな溜息をついたようだった。

<あ……あのお金……>


返すから……――マリーが小さなバッグから財布を取り出している間に、士度も唯一の荷物の中から何かを手にしたようだ――


<……?――!?これ……!!>


彼女が差し出した紙幣を受け取らず、代わりに彼が手渡してきたのは一枚のチケット――見ると今夜オペラ・ガルニエで催される世界的なバイオリニストの公演の……


<――!!しかも三等席って……私、七等の抽選にも漏れたのに……>


震える声で呟きながらマリーが彼の貌を見上げると、そこには真摯でいて慈しみ深い眼差しが――



「マドカの音を聴いて――俺の中で何かが変わった――同じように楽器に触れるアンタなら尚更、何か感じるものがあるはずだ……」


<―――!!……シド………>



彼の深い異国の言葉は、それでも確かにマリーの心の奥に辿り着いた――浸透する胸の高鳴りと、別れの悲しみに再び零れる涙を彼に見せたくなくて――チケットを握り締めながら思わず顔を伏せたマリーの髪を、彼の大きな手がクシャリと撫でた。



<……Sault,Marie.>


<………!!>



その
ふかい声に導かれるようにマリーが慌てて顔を上げると――彼は静かな微笑を彼女に向け、やがて駆け出した彼の足音は緑の向こう側へと吸い込まれるように消えていった。



<Sault……Sault,Shido.....Au revoir……>




別れの言葉は声にならない音色で唇に乗せながら――とめどなく頬を伝う涙を、マリーは拭わぬまま――去っていった彼の影を追うように、暫くその場を動けずにいた――


肩の上のリスもいつの間にか、その姿を消していた。













<――だから、きっと一目でわかるはずなんだ……!!もし“身長は182cm、躯つきはガッシリとしていて、目つきは少し鋭いけれどきっと優しい眼差しをしていて、たぶんワイルドな感じで、額にバンダナを巻いていて、肩に時々スズメだかカラスだかを乗せている物静かな……紳士……?”だかがこのホテルに着いたらそれはマエストロ・音羽の……>


<……肩にスズメもカラスも乗せてはおりませんが、目つきが鋭いそのような風貌のお方でしたらお客様方の真後ろに……>

<~~~!!> 「~~~~!!冬木様!!」


ホテルのフロントに迷子のお客の説明を念入りにしていた二人の新人社員の首がtimeリミットをあと15分残すところで繋がった瞬間であった――

やっと着いたホテルに入るや否や、目には薄っすらと涙すら浮かべながら謝ったり礼を述べたり感激したり安心したりしながら慌しく名刺を差し出してきた二人の青年に面食らいながらも、受け取ったカードでこれが本来の“案内人”だと理解した士度がいの一番にマドカの所在を訊ねれば、


「マエストロ・音羽は……(ご主人が行方不明の知らせを聞いて心痛のあまり卒倒しかけたのでそれを落ち着かせる為に)マネージャーや指揮者の方と先程までオペラ・ガルニエでお茶を……しかし予定通り十五分後にはこちらに到着される手配になっております。」

目の前にしてみれば怒らせるのは絶対に不味そうな客人に対して大事な部分を念の為削除しながら述べた日本人の青年の後ろでは、仏人らしき青年が喜びの声を押し殺すかのように携帯電話で何やら報告をしているようだ。


「……それならシャワーを浴びて髭を剃るくらいの時間はあるな……」


久し振りの再会の刻ぐらい、サッパリとした出で立ちでいたいものだ――
マドカを待たせることなく時間までに辿り着けた安堵感を胸にそんなことを考えながらポツリと呟いた士度の言葉に新人社員は慌ててボーイを呼ぶと、「只今直ぐにお部屋へご案内致します……!!」と士度を最上階へ続くエレベーターへと誘導しはじめた――肝心の客人が我関せずとあまり聴いていないにも関わらず――遅刻とすれ違いの説明を道すがら懸命に囀りながら――


士度が予想だにしなかったほど心配をして警察に捜索願いを出す寸前だったマドカがスィート・ルームのシャワー・ルームに濡れるのも構わず飛び込んでくる少し前に――士度はようやく、本当に安堵の溜息を吐くことを許された。













<あ、お爺ちゃん…!!今日はちゃんと時間通りに戻ってきたのね……!!>


太陽がすっかり顔を隠してしまった頃、小さな一軒家の庭戸を開けた老人に若い娘が声を掛けた。


<あぁアンヌ……!今夜、夕食のときに一緒に聴きたいラジオ番組があると言ったのはお前じゃないかね……?>


孫娘にそう答えながら老人はガレージにイーゼルや画材を積んだカートを仕舞うと、この日描いたたった一枚の絵を小脇に大事そうに抱えながら、暖かな光が漏れるささやかな団欒の場へと入っていった――


<ほれ……コレと今までの分と……お前のアルバイトのお金を合わせれば、新しいビオラが買えるだろう?>


<―――!!お爺ちゃん……!!今日はそんなにお客さんがきたの?>


祖父が差し出してきたいつもの五倍もの額面の紙幣を驚きを隠さず受け取りながら、孫娘は彼が唯一持ってきた人物画に気がついた。


<このお客さんがね、くださったんだよ……>


オマケにこの不思議な出来事を明日の新聞に脇にでも小さく載せるとかで、青年の写真を撮り損ねた新聞記者がこの絵の写真を撮っていったりもして――老人はそのポートレートを大事そうに撫でると、<新しいビオラが手に入れば、音楽学校へ入る練習をお前もやっと満足にできるなぁ…!!>と感慨深げに呟いた。


<ありがとう…お爺ちゃん!!お爺ちゃんが今まで絵を描いて協力してくれたお陰よ……!でも、ね?足りなかったのは後50Euroなの……だから残りの50Euroで……>


明日一緒にお爺ちゃんの新しいセーターを買いに行きましょ?明るい色のセーターを着れば、きっともっとお客さんが来るようになるわ……!!――孫娘はそんなことを笑顔でいうと、少し照れた表情を隠し切れない祖父を食卓へと導き、ラジオのチャンネルを捻った。

<……何の番組だい?> 

パイプに火をつけた祖父に、夕食の準備をする母を手伝うために席を離れたアンヌの明るい声が聞こえてきた。

<マドカ・オトワっていうマエストロが今日オペラ・ガルニエでコンサートをするの……!!ほら、私がよく聴いている盲目の日本人の女性バイオリニスト――私、CDは全部持ってるわ!チケットは即日完売で、でも結局七等席でも高すぎて手がでなかったけど……今夜ラジオで生放送するの……!!後三十分程で開演のはずよ?>


――それにしてもお爺ちゃん、その絵の人カッコいいじゃない――!!いつ取りにくるの?


台所の向こうから聴こえてきた少女らしい高い声に、老人は目を細めながら今は暖炉の上に立てかけてある凛々しい青年の絵姿を、パイプの煙の向こう側にまるで心地良い幻を見るかのような表情で視界に納めた。


<さて……ね……?きっとずっとココに居そうな気がするなぁ……>


老人はそう呟くと、名も居場所も知らない、ただ記憶と一枚の姿を残していった青年の深い異国の声を思い起こしながら――再び嬉しそうにその目を細め――天井高く穏やかに、パイプの煙を燻らせた。















放心状態でオペラ座を出たときは、10時をとっくに過ぎた頃だった――それぞれの心に、耳に残る今宵の音の調べの余韻を誰もが皆満足そうに、そして各々の感動に浸りながら帰路につく中、マリーも初秋の夜の風に薄いトレンチコートの襟を合わせながら少し高いヒールを鳴らし、夜の路を歩き始めた――
マエストロ・オトワの演奏は百近いメンバーからなるオーケストラの面々を従えながらも彼女の存在が、音が、そして奏でるその調べが――オペラ座の天井に燦然と輝くどのシャンデリアよりも凛と美しく華やかに聴衆を圧倒し、パリの街で生まれる音の全てを包み込むかの如く優しく柔らかな旋律でその場にいる全ての者を虜にした。プログラム終了後も、大喝采のカーテン・コールは鳴り止まず、アンコール曲を奏でること三回――ラストのアンコール曲の前に、今まで一言も口を開かなかったマエストロの声が静かに劇場に響いた。


最後に――今日、私の――私達のコンサートを聴いてくださった全ての方々の為に――そして誰よりも愛する貴方の為に――この曲を贈ります――


そして見えない彼女の瞳は確かに――貴賓席の一角に向けられたのだ。


――愛を謳う最後の曲は確かに――劇場で、ラジオで――彼女の調べに耳を傾ける全ての人の心に、愛の喜びと愛しさの美しさを優しく刻みつけていった。



そんな彼女の音色に魅入られて、酔わされて――あっという間の三時間――
彼女マエストロは最近一般人と結婚したと聞いた――あの音に誰よりも近くで耳を傾けている男性ひとはいったいどんな人だろう――きっとどこかで奥さんと……彼女の演奏を聴いていたバンダナの彼も、私と同じような気持ちになったのかしら……――そんなことを思いながら魔法の様に降ってきた一日の余韻を反芻したくて、マリーは静かな夜のヴァンドーム広場を抜け、彼と別れた公園近くまで散歩がてらに足を運んだ――そして夜の緑に懐かしそうに目を細めると、公園沿いに彼と最後に降りた駅目指して歩き出す――すると、公園脇の茂みから何やらガサガサと音がしたかと思うと、一匹のリスが彼女の目の前に飛び出してきた。


「――!?アンタ……」


あのときの、リスなの……?――マリーが舗道屈み、半信半疑で手を差し出すと――そのリスは肯定の意思を示すように、マリーの肩まで駆け上がってきた。


「お前……こんなところまで出てきちゃ、車に轢かれちゃうよ……?」


そう言いながらマリーが歩き始めても、リスは首を傾げながら彼女から離れようとしない――

――……私と一緒に来る?メトロに乗るときはコートのポケットで大人しくしててね……?――そんなことを話しかけると、まるで言葉が通じているかのようにキィキィと返事をする小さな友達――名前をつけてあげようか…?そうね……それなら……――?

キュイッ……!!

肩にいたリスが突然鋭く、呼ぶような声を出し道路の方へ首を巡らしたので――マリーも反射的にそちらの方を振向くと――向こうから走ってきたのは高級リムジン――そしてその後部座席に座っていたのは、マエストロと――


<―――!!?>


すれ違ったのは一瞬だったが――気づいたのは相手の方が先だったように思う――髪型も、服装も違ったけれど――刹那の驚いた貌の後、静かに向けられたその表情は――夕暮れ時の公園で、最後に見た
あたたかさと同じものだったから――


そしてリムジンは静かに、マリーから数百メートル後方で上品なライトに包まれて夜の中に輝いている、今日の迷い人が目指したあのホテルの前で止まった。



<……行こっか……?>



マリーと同じように後ろを振向いていたリスに明るく声をかけると、新しい友達も満足したかのように目を細めていた。


マリーは彼が車から降りてくる前に歩き出した――どこか優しげな――誰かを懐かしむような貌で――そして駅に着くまで――後ろを振り返ることはなかった。




「――?お外……どなたかお知り合いでも……」



いたんですか?―― 一瞬、何かに注視するようにリムジンから外に視線を流した士度にマドカが不思議そうに問い掛けると、あぁ……――と呟く声が返ってきた。


「ホテルの向かいの公園で知り合ったリスがいたんだ……」


案外お前の音、公園まで聴こえていたのかもな……?――そんな珍しい士度の冗談にマドカは頬を染めながらも、士度の手に指を絡めながらまんざらでもなさそうな表情で微笑みかけてきた――


リムジンを降りても、士度も舗道を振り返らなかった。彼の逞しい腕にその細い腕を絡めるドレス姿のマドカとともに――彼は黄金と橙色の光の中で最上級の礼節と共に彼らを出迎えている今宵の宿にその身を溶かした。













いつものカフェに何となく足をむけると――案の定そこは店仕舞いの後の後片付けをしているところで。
ガラスの向こうにモップを使って一人床磨きをしている知った顔が見えたので、マリーはコツコツとウィンドウを叩いてみた――すると気付いた彼は内側からすぐに扉を開けてくれた。


<……ナッツか何かある?この仔に晩御飯をあげたいの……>

<よく慣れてるな……しかもお前は昼間と違って珍しく随分とまともな格好をしてるじゃないか……>


給仕はマリーの肩の上で大人しくしているリスに口笛を吹くと、今度はコートを脱いだ彼女の姿に目を丸くした。


<随分と遅い店仕舞いね…?今日は何かあったの?>


――綺麗に話を逸らしながら店内を見渡したマリーに、シモンもカウンターの中でナッツの缶を開けながら特に気にした素振りも見せずに答えた。


<ほら、あの客も聴きに行くって言っていたマエストロのコンサートのラジオ中継を流してたらさ……客がなかなか帰らなかったんだよ……ワイン片手に心地良いクラシックを聴きながら、今宵ばかりは庶民もリッチな夜を過ごせたってわけだ。――そういや、お前は何処に行ってたんだ?>


――ずっと
あの客バンダナと一緒に居たのか……?



ふと彼女の方を見ると――彼の質問が聞こえたのか聞こえなかったのか――彼女は手を甘噛みしてくるリスとカウンターの上で戯れていた。



<あなたは間違ってなかったわ、シモン――>


――……マドカ・オトワと?―――


彼の問いには答えずに――昼間真っ先に否定してやったシモンの言葉を思い出しながら、マリーは口元に優しい微笑を浮かべた。



<……なんだ、アイツに酷いことでもされたのか……>


しかし返ってきたのは一つだけ椅子を下ろしたカウンターにつまみの残りを出しながら、視線を上げずにこの台詞。


<ううん、彼は素敵な思い出よ………>


カリカリとカシューを齧りはじめたリスの頭を優しく撫でながら、想う瞳を瞬かせた彼女の姿にシモンは小さく目を瞠った。


<そうか……それで、またお前……>


………――言いかけた言葉を飲み込み、どこか憮然としながら再びモップを動かし始めるシモンにマリーの口元が小さな弧を描いた。



<……ねぇ、まだ私の事、雇ってくれる気、ある?>

<――!!>


……そんなに驚くことないじゃない……ねぇ?――思わず掃除の手を止め唖然とするこの店のギャルソンにマリーは呆れたような顔をすると、リスに同意を求めながら続きを促した――


<……そうなったら週5は出てもらう……ウチの店で客取る暇なんざ与えないぞ……?>


もうすっかり綺麗になってしまっている床を、シモンは再び磨き始める――


<そうね……そうなったら残りの二日はまた昔みたいに……そこの公園に立って、もう一度自分の音色と向かい合ってみようかな……>


リスと一緒にナッツを齧りながら、マリーは悪戯っ子のような笑みを彼に向けた。


<……いいんじゃねぇの……?>


――お前の音を聴くのも、久し振りだな……


そうポツリと呟かれた言葉に、マリーの目も自然と細まる――


――看板娘と看板リスが同時に入るとなると、このお店も大繁盛ね……!!ね、店の名前、変えない?

――……何て。

――Café
ecureuiエキュルイユ!!

――
栗鼠エキュルイユって……そのまんまじゃねぇか……!!この店は俺の爺さんの代からずっと『黒猫シャノワール』だ……!!



――そんな言葉の小さな掛け合いが暫く続いた後、やがてCafeの仄かな明かりは静かに消えた。



月明かりに灯され蒼く光るカウンターの上で――リスは新たな女主人が再びコートを手に取るまでの暫しの間、


一匹で大人しく、少々遅い夕餉の時間を楽しんでいた。










Fin.





マリーはマリアのフランス語名、「マグダラのマリア」は新約聖書中の聖女で、イエスの足に接吻し、香油を塗って回心した元遊女です。
一度書いてみたかった、士度さん迷子の巻でした☆
第三者から見た冬木氏&マエストロ・マドカも合わせて書いてみたかったので、こんなお話しに(笑)
この後の士度&マドカinホテルの様子は近いうちにでもウラで……v
英語&仏蘭西語は門外漢な管理人ですので、ミスがあればコソッと優しく教えて頂ければ幸いです☆