夕映ノ刻


「おいでませ、四郎丸……!」

その言葉は戦場でこの白き狼を操るときに発せられる台詞と寸部違わぬものだったが、その声音は至極穏やかなものだった――慣れた声に誘われ山の木々を縫って小道に飛び出してきた白き狼も、戦場で見せる悪鬼の如き形相とは裏腹に甘えるようにまつを見上げ、尾を振りながら彼女と並んで平野へ続く木陰道を行く――時折四郎丸が立ち止まるその足元には、蕨や筑紫、滋養のありそうな蕗や茸が――蒲公英も葉は食用に、花は輪を作り供え物の手向けに良いと――まつは時折四郎丸と目配せを交わし、上機嫌に山の幸を採集しながら歩を進めた――やがて道を下った先に見えてくるのは……

「――!!まぁ、今年も見事なこと……!!」

彼女の目の前に菜の花畑が広がった――今年は春前から出陣と留守番が続き、まつは今日になってやっと、この畑を訪れることができた――今年も菜種油に間引き菜や若菜の御菜、飼料や肥料には困ることはなさそうだ。明日にでも蜂箱を持って来れば、濃姫様と女の楽しみを分かち合えるような甘い蜂蜜が取れるかもしれない……――まつはその形の良い唇を綻ばせると、まずは今宵の夕餉にと――柔らかそうな若菜をいくつか摘み取った――今宵唐の辛子と和えた添え物を作れば犬千代さまは飯に良く合うと喜んでくださるでしょうか……?――

「………………」

不意に、まつは花を手折る手を止め、青く広がる雲ひとつない空を見上げた――目の端に映るのは太郎丸が利家の鷹と戯れ合いながら飛ぶ姿――当の利家は昨夜、戦から帰ったばかりで、今日は昼前まで泥のように眠っていたと思えば……味噌汁の匂いに誘われて起きた利家が豪快に飯を食らっている昼時にいきなり慶次が飛び込んできて“城下町に良い刀売りが来ている槍もある”と言いながら叔父の腕を強引に引っ張る始末――結局利家はまつが慌てて用意した握り飯を持って男の買い物に出掛けてしまった――帰郷してから一夜しか明けていないというのに……まったく吾が殿といい慶次といい、如何なるときも日輪の如く快活な……それはまた、兵を、国を治める武将としては誉高きことなのですが………――


「………………」


まつは手にしていた籠を野に寝かせ、自らの身も摘み取った花の跡に横たわらせた――そしてフッと全身の力を抜き澄んだ空をぼんやりと眺める――聞こえるのは小鳥の唄声、春のそよ風、四郎丸の欠伸に太郎丸の高く啼く音――このように、緊張の糸を解いたのは幾許振りのことだろう?
犬千代さまと共に戦の地に立つときはまだ良い――隣に犬千代さまがいらっしゃる――いざというときは薙刀を揮い吾が殿をお守りすることもできる――ただ、今回のように――二月も留守を守るとなると、戦場に立つ時とはまた違う緊張感が、平素の日常の中でもついて周り離れない――
定期的にまつのもとへとやってくる戦況を伝える伝令の口から、この身を凍らせるような言葉が発せられないか――その伝令の足が数日遅れただけで身を焦がすような不安に苛まれること――領地内での采配に主が留守の間の近隣諸国への警戒、何よりも離れた地で国の為、そして“まつ”の為と……槍に魂を篭める吾が殿の無事を刻々と祈る毎日――
血の臭いも硝煙の臭いも馬や兵が荒々しく立てる土煙の霧さえも――隣に犬千代さまがいないという事実故に、平和な領地の中でさえも懐かしく感じてしまう罪……――


(されど、“待つ”ことも……武将の妻の務めなれば……)


帰還の旗を、夫君の声を、無事を、この目で耳で確認し――安堵のあまり熱くなる目頭を叱咤して気丈に振舞い武勲の祝詞を述べるのも――犬千代さまの――前田利家が妻としての誇りがあるからだ――


(此度も御無事の御帰還……まつめは嬉しゅうございました……)


春風に吸い込まれるように遠のく意識の中で、まつは青空一杯に利家の姿を描いた。今宵慶次は何処かへ遊びに行くと言っていたから、夕餉の刻には犬千代さまと二人きり……蕨や筑紫はお浸しに、蕗や蒲公英は香ばしく焼いて差し上げましょうか……茸はご飯や味噌汁に混ぜるとあの方の好物の……


――聞こえるのは小鳥の唄声、春のそよ風、四郎丸の欠伸に――まつの静かな寝息が加わった――

日はやっと静かに傾き始めた頃合だった――燦燦と輝く太陽の中を、太郎丸が気持ち良さそうに旋回していた――






「良かったなぁ、利!話が分かる刀商でさ!」


身に桜の文様が刻まれている手に入れたばかりの小刀を道すがら上機嫌に弄りながら、慶次は赤く染まり始めた陽の中で同じく機嫌良さげに頷く利家を見やった――彼の手には魚の干物が入った笹袋が下げられている。そしてその小指には大柄の利家には似つかわしくない小さな小さな萌葱色の小袋が……――

「そうさなぁ……あの品を扱う刀商が馴染みの刀匠を連れてきてくれるとなると某の兵も某の武器も、本当に助かる!特に日向の柄などは先の戦で割れてしまったからな……そうだ、まつの薙刀も診てもらうことにしよう…!藍華に合う砥石が小さくなりすぎて使い難いと嘆いていたことだし……」

夫婦でそんな会話までしているのか……――利はともかくまつねえちゃんも相変わらずだなぁ……――と慶次は叔父の見ていないところで苦笑する――

それにしても慶次、お前、今宵はどこかへ出掛けると言ってなかったか?――

刀商との用事が済んだ後も、予定の割には何故か一緒に帰路についた甥っ子に首を傾げた利家に、慶次は屈託のない笑顔を向けた。


「出掛けるよ、でも今宵会いたい好いた人は、夜中に山向こうのお宿に着くって言っててさ……俺も夜山を越えていくもんだから、まつねえちゃんにちょいと夜食の握り飯でも持たせてもらおうかと思って……」

夢吉だって、きっと途中で腹空かせるはずだしさ……――

慶次の言葉に、彼の肩の上でウツラウツラしていた小猿が、キィ……と寝言のように返事をした――そんな小猿を見つめる慶次の目は静かに優しい。


「夜山越えってなぁ……慶次、あまりまつに心配かけるな?」


叔父らしい口調で諭す利家に、慶次は苦笑しながら肩を竦めた。


「……恋する男は止められないって言わないかい?それに今夜は利だって久し振りの夫婦水入らずじゃないか。押しの一手で頑張りな!」

「――!!な、生意気を言うな!!」


叔父の顔は夕日に照らされてはいるが恐らく真っ赤であろう――口の減らない甥っ子の額を小突こうと手を上げた利家の攻撃を慶次は笑いながらヒラリと交わすと、不意に視界に飛び込んできた、山の方から飛んでくる二羽の鷹に目をやった。

「あれは……利の鷹と太郎丸?」

「……――!!」


利は一瞬、自分の屋敷の方に視線を流すと――干物が入った笹袋を放り出し、何かに気がついたように鷹が飛んできた方向に向かって走り出した――

「―――!?と、利……!?」

慶次は慌てて干物袋をキャッチすると、彼もそのまま利家が猛進していった道を辿りあっと言う間に利家に追いついた。

「き、急にどうしたんだよ……!!」

「――まつに何かあった……!」

「――!?な、何だってそんなこと……」


男二人が疾走するには狭すぎる小さな山の一本道を押し合い圧し合い駆けながら、慶次は利家の言葉に目を丸くする。しかし利家の眼光はまるで戦場にいるときのように鋭く、真面目な色を湛えていた――

「……太郎丸が夕暮れ時に山から下りてくるときは必ずまつと一緒のはずだ――鳥目だからとまつが下ろす。それに屋敷の台所から飯炊きの煙が上がっていなかった!!いつもならまつはこの時間には夕餉の支度をしているはずだ……!」

「――!!……利…………」


慶次は利家の一瞬の洞察力に舌を巻いた――領地に戻ればどこまでも夫君に尽くす妻の尻に敷かれているように一見見えなくもないこの前田利家という男は、結局はやはりその名を戦国の世に知らしめる一武将であるのだと――こういう時に改めて思い知らされる。そしてこの判断力と行動力こそが、民と国を守りここまで導いてきた礎なのだろうかと、慶次は先に見えはじめた菜の花畑を見つめながら思った――するとその黄色い絨毯の中に見慣れた着物の色が視界に飛び込んできた。

「――!!あれって………」

「――!!?まつ……!!」


利家は慶次を追い越して真っ先に菜の花畑に足を踏み入れた――声にならない叫びというものは男の背中から聴こえるものだと、慶次も足に纏わりつく菜の花を避けながら義理の姉のもとへと急いだ――不意に……利家がまつの傍らでガクリと両膝をついた。慶次の脳裏に最悪の事態が過ぎったが、彼の視線がまつを捕らえると……


「………気持ち良さそうだよ?」

「〜〜〜ッ!!あ、焦ったぁ………!某はてっきり………」


よくよく見れば、菜の花に囲まれながらスヤスヤと眠るまつの膝を枕に、四郎丸までもが一緒になって惰眠を貪っている。

「……四郎丸、そこは某の………」

特等席だ……――

狼を恨めしそうに見つめながら呟いた利家の大人気ない台詞に、慶次はまつを起こさぬよう噴出すのを堪えた。
利家は心底脱力したようにドカリとその場に胡坐をかくと、愛しそうな眼差しをまつに落とした――


「此度の戦でな……濃姫様が某に言ったんだ………」



夫の帰りを待つ妻は毎日、心を窶しているのよ……――

特に……戦場での利家を見ているまつにとっては、その痛みは計り知れないでしょう……――

――無事に帰ったら、大事にしておやりなさい――戦っているのは何も戦場で血に塗れている男達だけではないのよ……?




「……昨日帰ったときも、いつも通りだったからなぁ……まつは強い女子だと、某は………」


でもやっぱり……飯の支度を忘れるくらい、疲れていたんだなぁ………――


「………………」

慶次は黙って、まつの傍らにある籠を見つめた――彼女が道すがら採り集めた山菜が瑞々しく竹籠の中で咲いていた。

「……慶次、籠を持て。」

不意に利家が、ニヤリと笑いながら顎で籠を指し示した。頭に疑問符を浮かべる慶次に、利家は懐かしそうに言葉を紡ぐ――


「今日は昔のように――まつを背負って帰るぞ!昔は良く遊びつかれて野で転寝をしたまつを………」


グ〜〜〜キュルルル〜〜………


言いながら利家が立ち上がった瞬間、彼の腹が盛大に鳴った――するとその音がまるで目覚ましにでもなったかのように――今まで二人の男の会話でも起きる気配をみせなかったまつの目が、パチリと驚いたように瞠られ――


「〜〜〜!!!?い、犬千代さま………!?」


まつは先程まで横たわっていた自身を驚くほどの速さで正座にまで導くと、次の瞬間日の傾き加減を察し、夕日以上にその顔を真っ赤に染めた。


「〜〜〜〜!!!ま、まつめは……まつめは……!!こんな刻限になるまでまるで気づかず転寝に興じていたとは誠にお恥ずかしい限りにございまする……!!しかも犬千代さまが戻られる刻までに夕餉の支度が手にもついていないとは何たる大失態……!!穴があったら今すぐにでも入りとうございまする……!!」

「……いや、穴に入られては飯の支度が………」

「この陽気だと誰だって昼寝くらいしたくなるさ、まつねえちゃん……」

今にも土竜の三郎丸を呼び出して本当に穴に入りかねないまつの半分涙目の反省に、利家も慶次もしどろもどろになりながら慰めるのだが、まつは三つ指をついて「如何なる罰もお受け致しまする……!!」と深々と頭を下げる始末で。

「……あ!!そ、そうだ……!!」

利家は慶次が手にしてた笹袋を引ったくると、自らも膝をつきまつの目の前にそれを差し出した。


「ほ、ほら、まつ!下町で魚の干物を買ってきたんだ!!今日はまつも疲れているだろうから夕餉の支度が簡単にできるようにと……」


な?な……!?だから何も問題はないんだ……!!――


「〜〜〜〜!!つ、疲れておりまするは昨夜お帰りになったばかりの犬千代さまの方にござりまする!それを、まつめなどの為にそのようなお心遣いまで……!!」

「〜〜〜!!と、利……!!」

「〜〜〜〜!!………!!」

干物が入った笹袋を胸に抱きながら、利家の優しさに触れたせいかまつの目には大粒の涙が溢れんばかりに浮かび上がった――いよいよ困った!――大の男が二人もいながらも、この真っ直ぐに真面目な彼女の涙を止めることができないとは……それこそ武士の名折れである……――


「……!!〜〜〜!!ま、まつ……!!」


利家はまつの手をとると涙を堪えるかのように咽ぶ彼女を立たせ、その綺麗な手に山道を駆けるときも手放さなかった萌葱色の小袋を握らせた。突然の利家の行動に、まつはされるがままに目を丸くする――


「これは“香袋”と言ってな、昨今京の都で流行っている女子の嗜みだそうだ!着物に下げて芳しい香の匂いを身につけるんだと。まつ……某はまつの笑顔が見たくて慶次に笑われながらもこれを所望したのだ……だから……」

まつが笑ってくれないと、某は食欲もなくなってしまう………――

「………!!犬千代さま……!!」

「まつ………!!」


眼前でひしと抱き合う叔父夫婦に精も根も持っていかれたような気がして、慶次は絶句したままポリポリと頭を掻いた――

(………なんか最後のあたりに色気が一気に落ちたような気がしたけど……)

まぁ、まつねえちゃんが素直に感動しているんだから、これはこれで……一件落着……?――


さあ、屋敷に帰ろう?――まつの手を引きながら利家は朗らかな声を出した。指に絡めた香袋を愛しそうに撫でながらコクリと頷くまつの姿はいつもの笑顔の彼女だった。


「………?あら、どうして慶次がここにいるのですか?」


今夜は何処ぞに出掛けるのではなかったのですか?――

事の顛末の最初から最後までいた慶次に、まつは本当に今の今まで気がつかなかったのかもしれない――そんな様子を声音に滲ませながら、まつは不思議そうに首を傾げてみせた。


「………後で詳しく話すよ、まつねえちゃん………」


夜山越えの話なんぞ今持ち出したら、絶対まつねえちゃんの雷が落ちて、夕餉の時間がますます遅くなり、夜食の握り飯どころではなくなる……飯が炊き上がったところで適当に理由をつけて握り飯を……――
慶次は苦笑している利家と人知れず視線を交わし合い、ひとまずホッと小さな溜息を吐いた。

そして深くなった夕陽に影を落としながら歩き出した二人の一つの影を、刹那羨慕の眼差しで見つめると――

やがて彼もまた気を取り直したように、紅く燃える日輪に目を細めながらブラリブラリと、二人の後をついていった。





次回@湯浴ノ刻