美しい人


コポリ・・・・・

マドカが髪を乾かし終えてベッド・ルームに戻り、まず耳にしたのは、
ペットボトルの中を水が滑る小さな音だった。

次に、コキリ・・・と彼が首を鳴らす音――そしてボトルの水が揺れる音が続く。

湯上りのマドカの頬に、心地良い夜の深緑の風が軽く撫でるように触れた。

士度はマドカに一声かけると、窓辺に腰掛けたままもう一度、空を仰いだようだった。

マドカは見えぬ瞳を瞬かせながら、ベッドの上に上がった。

白いシーツの上を自然の灯りが照らしていることを彼女は知らない――そしてそのままその細い膝を緩く抱え、自らの頬を預けた――

自分が櫛とドライヤーと戯れている間、彼はずっとそうして――夜の空を見上げていたのだろう――

そんなことがマドカの脳裏に浮かび、彼女の口元は小さく笑みを作る。

――例えば、こんなにも静かで澄んだ夜に、彼が飽くことなく夜空を見つめ続けるのは今日が――


「満月・・・・ですか?」


膝の上に軽く頬を乗せたまま、小首を傾げながら愛らく訊ねてきた彼女に、優しい眼差しが返ってきた。


「ああ――今夜はよく晴れているからな・・・」


――見事なもんだぜ・・・・――


最後に呟かれた声には、純粋な感嘆と――密やかな憂いの音が入り混じっていることを、マドカの耳は聞き漏らさなかった。


――きっと彼は・・・・私にも、この満月の灯りを見せてやりたいと思っている――


それは永遠に叶うことがない夢だけど――


それでも彼は、そんな優しい人だから。


マドカはそっと目を瞑り――耳を澄ました。


彼の喉元を水が通る音がした――カーテンが夜風に悪戯をされて微かにはためき、その風はマドカのシルクのスリップの裾に触れて止まった。


士度が煌々と輝く空からゆっくりと目を逸らし、マドカの方へ振り返ると――そこには幸せそうに微笑む、彼女の姿があった――


「マドカ・・・?」


少しばかりの疑問を含んだ声に、マドカの唇は優しく綻ぶ。


「いえ・・・きっと綺麗なんだろうなぁ・・・って思って――」


その響きには、暗澹とした気持ちは微塵も見えず――彼女は月明かりに白く浮かび上がりながら、夢見るような貌を士度に向ける。


――きっと、この見事な月の輝きは彼女の心の中までもを照らし出しているのだろう――


彼女の様子に士度は愁眉を開き、そして彼女にその月の美しさを言葉足らずながらも伝えようと、再び空に視線を戻した。


「・・・そうだな、今夜の満月は・・・・星が見えなくなるほどの・・・・」


光を放って――ところがマドカは士度の言葉を聞きながら刹那、目を丸くすると・・・・クスリ、と小さく笑ったのだ。

士度の声が戸惑うように揺れ、唐突に途切れた――
士度の、そんな気恥ずかしげな心情と彼女の微笑みへの誤解をすぐに感じ取ったマドカは少し困ったように喉を鳴らした後、どこまでも穏やかな表情を彼に向ける。


「違うんです、士度さん・・・・きっと満月も綺麗でしょうけれど、私が今、心に描いたのは――“士度さんの”姿なんです・・・・」


――月の灯りを浴びている士度さんは、きっと、誰よりも綺麗なんだろうなぁ・・・って、思ったんです――


「え・・・・?」


彼女の柔らかな唇から紡がれた甘い響きに、士度が目を見張る気配がした。

そして窓辺から伝わってくるのは、明らかな困却の気配。


「士度さん・・・?」


彼が、戸惑ったり、言葉に迷ったときによく漂わす逡巡の気配に、マドカは「どうしたんですか?」と僅かに身を乗り出した。

士度はサラリとその細い肩を流れる、彼女の濡羽色の髪の輝きを目の端に収めながら、小さく、呟いた。


「・・・俺みたいな奴に、“綺麗”なんて言葉は似合わねぇよ。」


その言葉にキョトンとするマドカの目の前で、士度の喉からは自嘲気味な音が漏れる。


“見えない”彼女の中で俺は――実際よりもどれだけ美化されているのだろう?――


そんなことを思うと、士度の中で彼女への望まぬ哀れみと遣る瀬無さが首を擡げてくる。


実際の自分は、彼女が脳裏に描くその姿とは程遠い――厳つく、無愛想で、無骨な――ただの――男――だ。


それとも自分だけでなく――優雅で品のある生活を送ってきた彼女の中では、親しい人は皆“綺麗”な姿に変換されるのだろうか?


士度は強張っていた肩の力を抜くと、少し寂しそうな表情をその貌に湛えながら、ペットボトルに目を落とした。

透明な水が月の芒に煌き、ほんの数歩先の距離にいる彼女の影を揺らしている。


彼女の声がよく聴こえる距離なのに――今はその愛しい存在が、やけに遠く感じた。


「マドカ・・・“綺麗”って言うのは、お前や花月や・・・・」


士度は唐突に言葉を切った。

そして一寸、考えるような素振りを見せたが、


「・・・まぁ、そんな風な奴らのことを言うんだよ。俺みたいな奴には、使わねぇ。」


少しからかうように、そして諭すようにそう言いながら、彼はボトルの水を飲み干した。

マドカは、彼の口からヘヴンや卑弥呼やHONKY TONKの娘たちの名前が出なかったことを少なからず不思議に思った。

彼女たちの容姿や雰囲気も“綺麗”なのものだ――戯れに触れさせてもらったり、一緒に楽しくお喋りをしたりしている間柄、
マドカの“目”には、自然と、そう映る。

しかし、彼の中の“綺麗”の基準は、マドカのものと、少し違うらしい――

そんな感覚の違いに、マドカも僅かな寂しさを感じる。

けれど感じるその寂しさよりも――あなたに、伝えたい想いがある・・・・・




先ほどまでやけに明るく輝いていた月の光が、微かに曇ったような気がした。

目に映る月の煌きは心の鏡――そう教えてくれたのは誰だっただろう?

士度は自分の心から顔を背けるように、視線を部屋の中へと戻した。すると――
黙って彼の言葉に耳を傾けていたマドカは静かな微笑を湛えながら、士度に向かって手招きをしている。

ペットボトルは僅かな水滴と共に、窓際に置き去りにされた――




士度は彼女に促されるまま、ベッドの端に腰を下ろした。

するとマドカは僅かに膝立ちになり――両の手で柔らかく、士度の顔に触れてきた――自然、彼女の顔が近くなる。

士度は触れられた瞬間、二・三度瞬きをしたが――その後は身動ぎ一つせず、彼女の好きなようにさせていた。

――昔は――そう、出会ったばかりの頃は、彼女のその白く、細い手に触れられる度に――困惑を隠しきれず、戸惑うような反応を全身から醸し出していたのに。


そして、今、彼の貌から伝わってくる感情は、


――涙より切ない哀。


そんな彼の想いから感覚を離さぬよう、
マドカの指先は士度の目元を辿る。

少し擽ったそうに士度が目を細めた。


「・・・・士度さんは、少し細いおめめをしていますね。」


――でも、きっとよく見える、綺麗なおめめ――


マドカの無邪気な声に士度が言葉を返す間もなく、彼女はその指先を彼の鼻へと滑らせた。

士度は僅かに顎を引いた。


「お鼻は少し高くて・・・ほら、とても綺麗なラインです。」


マドカの指は軽やかに士度の鼻を辿ると、そのまま迷うことなく、しかしそっと・・・彼の唇へと辿り着く。

何かを言いかけた士度の唇の動きが、止まった――

――彼女の表情が、一層、柔らかくなった。


彼女の指は――羽が空を舞うように士度の唇の上で踊る。


「唇は、少し薄いのかしら・・・?私、士度さん以外の男性の唇をこんな風に触ったこと・・・・」


――無いから・・・――


「・・・・当たり前だ。」


揺蕩う心を押し隠すかのような低い声が、マドカの澄んだ声に重なり、彼女は彼の顔が自分の方へ近づいてくるのを感じたが――

普段は弓を巧みに操る人指し指が士度の唇の上で水に触れるように跳ね――マドカはクスクスと笑いながら刹那、その身をユラリ彼から離すと――今度は両の腕を彼の逞しい首へ絡め――少し硬い皮膚に柔らかな口づけを落とす。
自分の首筋で戯れる彼女を士度が困ずるような視線で見下ろしたので、逞しい頚筋が彼女の唇の下で張った。


「士度さんの皮膚はしっかりと硬くて・・・でも煖かくて・・・」


触れていて、とても気持ちが良いです――


屈託のない目を細くして、満足そうに、得意そうに、マドカは罪もなく無邪気に微笑みながら、士度の巌丈な腕に艶やかな愛らしい指を辿らせる。

月夜に踊る彼女の指先に目を奪われていた士度は、その無垢な存在が辿り着く先に目を瞠った。


そこは――自分の体躯の中でも最も―――紅く―――罪に塗れた――


彼女のしなやかな指の温もりが士度の五指に絡められた刹那、ビクリ・・・・と脅えるように武骨な手が揺れた。

マドカは彼の言葉を思い出す――


俺の手は、もう――血の色で真っ赤なんだ――


その時自分の隣で、遠く、微かに震えるような声がマドカの心に届けたのは、何処までも深い憂愁の色。


(――大丈夫、私が、守るから・・・・――)


そして今も、普段の彼らしくない怯懦の眼差しが、穏やかな空気にの中で揺れている。

マドカの桜色の唇が、柔らかな弾力を彼の人に伝えた。


「士度さんの指・・・・骨張っているけど、すっきりと長くて・・・こうやっていると・・・とても安心するんです・・・・」


「マドカ・・・・」


――分かるわ・・・とても、綺麗・・・・――


彼女は心地よい重みのある彼の手を持ち上げ優しく頬を寄せると、黒ダイヤのような美しい目と長い睫を瞬かせながら、和やかな微笑を彼に向けた。

ツキリ、と、甘い痛みが士度を襲った。

目の前で微笑む愛しい彼女に愛されているという喜びは、自分の過去をその眼に知らしめる真実の中で揺れ動く。

こんな時に、いつも重く圧し掛かってくるのだ――溟く紅い、過ぎ去りし日々が――そして、そんな自分が、どこまでも美しい彼女を穢すことを、誰よりも恐れている――


「マドカ、俺の手は・・・・」


綺麗なんかじゃねぇんだ――


しかし、彼の言葉は、夜に謳う彼女の声に遮られる。


「この手で、士度さんはずっと・・・・私に触れて、伝えて、囁いて・・・・守ってくれているのね・・・・」


士度の眼が、息を詰めたように見開かれた。

彼女の響きは、澄んだ水よりも確かに、自然に、彼の心へと浸透していく。


だから、大好き・・・・――


マドカは、甘い音を立てながら士度の指先に口づけを落とすと、その手をそのまま胸元へ引き寄せ、そっと抱きしめる。

士度の身体が近づき、空いた片手で彼女のほっそりと流れる肩に触れてきたが、マドカはもう、逃げなかった。


「マドカ・・・・」


「はい」


長い通り雨の後のような声に、マドカの、微塵の不安も感じさせない優しい声が応えた。


(言うとあなたはきっと困るから・・・口にはしないけれど・・・)


彼が微かな微笑を作ったことが、肩に触れる指先から伝わってくる。


(今のあなたはきっと・・・・とても綺麗な顔をしている・・・・)


マドカは眼を瞑り、降りてくる唇を受け止めた。



絹が彼女の躰を滑り落ち、二人の影はそのまま一つになって沈んでいった。








「あっ・・・ん・・・・っ・・・士度、さん・・・っ・・・」


士度の長い指が、とても器用に繊細に、マドカの体内を蠢く。

堕ちてくる痺れるような快感に涙を流し、探るように刺激されている彼女の内壁からは、卑猥な音を立てながら、月明かりに耀る愛液がしとどに零れ落ちていた。


「凄げぇな・・・こんなに溢れて・・・」


「・・・っ!や・・・言わな・・・っ・・・んんっ・・・!」


濡れた舌に胸の桜色の果実を捕らえられ、マドカの腰が自然と浮き上がった。
胸元を擽る彼の熱い吐息に翻弄され、躰の内側を泳ぐように動く指先に身を捩りながら、マドカは次第に音が遠のいていく甘美な感覚に蕩かされる。
グッ・・・と身を起こしながら士度がその武骨な指でマドカの奥の壁を擦り立てたとき、彼女の漆黒の瞳が大きく見開かれた。


「ひ・・・っ・・・や・・・あ・・・っ!」


「ここか・・・?」


背を撓ませながら首筋にしがみ付いてきたマドカを、士度はひどく男らしい笑みを浮かべながら更に攻め立てる。
紅く充血した真珠核も一緒に撫で上げられ、マドカの衒った唇から一際高い喘ぎ声が漏れた――


「う・・・ん・・・・っ!ダメっ・・・ダメぇ・・・・もうっ・・・・・っから・・・・!」


だから――
灯りに支配された月のように白く、儚く、細い首筋に紅い所有の印を落とした士度の耳元で、マドカは絶頂が近く千々に乱れる息の中、囁く――


「一緒がいい・・・っ!」


「・・・っ!マドカ・・・!」


「や・・・・あぁっ!」


彼女の言葉に誘われるように唐突に押し入ってきた彼の刀身に焼かれ、マドカの細い躰は月明かりの中大きく跳ね、果てた。
士度はきつく銜え込んでくる蠕動を眉を寄せることでなんとかやり過ごしながら、徐々に深く、彼女を再び快楽へと導いていく。


「ん・・・あっ・・・!あっ・・・士度、さん・・・っ!士度・・・・さんっ・・・!」


冴え冴えと差し込む透明な灯りのなか、白いシーツの海に揺れる彼女の艶かしくも清廉さを失わない姿態は、誰よりも美しく士度の眼に映った。
身を倒し、彼女の最奥まで求めるかのように繋がりを深めると、愛らしい嬌声が彼の動きに合わせる様に漏れた。
名を呼ぶ丹花に唇を重ねると、どちらともなく互いを求めるように舌が絡まりあい、熱く火照った熱と想いを分かち合う。


「マドカ・・・」


彼の呼ぶ声が――彼の身体が――彼が触れる温もりが――全てが躰の内側から感じられ、溶け合い、唯一つの感覚だけが自分を支配していく錯覚にマドカは陥る。



それは――心の中心で日々、確かに育っている――愛という名の感覚。



彼の、広く逞しい背に縋りながら、彼の全てを求めるかのように、マドカは華のように美しい声で士度の名を呼び続けた。


彼の体躯から伝う汗が、マドカの躰をもしっとりと濡らした。


悦楽の中で、彼の汗の匂いと感触と――時々、彼の口から漏れる、自分を呼ぶ、愛しい声がマドカを満たす。


――今のあなたも・・・きっと、綺麗・・・・――


声に出したのかどうか、定かではないまま――マドカは士度の腕にしっかりと抱かれながら、意識を飛ばした。
身の内に広がる熱い飛沫に、どうしようもない幸福感を感じながら。


荒い息の中――士度の唇は彼女の眦に浮かんだ涙を捕らえ、彼の両の腕は、彼女の嫋やかな痩躯をいつまでもいつまでも抱きしめていた。







眠りの浅い彼が――私の隣でこんなにも穏やかに眠るよういなったのは、いつの頃からだっただろう――

マドカは隣で静かに寝息を立てる彼の顔にそっと、手を寄せた。

そう、今はこうやって・・・寝ているときに触れても、彼は悪戯に眼を覚ますことは、ない。


――今、思えば・・・――


彼の優しい熱を感じながら、マドカは慈愛の表情を彼に向けた。


――あなたに初めて会ったとき・・・きっと私は、あなたの綺麗な心に惹かれたのね・・・?――


あなたの手と同じように、強く優しく繊細な・・・・あなたの心に――


マドカは素肌をシーツに戻すと、温もりを求めるかのように、その身をそっと・・・彼の体躯に寄せた。


すると士度は――起きていたのか無意識だったのかはマドカには分からなかったが――何も言わずに彼女の躰を胸元へ引き寄せると、そのまま再び、静かな眠りに落ちていった。

マドカは眼を丸くしながらも、胸を熱くするような喜びに幸福色の笑みを隠しきれない。


(言うとあなたは・・・きっと・・・困るから・・・・口にはしないけれど・・・)


夢と現の狭間で、彼の匂いを胸いっぱいに吸い込みながらマドカは想う。


(私にとって、あなたは誰よりも・・・・)


五月色の夜の風がマドカにも緩やかな眠りを運び、彼女は彼の煖に身を委ねながら眼を瞑った――









――美しい人。










Fin.


“綺麗”という言葉と“美しい”という言葉は本質的に違うと言われていますが・・・
純粋な“綺麗”は“美しさ”よりも透明に感じたり――“綺麗”なものが放つ“美しさ”が格別に思えたりするので、
あえて二つの言葉の違いを暈して書いてみました。

士度もマドカも・・・それぞれ違った、でもとてもよく似ている“綺麗”や“美しさ”を持っていると思います。
そして二人が共にいるときのそれもあるから・・・このCPの魅力は果てしないものだと思うわけです。