soufflé



夕焼けが近い時間の小洒落たカフェ。
マドカの手が小さなソースカップの中身をクルクルとかき混ぜている。

そしてこんがりと狐色をしている生地の上にサクリ、と穴をあけ、
その中央に甘い香りがするソースを流し込んだ。

マドカの白く長い指が銀のスプーンを優雅に使いながら、その柔らかな生地とホワイトソースを上品に絡めた後、
まだ微かに熱が残るそのデザートをゆっくりと口に運んだ。

彼女の漆黒の瞳が瞬いて、甘い微笑がその貌を覆った。
そして、もう一掬い・・・。
彼女の薔薇色の唇が綻んだ。

「・・・美味いのか、マドカ?」

そうだろうとも――そう思いながらも、士度は目の前にいる姫君にとりあえず訊いてみる。

「はい!とっても美味しいです・・・!」

心底幸せそうな笑みを浮かべながらマドカは答えた。
マドカは甘いものが好きだ―― スイーツの類を食べるときはいつもニコニコと機嫌が良い。
しかし今日の一品は格別のようだ・・・。
一口、口に運ぶたびに、その愛らしい貌を喜びで満たしている。

「・・・なぁ、それって他のケーキと何か違うのか?」

出てくるまで自分たちを15分も待たせ、30秒でその形はしぼんでしまうから早く食べろと急かした、
生意気で偉そうな“スフレ”とか言うその茶色い物体。
ケーキの味は“砂糖の味”――そんな味覚しか持ち合わせない士度にとって、
マドカのこの天にも昇るような反応は不思議でならなかった。

「全然違いますよ・・・!熱々で、とってもデリケートなお菓子なんです。
そうですね・・・甘くて、柔らかくて、フワフワしていて・・・・お口の中で蕩けるような感じで・・・」

士度の方を向きながら嬉々として答えていたマドカの声は終盤、徐々に恥ずかしそうに萎んでいった。
その顔も俯き加減になり、少し紅が射したようだ。

「・・・・?どうした?」

マドカの急な変様に、士度が不思議そうに目を細めた。
一方マドカはその細い指先で口元を恥じらいながら覆うと、小さな声で躊躇いがちに呟いた。


「あの・・・“キスの味”に、似てるなって・・・・」


―・・・きすのあじ?きす・・・?――あぁ、キス・・・か?


脳裏には一瞬銀色の白身魚が過ぎったが、士度は慌ててそれを打ち消し、
彼女好みの思考へ切り替えた。

(キスの味・・・?味なんてあったか・・・?しいて言えばマドカの・・・)

そう考えると、スフレ=マドカ味になってしまう・・・。


「・・・・よくわかんねぇ。」


思わずマドカの唇の感触を思い出してしまったので
士度は照れ隠しに珈琲に口をつけながらソッポを向いた。
するとマドカの顔がパッと上がり、彼女は慌てて細い銀のスプーンをスフレカップに入れた。

「た、食べてみればわかります・・・!」

はい・・・!

マドカが頬を染めながら、しかし懸命な表情でスフレが乗ったスプーンの先を士度に向けた。
そんなマドカの行動におもわずたじろいでしまった士度の気配を、マドカは別の意味でとったようだ。

「あの・・・士度さんがいつも言う、ケーキの“お砂糖の味”とは少し違いますから・・・!少しだけ・・・少しだけ試してみてください・・・!」

どうぞ・・・!

スプーンの先がさらに士度に近づいてきた。
士度は反射的に辺りを見回す。
店内はカップルか女同士ばかり・・・・よし、誰もこちらを見ていない。

「お、おう・・・」

パクリ・・・と士度は銀のスプーンに乗っているスフレをやや性急に口にした。
マドカの瞳が嬉しそうに瞬いた。
そして、

「どう、ですか・・・?」

と小首を傾げて訊いてくる。

甘く、しかし砂糖のようなざらつきが無い柔らかな食感が士度の口に広がった。
士度は、温かく、ゆっくりと溶けていくその甘味をあまり咀嚼する必要も無く嚥下する。
フワフワしている・・・というマドカの表現も当たっているのかもしれない。
確かに・・・不味くはない。
美味いのかもしれない。
しかし・・・
これが、キスの味か・・・?


相変わらず顔に疑問符を貼り付けている士度の様子を探るように、マドカが少し身を乗り出してきた。
士度はそんな彼女の様子に内心冷や汗をかきながら、とりあえず

「・・・・悪くねぇな。」

とボソリ・・・と呟いた。

「――!!じゃあ、もう一つ注文して、士度さんも召し上がりますか・・・?」

士度の答えに機嫌を良くしたのか、マドカは明るい声を出した。

「いや・・・・俺にとっては・・・一口だから美味いんだと思う。」

――やはり・・・こんなに甘いものを三口も四口も食べたいとは思えなかった。

「そう、ですか・・・?」

不思議そうな顔をするマドカに、
冷めないうちに食べちまえよ・・・と促すと
士度は再び珈琲に口をつける。

―彼女は時々・・・こんな、思いがけないようなことを言う。


(キスの味・・・か。)


士度の視線が一瞬、彼女お気に入りのスイーツを飽く事なく味わうマドカの唇に固定された。








夕焼け色の染まる並木道を二人は歩いていた。
頬を掠める風が少しひんやりしている。
秋の足音が聞こえてくるようだ。
夏と秋の狭間の空気が心地良いとマドカは思った。

今日は・・・・素敵な一日だった。
士度さんと初めてお洋服を買いにいけたし、
士度さんが私の為にお洋服を選んでくれて、それをプレゼントまでしてくれて・・・。
帰りに寄ったカフェのスフレも美味しかった。
あの味を士度さんがちゃんと理解してくれたどうかは分からないけれど・・・。
それに、あまり人気のないところでだったら、士度さん、
こうやってお外でも手を繋いでくれるようになったし・・・。

右手に感じる大きな手の温もりが、心にまで沁みてくるようにマドカは感じた。

(恋人同士がすることよね・・・こういうことって。)

一緒にお買い物に行って、カフェに寄って、手を繋いで並木道をお散歩して・・・・。

いつか・・・年頃の乙女と同じようにマドカも夢見ていたことが、今現実になっているということ。
彼が隣にいるということがどうしようもなく幸せなこと。
ずっとずっと、一緒にいたいと思うこと・・・・。

そんな優しい気持ちに身も心も浸されている喜び。
気がつけば心がいつも弾むメロディーを奏でている不思議。


― 彼が、傍にいるだけで・・・―


暗闇の世界で、こんなに暖かな光を感じられるなんて、夢にも思わなかった・・・。


士度の隣を歩きながらマドカがそんな幸せ色の物思いに耽っていると、
士度がその歩みを止めた。
それに気がついたマドカも一歩遅れて足を止め、
不思議そうに彼を見上げたとき――


「マドカ――」


士度が彼女の名を呼んだ。


「――はい?」


繋いだ右手を僅かに引かれ、
彼の顔が降りてくる気配を感じた、その瞬間――


「――!」


薔薇色の唇が、彼女の名を紡いだ唇に捕らえられた。
慣れた仕草で歯列を割られ、ゆっくりと舌を絡められ、
彼女を内側から味わうようなフレンチ・キス。
マドカの左手がハーネスから離れ、士度のジャケットを掴んだ。
モーツァルトが<ドウシタノ?>と見上げてくる。


「・・・・ン――」


マドカのおとがいが僅かに上がり、
自然、彼女の身体は士度に寄り添っていった。


―彼は時々こうやって不意に・・・何も言わないで私の心に触れてくる・・・―


そして私はいつも――彼の優しい熱に溶かされる・・・・


マドカの頬に添えられていた士度の右手がゆっくりと彼女の貌を滑ると、
チュッ・・・と甘い音を立てて彼の唇は徐に離れていった。

「あ・・・・」

どうしたんですか・・・?
少し名残惜しそうな表情をしながら、
熱を帯びたマドカの瞳が士度を見上げてきた。


「あ――、その・・・少し分かったような気がした。」


ちょっと確かめてみたくなってよ・・・・
彼女の頬をもう一度撫で、そう言いながら士度は繋いだままの手を軽く握ってきた。


・・・・?


「マドカが言っていた・・・あのケーキの味の意味を、な。」


甘くて、柔らかくて、蕩けるようで・・・・ふわりと優しい、キスの味。
ただ一つ違うのは・・・・


「・・・・“スフレ”です。」


一瞬瞠目したマドカは、しかしすぐにその可憐な唇に綺麗な微笑を浮かべると、
士度が一向に覚えようとしないお菓子の名前を口にしながら僅かに背伸びをした。


「もっと・・・・確かめてください・・・」


士度が破願する気配がした。

そう、ただ一つ違うのは・・・・


(一口では止められないってところだよな・・・・)


飽くことを知らない、いつまでも口にしていたい甘いテイスト。



彼のキスは・・・少しほろ苦い珈琲の味がした。
それでも、あのスフレよりも私の思考を蕩けさせてくれる、不思議。


―― これは・・・きっと恋の味だわ・・・・。――




もっと食べたい・・・・




黄昏時の並木道で二人は今日の甘いおさらいを続けていた。


<ハヤク、カエロウヨ・・・!>


今日は一日待ち惚けだったモーツァルトがマドカのスカートを引っ張るまで。




夕焼け空の色が
まるで二人の心を代弁するかのように
その淡くあたたかい彩を惜しみなく天に広げていった。






Fin.





何となく100題-No.71「止められない」(ブティックデート)の続編です。
果たして予告通り甘く仕上がっているでしょうか・・・?
『最初の夜』から少し後くらいのエピソード。
士度は世間一般の恋人達がどんなことをして熱々かなんて、まるで知らないのでは・・・?
マドカは女友達から聞いたりしていて、なんとなく知っていそう。
彼氏がそういうことに疎いと、一歩進展するたびに彼女の心は飛び跳ねるのでしょうね。
士度は喫茶店では珈琲しか飲まないような気がします。奴の好きな食べ物っていったいなんでしょう・・・?