【8】
一瞬、その雷光と同じ長さだけ二人の唇は触れ合い、そして音も立てずに離れた。
あまりに突然の出来事に、その大きく愛らしい眼を瞬かせたまま声も出せないでいるマドカの耳に、
士度の寂寞とした声が聞こえてきた。
「ほら、俺も・・・男、だからよ。・・・・マドカと、こんな夜に一緒にいると、こーゆーことしたくなっちまう。」
そう言いながら士度は握っていたマドカの手からスッ、と力を抜き、彼女から離れようと一歩下がった。
逃れるように離した手は、しかし、届かなくなる既の所でその指先を彼女の柔らかい手によって捕まえられた。
人差し指を掴まれた士度は、縋る彼女の手を引き離そうと、そっとその白い指先に手をかけ、彼女の顔を見やった。
「―!マドカ・・・・」
その俯いた顔には、再び涙が頬に煌く道を作っていた。
そして彼女は空いた片手で涙を拭いながら、小さく呟く。
「・・・士度、さん・・・・ずるいです・・・・」
かろうじて聞き取れるくらいの声に、士度は耳を澄ました。
「・・・・私の、ファースト・キス、だったのに・・・」
「!!――ッ!」
予想だにしなかった彼女の言葉に士度は呆気に取られる。
聞くところによると、外国暮らしも長い彼女のこと、当然ながらキスの一つや二つ、
とっくに済ましているものだと彼は勝手に思い込んでいた。
それを、俺が、よりにもよってこんな状況で、こんな場所で、こんな形で・・・・。
彼女が泣くのも当然だ。
女性にとっては至極大切な瞬間を、ましてや大切にしたいマドカのその大事なひと時を、
なんの了承も得ずに自らの都合で奪ってしまったことに、士度は激しい罪悪感と自己嫌悪に陥り、
と同時に目の前で涙を流す彼女に対してどんな謝罪の言葉をかけたらいいのか、まるで分からず、
内心一人で頭を抱えてしまう。
「すまなかった、マドカ――!!」
ありきたりの謝罪の言葉と、彼女の名を呼ぶことしかできない士度に、マドカが突然抱きついてきた。
彼女の顔は伏せられたまま。
彼女の行動の真意が士度には理解できず困惑するまま、彼女の時折震えるその肩に手を回してよいものかと
士度が逡巡していると、彼女の小さな声が再び彼の耳に届いた。
「・・・・・ずるい、です。士度さん・・・・」
一瞬、マドカは何が起こったのかが分からなかった。
雷光の波動と、その後の雷鳴だけが、遠くその耳に響いてきた。
そして、次に聞こえてきたのは士度の、寂寥をはらんだ声。
「ほら、俺も・・・男、だからよ。・・・・マドカと、こんな夜に一緒にいると、こーゆーことしたくなっちまう。」
あぁ、キスをされたのだ、とマドカはボンヤリと思った。
マドカの唇に、彼の唇が触れたほんの一瞬の感触がフィードバックする―自分の唇に熱が籠もるのをマドカは感じた。
すると彼の手の温もりが自分から離れていく気配がしたので、咄嗟に手を伸ばし、辛うじて彼の人差し指を捕まえる。
―こんなのって、ないじゃない?
私の―私とあなたの、初めてのキス、の後、あなたはそうやって逃げていこうとするなんて。
マドカの目に再び熱いものが込み上げてきた。
士度の指先が、自分の指先にかかる感触がする―
他の誰よりも、大好きな彼から欲しかった、ファースト・キス。
夢にまでみた瞬間なのに、よりにもよってこんな状況で、こんな場所で、こんな形で・・・・。
それでも私は― 嬉しい、のに。傍にいて、欲しいのに、どうして?
彼が、私の名を呼ぶ声がする―キスをしてくれるくらいなら、どうして離れていってしまおうとするの?
どうして、この不安な夜を、一緒に過ごしてくれようとしないの?
「・・・士度、さん・・・・ずるいです・・・・」
―そうやって、あなたは・・・私の心をまた、虜にするというのに―
「・・・・私の、ファースト・キス、だったのに・・・」
―なのにどうして、傍にいてくれようとしないの?何故、今すぐ、私を抱きしめてくれないの?
女の子にとっては、とても、大切な瞬間なのに・・・。
彼が息をのむ気配がした。・・・・私の、初めてのキスなんてとうに経験済みだと思っていたのかな。
大事に、とっておいたの・・・いつか現れると思っていた、私が本当に好きになる人のために。
――あなたのために。
士度の、どうしようもないほどの困惑が、二人を繋ぐ指先からマドカに伝わってきた。
あぁ、優しい彼の事、こんな流れで私の最初のキスを奪ってしまったことに、きっと心を痛めている・・・。
確かに、こんな状況でのファースト・キスなんて、あまり褒められたものではないけれど、
違うの、この涙の半分は喜びから、残りの半分は、あなたが私と距離を置こうとする悲しみから―。
ふいに、士度が切羽詰った声で謝罪する声が聞こえてきた。
そんな言葉は聞きたくなくて、マドカは反射的に彼に飛びつく。
士度の狼狽の色がマドカに伝わる―。
―きっと、今夜の私たちの心はすれ違ってばかりだったのね・・・・。
それでもあなたは、私の心をこんなにも擽ることばかりして・・・・そしてそのことに気がつかないなんて。
私はあなたのことを、こんなにも愛しいと思っているのに、あなたはそれにすら気がつかないなんて・・・。
きっと、今の私の気持ちも、あなたは気付いていない―
「・・・・・ずるい、です。士度さん・・・・」
「・・・・そんなに背が高いと、私から・・・キスができないじゃないですか・・・。」
頭上で、士度が目を見張る気配がした― 彼の肩の力が抜かれる。
そしてマドカは再び彼の、その逞しい腕に抱かれた。
それは愛し合う者達が交わす抱擁――。
「・・・・悪かったな、マドカ。」
今夜二人の間に起こった、何に対しての謝罪なのかマドカには分からなかったが―
「・・・・・士度さんが、少しかがんでくださいね。」
私が背伸びしても届きませんから、とマドカは少し頬を染めて、士度を見上げながら言った。
士度は彼女の頬に手をあて、その涙の跡を拭くように愛しげに撫でながら短く答えた。
「そうだな・・・」
そして再び、彼の顔がマドカの目の前にゆっくりと下りてきた―
今度はマドカも目を瞑り、彼の唇を受け止める。
―軽く触れ合わせるような、優しいバード・キス。
彼との距離が ― 心も、身体も ― また一歩近くなったことに、マドカの胸は優しい彩で色づいていた。
そんな二人の姿が突然、パッと懐中電灯で照らし出される。
「マドカお嬢様、士度様、何か問題でも――!!」
二階の廊下での声が止まないことに気がついたメイドの一人が、
様子を窺うために、そう言いながら二人に灯りを向けたのだ。
しかしその灯りの中に浮かび上がったのは、抱き合い、接吻を交わす女主人と居候殿の姿。
「〜〜!!し、失礼致しました!!お、おやすみなさいませ!!」
そんな二人の姿に、懐中電灯を取り落とさんばかりに仰天した若いメイドは、それでもきっちり就寝の挨拶をしたあと、
階段を転がり落ちるようにして階下へと消えていった。
「・・・・・はい、おやすみなさい。」
マドカがそう答えたときには、既にメイドの姿がそこに無く。
ややして執事の木佐の、何てことを!!とメイドを叱る声が聞こえてきた。
士度は、口元を押さえ、赤面しているようだ。
―メイドがやってくる気配に気がつかなかったなんて、不覚もいいところだ・・・。―
そう内心一人言ちる士度の耳に、彼女の軽やかな声が聞こえてくる。
「・・・・見られちゃいましたね。」
見ると、マドカは悪戯を見られた子どものようにペロリと舌をだしてはにかんでいた。
「俺は別に・・・・。オマエはいいのかよ、その、見られたりして、困ることとか・・・・。」
罰が悪そうに士度が呟く。
「?ないですよ。むしろ、これから変な言い訳をしなくてもいいから逆に良かったのかも・・・。」
コツン、と士度の鍛えられた胸に額をつけながら、マドカは答えた。
・・・・こういう時、女ってものは逆に強いものだ、と士度は改めて感心する。
急に中断された初めての甘い時間に、どちらともなくクスリ、と笑みが漏れた。
そしてその一時も、ガタン!と大きく窓枠を揺らした暴風に絶たれてしまう。
マドカは風が唸る外へ耳を澄ますと、少し晴れやかになっていた顔を再び曇らせる。
「・・・・あの、士度さん・・・」
「今日はマドカが眠るまで傍に居るさ・・・」
遠慮がちに訊いてくるマドカの意図を察してか、士度が彼女の言葉を最後まで聞き終る前に答えた。
「・・・ありがとうございます、士度さん。」
ホッと、安心したようにため息をついたマドカは、その存在を確かめるように士度の胸にもう一度頬を寄せた。
「・・・・マドカ、何してんだ?」
ベッドの端に移動して布団を被るマドカに、士度は痛む頭を押さえながらも、とりあえず訊いてみる。
「?あの、このベッド広いから二人でも十分寝られるかな、って思って・・・」
やっぱり身体の大きな士度さんには狭いですか?とマドカは小首を傾げた。
その口調には艶めいた風も、恥らう風も、微塵も感じられない。
ただ、“こんな夜は二人で一緒に寝れば暖かいし寂しくないですよ。”というフレーズが
マドカが口にださずとも、士度の脳内にはっきりと響いてきた。
― やっぱりな・・・ ―
予想通りの答えと行動に、士度はガックリと頭を垂れた。
しかし、それでも ― そんなマドカの無邪気さに、今は心洗われるようだ。
そう、急ぐ必要なんてどこにもない ― 今は彼女が傍に居て、微笑んでくれているだけで十分じゃないか。
それだけでも、俺の身も心も十分温められている―なんてこと、マドカは知らないんだろうけどな。
「― いや、俺はここでマドカは眠るまで居るから、さ。」
士度はベッドサイドにあった椅子を引き寄せて座りながら言った。
マドカは不思議そうな顔をする。
「え・・・でも、寒くないですか?」
雨にも濡れたし、お疲れなんじゃないですか?と続けるマドカに、士度はガリガリと頭を掻きながら呟いた。
「あ〜・・・いや、その・・・なんだな・・・男の事情って奴もあるから・・・。」
ほら・・・と、士度はチラリとマドカを見る。
ベッドに腰掛けたマドカはキョトン、とした顔で暫く考えていたが、突然顔を赤らめて慌てだした。
「あ、あの、すみません!私、無神経で・・・。その、そんなつもりじゃ・・・あ、でも、士度さんになら・・・その・・・」
士度は、真っ赤になりながら混乱するマドカの肩をそっと押してベッドへ寝かしつけてやる。
彼女の肩に触れたとき、その痩躯が一瞬ピクリと揺れたが、後は士度の動きに身を任せたようだった。
「士度、さん・・・・」
彼女が士度の二の腕に触れてきた手が熱い。
彼女の胸の鼓動が早くなったのが、彼女と触れ合っている先から士度に伝わってくる。
士度は僅かに苦笑すると、その手を肩から彼女の額に移し、そのままゆっくりと頬にかけて撫でた。
「・・・・無理すんなよ。ここでこうして、傍にいるだけだ。」
だから安心してもう寝ろ―あやすように言う士度の言葉に、マドカの体の強張りが徐々に解けていった。
「でも・・・士度、さん・・・。あの、私、嫌なわけじゃ・・・・」
「分かってるって。俺は平気だし、こーゆーことは、ゆっくりでいいんだよ。」
あんまり気にするな、そう言いながら優しく微笑む士度の気配に、マドカは彼に心ごと抱かれている錯覚に陥る。
― あぁ、この人は本当に私の事を ― 大切に思ってくれている・・・ ―
触れられている彼の手がら、温かい“気”が流れてきているような気がした。
それはまるで、マドカの心を癒し、穏やかな眠りに誘うような――
― おやすみ、マドカ。 ―
慈愛の籠もった彼の声を遠くで聞きながら、マドカは心地よい眠りに落ちていった。
彼への想いを胸に抱き、彼からの想いに喜びを感じながら―。
今だ吹き荒れているはずの嵐の音は― いつの間にか聞こえなくなっていた。
やがて聞こえてきたマドカの穏やかな寝息に、士度は小さく安堵の溜息を漏らした。
そしてマドカの頬に当てていた手をソッと離すと、静かに椅子から立ち上がり自室に戻るべくゆっくりと扉へと向かった。
そして扉の前でもう一度マドカの方を見やる。
― 幸せそうな表情で眠るマドカ・・・・カーテンの向こう側からはまだ風雨の音が窓を叩いていた。
士度は一度ドアノブにかけた手を引き剥がすと、踵を返して、ベッドから数歩の位置にあるソファへ腰を落とした。
もし、マドカが夜中に目を覚ましたら― もし、俺が傍にいることで彼女が再びゆっくりと眠れるのなら―
いいじゃないか、一晩くらい―― 引き摺られなければ・・・・
― 嵐の枕も、また乙なものでござります ――
―― 誰かの声が、また聞こえた。
二時間程経っただろうか――マドカが目覚める気配がして、士度の意識も覚醒する。
暗がりの中、俯いたまま彼女の様子を窺っていると、彼女はキョロキョロと士度の気配を探しているようだ。
やがてソファの方へ彼女の意識が向いた。
士度は身じろぎせず黙っていた。自分がこの部屋にいることが分かれば、彼女は再び眠りにつくだろうと思っていたのだ。
しかし――マドカは起き上がり、かけていた羽毛の掛布を手にしてソファの方までやってきた。
彼女の予期せぬ行動に不意をつかれ、どう動いたらよいのかわからない彼に、マドカはソッとその掛布をかけ、
そして自らもその中に潜り込んで来た。
毛布からする、彼女の体温で温められた仄かな温もりと彼女の匂いが士度の心を泳がし、
彼女がその小さな頭を彼の肩に預け、彼の鍛え上げられた腕にその柔らかな細腕を絡めたとき、
士度の心臓は跳ね上がった。
― ほら、こうすれば、寒くないでしょう・・・ ―
半分眠りの中にいるようなマドカの声が士度の耳に届く。
士度がその名を呼ぶ前に、彼女の小さな寝息が聞こえてきた。
士度は彼女のそのあどけない寝顔を暫く見つめたあと、彼女の小さな身体をそっと抱き寄せた。
彼の体温を求めるように自然に、マドカは無意識の内、士度に身を預けてきた。
― あぁ、暖かいな・・・ ―
幸せな気持ち ― そんな忘れかけていた感情を士度は心の片隅で感じながら、彼もまた穏やかな眠りへと誘われる。
互いの温もりを分け合いながら、二人の夜は緩やかに更けていく。
やがて陽が昇り、朝の空気が二人の頬を擽るまで、この駆け出しの恋人たちは、優しい夜に身を委ねていた。
Fin.
長い嵐の夜でございました・・・士度&マドカ、初めの一歩編でした。
時間がかかってしまいましたが、この亀連載を最後まで読んでくだしました読者様、
どうもありがとうございます!
これからも、これからの二人の穏やかな時間、ゆっくりと描いていきたいと思います。
士度&マドカの行き着く未来が、幸せなものでありますように!(05.5.4)朋−TOMO−