【7】
「士度さん!」
士度の声を聞くなり、しゃがんでいたマドカは彼の元へ行こうと立ち上がった。
「!?」
すると、グラリ、とマドカの姿勢が傾く。
寒い廊下で長時間座り込んでいたため、すっかり膝が笑ってしまい、足が縺れてしまったのだ。
自分の身体の予期せぬ異変に吃驚すると同時に、マドカは一瞬平衡感覚を失った。
床にぶつかる!と思った瞬間、その指は堅く、しっかりとした腕に触れ、目の前が彼の香りで一杯になる。
「・・・ッたく危ねぇな。大丈夫か?」
自分の頭の上から、士度の声が降りてきた。
床に叩きつけられる前に士度が身体を受け止めてくれたらしい。
雨に濡れたせいか、士度の上半身は衣服を纏っていなかった。
そして彼の太陽のような匂いに混じって、雨の、冷たく暗い匂いがする。
それでも彼の腕から感じる体温はマドカのそれよりも高く、すっかり冷たくなってしまった指先には心地よかった。
マドカはその温もりを求めるかのように、腕を士度の広い背に回し、頬をその逞しい身体にそっと寄せた。
−彼の心臓の鼓動が少し早いような気がする。
おい、と士度が困ったように呟いたのが聞こえた気がしたが、マドカは彼を抱きしめる手に力を入れた。
彼が−こんなに近くにいる−たったそれだけのことで、マドカを苛んでいた嵐の音が遠くなる。
身体、すっかり冷えちまってるじゃねぇか−
労わるような優しい声が聞こえた。
彼のその一言だけでも、マドカは自分の体温がゆっくりと上がっていくのを感じる。
そして、まるで彼女を暖めようとするように、ゆっくりと、士度の右手がマドカの後頭に添えられ、
左手はそっとマドカの腰に回されて、少し引き寄せられた。
自分と士度の距離がまた、限りなく近くなった−。
マドカの心は喜びに打ち震える。
今夜はこのままずっと、士度さんと一緒に−−
そう思った瞬間、ふいに士度の両手がマドカの両肩にかけられて、
グイッと身体を引き離された。
温もりが急に奪われる−
「・・・今日はもう、寝ろよ。」
士度の感情を押し殺したような声が、マドカの耳に届いた。
「士度さん!」
マドカがまだ寝ないでそのまま廊下でしゃがみこんでいたのにも驚いたが、
彼女が自分のほうへ駆け寄ろうとしたときにその華奢な身体がグラリと傾いたのにはもっと驚いた。
士度は慌ててマドカの元へ駆け寄り、その痩躯が床に叩きつけられる前に受け止める。
「・・・ッたく危ねぇな。大丈夫か?」
そう言いながら士度は自分の腕に触れた彼女の指先の冷たさに驚駭した。
自分も雨に打たれて冷え切っていると思っていたが、彼女の体温はそれ以上に冷やされていた。
すると、ふいに彼女の細い腕が士度の背中に回され、その冷えた身体を自分の方へ近づけてきた。
身体のラインがくっきりと浮かび上がる薄いネグリジェと、レースのカーディガン越しから
彼女の少し小振りな胸の感触と弾力が士度の肌に伝わってくる。
「・・・おい。」
女、を感じさせるその感触に僅かに戸惑いを覚え、そんなにくっつくなよ、と士度は告げようとしたが
マドカがさらに籠めた自分を抱くか弱い力に、彼女の縋るような気持ちを察してその言葉を飲み込み、
代わりに冷えたその痩躯を労わる言葉を与える。
そして、そのすっかり白くなってしまっている頬から伝わる彼女の体温に
せめて自分の温もりを少しでも分けてあげようと、そっと彼女を引き寄せた。
腰に手をあてたとき、一瞬ピクリ、と彼女の身体が揺れたが、やがてマドカの方から
士度のその手の導きに答えるように一歩、控えめに近づいてきた。
マドカの、少し早い鼓動を感じる−
士度は彼女の髪から仄かに香る花の匂いと、
自分に身を任せているその細い体の柔らかさに軽い眩暈を覚えた。
−今夜はこのまま、この冷え切った愛しい痩躯を温めてやりたい−
−そして、自分も彼女の温もりに溺れて、この陰鬱な嵐の夜を・・・
マドカが頬を自分の胸に擦りよせた感触で士度は我に還る。
彼女は−マドカは、この寒い夜に、純粋に俺の温もりを求めてきているだけだ・・・。
それに引き換え、俺の中にあるのは−彼女を愛しいと思う気持ちと、男としての“欲望”。
このままでは、きっと、彼女を傷つける・・・嵐に、引き摺られる。
士度は意を決したようにマドカの両肩に手をかけて、グイッとその細い身体を引き離した。
心地よかった彼女の感触が離れ、自分の身体も冷めていくを感じる。
「・・・今日はもう、寝ろよ。」
自分の中の薄暗い感情を外に出すまいと、士度は低く告げた。
−見えないマドカの目が見開かれた。
自分の肩から離れていこうとする手を、マドカは縋るように両手で掴んだ。
彼の低く、感情が読み取れない言葉にマドカは突き放されたような感じがして、悲しみが再び頭を擡げてくる。
士度は掴まれた両手を振り払わない。
けれど再び引き寄せてくれることもしない。
ただ、彼の困ったような気配がマドカの気持ちをよりいっそう不安にさせた。
でも、今夜は−一人でいたくない。お願い、傍に・・・いて。
「士度さん・・・」
少し掠れた声でマドカが呼ぶと、士度のその腕が微かに揺れた。
「あの・・・今夜は、一緒に居てくれませんか・・・?嵐の音が−その…一人で、居たくないんです。」
−眠れないんです−
マドカの縋るような声と懇願に士度は瞑目する。
−あぁ、お互いこの嵐から逃れる術を模索し、そして互いの温もりにそれを求めているというのに・・・−
その狭間にある溝−思惑の違いは士度を苛む。
マドカ、俺の想いに気付いてくれ−。
「・・・駄目だ。」
その搾り出すような一言が、マドカの耳を切り裂いた。
マドカは一瞬瞠目し、そしてその手は掴んでいた士度の手からパタリ、と離れて所在なさげに落ちた。
「そう・・・ですよね。士度さん、お仕事で疲れていますし、今日我儘一杯聞いてもらっちゃいましたし・・・。
さっきも夜中で雨が降っているのに働かせてしまって迷惑をおかけして・・・。すみませんでした…。」
努めて笑顔で答えようとしたのだろう、それでもマドカの声は途中から震え、ツッと一筋の雫が頬を伝った。
「!!・・・・マドカ、そうじゃないんだ!」
流さなくても良い涙を自分が彼女に与えてしまったことへの罪悪感と、錯舛する互いの気持ちへの困厄から
士度はマドカの手を取り少し強引に引き寄せ、その痩躯を掻き抱いた。
士度のその急な行動にマドカが驚き、ビクリと肩を揺らす。
そしておずおずと彼の手に自分の手を重ねた。
とちらともなく二人の指が絡み合う。
「困らせてしまって、ごめん、なさい・・・」
「俺が・・・悪かった。」
士度からの謝罪の言葉に、マドカは首を振る。
ただ、士度の傍に居たいという自分の我儘が士度を困惑させたということがどうしようもなく悲しかった。
−お願い、嫌いにならないで・・・−
囁くように呟かれたその言葉に士度の体躯が動くと、彼はマドカの頬にそっと触れる。
「・・・・違うんだ、マドカ。」
士度が悲しそうに微笑む気配がした。
「士度、さん?」
士度のその、曖昧な空気を確かめるようにマドカは彼の顔へと手を伸ばす。
すると、その細い指先がスッと士度の手に捕らえられ、
士度の顔がマドカの方へゆっくりと降りてきた−。
士度の唇が、マドカの寒さで色を失った唇を掠めた。
閃いた雷光が瞬間一つになった二人の影を映し出し、暗く冷たい廊下に長く引き伸ばした。
早くマドカに笑顔を与えてあげたいところです…。