童の頃の思い出は戦に灼かれ

民は紅い海に沈み

守る為に故郷を捨て

ただ生き延びるために身を投じたのは
無機質で限りなく灰色の城。

ここで本能のままに闘い

この燃え尽きようとしている街に死場所を求めるかの如く彷徨い

血と埃と憎しみに濁黒く染まった世界を無関心に眺めながら

身も心朽ち果て行くのだろう――




拳を紅く染めながら
目の前に倒れ伏す者を冷めた瞳で見下ろしていたのも


ついこの間の事だった――





居場所






「……………」



深と静まり返る闇の中に静謐な朝の気配を感じ、
ゆっくりと目を開けてみれば――そこには未だ見慣れぬ天井が。

身を横たえている西洋風の寝具の感触は阿久津の屋敷にあったものとよく似ているが、
ただ――無限城を隅々まで犯していた殺伐とした雰囲気や、
阿久津の屋敷全体に漂っていた冷ややかな空気を感じない違和感が

士度の唇に自嘲の笑みをもたらした。


「……………」


晒したままの上半身を起こし、士度は腕を上げ軽く伸びをした。
しかしジーンズを身に着けたまま眠るのはやはり――
いつ襲われるかも知れない日常がまだ身に染みているからだということに、士度は気づかない振りをしていた。
彼は一度コキリと首を鳴らし、小さな溜息を吐きながら立ち上がった――

無限城に居た頃、一時的な
ねぐら にしていた廃墟ビルの崩れかけた壁が一瞬彼の脳裏を過ぎった。

フラッシュ・バックのように久方振りに目の前に現れたそれは、小鳥達の囁き声とまだ薄い朝日に掻き消される――


「……………」


彼は一度瞬きをすると、呆れたように小さく頭を振った。
そして一時的な居候に宛がうにしては整いすぎている客室のカーテンの隙間から裏庭を覗けば
明け方の薄い光の中で未だまどろむ仲間達の姿は、同じように広かった阿久津邸の庭にいるときよりも、どこか幸せそうで。


「……………」


彼の口元は小さく苦笑し、そしてその武骨な手は再びその厚い布から離れた――

自分には、自信がない――

何故だかも分からない――

あの盲目の少女に乞われるままにこの屋敷に逗留することになったが、
ただ仲間達との居場所が欲しいという理由を付けたとしても滑稽な話だ。

いつまで居るのか、いつまで居られるのか――
ここに来てからすでに一ヶ月弱も経つというのに、慣れない“平穏”にまだ戸惑っている自分がいる。


「……………」


心を往復するそんな居心地の悪い感触から逃れようと、士度は手早くシャツを身につけベストを羽織り――
まだどこか余所余所しい洋間の客室から、早朝の薄暗い廊下へと一歩を踏み出した。




「あ、士度さん……!おはようございます……!」


「……?……おぅ……」


玄関へと続く階段を下りると、思いがけず声を掛けて来たのはあの小柄な盲目の少女で。
彼の短い挨拶を気にする素振りも見せず、爽やかな笑顔で盲導犬と共に駆け寄ってきた少女の片手には、
大事そうに何かが握られていた。

「あの……これ、昨日の夜届いたんです。セキュリティー上特殊なものなので、作って頂くのに時間がかかってしまって……」


はい、この玄関の合鍵です――


遅くなってしまって、ごめんなさい……――そう言いながらマドカは、どこか少し恥ずかしそうに小さな鍵を士度に差し出してきた。

しかし彼は――士度は、その鍵を直ぐには受け取らなかった。
そんな彼の躊躇いを察したマドカは、鍵を片手に不思議そうに首を傾げる――すると士度の静かな声がエントランスに小さく響いた。


「……いいのか?」


マドカの瞳がもう一度、問いかけるように瞬いた。


「……会ってそんな間もねぇだろ……しかも素性の知れない俺なんかに合鍵、渡すなんてよ……」



どう考えても、危険だろ?出入りなら使用人か誰かがいるときに……――


そんな士度の言葉にマドカは驚いたように目を瞠ったが――


「……士度さん、危険な方なんですか?」


違いますよね……?――
マドカは自分の問いかけを即座に否定し、手探りで士度の手を掴むと、彼の大きな掌にそっと鍵を握らせた。
少し面食らったかのような彼の気配に、マドカは優しく目を細めた――彼の……新しい貌がもう一つ――

戸惑いながらも、確かに鍵を受け取った彼の掌のぬくもりをいつまでも感じていたいとマドカは思ったが、
彼の指先が鍵に触れたとき、マドカは名残惜しそうに手を離す――自分の胸の鼓動の速さが、指先から伝わってしまわないように。


「………悪ぃな……借りとくぜ……」


「………!!……はい………」



差し上げたんです……――喉元まで出掛かったそんな言葉を、マドカは目を瞑ることでそっと押し留めた。
彼に出会ってからまだほんの数週間――それでも――もっと知りたい、もっとお話したい、もっと傍に……
こんな風に切ないほどに募る初めての想いを、マドカは彼にどのように伝えてよいものかもまだ分からなかったし、
急に舞い込んできた新しいお屋敷での生活にまだ慣れぬ様子の士度に纏わりつくのも、何だか無作法な感じがしたのも確かだった。
それでも、一刻も早くこの屋敷に馴染んでもらいたくて……鍵を……。


「……なぁ、アンタ……いつもこんなに早起きなのか?」


鍵の形を指先で確認しながらの士度の問い掛けにマドカは我に還り、その頬を薄っすらと桃色に染めた。
時刻はまだ朝日がぬくもりを帯びる前――昨夜は早めに自室に引っ込んでしまった彼に、少しでも早く鍵を渡したい一心で……
ここ数日、朝になると彼はフラリとどこかへ行ってしまっていたから。
そしてフラリと帰ってくるのは、夜遅かったり、この屋敷の住人たちが気づかぬ間だったり。


「……いえ、あの……鍵を……お渡ししたくて……それと……」


それにお庭に動物は増えたけど、ランチボックスを傍らに置いてお昼を一緒に食べたけど……住む人が一人増えたというのに、
朝も夜も、マドカは日が差し込むモーニング・ルームで、静かに広いダイニング・ルームで――相変わらず一人ぼっちの食事だった。
いつもマドカが起床する時間には彼はすでに何処かへ雲隠れ、かと思えばいつの間にか庭で惰眠を貪っていたり、
夕食もどこか外で済ませてきているようだった――
“住まう場所”以外は世話にならない――そんな無言の言葉が不安な気配と共にマドカの耳に伝わってくる――


「それと……あの…朝食、ご一緒しませんか?普段はいつも七時半から――」


それでも一縷望みを懸けて紡いだ言葉はしかし、意識してかしないでか――彼の素気無い台詞に攫われる。


「………外で済ませてくるからいいさ。気ぃ使うなよ……――?」


鍵を渡すためだけに早起きをしたであろう彼女の律儀さに感心しながらも、迷惑をかけるつもりはないと士度は食事の誘いを断った。
しかし彼がそう言いながら立ち去りかけたとき、その視界を掠めたのはマドカの悲しげな表情。


「そう……ですか……」


ハーネスを持つ彼女の手が、何かに耐えるように弱弱しく握られ――
ただでさえ細いマドカの姿が、良かれと思って呟いた自分の言葉一つでいっそう儚く揺らめいたことに、
士度は内心虚を衝かれ、大きくうろたえた。
食事を共にする事を断るということは――こんなにも罪悪感を伴うものだったのだろうか――?

彼女の足元にいるモーツァルトも、急に萎んでしまった主人の気持ちに対して心配そうな声を出す。

あぁ、泣くかもしれない――

哀しみを堪えるかのようなマドカの切ない表情に、士度はツキリと痛む心を感じる――
女が涙する姿を見るのは――あまり好きじゃない……。

喩えそれが――よく知らない女でも――否、彼女は……――



「………明日は、世話になるからよ……」


「……――!!はい……!!」


去り際に士度が漸く呟いた言葉に刹那の間を置いて返ってきたのは、救われたような明るい声――


引き摺られるな――


心の何処かで警笛が鳴った。


此処は、違う――いずれ去らねばならぬ場所――


心を許してはならない、
想いを残してはならない、
情に流されてはならない――


眩暈のように鳴り響く古の聲は――
今は友の胸にあるはずなのに――
それは士度の心の臓から汲み出される血汐にのって、深い痕を残して躯中を駆け巡る――


いってらっしゃい……――

そんな優しい音色に、どんな返事をしたのかも分からぬまま

士度は朝日にまどろむ屋敷を後にした。





変な女だ……


生まれも育ちも住む世界もまるで違うと分かる赤の他人のこの俺を、いとも容易く信用しちまって……


グルグルと己の精神を彷徨う不慣れな感覚から逃げるように、士度は新宿の街をただ只管に歩いていた。
否、街を、“表の”新宿に身を浸しているのはそれだけではない――
ここ数日、朝から晩までこの街を歩く理由といえば、裏の世界が長過ぎた自身を早くこの街に馴染ませ、職を探す為だった――
裏家業にせよ(自分にはこっちの方が性に合っているだろうが)、全うな仕事にせよ――
手持ちは幾らかあるにせよ――早いところ街の特徴を把握し、ある程度稼がないと――
多かれ少なかれあの豪邸に滞在する間、家賃も払わないとなると本当にただの“ヒモ”になってしまう。

ただし慣れぬ“表”の街、文明に毒された社会で、自分に合うような仕事がそう簡単に見つかるわけもなく――


途中で手に入れたホットドックを朝食代わりに、噴水の前で鳩を相手にしながら士度が内心盛大な溜息を吐いていると――

交差点の向こう側から聴こえてきたのは、甲高く自分の名を呼ぶ――
――あぁ、同じ“女”でも、マドカが愛らしい小鳥なら、あの女は高く鳴く女狐といったところか――
いつか名刺を残していった、確か仲介屋とか――

士度が諦め半分で動かぬことをいいことに、仲介屋はヒールの音も高らかにビーストマスターの前までやってきた。
やはり数度の会合、しかもほとんど言葉を交わさず――
そんな相手にも関わらず、彼女はその馴れ馴れしさに呆れる彼を、
“仕事を餌にして”
お茶に誘った――





「“奪還屋”……?」


「そ、“運び屋”や“護り屋”なら
つわもの が揃っているんだけどね……意外にいないのよ、“奪還屋”」

だから私の“
管轄地域シマ ”ではGBの二人に仕事が行く事が多いんだけど……――


新宿の繁華街から少し離れた小洒落たオープンカフェでアイス珈琲を掻き混ぜながら、ヘヴンは士度に向かって小さく溜息を吐いた。

「“奪還屋”にはね、士度クン……“頭脳”と“行動力”と“慎重さ”が大事なのよ。」


仲介屋のその言葉に、士度は控えめな嘲笑をその声音にのせた――


「……銀次とあの蛇ヤローに、その“頭脳”と“行動力”と“慎重さ”の三拍子が綺麗に備わっているってか……?」


仲介屋も釣られたようにその綺麗な唇を歪めた。

「……“捻くれた頭脳”と“無駄な行動力”と“大雑把な慎重さ”が、ね……
それに“運”が大きく味方して今はまぁ、とりあえず“奪還屋”として機能しているけど……」


“仲介屋”の私としては、“繊細な仕事”を任せるに足る選択肢も欲しいわけよ――


紅いマニキュアがキラリと光る人差し指が、士度を捕らえた――士度の眼が冷たく眇められる。


「……こちとら“頭脳”って奴には、からきし自信がないもんでね……」


やるとしたら“動く”方がメインになるな……
――己を嘲難するような彼の言葉に、ヘヴンは笑いを含んだ悪戯っぽい瞳を向けてきた。


「あらぁ……この間だってアッチにコッチに色々と邪魔が入ったり、美堂蛮がマウントポジション取ったりもしたけれど……
最終的には奪還すべきものは士度クンの手元に残ったじゃない?――GBのあの二人をあそこまで本気で悔しがらせたこと――
買ってるつもりよ、私?」

――それに、マドカちゃんのお屋敷でお世話になる以上――士度クンだって文無しじゃいられないでしょ……?

――だからいっそのこと、“開業”してみない?

畳み掛けるような女狐の言葉は、決して愉快なものではなかったが――不思議と不快感を煽るものではなかった。
何より、仕事を探していたのは事実――それに……――
裏社会に身を置いていた方が、己に憑いて離れない運命の囁きを忘れずに済む……――


「………仕事はあるのか……?」


了承代わりの士度の言葉に、ヘヴンの紅く彩られた唇は綺麗な弧を描いた。


それに……それなりに纏まった金があった方が、何時、この……鍵を……返すことになっても………


ジーンズのポケットの中の感触を生地の上から確認しながら浮かべた士度の自嘲的な笑みにヘヴンは刹那、不思議そうな顔をしたが――


「――早速、イッてみる?」


彼女は輝くブランドバッグからファイルを取り出すと、新しい“奪還屋”にターゲットの説明を至極真面目に話し始めた。


無限城を出て“二つ目”の新しい世界に――士度は抗う想いを闇の中へと閉じ込めた。



ここは、違う――いずれ去らねばならぬ場所――


囚われてはならない、
奪われてはならない、
絆されてはならない――



――魔之鍵が――

扉を開けるその日こそ
自らが潰えるその刻だと

俺は躯の何処かで シッテイタ――




















「……さん、父さん……!」



ついこの間の事だった――そんな気がする。


ユラリ……


過去から引き戻される不可思議な感覚と共に眼を開ければ、そこには自分とよく似た姿が。
いつのまにか書斎のソファで転寝をしてしまっていたらしい――


「……大丈夫?父さんがグッスリ眠るなんて珍しいね……母さんが帰ってきたよ!あ、今日借りた鍵、ここに置いとくね……!」



すっかり大きくなってしまった息子はオウムのキーホルダーがついた鍵を蒼い大理石のテーブルの上に置くと、
ケーキがどうのと呼ぶ双子の妹の声に適当に返事をしながら再び階下に下りていった――


「………………」



バタバタと鳴る足音――居間に消えていく声――そして静寂――



士度はまだ微睡む瞼に覚醒を促すように、両手で顔を包んだ――
すると指の隙間から見えたのは銀色の――



鍵。






ここは、――……う――いずれ……らねばならぬ………――





あぁ、自分は………――




「士度、さん……?よくお休みだったようですね?」



音楽院での仕事を終えて帰ってきたマドカはシェパードの盲導犬と共に書斎に入ってくると
その濡れ羽色の美しい髪を未だソファに身を横たえている士度の頭上に垂らし悪戯っ子のような笑みを浮かべた後、
ストン……と腰を落としその綺麗な貌を彼の顔へと近づけてきた。


「……昔の、夢をみていたような気がする――」



寝起きの――少し掠れた士度の声にマドカは耳を傾け、続きを促した。



「お前が……その鍵をくれたときの夢だ……」


「……貴方、躊躇っていたわ………」


私も、ホントは凄くドキドキしてたんだから――
そう云いながらマドカは優しく微笑むと、彼の唇の端に触れるだけのキスを落とした――
――彼の胸に当てられていた彼女の嫋かな手は、彼の武骨な指に包まれる――
――指先から伝わるのは、彼女の心地よい体温……――



「……いつかは返さなきゃならねぇって――柄にも無く……――?」


「ずっと、貴方のものよ……士度さん………」


静かに紡がれた彼の言葉を、マドカの手が彼の頬を、マドカの唇が彼の唇に触れることで遮った。
そして子守唄のように聴こえる彼女の心。


あのときから――

ずっとずっと――


貴方のものなの………


「この鍵も……――」


この身も――
心も――


「そうか………」


そうだった――あの頃の俺は――
心のどこかで嘘を吐いていた――

その答えはあのときからもう決まっていたのに――あの月夜の中で――最初にお前の音色を聴いたときから……


士度は柔らかに食んでくるマドカの丹花をゆっくりと己の内に獲り込み――

甘く啼く彼女の吐息ごと、彼女に熱を与えていった。


彼女を奪われ――奪り還し――己が滅びようとも――そしてこの鼓動が刻を止めたその刹那さえ……



唯君だけを――
君の元へと――


想い――
惟い――
懐い――




あぁ、自分は………シッテイタ――


お前がこの鍵と――


漆黒の鍵に打ち勝つ心の鍵を――俺に手渡したその日から――


帰る場所を――


逗まる場所を――


知っていたのだろう――










「……ンッ……子供達が……ッ………」



呼びに来ちゃうわ……――



腰を引き寄せられ、唇と指先から甘い疼きを与えられ――
マドカは火照る躰に貌を桃色に染めながらも士度の唇の先で囁いたのだが――


「……扉が閉まっていれば、合図無しに入っては来ないだろう……?」



士度はそう言うと、扉の前で伏せて主人を待っていたシェパードに小さく目配せをした。

少し呆れた顔をしながらも、その従順な盲導犬は大きな身体を器用に使って静かに書斎の重い扉を閉めた――


「好きよ、士度さん……」

あの頃からずっとずっと、もっともっと……
私は貴方を好きになる――
あの時言えなかった言葉も、ほら、こんなにも自然に出てくるもの……


「・・・、・・・・」


マドカの耳元で囁かれた士度の言葉に、彼女は彼にしか見せない美しい笑みをその貌に湛えた。


そして確かめ合うように静かに奏でられる二人の睦言の葉を

愛犬は行儀良く――

聴こえない振りをした。








Fin.




本当は第三世代を出すつもりでしたが・・・
書いているうちに第二世代もままならず;
恋に、愛に戸惑う若い二人もまた愛し。

(2012.3.10一部改訂しました)

(前編的なお話:『恋愛進行10のお題』―5「.私の心に気づいて」もぜひどうぞv

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