今日は音楽院のお仕事があるけれど、

午後は公園で待ち合わせ。


公園のお池のボートに乗ってみたいと言ったらあの人は

二つ返事でOKしてくれたから――


cold cure


「おはようございます――あら・・・?」


涼やかな青空が心地よいある秋の朝、マドカがいつも通りにモーニング・ルームの扉を開けてみると、普段なら新聞から顔を上げ「よう」と返してくれる彼の気配がそこには、ない。マドカが首を傾げると、

「士度様なら今朝は少し遅めに起きていらしたので・・・丁度今、お庭の動物さんたちに餌をあげているところですわ。」


もうすぐお戻りになられると思います
――金髪のメイドは椅子を引き、マドカの着席を手伝いながらにこやかに言った。

耳を澄ましてみると――庭から犬や猫たちが士度に餌の催促をする鳴き声が数多に聴こえてきたので、マドカは口元は自然と綻ぶ。

昨夜は士度の帰宅が深夜だったので、夜は顔を合わさず仕舞だった――マドカは僅かな待ち時間を楽しむかのように淹れたての紅茶に口をつけながら、時折聴こえる彼の声に目を細めた。
彼がテラスからティー・ルームに上がった気配を感じ、廊下を渡る足音の一つ一つを丁寧に追って――カチャリ、と扉が開く音と共にゆっくりと顔を上げ、
音がした方に向かって柔らかな微笑を向ける――

「おはようございます、士度さん・・・!」

そして返される彼の穏やかな――いつもの気配に、いつもの声に、マドカはもう一度、朝の光に映える美しい微笑みを彼に捧げた。





「それでは、いってきます・・・!」

――士度さん、またお昼に・・・・

「ああ、気をつけていって来い・・・・」

士度の優しい眼差しの気配を心に深く感じながら、マドカは彼の手を刹那そっと握ると、もう一度会釈をしながらモーツァルトと共に車に乗り込んだ。

彼女を乗せたリムジンが門を出て見えなくなった頃になってようやく――執事と四人のメイドは次の仕事へ取り掛かるべく踵を返し、士度も車の軌跡から目を放す。

執事とショートカットのメイドは朝食の後片付けをしにモーニング・ルームに戻り、おかっぱのメイドはベッドメイクの為に二階へ、金髪のメイドは庭掃除、そして眼鏡のメイドは玄関先を清掃する為、箒を物置から取り出していた――そのとき――


ケホン・・・・・


掠れた、小さな咳が彼女の耳に飛び込んできた――ような気がした。

(え・・・・?)

顔を上げると、彼女の目の前を通り過ぎた居候殿が、一人厨房の方へと向かっていく姿だけが目に入る。

今朝、朝食の席で拝見した限りではいつもと変わりない様子であったように感じたが・・・。
それに今の彼の後姿も、いつもの、普段の――女主人の想い人だ。具合が悪い気配はどこにも感じられない。

(士度様でも・・・咳ぐらいはするわよね・・・)

メイドは少し首を傾げた後、心配のし過ぎだと自分を戒め、掃除に没頭することにした。

玄関先を彩るステンドグラスから差し込む朝の光はとても柔らか――今日はとても素敵なデート日和になることだろう。

女主人の幸せそうな笑顔を想像しながら、メイドは綺麗な鼻歌交じりに箒を動かす――二階からはマットレスを叩く音が、元気なハミングと共に聴こえてきた。







「・・・・・・・・」

士度が大きめの蓋付カップを片手に自室へ戻ると、目的のベッドは羽毛布団からマットレスから毛布に枕までもが全てひっくり返されベランダに出され――虫干し状態にされていた。

「あ、士度様・・・!夕方まで干しておけば、今夜はお日さまの匂いの中でよく眠れると思います!」

布団叩きを喜々として振り回しながら、おかっぱのメイドは屈託のない笑みを士度に向ける。

「そ・・・そうか・・・悪ぃな・・・・」

いいえ〜!――彼女の能天気な声に脱力しながらも、士度は予備の毛布がどこにあるかを聞き出し棚から取り出して、ソファに放置されていたクッションを小脇に挟み――少し気怠い身体を引き摺るようにしながら、とりあえず自室を後にした。

今日は少し風がある――それに庭の方からは掃除に出たはずのメイドの「とってこい!」という元気な声と、犬達が戯れに争いながらボールを追いかける声が聴こえてくる。書斎のソファも居心地が良さそうだが、居候の分際で昼前から勝手にそこに寝そべるのもいかがなものか・・・ティー・ルーム周辺は人の往来が激しく、別の客間を使うのも気が引ける――


ゴホッ・・・


思わず出た咳に眉を顰めながら、さて何処へ行ったものか――カップと毛布で両手を塞がれながら、廊下に突っ立ったままで思案していると――いつの間にか屋敷の中に入ってきていた灰猫が、士度の足元に身をすりつけながらニャアと鳴いた。士度はもう一度、掠れた喉から低い音をだした。

<具合、悪ソウダネ・・・暖カイ所ニ行キタイ?>

金色の目を悪戯っ子のように煌かせながら、灰猫は士度を見上げてきた。

「そうだな・・・だが今日は屋根の上は勘弁だな・・・」

<日当タリガ良クテ、静カデ、人モアマリ来ナイ・・・>

灰猫は得意げに語る。

<昼寝ニ気持チ良イ場所ニ、行キタイ?>

最後の台詞は、唐突に現れた三毛猫に奪われた。

「お前等・・・・この屋敷の中でそんなところ・・・知ってるのか?」

士度の言葉に、二匹は得意げに尻尾を振った――








「へぇ・・・・こんなところが、あったんだな・・・・」

士度は手元にあった使い古された大きな皮のスーツケースの上にカップを置くと、同じく古びたせいで草色がさらにくすんでしまっているソファの埃を払った――定期的に掃除をされているのだろうか、塵はあまり舞い上がらない。

<気ニ入ッタ?>

<秘密ノ場所ダヨ?>

「あぁ・・・・ありがとよ、助かったぜ」

士度に喉を柔らかく撫でられ、二匹は目を細めながら彼の肩の上でご機嫌だ。

士度は毛布とクッションをソファの上に放ると――灯りのない室内を唯一明るく暖かに照らしている天窓の下にソファを押しやった後、少し中身の入ったスーツケースをテーブル代わりにソファの脇に置き――ドカリとその長椅子に腰を下ろす――疲労感がどっと士度の身を侵し、不快感が痛みを運ぶ喉を彼はクッと鳴らした。
持ってきたカップの中身は蓋のお陰でまだ温かなままで――士度はそれをゆっくりと飲み干すと、今度こそ、そのスプリングが利いたソファに身を沈め、毛布を手繰り寄せた――
昨夜の依頼は難しいものではなかったが――夜の雨は冷たかった――その雨の中、外で何時間もターゲットを待ち続け――今回のパートナーであったレディ・ポイズンの唇が寒さで色を失い始めたので、羽織っていたジャケットを貸してやったら、このざまだ。秋の半ばに、ジャケットの下が半袖一枚だった自分の馬鹿さ加減も原因なのだが。
士度はたかが雨に打たれたことで調子を崩してしまった自分の身体の不甲斐なさを忌々しく思いながら、天窓から見える陽の光の位置を確認した――マドカとの約束の時間は正午過ぎ――それまであと・・・三時間程度・・・・

そのくらい休めば、元は頑丈な自分の体躯。少しはマシになることだろう――

士度は目を瞑り、掠れるような痛みを伴う喉からもう一度、絡んだ音を出す。

猫達がゴロゴロ気持ち良さげに士度の首の横や足の上に自分たちの寝床をこさえた。

そんな彼らの気配に苦笑しながらも、士度は疲労感と睡魔に身を委ねた――頬に当たる日の光は、ガラス越しの柔らかなぬくもりで彼を眠りの世界へと導いていった。









「あれ・・・?」

いつもより少し早く出勤してきたお抱えコックが冷蔵庫の中を覗きながら首を傾げた。

「昨日、調理用に買っておいた日本酒がワンカップ・・・足りなくなっている・・・」

午前中の仕事を終えて小休止の為に集まっていたメイド達や執事の方へコックが疑惑の眼差しを向けると・・・・一同は激しく首を振った。

「・・・・烏骨鶏の卵(一ヶ500円)も・・・一つ減っていますよ?」

使用人達はさらに激しく首を横に振る。

「今日、開ける予定だった最高級の蜂蜜も、既に誰かが小匙一杯分味見したみたいですし・・・」

「日本酒・・・卵・・・・蜂蜜・・・・・」

コックの疑いの眼差しの中で、ショートカットのメイドは無くなったものを復唱してみた――「・・・・卵酒?」

「誰か風邪でも引いたの?」

――金髪のメイドが不思議そうに一同を見回すと、眼鏡のメイドが思い出したように目を見開いた。

「そう言えば、士度様が・・・・今朝方咳をされているのを聞きましたわ・・・・」

その言葉に一同の目は丸くなり――

「あ・・・朝、お部屋の掃除をしているときに士度様がやってきて・・・予備の毛布とクッションを持ってどこかにいかれました・・・」

もしかしてベッドで寝たかったのでしょうか・・・あ、なんか手にマグカップを持っていたような・・・――おかっぱメイドの台詞に、執事は頭をかかえてしまう。
何故朝の時点で分からなかったのだろう――家人の体調の変化に気がつかないなんて・・・執事失格もいいところだ。

「士度様が・・・風邪・・・・?」

コックを含め、厨房に居た一同は冷や汗混じりに視線を交わしあい――

「・・・・!私、お嬢様にお電話でお知らせします・・・!」 「今すぐベッドメイクと湯たんぽと薬の用意を・・・!」 「私、おばあちゃんから教わった長葱のシップ、作ります!」 「やっぱり人参スープでビタミンAを・・・」 「み、みかんと葛湯、買ってきます!」 

一同は弾かれたようにバタバタオタオタと動きにかかるが、金髪のメイドはポツリと呟く。

「・・・・で、肝心の士度様がお部屋にいないとなると・・・」


――今、どこに?


冷たい風が音を立てながら、厨房を吹き抜けていった――





















(痛いわね・・・それにこんなに熱がでて・・・辛いでしょう・・・?)


嫋やかで少しヒヤリと冷たい手が――羽が触れるように心地よく頬や額を撫でてくる。


(・・・・大丈夫、子供は皆一度はかかる病気よ・・・)


――力弱い手で水を含ませた布を絞る音がした。


(一週間もすればすっかり治ってしまうから・・・・)


大丈夫、大丈夫よ・・・・――傍らに身を横たえ、そっと抱きしめてくる存在からは、甘く澄んだ花のような匂いがした。


(傍に、いるから・・・・― ― ― ―が・・・・)


謡うように、囁くように、その
女性ひとは愛しそうに髪に顔を埋めてくる。


(士度・・・・良い子ね・・・・・・)


その声とぬくもりに――身体の痛みが少し和らいだような気がした・・・。


その人の顔は、不思議なことに覚えていない。
ただ、流れるような漆黒の――闇色の絹糸のような長い髪が、目の前で美しく揺れている様が視覚に新しく、
どこまでも深く、優しい慈愛の篭った澄んだ声が、心に凛と――いまでも、響いている・・・・・。


そのとき俺は――

苦しい息の中で彼女の手を、求めていた――







これは・・・


昔の


夢だ。












カタン・・・・

人の気配と物音に――士度が身を起こそうとしたそのとき――柔らかな手が彼の瞼に当てられ、そっと眠りを促した。


「そのまま・・・・寝ていてください・・・」


あぁ、あのときの声とは違う・・・しかしより愛しい声が聴こえる。


「戻って来たのか・・・・お前、ボートに乗りてぇって・・・・」


白磁のように白く、美しい手が士度の顔の肌の上を滑る――それは子守唄に似た、優しい調べ。


「ボートは、あなたと一緒なら、いつだって乗れますもの・・・・」


士度の掠れた声に切なそうに眉を寄せながら、マドカはいつもより少し熱を孕んでいる士度の逞しい手を持ち上げると、
その甲にそっと、キスを落とす。


「だから、今日は・・・・」


――ゆっくり、休んで・・・早く元気になってくださいね・・・・


士度は、刹那――懐かしそうに目を細めると、彼女の細い指を親指でそっとなぞり、身体の力を抜いた――




正午の光の中で、彼の腕をその柔らかな胸に抱きしめる彼女の姿は―-まるで地上に降りてきたばかりの天使のようだった。





メイドが迎えにくるまで、マドカは彼の寝息と鼓動を――陽の光と同じくらい煖かな眼差しで感じていた。





今日はボートの約束があったけど

午後はお家で隠鬼。

そして私はあなたを見つけた――

屋根裏部屋で――無防備に眠るあなたの姿と、いつもより柔らかなあなたの気配が

私に安らぎと

恋の尊さを教えてくれる。





今はおやすみ愛しい人。




あなたが目覚めたときに呼んでくれる私の名を



私はここで待ち続けます。










Fin.









"cold cure"=“風邪薬”という意味です。medicineよりもcureの方が愛情が篭っているような気がして・・・。
ちなみに幼少の士度が掛かった病気は流行性耳下腺炎、通称おたふく風邪・・・と思ってやってください;
大人士度クンにはもう少し苦しんでもらうようなお話を後日書いてみたいと思っているので(危)
今回は軽症にとどめてみました。マドカ嬢の出番が少なくて申し訳なく・・・!
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風邪引き士度さんのリクを下さったアナタ様に感謝です・・・!v