our Secret Garden〜春を愛でる人〜

【1】

いつもの緑の香りの中に、ほんのりと色づく愛らしい香りが好きだった。

雪のように優しく、雪よりも柔らかに肌に触れる花弁に心躍った。

そして彼と最初に過ごした穏やかな春の日、

彼の眼に映るその花の色を知りたくて聞いてみたら、

少し困ったような、照れたような雰囲気の後

その人は満開の木の下で私に囁いた。


− この花は・・・マドカのような色をしている −


そのときから− その花は私の中で一番愛しい花となった。−


その香りはあのとき私の髪に触れた彼の気配を、

その花弁はあの魔法の言葉を私に運ぶ。

春の到来を告げ、足早に去っていく期間限定の訪問者。

そして今年も、あの優しい匂いの下で彼と過ごすのを私は楽しみにしていた。

・・・なのに・・・




「・・・・散って、しまったんですか?」


「あぁ。今年は早かったな。」


もう少し早く帰ってきたら見れたかもしれないのにな、と士度は気の毒そうに言った。




二週間の海外公演から帰ってきてマドカまず最初に向かった先は音羽邸の中庭。

しかし待ち侘びていた香りは薄っすら残り香程度で、

風が吹いても頬にあたるあの柔らかな感触は無い。

スーツケースを片手に持ったまま呆然と立ち尽くすマドカに、

たまたま家に居た士度がお帰り、と声を掛けた。

その声に振り向いたマドカの顔は、不安で一杯だった。




「全、部・・・ですか・・・?」


テラスのガーデンチェアに腰掛けながら、マドカはそれでもあの香りを探していた。


「?あ、あぁ。先月の気温が例年より高かったから開花が早まったんだと。
それで散るのも早かったが、ここ数日雨が続いたからきれいさっぱり・・・マドカ?」


ティーカップから顔を上げた士度の眼に飛び込んできたのは、

テーブルの向かい側に座るマドカのめったに見ない曇った表情だった。


「そう、ですか・・・」


−ああ、あの時の顔だ−

俺が、マドカのコンサートに行くことを断った時の・・・。

不安と、悲しみと、落胆が綯い交ぜになったような、憂いの表情。

この表情から笑顔を引き出すことは、きっと至難の業になることだろう。


「・・・そんなに好きだったのか?桜。」


士度はティーカップのソーサーを所在なさげに撫でているマドカの手をそっと取って訊ねた。


「…去年、士度さんと桜を愛でて・・・私の中の桜が変わったんです。
今年はどうかな、と思って。
あの・・・桜の春めいた香りをかいだら、去年の思い出がもっと鮮明に思い出せるかな、とも思って・・・
それに、今年もまた新しい桜の思い出を作りたかったんです。」


楽しみにしていたんですけれど、来年の春までお預けですね、

とマドカは触れる士度の手の温もりを感じながら寂しげに微笑んだ。


「来年、きっとまた見事に咲くだろうよ。」


士度は件の桜の木を見上げ呟く。

そして彼の脳裏にも去年の光景がフラッシュバックした−。


満開のこの桜の木の下は、そう、いつもの庭の時を止めた。

木漏れ日の中を舞う桜。

その景色に溶け込む少女。

その見慣れたはずの微笑みは、この花弁の色と柔らかさによく似ているのだと

そのとき今更ながらに気がついた。

月に照らされ、広い庭にほんのりとした灯りを燈しひっそりと佇む夜桜は

士度の心に夜のマドカを映し出す。

人々の心に安らぎをもたらす春の使者。

それは士度にとっても例外ではなく、

その安らぎは、マドカとともに過ごすひとときに得られる

あの心地よさと重なった。

今年、この桜を見て空寂が士度の心を掠めたのは

あぁ、彼女が隣に居なかったからだ。


− クシュン −


ふいにマドカが可愛らしいクシャミをした。

そういえば、少し風がでてきたように感じる。

日の光の中にも薄っすらと橙色が混じってきていた。


「そろそろ中へ入るか。マドカも疲れてるんじゃないか?」


「クシュン!・・・そうですね、少し横になれば大丈夫ですよ。慣れてますから。」


そうなのか?と士度はマドカの身体を労わる彼の心遣いに

少しはにかんだ様子をみせた彼女の手を引いて、テラスを後にする。

ふと後ろを振り向くと、既に若葉色に輝いている桜の木が

申し訳なさそうに揺れていた。





−明日、時間あるか?−

その日の夕食時、士度は徐にマドカに訊ねてきた。

明日と明後日は休みだということをマドカが告げると、

士度は弁当でも持ってちょっと出掛けよう、と言った。

何処へですか?と訊いても

まぁ、行けば分かるさ、としか士度は答えない。

それでもマドカの心は大いに跳ねた。

士度の方から出掛けようというのは珍しいことだ。

行き先は着いてからのお楽しみ。


−明日は早起きして、とびっきりのお弁当を作らなきゃ。−


旅の疲れはどこへやら、昼間の鬱屈もマドカの喜びから逃れるように影に隠れた。

その夜のマドカは翌日のランチの下ごしらえに余念が無かった。




翌朝、マドカはまだ朝靄が空けきらぬ頃にすでにランチバスケットを仕上げていた。

この間士度さんが褒めてくれた玉子焼きは、今回も完璧。

鮭漬け・高菜・梅・昆布のおにぎりも揃えた。

大根・人参・玉葱・油揚げを入れた塩分控えめの赤味噌お味噌汁はランチジャーに。

唐辛子と蒟蒻の和え物も彼が好きな大人の味。

肉じゃがの加減も丁度だわ。

朝早くの作業に付き合ってくれたコックさんも、

お嬢様、また腕を上げましたね−と言ってくれたし・・・。

マドカは二人分の昼食が綺麗に収まった小さなお重とランチジャーを

籐のバスケットに慎重に入れて早速、

士度が待っているであろうティールームへ向かった。


「お待たせしました、士度さん、行きましょう!」


おぅ、と返事をし、士度はソファから立ち上がる。

そしてマドカの服装に目をやった。

今日の彼女の装いは、襟元のレースが上品な春物の白いブラウスと、

流れるように白い花が施されていて淡い水色が彼女によく似合うロングスカート。

靴はややシャープな印象がある白いウォーキングシューズだった。


「その格好で行くのか?マドカ。」


「はい。・・・・どこか、変ですか?」


士度からの珍しい質問に、見えない自分の服装に不安をおぼえて、

マドカはスカートを摘んだ。


「いや、少し冷えるだろうから薄手のコートでもあった方がいい。」


玄関で待ってるぜ、と士度は言って、マドカの手からバスケットを受け取ると

コートを取ってくるように促した。

外の天気を気にしながらマドカは言われるままに二階までコートを取りに行く。

行きがけに窓から顔を出してみると、早朝なのでまだ少し空気は冷たかったが

太陽の匂いは今日の晴れ渡る天気を暗示していた。


(・・・でも士度さんがお天気を外すなんてありえないし。都内じゃないのかしら?)


クローゼットからお気に入りのスプリングコートを取り出しながら、

マドカはこれから出掛ける小さな冒険に思いを馳せた。



エントランスへ行くと、厨房の方から士度の声が聞こえた。

どうもコックと話をしているようだ。


−悪いな、ありがとよ。−

−いえいえ、このくらいお安い御用ですよ。いってらっしゃいませ。−


気風の良いコックの声に送られて、士度がこちらへ戻ってくる。

パタン、とバスケットの蓋が閉まる音がマドカの耳に届いた。


「さて、行くか。」


「はい!」


モーツァルトも尻尾を振って士度の声に答える。

春を、感じに行こう。




まず向かった先は東京駅。

士度は新宿から電車に乗って移動する予定だったのだが、

音羽邸の門を出るときにお抱え運転手に捕まった。

どちらへお出掛けですか、と聞かれたので

とりあえず東京駅まで、と答えると有無を言わさずリムジンに乗せられてしまった。

彼は純朴で器用な男で、音羽邸の運転手兼庭師だそうだ。

電車での移動も結構ですがあまり私の仕事を取らないでください、

と、彼は運転席で冗談交じりにぼやくフリをする。

士度様も遠慮なさらずにどんどん移動に私めをお使いくださいよ・・・

お庭にいる子猫が可愛らしくて、ときどき孫に話してやると・・・

そんな運転手の話を聞いているとあっという間に目的の駅に着いてしまった。

平日とはいえ、通勤のピークからは程遠い時間帯だったので、まだ人も疎らだ。

予定の出発の時間まで多少の余裕ができたので、

マドカはカフェで一休みすることにし、士度は一人でチケットを買いに行った後カフェまで戻ってきた。


「どのくらいで着くんですか?」


場所はあえて聞かなかったが、時間ぐらいは良いだろう、とマドカは一応訊ねてみる。

士度は一瞬言いよどみ、罰が悪そうに呟いた。


「新幹線で3時間弱、そこからバスで1時間半、
そして少し歩いてお前の足なら1時間ちょっと・・・悪ぃ、昨日帰ったばっかなのにな。
キツイようならこれからそこらの公園にしとく・・・」


「私は大丈夫ですから!」


ヘタをすれば外苑や北の丸・旧芝離宮・浜離宮でのデートになってしまいそうな雰囲気に

マドカは慌てて士度の言葉を遮った。

自分にはこの上なく優しい士度のことだ、ここで自分が少しでも疲れている素振りを見せると

彼は絶対予定を変更していつもの散歩コースにしてしまう−

そんなことを危惧しながらマドカは言葉を続ける。


「私、士度さんからどこかへ行こう、って言ってくださったとき凄く嬉しかったんです!
それに、そんなに遠くへ二人だけで行くなんて、初めての小旅行ですね・・・」


最後の方勢いで言ってみたものの、何だか恥ずかしくなって途中小声になってしまった。


「・・・そうか。そう思ってくれれば・・・
疲れたらすぐ言うんだぞ?」


士度は少し照れているようだ。

そんなときのちょっとぶっきらぼうな声もマドカにはくすぐったい。

僅かに恥らう二人に対して、

足元ではモーツァルトがご馳走様、と言わんばかりに欠伸をしていた。




ゆったりと寛げるはずのグリーン・シートの最前列も、

足元にモーツァルトが陣取ると足の長い士度にとっては少し窮屈のようだ。

それでもマドカは幸せだった。


− だってすぐ隣に、肩が触れ合うくらいの距離に、士度さんがいる −


今となっては、昔と比べると彼と触れ合う事はだいぶ多くなったが

それでもその一瞬一瞬、一時一時がマドカにとってはかけがえの無い宝物だ。

彼の指先、彼の体温、彼の声・・・そのひとつひとつがマドカの鼓動をいつも加速させる。

肘掛に乗せた士度の手に遠慮がちに触れると、

士度は窓の外に目をやったままだったがマドカの手に指を絡めてくれた。

彼のそんな小さな優しささえも、きっと、ずっと、私の心に残るもの・・・。



心地よい移動の揺れが、マドカを眠りに誘う。

マドカは士度に気付かれないように欠伸を噛み殺した・・・が。


「マドカ、少し寝ておけ。」


ふいに目上から士度の声がした。


「昨夜遅かったし、今朝は早かっただろ。
長くなるから今のうち休んでおけ。」


弁当にその結果を見せてもらうよ、と士度が微かに笑う気配がする。


「きっと美味しくできてますから!吃驚しないでくださいね。」


挑むようにマドカは士度を見上げる。


そんな幼い彼女の表情にクスリ、と士度はもう一度笑う。

そしてマドカは少し頬を染めながら訊ねた。


「肩を・・・お借りしても、いいですか?」


「・・・遠慮するな。」


マドカの小さな頭を、士度はそっと引き寄せた。

士度のその自然な動作にマドカは一瞬瞠目したが、すぐに自らを士度の肩に預けた。

彼の香りは、木漏れ日の匂いに似ている・・・そう思いながらマドカは心地よい眠りに落ちる。

肩に彼女の存在を感じながら、士度は再び窓の外へ視線を向けた。

途中下車する為に降り口に向かうサラリーマンや旅人たちが通りすがり、

この若い恋人たちの様子に羨望の眼差しを向けていたことを二人は知らない。





周囲の動く気配に目を覚ますと、士度が頭上の荷物棚からバスケットを下ろしているところだった。

周りの席の乗客たちも降りる準備を始めている。

昔マドカも何度か公演の為訪れたことがある地方小都市の名を告げるアナウンスが聞こえた。

昨日今日の多少の無理が祟ったのか新幹線での移動の間、完全に熟睡してしまったらしい。

頭はスッキリしていたが、明るいところで士度に寝顔を見られていたことを思うとマドカは一人赤面する。


「?マドカ。何やってるんだ。降りるぞ?」


そんなマドカの心境なぞ露知らず、士度は彼女に手を差し出した。



新幹線を降りてみると、やや北上したせいか、やはり風が冷たく肌寒い。

マドカは持ってきたコートを羽織り、モーツァルトと共に士度の後をついてゆく。

士度に導かれるまま、駅前で少し古い型のバスに乗り込むと

大して待つ事なく、まばらな乗客を乗せてバスは出発した。



途中で一人、二人、と乗客が降りて行き、一時間もすると乗客は士度とマドカとモーツァルトだけになってしまった。

ゴトゴトとバスは少し荒れた道を進み、いつの間にか山間の村へと入ってゆく。

ふいに中年の運転手が、二人に声を掛けてきた。


「お客さん、お若いのにこんな辺鄙な村に何のようだね。
話し方からこっちの人間でもなさそうだで・・・」


詮索、というより、単なる興味本位のようだ。


「・・・古い友人がこっちにいるもんでね。」


年に一度、会いに来るんだ、と士度はマドカも知らなかった事実を世間話のように話した。

窓を開けて東京より桁違いに澄んだ空気を感じていたマドカが驚いたような表情で士度を見やる。


「若いうちからダチを大事にするってことは、いいことだぁ。」


運転手の感心するような声が聞こえた。


「お友達、ですか?どんな方なんですか?」


マドカは小声で訊いてきた。


「会う度に通行料を請求する、とんでもないヤツさ。」


士度はからかうような口調で言う。


「もう、冗談ばっかり!」


いや、ホントだぜ?と笑う士度の肩をマドカは小突いた。

足元でモーツァルトが<マドカ、オナカヘッタ〜>と訴えてくる。


<ご飯は着いてからよ。もう少し我慢して頂戴ね。>


時刻は正午になろうとしていた。



SSとして一枚話にするはずだったのが・・・三分割になってしまいました;
管理人も桜、大好きなのでこの話はどうしても4月中にUPしたかったものです。
今年は忙しくて散り際の桜しかお花見できなかったですけれど、来年こそは・・桜求めて旅に出たいところです。