to his beard


-side S-


カンカン……
広い洗面タブにT字の髭剃りが軽く打ちつけられ――タブに張られているお湯でザッと洗われた黒い柄のソレは、再び彼の武骨な指に操られ――鏡に視線を固定しながらゆっくりと上げられた顎の下を、真っ白な泡と共に 華麗に滑り降りた―― 一度往復した後、チラリと鏡を見てもう一度――洗面室の上品な小窓から雀達の朝の挨拶と心地よい木漏れ日が射し込むなかで、彼は半分泡塗れの顔を鏡と突き合わせながら、男の毎朝 の習慣をこなしていた。

里で暮らしていた頃と同じくらいの視力を都会暮らしの今でも維持できているので、前屈みに鏡を除くのは泡が流れ落ちそうになるときと、細部を確認するとき位だ――正面に大きくスペースを構えている無機質にも洗練 された上品さを醸し出す鏡は、惜しげもなく晒されている彼の鍛え上げられた半身を余すところ無く――柔らかく上がる湯気と共に静かに映し出している――
程よい重厚さがあるT字は朝の光に輝きながら、もう一度湯の 表面を滑った――そして彼は慣れた手つきで、頬の端からゆっくりと――その冴え冴えとした視線の動きに合わせるように――T字の刃を器用に操り、一晩のうちに半端に伸びてしまった髭を落としていく。
毎朝の如く淡々 と作業を進めながら士度は――今は扉の向こうの彼の寝室のベッドの中でスヤスヤと眠るの彼女のことを思った――



昨夜の彼女は新しい
玩具おもちゃを与えられた子供のように、この髭にやたらと執着していた――

幼い頃の父親との思い出を辿りながら。

彼の唇が彼女の唇を二度目に攫うそのときまで。

どこか物珍しそうに、どこか嬉しそうに――マドカはザラリと伸びた士度の髭を気持ち良さげに触り続けていた――当たり前のようだが、未だかつて誰にもそんなこと――髭に触れられることも、髭に頬ずりされることも――
もちろん、意識的にしろ無意識にしろ、誰かに触らせることなんてさせなかったので――唐突な彼女の行動に多少戸惑った自分は、隠せない。


――何がそんなに楽しかったんだろうな・・・・・

カンッ・・・・

――T字を最後にもう一度小気味よく鳴らすと、士度はタブの栓を抜いた。

石鹸で白く濁ったお湯が吸い込まれていく様子に何気なく視線を落とすと――その渦に誘われるように、奥底の記憶が彼の脳裏の表層まで顔を覗かせてきた――






ふと頭上を見上げると――綺麗に整えられた白髪の髭が深く落ち着いた声と共に微かに揺れる様が目に入った。
柔く夕日色の
ともしび が満ちる空間を静謐に飾るのは、見慣れた民族具の数々。
パチパチと小さな音を立てながら暖を醸す囲炉裏の向こう側に、黒髪の女の姿が見える――記憶に無い美しい貌は少し恥ずかしげに頬を染めながらも――このひとときに安らぎを見出しているようだった。
そして声のする方をもう一度見上げると――いつもは威厳に満ち溢れているその髭が、今宵はどこか優しげにゆらりゆらりと揺れている――やがて灯火の光を緩く反射するその白髪に魅かれるように――膝の上から小さ な手が精一杯伸ばされ、どこかおぼつかない手つきで徐に――目の前にある立派な白髭を確かめるように掴んだ――
その刹那、団欒の空間に響いたのは――その白髭の持ち主の呻き声よりも、女が漏らした小さな悲鳴――そして――長の膝の上にいる子を真っ青な顔で叱責しながら近づいてくる、母の――貌。被害にあった当の本人は珍しく――声を出して笑っていたような気がする。
そのときの彼の――平生は叡智と先見の光を湛えているその瞳は慈愛に満ちて――“長”ではなく、確かに“父”の眼差しを子に向けていた。







再び現の音が戻ってきたのは、無意識に水道の蛇口を止めたときだった。



――・・・・・・



士度は朝の光に揺れる冷たい水をゆっくりと掬いあげると、顔に薄く纏わりついている泡を無言のまま落としていった。
重く濡れて邪魔をする少し長い前髪は水を滴らせたままにしながら――甦った記憶を洗い流すかのように、彼は俄刻、水鏡から雫を拾い続けた。







再び鏡に映る貌は表情に乏しい、いつもの自分の顔だ――

彼は肩にかけてあったタオルで水気を軽く拭き取ると、もう一度鏡に向かって僅かに身を屈ませ、剃り具合を確かめた――剃り残しは無いようだ。
昨夜はしゃいでいたマドカには悪いが、自分としてはやはり――半端な髭を生やし続けようとは思わない――
無限城無法地帯 によくいた荒くれ者や、かつて隣に立っていた来栖なかま のようには。
――そんな思考経路は魔里人の長の子として育てられた血統から派生するものだということに、士度は気づかないままでいた――ただ好みの問題だと――単純にそう思っていた。
里で豊かでいて立派な髭を蓄えていたのは、知恵と経験を重ね―― 一族を束ね、若人らを導く力と器量を兼ね備えた敬意に値する年長者達だった――そんな大人になりたいと――当時の士度が思ったかどうかは定かではないが、そもそも威厳の象徴でもある髭を蓄えるということは――人に敬われるべき人物なのだと――士度の心の底辺に、そんな思考が定着しているのも確かだった。


どのみち自分は――そんな器の人間ではない――


ただできることといえば、そのような先人の息子として――恥ずべきことのないように、必要最低限の嗜みを心掛けることくらい――




顔を上げ、洗面台の端にチラリと目を泳がすと――視界に入ってくるのはこの屋敷に来るまで自分には全く縁のなかった、男性化粧品の数々。
音羽邸ココ の親切な使用人達は士度が使用しようがしまいが、デオドラントからローションまで、時折流行によって品を変えながら――居候殿が滞在する客室に常に一式、備えておくことを欠かさない。
当の本人は――缶や瓶の裏の説明書きに眉間に皺を寄せながら使ったり使わなかったり――


――・・・・・・・・・


彼は暫しその整然と並ぶ形彩ともに様々なボトルを眺めていたが、結局手を伸ばしたのは――いつもの、味気ない透明な小瓶。
自身で調合した、
薄荷はっか をベースにした昔ながらの消毒液だった――








「そろそろ起きなくていいのか・・・・・?」


ベッドに腰掛けながら伸ばされた彼の手は、真っ白なピロウの上に散る彼女の黒髪を辿り――小さく揺れた彼女の長い睫を掠めると、彼女の頬をあやすようにその武骨な親指と人差し指でそっと撫であげる――
フワリと小さな欠伸をした彼女は、まだ夢と現の間を彷徨っているかのような――羽のような動作で頬を擽る彼の指をやんわりと握ると、そのまま自身の白指を彼の逞しい腕にゆっくりと滑らせながら――やがて身を傾けてくれた 彼の頬に触れ、自分と彼の唇に自然綻ぶような弧を描かせた。


彼女の軽やかな指先は確かめるようにゆっくりと彼の頬を渡り、その顎先で詠うように小さく踊り――その柔らかな掌で優しく彼の頬を包みこみながら、もう一度満足そうに微笑した。



「やっぱり・・・・お髭が無い士度さんも・・・・・・・」




素敵ですね・・・・・・――そう言いながらマドカは両の腕を伸ばす――彼女からの率直過ぎる感想に苦笑しながらも、士度は彼女の手を取った――すると流れるような動作で、マドカは士度の首筋にその貌を寄せ――



「ミントの香りがします――」



そう嬉しそうに呟くと、今はサッパリとしている彼の頬に、スリスリと自分の頬を寄せながら――やはり昨夜と同じように心の底から楽しそうに――彼の肌を堪能しているようだった。



「・・・・・・・・・・・」




そうか、結局のところ――とどのつまり・・・・
彼女マドカ はこういった――子供染みた肌の触れ合いが好きなのか・・・・――


庭で士度に戯れついてくる仔猫のように、ともすればゴロゴロと愛らしく鳴る喉の音が聴こえてきそうなほど幸せそうに夢中になって――
彼の頬や顎や首筋に、肌で指で触れてくる彼女の好きにさせておきながら、士度は新たな発見に内心安堵の溜息を吐いた。

もし、彼女の嗜好次第では、自分の好尚も変化が必要になるかもしれないと思っていたからだ。


彼女は別に、髭が――


「・・・・・――?」


――士度がそんな思案をするなか――不意にマドカの動きがピタリと止まり、彼女は何かを考え込むように数度目を瞬かせた。

そして士度が彼女に声をかける前に――愛らしい音色でもって彼女の“お願い”は奏でられた。
士度、さん・・・・・――




「今度は2日間ほど・・・・おひげを伸ばしてみませんか?」



「〜〜〜!!?」



思わず引き攣った彼の頬の状態を知ってか知らずか、マドカはもう一度無邪気に、士度の貌を一通り撫でてくる。

久し振りに覚えた眩暈に、士度は無言で彼女を抱きしめることで――とりあえず返事を保留した。


「――?」


どうしたんですか?――大きな瞳をパチパチとさせながらも、士度の大きな体躯を全身で感じながらマドカは浸透する幸福に浸るように――
窓から射し込む日の光の如く美しく破顔する。


彼女はもしかしたら――


“おひげ”が好きなのかもしれない――


そんな事実の危機に瀕した男が一人、今度は飲み込みきれなかった深い深い溜息を――よりにもよって彼女の目の前で吐いてしまう有様で。

やがて心配そうに彼の貌を覗き込んできた彼女に――彼が問いかけた言葉の
答えアンサー は――




未来の二人にとっての、微笑ましい良い想い出。







Fin.

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これでもまだまだ書き尽くしていない髭話・・・。
これからまたアッチでコッチで髭属性はなにげにさりげに増殖予定ですv

いい漢のナチュラルな無精髭は――惹かれ処満載、剃っている姿さえも漢前!!