【4】
(・・・彼女の“本当の”お父さんが帰ってきた場合、マドカちゃんには“父様”が二人ってことになるわけ?)
(混乱しなければいいんだけどねぇ・・・)
(それより何より猿マワシが嬢ちゃんの親父と遭遇したら、あの屋敷から叩き出される可能性大だな・・・!)
(・・・・誰も
こんな風に大人組がカウンターでコソコソと話し合っているその時、それまで世話を焼いてくれている銀次たちの話を黙って聞いていたマドカが、不意に士度の腕をとった。
士度が「どうした?」と目を向けると、
「父様・・・もう、帰りたい・・・・」
そう言いながらマドカはコテン・・・と士度の腕に頭を凭せ掛けてくる。
ヘヴンが目を瞬かせた。
「・・・少し、疲れたのか?」
士度は波児に目配せをすることで話を切り上げると、椅子から立ち上がり、マドカの手をとる。
「うん・・・・ここも、知らない人がいっぱいだから・・・」
そしてマドカは当たり前のように、その細い両腕を士度へと差し出した。
「・・・父様、だっこ。」
彼女のその言葉に士度は一瞬硬直し、―わぁ・・・!―とレナが妙な感嘆の声を上げ、夏実と銀次は遠慮がちに士度の方へ目をやった。
蛮は関心がないかのように珈琲カップを持ち上げた。
刹那、狼狽の色を見せた士度であったが、しかしすぐに何も言わずに彼女を抱き上げ、HONKY TONKの連中に帰宅の旨を伝える。
マドカは彼の首に腕を回し、その首筋に顔を埋めると、安心した様に肩の力を抜いていた。
そして士度はヘヴンと一言二言なにか言葉を交わすと、扉を開けてくれた波児に短く礼を言いながらマドカを抱えてHONKY TONKを後にした。
外に止めてあったリムジンが発進する音を聞いて、夏実が溜息混じりに口を開く。
「私は知らないんですけれど・・・やっぱり“士度さんの雰囲気”と“マドカちゃんのお父さんの雰囲気”が似ているから、マドカちゃんは勘違いしちゃっているんでしょか・・・?」
――それにマドカさんは目が見えないですし、今は“5歳”ですからねぇ・・・――
夏実の声に続いたレナの言葉に、「そうなるのかなぁ・・・」と銀次が何だか納得いかない風に首を傾げた。
「ただねぇ・・」
波児が皿を片付けながら呟いた。
「マドカちゃんは今、俺らの“気配”や“存在”の何もかもが記憶の中から消えている状態で、今あるのは鮮明な “当時の” 記憶だけ・・・なのに一番肝心な“本当の父親の気配”
を “当時いなかった” “士度君の気配” と取り違えているってところが・・・・少し気になるね・・・」
波児の言葉に、ヘヴンも何かに気がついたかのように目を瞬かせる。
「そう言えば・・・マドカちゃんは士度君の声や言動に対しても・・・何の疑いも持たずに最初から彼を“父様”って呼んでいたわ・・・!」
音に対しては小さい頃から人一倍敏感だった彼女が、その“声”の違いにすら反応しないなんて――妙な窮屈さを伝えてくる不安に、ヘヴンは微かな息苦しさを感じる。「え・・・?ちょ、ちょっと待って??俺、分からなくなってきた・・・・」――垂れモードでハテナマークを飛ばす銀次を横目に、蛮も小さく息を吐く。
「まぁ、どっちにしろ明日は
――こりゃあ、冗談抜きで猿マワシは嬢ちゃんところから追い出されるかもな・・・・――
煙草の煙と共に吐き出された蛮の言葉に、その場に居る誰もが息を詰めた。
「――でね、もう一人のお姉さんがくれたカボチャゼリーの味は・・・・父様?聞いてる・・・?」
音羽邸へ向かうリムジンの中、士度の膝に頬杖をつきながらお喋りをしていたマドカが彼を見上げた。
「ああ・・・聞いてるよ。」
マドカの髪を優しく撫でながらそう答えた士度に、彼女は満足そうな顔を見せると、「ワンちゃんも聞いてる?」――とモーツァルトの顔を覗き込んだ。
一方モーツァルトは、士度からある程度の説明を聞いたとはいえ、ご主人様の急な変容振りに戸惑いの色を隠せない。
<マドカ・・・ボクノコトモ、ワスレタノ?>
クンクンと鼻を鳴らしながら問いかけても、「ワンちゃん、可愛いわね・・・!」と無邪気でいて見当はずれな答えが返ってくるばかりだ。
そしてマドカは士度に話したことと同じ事を、モーツァルトにも説明し始める。
「喫茶店を出た途端、饒舌になったな・・・・」
そんなマドカの様子を見ながら小さな溜息と共に呟かれた士度の言葉に、
「・・・・就学されるまでのお嬢様は、かなり人見知りをされていたと聞いております。」
と、困惑を滲ませた声が運転席から聞こえた。
「コイツも小さい頃は・・・神経が細かったんだな・・・」
本来ならば、数百人の観客の前で、百人近いオーケストラのメンバーと共に優美な音を堂々と奏でる彼女なのに――ビクビクとマドカの顔色ばかり伺うモーツァルトに飽きたのか、彼女は再び士度の方へ関心を向けた。
「そういえば、今度父様が帰ってきたら、一緒に動物園に行こうって約束してたわよね、父様・・・!」
――たった数人の大人に対してあんなにも緊張していたのに、知らない人だらけの込み合った動物園で、マドカが疲れないはずがない。
彼女の言葉に対してそんな憂畏を頭の中で廻らしながら、士度はそっとマドカの頬に手をあて、答えた。
「
マドカは不思議そうに首を傾げた。
「もう、父様ったら・・・!いつの間にあんなに沢山の動物さんたちをマドカに買ってくれてたの・・・!?」
――内緒にしてたなんて、酷いじゃない・・・!――
夕食までの時間を裏庭に住まう動物たちとひとしきり遊ぶことで過ごしたマドカは、ダイニング・ルームでも至極ご機嫌だった。
彼女は遊んでくれた動物たち(マドカの変わりように彼らも最初は戸惑い気味だったが)の話をコーンスープが冷めてしまうまで士度の隣で延々と喋り、今は一口サイズのサイコロステーキをフォークでお行儀良く食べている。
隣に座る彼女の様子が気になって士度の食が一向に進まない中、マドカは添えつけのマッシュ・ポテトも残さず平らげた。しかし・・・・
「・・・・?マドカ、サラダを全然食べて無いじゃないか。」
士度は脇に寄せられていた野菜サラダの小さなガラスの器をマドカの手元へ運んでやった。
するとマドカは僅かながらに眉を顰める。
「・・・・今日は、いらないの。」
そう言いながらマドカは器を再び脇へと押しやった。
「・・・でもな、野菜も食わないと身体に良くないぞ?」
そう言いながら、士度は色鮮やかなサラダを再びマドカの手元へと戻した。
彼女は今度ははっきりと嫌そうな顔をした。
「・・・でも・・・ニンジンの匂いがするから、今日は、いらないの。」
そしてマドカはフォークを置くと、不機嫌にプイッ・・・とそっぽを向いてしまった。
士度が虚を衝かれたような顔をした。人参嫌い――典型的な子供の好き嫌いだ。
本日の特別お子様メニューの反応を伺っていた、昔からのお抱えコックが“しまった・・・!”といった表情を顔に浮かべた。
執事から事の顛末を聞き、お子様ランチのスペシャル・バージョンを腕によりをかけて作ったというのに、お嬢様のお顔を曇らせてしまうとは・・・!
(そういえば、お嬢様は10歳を過ぎるまで、“人参・ピーマン大嫌い”なお子様だった・・・!!)
「も、申し訳ございません・・・!」
コックが口を開いたのと同時に、執事がマドカの隣にやってきて「作り直して参ります・・・」とガラスの器を下げようとした。
マドカがチラリ・・・とその様子を伺った。
しかし、そんな執事の動作を、士度が片手を挙げることで軽く制する。
士度に目配せをされ何かを感じ取ったのか、執事は再び所定の位置へと戻っていった。
限界まで細く、芸術的に千切りにされた人参が美しくレタスに絡められているサラダは、相変わらずマドカの目の前に鎮座している。
マドカは悲しそうに眉を下げ、隣に座る士度を見上げた。
「・・・・父様、どうして今日は意地悪するの・・・?いつもは“嫌いなら食べなくてもいいよ”って言ってくれるのに・・・」
・・・
「別にマドカが野菜を食べなくても、俺・・・・“父様”は一向に困らないがな・・・」
士度は刹那、困った顔をマドカに向けたが、彼女の幼い表情を見て、気を取り直したように前を向いた。
「・・・分かった。食べたくないなら食べなくてもいい。でもそうなるとマドカは、今日仲良くなった兎とは明日からもう遊べないな。」
「!?」
何でも無いようにサラリと述べられた士度の言葉にマドカの瞳が大きく見開かれ、彼女は思わず士度の服の裾を掴んだ。
士度はチラリとマドカの表情を眼の端に納めた。
「どうして・・・!?ウサギさんとは明日も遊ぶって約束したのに・・・!!父様だってあのフワフワのウサギさん、明日も触らせてくれるって言ったのに!!」
マドカにしつこいくらいに撫でられながらも文句ひとつ言わずに大人しく膝の上に乗っていたあの柔らかなアンゴラウサギの感触を思い出しながら、
マドカは半分泣き声で士度に抗議を始めた。
「でも兎は、人参の匂いがしない子は仲間に入れてやらねぇってよ?」
――あいつ等、マドカの手から一生懸命、人参を食べてたじゃねぇか?――
士度にシレッ・・・とそう言われ、マドカは返す言葉も見つからない。
暫しの沈黙の後、やがて彼女は士度の服から手を離すと、渋々とフォークを手に取り、瑞々しい野菜サラダと対峙した。
そして動くはずも無いサラダの気配と、しばらくジッと睨めっこ。
「マドカ、食べねぇなら下げてもらって・・・・」 「・・・ダメ!!ちゃんと食べるから・・・!!」
士度の言葉に重ねるようにしてマドカは叫び、ついにフォークを人参に絡めた。
――明日もウサギさんと遊ぶため。飲み込んじゃえばいいのよ・・・・――
そして恐る恐る口の中へ・・・
「・・・マドカ、人参は噛めば噛むほど甘くなるものだ。」
――そんなに不味いもんでもねぇよ・・・――
“父親”のその言葉に、マドカは人参を嚥下しようとしていた気持ちを留め、言われるがままに恐る恐る咀嚼してみる。
――そして士度の思惑通り、彼女の食は驚くように進んだ。
((((・・・・お見事!!))))
ダイニング・ルームの片隅で控えていた執事以下、使用人たちは思わず内心拍手を送った。
(士度様は案外良い父親になられるのかもしれない・・・・)
――そんな風に思ったのは、その場に一人ではなかった。
「父様・・・!マドカ、ニンジンが好きになったわ・・・!」
ご機嫌が戻ったその声に、士度は優しく目を細めた。
トイレには・・・一人で行けるらしい。
「父様、一緒にお風呂に入りましょう・・・!」
食後、居間で寛いでいるときに飛び出してきた彼女の発言に、執事はもう少しで上等なテーブル・クロスに珈琲の染みを作るところだった。
――士度はワザとらしく咳をして、少し風邪気味だと言って慌てて誤魔化した。
それでもぐずるマドカを、メイドが必死になってバス・ルームまで引きずって行った。
「父様、御本を読んで・・・!」
――父様が居るときは、寝る前にいつも読んでくれてたじゃない・・・!今日は“あの”ウサギさんの御本がいいな・・・――
士度と使用人達は総出で書斎をひっくり返して「ウサギの絵本」を探した。
ようやく見つけ出した時には、マドカはすでに半分夢の中だった。
それでも、眠い目を擦りながら「御本を読んで・・・」と士度に強請った。
――不意に・・・士度の脳裏に昔の光景が過ぎった。
――遠い昔、魔里人の里の静かな夜・・・寝る前の薫流によく物語をせがまれた。
劉邦と亜紋と俺と・・・知る限りの御伽噺や伝説を話してやった。途中、内容を忘れてしまった所は適当にでっち上げたりして。
薫流はいつも四巡目位になると、ようやく寝息を立て始めた。時には亜紋の方が疲れて先に寝てしまったり。
劉邦が眠りの嫡羅を使おうとすると、知恵がつき始めた薫流に「狡いぞ・・・!」と一喝されたりもしたな・・・。――
そう、あの頃は・・・・今のこんな状況なんて、想像だにしなかった・・・・
――友の死も、血塗られた確執の終焉も、新たな出会いも、愛する者が傍にいる喜びも――
ただ、蝋燭の灯と、仲間たちの気配が心地良かっただけだ――
ゆっくりと絵本の文字を声にしながら、士度の心は今と昔を彷徨っていた。
そして今、心地良いのは・・・
――それがたとえ・・・
「<ずっと一緒にいられるようにって・・・黒いウサギは・・・>・・・・・・・」
夜の帳の静寂の中、パタン・・・・と音を立てて絵本が閉じられた。
マドカは士度の手を握ったまま、穏やかな寝息を立てている。
彼女の優しい温もりが伝う左手をそっと握り返しながら、
士度は一人、熱くなった目頭を押さえた。
兎の絵本は知る人ぞ知る、あの絵本のイメージで・・・。
次回、今度こそマドカパパ登場・・・(あぁ、やっと・・・;)