【5】


それはとても穏やかな一日だった。

午前中はマドカのバイオリンの稽古を聴いて。(可愛らしい曲ばかり選曲していたが、その腕はやはり見事なものだった)

ピクニックよろしく、庭で昼食をとって。(いつもマドカが用意するランチボックスはメイドが用意してくれた)

午後は動物たちと戯れて。

風が冷たくなってきた頃には屋敷に入り、彼女が好きだった音当てゲームを乞われるままに一緒にしたり。

夕食で出た人参のソテーも、マドカは文句ひとつ言わずにキチンと食べた。

――今度は人参スープに挑戦するわ・・・!――

明るい声がダイニング・ルームに微笑を誘った。


そう、それは、とても穏やかで優しい一日・・・・

ただ、マドカの愛らしい唇が事あるごとに告げる 「父様・・・!」 という言葉が、士度の耳に、心に、チクリとした痛みを施す、それ以外は。






「あ・・・昨日の夜は、忘れちゃっていたでしょ?父様・・・」


居間のソファで食後の珈琲を飲んでいる士度の隣で、マドカは思い出したように口を開いた。

「何をだ・・・?」

カチャリ・・・と珈琲カップが士度の手から離れる音がすると、マドカは徐に士度の膝の上に跨ってきた。
彼女の突然の行動に戸惑う士度や使用人達を余所に、マドカは「も〜、やっぱり忘れてる・・・・・」と少し膨れっ面をしながら士度を覗き込んだ。

「“おやすみのキス” よ、父様・・・・!いつもオデコにしてくれるじゃない?<また明日・・・>って・・・。そしたらマドカはいい夢が見れるのよ・・・?」

――今夜は忘れずにしてね・・・?――

士度に抱きつきながら、マドカは無邪気にお願いした。
彼女の言葉に、士度は思わず目を見開く。

やがて彼の瞼が微かに震えるようにして閉じられた。

(それは・・・・俺とマドカが・・・彼女の寝室の前で別れるときに、いつもしていることだ・・・・)

――そう、いつの間にか、それが当たり前のような、おやすみの挨拶になっていた・・・・


(まさか親父さんと同じ習慣だったとはな・・・・)

士度はマドカを抱きしめながら、人知れず小さな溜息を吐いた。

――そうなると彼女は・・・時折、俺と親父さんを重ねたりしたこともあるんだろうか・・・?
女は父親によく似た男性を選ぶ――そんな話を聞いた事もある。
今でこそ彼女とは深い関係にあるが・・・・最初は――俺が居候したての頃は――“父親”という存在の代わりを俺に求めていたのだろうか?
彼女の傍にいることが少なかったであろう、“父様”の代わりを――

(それなら・・・・今の状態のマドカが、俺のことを親父さんと錯覚する理由も、分からないでもない・・・)

一抹の不安と悲しみが彼の心に渦巻き始めた――

そして、仮に・・・あっては欲しくないことだが、仮に、マドカがこのまま戻らないとなると・・・――

彼女の中で“冬木士度”は永遠に消えたままになってしまう――彼女が求めている自分の存在は飽くまで“父様”――父親としてであって・・・そこに“士度”の存在が入る余地は・・・無い。

彼女の中で、どこまでも大きな“父親かれ”の存在――そして消えてしまっている“士度じぶん”・・・・・


「父様・・・?どうしたの・・・?」


彼の微かな心の動揺を感じ取ったのか、マドカがもう一度士度の顔を覗き込んできた――そのとき、

「お嬢様の湯浴みの準備が整いました・・・」

メイドの控えめな声が居間に響いた。

「・・・お嬢様、お風呂の時間です。さあ、参りましょう?」

別のメイドが優しい声でマドカを促した。マドカは目を瞬かせた。

「行っておいで・・・」

士度はそう言うと、マドカから僅かに身を離した。

「え・・・父様、今日も一緒に入ってくれないの・・・?」

外で、バタン・・・・!!と派手に車の扉を閉める音がした。
執事の木佐が慌てて居間から出て行った。

「いや・・・“父様”、は風邪がまだ治っていなくて・・・」

何やら騒がしくなった外の様子を気にしながらも、士度はマドカに努めて穏やかに答える。
傍らで控えているメイドも、心なしかソワソワし始めた。

「まだ治らないの・・・?でも今日の父様、元気そうだったし・・・マドカがお熱を計ってあげるわ・・・!!」

マドカが可愛い額をコツン、と士度の額に合わせてきた。

廊下でバタバタと足音がする。

「マ、マドカ・・・・離れなさい・・・・!」

「ダメよぉ!まだお熱計り終わってないもの・・・!あ、父様ってあったかい・・・・!」

冷や汗混じりに言いながら、士度はマドカを引き離そうとするが、人肌の熱が気持ち良かったのか、マドカは士度の額に自分の額を合わせたまま、彼にペッタリと抱きついてくる有様だ。士度の困惑の声に、メイドも傍でオロオロしながら、どうやってお嬢様を引き剥がせばいいのか、まるで分からない様子。

「マドカ・・・」

仕方なく、彼女を持ち上げることでその場を収めようと、士度がマドカの身体に手をやった、そのとき・・・・バタン・・・!!と大きな音を響かせながら居間の扉が開き、立派な口髭を生やした初老の男性が勢いよく飛び込んできた。そして目の前の光景を目にするや否や、わなわなと身を震わせ、最初に発した言葉といえば・・・・・


「マドカ!!その男から離れなさい・・・・!!」


一方、マドカはいきなりの怒声に驚いて、反射的に士度に縋りつく始末。
同じような台詞が再び居間に響き、初老の男性は二人の傍まで足早にやってきた。


――最悪だ・・・・――


それが恋人の父親との相対した瞬間、最初に士度の脳裏に浮かんだ言葉だった。



「マドカ・・・・!!何をやってるんだ!はしたない・・・!!」

そう言いながらマドカの父親は娘を見知らぬ男性から引き離そうと、彼女の手をとった。

「――!?嫌ァ!!誰・・・・!?父様ぁ・・・・!!」

彼のその言葉と突然の行動にマドカはショックを受けたように震え、音羽氏の手を振り払うと、再び士度にしがみついた。

「な、何を・・・・マドカ、父様は此処にいるじゃないか・・・!?」

彼女の言葉に一瞬唖然とするも、尚も言い募る音羽氏に、マドカは背を向けすすり泣きながらフルフルと首を振った。そして、「父様、ここは嫌ァ・・・」と士度に泣いて縋りつく。

「・・・・すみませんが、彼女は今、普通の状態ではないので・・・」

それまで黙って親子の遣り取りを静観していた士度が、マドカの状態に堪らず声を発し、彼女を抱いたまま立ち上がった。
急に立ち上がった、自分よりも十センチ近くも背が高い見知らぬ若者に見下ろさせる形で静かに言われ、音羽氏は一瞬声を詰まらせたが、興奮はまだ収まらないようだった。

「・・・・!!ぶ、部外者の君にとやかく言われる筋合いはない!!さあ、娘を降ろしたまえ・・・!!」

「旦那様・・・!どうか落ち着いてください・・・!」――執事の木佐が音羽氏の後ろで諌めるように言った。

一方士度は音羽氏の言葉に片眉を上げたが、興奮し尽している彼に今は何を言っても無駄だと判断したのか、ゆっくりとマドカを絨毯の上に下ろした。
そんな“父様”の行動にマドカは驚いたように目を見開く。しかし降ろされても彼の手はマドカの肩に置かれていたので、彼女はすぐさま彼の腕と服にしがみついた。

「さあ、マドカ・・・父様と一緒にお医者様へ行こう・・・?そして悪いところを全部治してもらおうね・・・?」

少し落ち着きを取り戻したのか、音羽氏はタイを緩めながら努めて優しく彼女に言うと、マドカの方へ手を伸ばす。

しかし、その手はパン・・・!と音を立てて払われた――他でも無い、娘の手によって。

「触らないで・・・!!おじさんなんて知らないんだから・・・!!マドカは父様の傍に居るの!!」

そう叫ぶとマドカは音羽氏の気配を睨み付け、そしてクルリ・・・と反転すると抱っこを強請るようにして士度に向かって両手を掲げた。
音羽氏は娘の言動に動揺を隠し切れず、上げた手を下ろすことすら、ままならない。
執事が、「・・・もう一度事情を詳しくお話致しますから、どうぞこちらへ・・・」――と音羽氏を促し、彼がそれに答えようとしたとき・・・・マドカに泣きつかれた士度が、困ったような表情を浮かべながら、彼女を再び抱き上げようとしていた。

「――!!君は、娘に触るんじゃない・・・!!」

再び激昂した音羽氏が、士度に向かって拳を振り上げる気配がした。

士度は反射的に片手でマドカの目を覆い、


とりあえず、避けずに

親父殿に一発殴らせておいた。






メイド達が小さく悲鳴を上げた。

唇が僅かに切れる感触を感じながら、


――そういえばマドカは目が見えなかったんだっけ・・・――


そんなことが士度の脳裏を過ぎっていた。






 






落ち着け、父様・・・・。