【2】

             風の音から逃げるようにレコードをかけ、聴いていたらいつの間にか眠ってしまっていたようだ。
             外からは相変わらず風の音と、それに混じって雨の音もしている。
             そしてすでに夜の気配も感じられた。
             メイドが起こしにこなかったことからすると、まだ日が暮れたばかりなのだろう。

             瞬間、マドカは聞きなれた足音を聞き、感覚を研ぎ澄ました。
             あぁ、彼が帰って来た。動物たちが彼に気付いたのであろう、
             庭のあちらこちらから身を起こす気配がする。
             庭の東にあるテラスで雨宿りをしていたのであろうライオンの、喉を鳴らす音も聞こえる。
             彼の足音が庭に入る。まとわりつく動物たちに声をかけているのが分かる。
             居間の、閉ざされたカーテンの向こうに“彼”がいる…。
             マドカはソファから身を起こしてカーテンの方へ歩いていこうとしたが、
             ふいに士度が急いだように玄関へ向かう気配を察して、
             そこで迎えようとクルリと身体の向きを変えた。
             やはりモーツァルトがいないといつも以上に慎重に自分の身体を運ぶことになる。
             しかし、ここで転んで士度を心配させるのは嫌なので、
             マドカはゆっくりと居間の入り口へと向かった。
             居間の扉の取っ手に手を伸ばした瞬間、廊下からの声がかすかに聞こえてきた。

             (ッ!!士度様!!)
             (たいしたことねーから。悪いけれど、タオルかなにかをくれないか?このままだと床を汚す)

             メイドたちが息を呑み、慌しく動き始める気配がし、
             士度の静かな声が聞こえた。

             (マドカは?)
             (居間でお休みになっておられますが…どちらでこんな怪我を…)

              「!!」

             物騒な単語を耳にしたマドカは居間の扉を勢いよく開けて、玄関へ続く廊下へ飛びだした。
             廊下に漂う微かな血の臭いが、マドカの心を掻き乱す。

             「士度さん!!怪我をされたのですか!?」

             モーツァルトを伴わないで駈けてくるマドカに士度は驚心する。

             「!?マドカ?ッおい、こっちに来るな!」

             思いがけない言葉が士度から発せられ、マドカは立ち止まった。
             彼女の不安と悲しみが混じった表情から誤解を読み取った士度は、すぐに短く付け加える。

             「血でお前の服が汚れちまうだろ?」

             メイドから受け取ったタオルで、二の腕から流れる血を拭いながら士度は続けた。

             「手当てをしたらそっちへ行くから」

             拒絶をされたわけではないということが分かったマドカは一先ず安心したようだが、
             すぐに言い募る。

             「傍に居てはいけませんか?邪魔はしませんから」

             「?別にいいが…」

             士度はメイドに包帯の用意を頼むと、マドカの横を通り過ぎてバスルームへ向かった。
             マドカが士度の服を背後から軽く握ってついてくるのを感じ、軽く笑みを漏らす。
             モーツァルトが居ないとき、時々マドカはこうやって遠慮がちに士度の後ろからついてくる。
             コガモが親鴨について歩く様子に似てるな、と士度は思った。懐かれることは、嫌いじゃない。

             バスルームの洗面所の前まで来ると、士度はマドカを備え付けのスツールに座らせ、
             待っているように言った。
             広めのタブにお湯を張ると、血を洗い流しながら傷口を確認する。あまり開いてはいない。
             縫う必要はなさそうだ。
             血がお湯に溶けていく臭いに、心配そうに眉を顰めながらマドカは遠慮がちに尋ねた。

            「…傷、深いんですか?」

            「いや、掠っただけだ。心配するな。」

            何に、とは士度はあえて言わなかった。
            言えばまた余計な心配事を与えるだけだ。
            実は仕事を終えて音羽邸に帰る途中、クライアントに敵対する連中の残党から
            思いがけず発砲されたのだ。
            士度一人であったのならば何の問題もなかったが、
            銃口は今回のパートナーであった卑弥呼に向けられ、
            彼女をとっさに庇った士度の左の二の腕を弾が掠めた。
            ここ一週間やりあってきた相手であったが、それまで銃を使ってこなかった連中であったため、
            二人とも不意打ちをくらった様な形であった。
            しかし、その後はものの数秒で相手を片付け、
           音羽邸に気付かれないようにお約束の卑弥呼の忘却香で証拠隠滅。
           平謝りにあやまる卑弥呼に捕まえた残党の後始末を頼んで、改めて帰途についたわけだ。
           音羽邸に着いたときも、血の臭いをさせて戻ったらマドカに心配をさせるだろうと
           庭に面している3階のバルコニーから入って自室に戻ろうと思ったが、風が強いせいか、
           いつもは(半ば士度用に)開かれているバルコニーの窓が今日はキッチリと閉められていることが
           夜目も効く士度には庭から確認できた。
           仕方がなく合鍵を使って玄関から入ると、このざまだ。
           未だ心配そうな顔をして俯いているマドカに軽い罪悪感を感じて、士度はおもむろに話を振った。

           「そういや、モーツァルトはどうしたんだ?腹でも壊したのか?」

           士度の怪我のことが気になっていたマドカはその言葉で、
           愛犬のことをすっかり忘れていた自分に気がつく。

           「…モーツァルトも怪我をしたんです。誤ってガラスの欠片を踏んでしまって…。
            たいしたことはないとお医者様はおっしゃっていたのですが…」

           「…そうか、後で診てやらねぇとな」

           士度の発言の後、妙な沈黙がバスルームを支配した。
           すると、メイドが開いた扉を律儀にノックして入ってきた。

           「士度様、包帯をお持ちしましたが…ッ!!」

           血に染まったタブを見てメイドは再び息を呑む。
           広いタブ一杯に入れられたお湯は真っ赤だった。

           「お医者様をお呼びしたほうがよろしいのでは…」

           メイドの言葉にマドカの顔が曇った。
           士度の傷を直接確認できない自分が何だかとてももどかしい。
           すると間髪入れずに士度が答える。

           「血は出たけれど、見た目ほどそんなに深い傷じゃねーんだ。それにもう血は止まったしな。
           一週間もすりゃ治るさ」

           マドカの不安を和らげようと、士度はわざと説明するように言葉を紡いだ。
           そして気が付いたようにタブの栓を外し、もう温くなってしまったお湯を抜く。
           メイドは、手当てを手伝います、と恐る恐る洗面台の傍までやってきて、
           士度の傷の深さを確かめると、少し安心したようだ。
           士度は、一人でできる、とやんわり断っていたが、
           引こうとしないメイドにしかたなく包帯を巻くのを手伝ってもらうことにした。
           一方、マドカはただ傍にいるだけしかできない自分を一人密かに恥じていた。

           救急箱から出された消毒剤やら化膿止めやらを断って、
           士度は腰に巻いてあるポーチから小さな丸い薬入れを取り出した。
           片手で器用に蓋を開けると、そこから僅かながらだがツンと鼻を突く臭いが
           バスルームに広がった。
           士度は傷を確認しながら、ゆっくりと薬を塗りこめた後、ガーゼを当てて自ら器用に包帯を巻く。
           結局メイドの仕事は包帯本体を持っているだけになってしまったので、
           傍らに座る主をチラリと見てみると、
           俯いていた彼女が不意に顔を上げた。

           「士度さん、今日のお夕食はご一緒していただけますか?」

           気のせいかもしれなかったが、その声は僅かに震えていたようだった。
           士度は一瞬、驚いた様な顔をしたが、マドカの真摯な様子を見て取ってすぐに

           「あぁ、一緒に食うのは久しぶりだな。上でシャワーを浴びたら行くよ。」

          と微かに微笑みながら返事をした。それを聞いてマドカは小さく、安堵のため息を漏らす。
          そんな二人のやり取りは、このメイドからして見ればややぎこちないものであったが、
          自分の主の必死さは彼女にとって愛らしくも感じられた。
          この二人のやり取りと関係は、実は音羽邸のメイドたちの目下の一番の関心事でもあった。
          もちろん、皆よく訓練された者たちなので、当の本人たちの前では何事もないかのように
          振舞ってはいるが。
          自分たちの女主人がこの素性も分からぬ青年を客人として迎えてから
          もう3ヶ月が過ぎようとしている。
          最初は年頃の女主人が若い男性(しかも数多のペット付き)を引っ張り込んできたと、
          音羽邸内は士度が知らぬところで半ばパニックになっていたのだが、
          普段あまり我を通さないマドカが、行く末を憂慮する執事や家庭教師の意見を頑として聞かず、
          結局この青年とその取り巻きは音羽邸に居つくことになったのだ。
          その風貌から、最初は音羽邸の使用人たちにとって士度はやや扱いにくい存在に思えたが、
          日が経つにつれ、その推測は段々と覆されていった。
          士度は彼らが思っていたほど、粗野でも乱暴でもなく、その行動からは意外にも育ちの良さを
          具間見ることすらしばしばある。
          音羽邸に居て何をするわけでも無いが、ただの居候然としているわけでもない。
          普段は中庭で物思いに耽っていることが多いが、気が付けば外出していて、
          そしていつのまにか戻ってきている。
          使用人たちが声をかければ、短いながら返事は返ってくるし、
          例えば、あるメイドが棚の荷物を取ろうと精一杯背を伸ばしていると、さりげなく後ろから手を伸ばして
          目的の物を取ってくれるように、そんな場面に出くわせば使用人たちを時折助けてくれたりもする。
          音羽邸の人々の間では、士度は自らの与り知らぬところで“無口な好青年の居候”という地位を
          確立してしまっていた。


 


         音羽邸内での士マドがこの頃無性に書きたいのです…。
           執事やメイドに囲まれた生活の中に放り込まれた士度の心境は内心複雑だったのでは?
           そして、マドカと士度の揺れる恋心をこれから取り入れていきたいです・・・。