【3】

             士度は2階の客間にあるバスルームで軽く汗を流すと、離れにある和室に向かった。
             士度が左腕を怪我して帰ってきたことで、今夜の夕食は和食になったようだ。
             音羽家での通常の食事である洋食も嫌いではないが、
             士度は故郷の食事に似ている和食の方がどちらかというと好みだ。
             洋食のテーブルマナーも、幼い頃に押し付けられたいわゆる“長の子としての英才教育”で
             知識としては身についてはいたが、実際に使うと肩がこってどうもよくない。
             それに、食事に関しては居候が決まった時に、
             提供してもらうのは庭と部屋だけで十分だと予め断っておいた。
             その時マドカは少し不満そうな顔をしたが、
             せめて厨房とその横にある食堂と食料は自由に使ってください、と申し出てくれた。
             あと、庭に住まう動物達の餌もそこから調達していいと。
             マドカの心遣いの何もかもを無下に断って居候するのも気が引けたので、
             士度はそのマドカの好意に甘んじることにした。
             食事時に厨房に顔を出せば、コックかメイドの誰かしらがいて、「ご用意致します」と
             すぐに何かしら出てきた。
             そしてそれを使用人たちの溜まり場にもなっている食堂で食べるわけだ。
             そう頻繁に通うのも悪い気がして、外に出たときはそのまま食事を済まして帰ることにはしていたが、
             やはり滞在期間が長くなるにつれ、厨房や食堂で会う使用人たちの中から顔馴染みも増えた。
             突然居候として現れた士度を訝しがることなく接してくれるし、他愛のない会話も少しずつするようになった。
             案外皆良い奴等だ。
             ところがしばらくすると、食事の時間になるとマドカが士度を探しに食堂までやってくることが多くなった。
             そして士度を見つけると、必ず「ご一緒してもいいですか?」と尋ねてくる。
             断る理由もないのでそのままマドカと一緒に食事をとることにしていたが、
             使用人たちにとってはそれは大問題だったらしい。
             それからマドカは朝昼晩、士度がいるときには必ずその使用人用の食堂までやってきて、
             士度と一緒に食事をするようになってしまった。
             自分たちの主が、メインルームで食事をしないで、わざわざ厨房横で食事をとる−
             こんなことが良いわけがない。
             しかし、当の女主人は案外そういうところに無頓着であった。
             使用人達は、仕方がなく、理由を士度に説明してマドカと食事の時間が重なった時には
             モーニング・ルーム乃至はダイニング・ルームでマドカと一緒に食事をとってくれるように頼み込んだ。
             とりあえず了承したものの、士度は内心少し困っていた。
             そっちの方の部屋で食事を取ると、そのメニューの内容は明らかに数ランク上がる。
             厨房横の食堂で出されるものはごく一般的なものなので、気に入ってはいたのだが…。
             マドカには悪いが、あんな豪勢な食事を度々とっていたのではこちらの体がどうにかなってしまいそうだ。
             −だがそんな士度の心配事は杞憂に終った。
             士度が奪還屋を始めてからはマドカとの食事の時間が重なることが少なくなってきた。
             
             −まあ、それはそれで少し寂しい気もするが−

             マドカがそのことについて士度以上に気をもんでいることを、士度は知らない−

             
             
             夕食のとき、マドカは今日あった事を士度に話した。
             帰りにモーツァルトが怪我をしたことはもちろん、
             ずっと欲しかった楽譜が手に入ったこと、帰りに寄った公園でモーツァルトが新しい友達を作ったこと、
             ホンキー・トンクで夏実と好きな音楽について話したこと、波児が美味しい珈琲の入れ方を教えてくれたこと…。
             今度、士度さんに入れてあげますね、と話すマドカはどこか嬉しそうだ。
             そうだな、と答えた士度は、以前から気になっていたことを話ついでに聞いてみた。
             
             「楽しかったみたいだな。しかし、いいのか?一人で出歩いて危険じゃないのか?」

             音羽邸には車も、お抱えの運転手もいる。
             特に目が見えないマドカがわざわざ一人でフラリと出掛けるのが士度は不思議だった。
             
             「あら、私結構一人で何でもできるんですよ。」
 
             マドカは少し得意げに、明るく答えた。
             モーツァルトのリードを持つと片手が塞がるので、大きな買い物がある時や仕事の時は
             車を出してもらったり、メイドに付いてきてもらったりするが、
             それ以外はマドカはモーツァルトを伴って、大抵一人で出掛ける。
             一人で風を切って歩いているときに耳に入ってくる街の様子を聞くのがマドカは好きだ。
             急ぐ人々の足音、母親と子供の会話、赤ちゃんの泣き声、電車の音、小鳥の囀り…。
             街に出るたびに、違った音が入ってくる。マドカは出掛ける度にそれを楽しみにしてた。
             −そう説明すると、士度は感心したように相槌を打つ。
             “神の耳”は、日常世界の音も心弾む旋律に変えてマドカの世界を作っているようだ。
             そうだ、闇の世界に住むマドカが纏っているのは、いつも光だ−
             それは彼女の芯の強さの証のように、いつも光り輝いている。
             そんな彼女の存在は、まるで自分を浄化してくれるようにいつも士度の心に安らぎを与えてくれる。
             
             「強いんだな、マドカは。」

             士度はマドカを見つめながら静かに、言った。
             するとマドカは少し驚いたように顔を上げ、

             「そう、でしょうか…」

             と困惑したように答えた。

             −だって、私はあなたのことを考えると、時折泣きたくもなるのよ−

             士度さんの帰りが遅い夜、おはようを言えない朝、一人だけの食卓、あなたの気配を感じないリビング−
             今日出掛けた時も、隣からあなたの足音がしなくて、声が聞こえなくて…寂しかった。
             −寂しい−この感情をこんなにも大きく膨らましたのは、士度さん、きっとあなただから…。

             それまで明るく話していたマドカが、急に黙って俯いてしまったことに士度は戸惑った。
             自分はまた、何か彼女の気に障るようなことを言ってしまったのだろうか?

             「おい、マドカ−」

             どうしたのか、と問いかけようと士度が口を開くと、マドカは慌てて顔を上げ、

             「あ、あの、お茶は温室でいただきませんか?モーツァルトもいるし…」

             と取り繕うかのように半ば早口で言った。
             士度は歯切れ悪く、おう、と返事をするしかなかった。



 


            雰囲気が変わって今回は主に音羽邸における冬木氏の食卓事情話になってしまいました…。
               いつになったら色めいた話になることやら;