【4】
静かであろうと思われた温室は、止まない風でカタカタと音を鳴らしていた。
モーツァルトが主人と友人の訪問に尻尾を振る。
士度はしゃがんでモーツァルトを撫でてやり、分厚く包帯を巻いた足を見て苦笑する。
そして傷を確かめるべくゆっくりと包帯を解き始めた。
<キット、ヤブダヨ、アノイシャ!>
<そうでもないんじゃないか?>
まぁ、この包帯はちょっとやりすぎだけどな、と士度は傷の具合と塗られた薬の匂いをかいで怪我の様子を確かめる。
<この薬で問題ねーと思うぜ?二種類塗るのは良くないから次に包帯換える時に俺のを塗ってやるよ。>
モーツァルトはやや不満そうだ。
マドカは横から心配そうに様子を伺っていたが、士度がマドカにもたいしたことはない、と伝えると
ほっと息をついた。そしてデザートのアイスを持ってきたメイドに指示を出すべく、その場を離れる。
<・・・マドカ、ゲンキナイ。シド、ナニカシタ?>
<何もしてねーよ。・・・まぁ、ちょっと元気ないかもな。よくわかんねーよ。>
モーツァルトと話をしながら再び包帯を巻いてやっている士度の様子を、その背中から溢れる存在感を、
マドカはティーテーブルの横に立って感じていた。
−あのとき−
あの二人だけのコンサートのとき、彼が息を切らしてホールに飛び込んで来たとき、
高い舞台の上から思わず飛び出してしまった私を、士度さんは危なげなく受け止めてくれた・・・。
そのときに始めて感じた彼の背中の広さ、私を簡単に包み込んでしまうくらい大きく、逞しい身体、
鼻をくすぐった彼の汗と、嗜む程度につけたコロンの微かな匂い・・・。
あのときが・・・私が彼、に一番近づけた瞬間−
本当は、もっと、ずっと、あなたの存在を感じていたかったのだけれど・・・。
− 士度さんは・・・−
士度さんは私の事、どう思っているのかな・・・。
彼は、優しい。
不器用だけれど、そんな彼の優しさが好き。
私を、大事にしてくれている・・・私に気を使ってくれている。
隣に居てくれたら、嬉しいひと。
ずっと、そば居て欲しい、ひと。
・・・でも、隣にいるのに、時々、遠い。
今だって、こんなに近くにいるのに・・・。
「・・・−カ、マドカ?」
士度の呼ぶ声にマドカはハッと我に返った。
目の前に立つ士度が、どうしたんだ?と問うている。
「あ、ぁ・・・ご、ごめんなさい!ボンヤリしてしまって!あの、アイス、溶けちゃいますよね!」
いや、アイスはどうでもいいけどよ・・・と席につきながら士度は呟いた。
マドカも恥ずかしさに頬を染めながら席に着く。
自分を落ち着ける為に、マドカは少し柔らかくなったアイスを嚥下した。
「・・・なぁ、お前、疲れてるんじゃないか?」
士度が遠慮がちに訊いてきた。
「・・・え?そう、見えますか?」
唐突な士度の指摘に、マドカの手が止まる。
「・・・あぁ、さっきモーツァルトも言ってたけれど、なんか今日は元気ないよな。
夕飯の時とかも・・・さ。大丈夫なのか?」
どっか具合が悪かったら早めに医者にでも行ったほうがいい、と士度は珈琲に口をつけながら言った。
一方、マドカは穴があったら入りたい気持ちに襲われていた。
このどうしたらいいのかわからない悩みを顔に出すつもりはなかったのに、士度に余計な心配をかけてしまった。
一人で勝手に悩んで、楽しく過ごしたい人に迷惑をかけて・・・。
自分の中の渦巻いている部分が今日は全部表にでてしまっている。
最近、士度さんと過ごす時間がなかったから?今日士度さんが怪我をして帰ってきたから?
・・・いいえ、それはきっと、この嵐のせい・・・。
この音が私の心を、浮かび上がらせている・・・。
「今日は、早く寝た方がいいかもな。」
その声にマドカの意識は再び浮上する。
自分は、またどのくらい一人物思いに耽っていたのだろうか?
士度はアイスを食べ終わったようだ、カチャリ、と空のグラスにスプーンを置く音がする。
自分のアイスはすっかり溶けてしまって、その甘い香りが温室を漂っていた。
すっかり肩を落としてしまったマドカを、その椅子を引いてやり立ち上がらせ、
モーツァルトにおやすみを言うと、士度はマドカの手を引いて温室を出た。
マドカの手をとったとき、彼女はその手をギュッと握り締めてきた。
そして、手を引かれるままに黙って士度の後をついてくる。
その顔は曇り、俯いたまま。
(なんだかわからねーけど、重症だな・・・)
・・・・もしかしたら今日、自分が怪我をして帰ってきたからかもしれない。
そんなことはしょっちゅうだが、今日のは出血が止まらないまま音羽邸に入ってしまったし、
あの血の臭いと、メイドたちの騒ぎようにマドカも不安を覚えたのかもしれない・・・。
まぁ、彼女のこの沈みようはそれだけではないはずだが。
それがマドカのなんらかの心労に輪をかけてしまったなら、自分にも非があるということだろう。
士度がそんな見当はずれのことを考えているうちに、二階にあるマドカの部屋の前についてしまった。
「ほら・・・」
カチャリ、と士度はその扉を開けてやる。
マドカはゆっくりと顔を上げると、不安そうな表情を士度の方へ向けた。
「・・・今日は、その、悪かったな。」
思いがけない謝罪の言葉に、マドカの眼は見開かれる。
「ほら、怪我して帰ってきちまっただろ?血の臭いとかして、吃驚したよな。
なんか、疲れているところ驚かしちまって悪かった。」
「・・・・ごめんなさい。」
−え?とその急な言葉に士度は戸惑う。
「ご心配、おかけして・・・ごめんなさい。士度さん、何も悪くないです・・・。
私が勝手に・・・。あの、お怪我、お大事になさってください・・・。」
扉の前で項垂れたままマドカはたどたどしく話した。
あ、あぁ、と士度もどんな反応をしていいのか困り果てる。
士度はそのマドカの弱々しい姿に庇護欲をかられたが、・・・我慢。
俺はただの居候。
「・・・・ま、熱いシャワーでも浴びて、今日は早く寝ることだ。・・・・おやすみ。」
ポン、とマドカの頭に軽く手を乗せ撫でるようにすると、士度は踵を返した。
「・・・・おやすみなさい。」
名残惜しそうにマドカが士度の手を離した。
じゃあな、と士度は言い、奥にある自室へ向かう。
士度の気配がその扉の向こうに消えるまで、マドカは部屋の前で立ち尽くしていた。
さて、そろそろ終盤に向けて加速せねば!;
ウチの士度さんはだいぶ鈍いようで・・・。