【5】

               −マドカは・・・
                
                俺をまるで警戒しない。
                
                俺に無邪気な笑顔を見せるマドカ、
                俺に“安らぎ”という気持ちを、いとも簡単に運んでくるマドカ、
                俺を信じ、誰もいないホールで何時間も俺を待ち続けたマドカ−
                
                この屋敷では気がつくと、マドカが俺を探す気配がする−俺を見つけると、彼女は破顔する。
                喋ることがあまり得意ではない俺を相手に、厭きることなく幸せそうに話す。
                庭で寝転んでいる俺の隣に座って、会話がなくてもいつも楽しそうにしている。
                
                何故だ−何故マドカはこんな俺に、ここまで心を許している?
                
                ・・・・大人たちに囲まれた生活の中に、突如現れた歳が近い居候に対する興味か?
                思いがけず現れた異性の友人に対する好奇心か・・・
                いや、もしかしたら俺は彼女にとって兄のような存在なのかもしれない−
                
                −いずれにせよ・・・・

                俺が欲しいものはきっと、手に入らない。
                −多分、それでいいのだろう−
                それにあの淡く、優しい春の色をした花を今は手折りたくない−
                ただ、ただ、彼女を守ってやりたい。
                −何から?
                それは・・・その原因をつくっているのは、彼女の傍にいる俺だ。

                とんでもない、矛盾。

                自分の、彼女という存在と彼女への想いの執着の為に−
                いつか彼女を危険に晒す・・・。
                そんな未来が簡単に予測できるのに、俺は−

                ガタンッ、と窓枠が風に押されて大きく揺れた。
                その音に士度の思考は中断され、頭の中で後味の悪い余韻が響く。
                窓枠はガタガタと鳴り続ける−建てつけが悪いのかとベッドから身を起こし、確かめるために窓辺によると−
                漆黒の闇の中に、無数の木の葉が渦巻いていた。
                遠雷が聞こえる・・・木々はまるで踊っているかのように、その身を撓らせている。
                窓に叩きつえられる雨は、暴風と交じり合って咆哮を上げている。
                
                −嵐だ・・・−
                
                
                −士度様・・・嵐の夜には魔物が潜んでおりまする−


                幼い頃の士度に呼びかける、誰か、の声が脳裏を過ぎる。


                −引き摺られなさりますな・・・。そうせなんだら、嵐も、魔物も、決して敵ではござりませぬ・・・−

 
                −引き摺られ、かけたのか?俺は・・・。

                ふと、士度は窓に映る自分自身を見つめた。
                無表情な自分が己を見返している。
                そう・・・ヒトとの心を閉ざしてからは、普段からあまり変化がなかった俺の表情は一層乏しくなった。
                人間は他人の顔色を見ることで、その人の心を推し測ろうとする。
                そしてそんな行為から自らを防衛するために、人は仮面を被る。
                その喜怒哀楽の仮面の奥にある本当の素顔は、本人にしか判らない。−そう人は思い込んでいる。
                −表と裏の顔。−子供(ガキ)の頃の俺は、人間たちのそんな探り合いを嫌悪していた。
                それに引き換え、自然や動物たちは素直で実直だ。
                ありのままの己をぶつけてきて、ありのままの俺を受け入れてくれた。
                −語らなくても、通じ合えた。
                ・・・・そして俺と獣たちと、人との心の狭間に垣根ができた。−そう、思っていた。
                
                けれど−−生まれたときから続いていた鬼里人との戦争。
                −母の死、一族の掟、長の子としての自覚と責務、自分を祭り上げる大人たち、
                 策略と騙取、欺瞞と驕り、殺戮と破壊、望まぬ出会いと望まぬ別れ、消えない血の臭い、
                 村を焼き尽くす炎、耳を裂く断末魔、俺の手を握りながら死んでいった里の者たち、
                 長の死に際に託された鬼魔羅 、友の死に託した想い・・・。
                −それらを背負って無限城に入り、その枷と重石に押しつぶされそうになりながらも自ら命を絶つことなく
                その茨の道を歩むことを選び苦しんだのは、やはり俺には人の心が残っていたからだ。
                それを−自分は獣たちと生きる、そう心に刻むことによって、己の傷を、心の病をカモフラージュしていたにすぎない。
                獣たちの真っ直ぐな心と俺に対する無償の信頼が、俺を支えてくれたのは紛れも無い事実だ。
                そして、俺は苦痛から逃れるようにそこに立ち尽くしていた−
                −傷口が開かないように、前が見えない仮面を着けていたのは・・・
                −−俺だ。

                そこへ突如、マドカという存在が現れる。
                目の見えない彼女にとって、俺の表情というものはあまり意味をなさない。
                最初は確かめるように、時折何の躊躇いもなく俺の顔に触れてきた。
                そしてそのうち、たった三ヶ月足らずの間で彼女は“気配”だけで、俺の心を読み始める。
                
                「照れてるでしょ?」「機嫌が良いようですね。」「元気、ないんですか?」「・・・何だか少し、怒っているみたいです。」

                彼女の心は、俺さえ感知しない俺の内側をそっと覗き、その言葉はストン、と俺の心に収まる。
                彼女に“見える”のは、彼女が信ずる真実だけ・・・
                彼女のその感覚は、まるで人と自然の調和の上に成り立っているようだ。
                
                −ソレハ オレガ サガシモトメテイタモノ−

                ・・・・だから、俺は・・・・彼女に惹かれているのか?

                いや、他にもマドカからはもっと違う何かも・・・感じる。

                −ソレハ ナンダ?−




                ゴォゥ、と風が今までにないくらいの唸り声を上げた。
                窓が激しく揺れるのと同時に、メリメリッと木が大きく撓る音がして、ついにはそれがバキッと折れる音がした−途端に、
 
                ガシャン!バリンッと窓の反対側から暴風音の中からもはっきりと聞こえるくらいのガラスが割れる派手な音が聞こえた。
                
                同時にヴンッ、と電力が一斉に落ちる音も重なる。
                モーツァルトがキャンキャン鳴く声と、庭にいる獣たちが騒めく気配がする。
                音がした方向と様子からして、太い木の枝が折れて温室に飛び込んだのだろう。
                チッと士度は短く舌打ちをしてパーカーを羽織ると、部屋から駆け出した。



               

 




            士度にちょこっと語ってもらいました。
               マドカは士度の前に現れた、他の人たちとは違う“新しい存在”なのだと思って。
               もちろん、マドカにとっての士度もそうであるわけで。
               しかし、暮らし始めのときは、そんな感情にお互い戸惑いも多かったのではないでしょうか・・・。