【2】


「マドカ、もう少ししたら一雨来そうだ。バイオリンは持って行かない方がいい。」

居間のテーブルの上に置いてあるバイオリン・ケースに手を伸ばしたマドカに、士度はそう声を掛けた。
え?・・・そうなんですか?とマドカは鼻を擽る太陽の匂いをもう一度確かめながら不思議そうな顔をする。
俺の天気予報は当たるんだぜ?と士度はマドカから手渡されたバスケットを片手に少し得意そうだ。
そうでしたね!とマドカは微笑み、士度に続くようにして外へ出る。
ケーキや夕食に使う木苺や香草を取りに、少し歩いた先にある、別荘地のオープン・ガーデンに行く為だ。

「士度さんに、森に木霊するバイオリンの響きを聴いてもらいたかったのに・・・」

少し寂しそうに言う彼女に、明日はきっと一日中晴れてるさ・・・と士度は空を仰ぎながら呟いた。
それじゃあ、明日は朝露の下で演奏会をしましょうね!―― そう言いながらマドカは士度の手を取った。
そこで士度は、いつもの定位置に彼女の愛犬がいないことに初めて気が付く。

「・・・・?おい、モーツァルトは?」

「さっきから他の皆と遊びたくて何だかソワソワしていたので、放して来ちゃいました。」

だから、士度さん、お願いしますね・・・悪戯っ子のようにペロリと舌を出しながら、マドカは甘えるように士度の腕に縋った。

「・・・ッたく、しょーがねぇなぁ。」

―あまりアイツに仕事サボる事を教えるなよ・・・― そう言いながらも士度は嫌な素振り一つ見せず、まるで当たり前のように、マドカの手を取る。
そして士度は渡された真新しい地図を片手に、彼女の歩調に合わせるようにして、ゆっくりと歩みだした。



「パセリ、セージ、クレソン・・・・あ、あとバジルもいるかしら?ナツメグは何処だったかしら・・・・士度さん!木苺は美味しそうなのがありましたか?」

ガーデン内に丁寧に植えられている香草を、匂いを頼りに摘んでいたマドカは
少し離れたところで一人、木苺やブルーベリーを選別していた士度に声を掛けた。

「ケーキに使うんだろ?どれだけいるんだ?」

程よく熟れた濃い赤い実を、時々つまみ食いしながら士度は訊ねた。

「ケーキには使いませんよ。だって、ショートケーキやフルーツケーキ、士度さん食べられないじゃないですか?」

それは食後のデザート用なんです―― マドカはそう言いながら、士度の声がする方へ、ゆっくりと歩いてくる。

「じゃあ、ブランデーケーキでも作るのか?」

“甘いケーキ”という試練を多少覚悟していた士度は不思議そうな顔をする。

「あれも、士度さんは“砂糖の味がする”って言っていたじゃないですか。
今日は士度さんもちゃんと食べられるように、“砂糖の味がしない”ケーキを作りますv」

「砂糖の味がしないケーキ?」

そんなものあるのか?―― 顔に疑問符を貼り付かせている士度の様子を密かに楽しみながら、
マドカはクルリとターンをして彼を覗き込むような素振りを見せると、―楽しみにしていて下さいね!― と囁いた。
そんな彼女の仕草に虚を衝かれたような顔を士度がしたとき・・・ポツリ、と空から雫が零れてきた。

「あ・・・ホントに・・・大変!香草が濡れちゃうわ!」

マドカは摘んだ香草を士度が手にしていたバスケットに慌てて入れると、持ってきていた布巾をその上に掛けた。
次の瞬間、その雫は大粒の涙となって、二人に容赦なく降り注いできた。

「思ったよりも早かったな・・・マドカ、戻るぞ!」

士度は空いている片手でマドカの手を取り、駆け出した。
マドカも懸命にそれについて行こうとするが、雨にぬかるんでしまった柔らかい森土に時折足をとられて、上手く走れない。
すると、士度はバスケットを徐にマドカに押し付けた。

「!?士度さん・・・キャッ!」

突然士度に持ち上げられて、マドカは思わず悲鳴を上げた。士度が彼女を横抱きに抱き上げたのだ。
―籠を落とすなよ!― そう一言言うと彼は、激しさを増してきた雨脚に打たれながら、再び駆け出した。

雨の森の中を走る―― 雨に濡れた土の香り、緑の匂い、風と共に頬を打つ水の感触・・・・
それらが、マドカが普段持ち得ないスピードで過ぎて行き、その刹那、また新しい香りと感触が身を包む。
マドカの中にもう一つ、新たな世界が加わった。
それを教えてくれたのは――・・・・

「・・・・?」

髪を冷たく濡らしていた雨の感触が不意に途絶えた。
そして、士度は彼女をゆっくりと再び地に下ろす。

「士度さん、ここは・・・?」

ポツン、ポツン・・・とマドカの肩を濡らしていた雫も、士度がそれから庇うように彼女の肩をソッと引き寄せたことで消えていった。

「丁度良い大木があったからな・・・・少し雨宿りして行こうぜ。」

雷雨じゃねぇから此処にいても大丈夫だ ――そう言いながら、士度が重く濡れたシャツを脱ぐ気配がした。

「・・・・凄い。樹の下って、本当に雨を凌げるんですね・・・」

御伽噺の中でだけだと思っていました―― マドカはそう言いながらバスケットを地面に置くと、手を伸ばしてその樹の幹に触れた。
ほんの僅かに手に伝わる、その湿り気が心地良かった。

「そうさ・・・・自然の屋根は、そこに集う者達を拒んだりはしない。誰にでも平等に、その羽根を休める場所を与えてくれる。」

士度の声と、樹の香りが、マドカの中で繋がったような気がした。そう、それはとても安心できる、安らぎの場所――

・・・士度さんは、この樹に似ている―― ふと、マドカはそんなことを思った。

私を雨から・・・悲しいことから、守ってくれる・・・・こんな風に大きく、広く、葉を広げながら。
そしてとても良い薫りがする・・・ずっとずっと、傍に居たいと思えるような、そんな匂いが。
あぁ、初めて感じるこの大樹にこんなにも親近感を覚えるのは、彼に、近いから・・・・。

「・・・・お前も大分濡れたな。」

シャツを絞り終えた士度はそう言いながら額に巻いてあったバンダナを取ると、マドカの顔を濡らしている水滴をそっと拭ってやった。
――ありがとうございます・・・― マドカはそう呟きながら、近くなった士度の気配をもっと感じようと、心を澄ました。
そう、彼を、もっと、感じたかった―― 雨は、彼の存在を浮き上がらせる。
あの嵐の夜も、そして今日も――。雨の匂いは、彼の心の普段は隠れている部分を、そのベール越しに時折垣間見せてくれる。
それはいつも、とても切なくて、そしてとても愛しい・・・。
すると、マドカの首筋に伝った水滴を払おうとした士度の手が、どこかぎこちなく止まった――。

「士度、さん?」



眼を瞑り、樹にその身を預けているマドカの身を冷やす水滴を、士度は少しずつ拭っていった。
そしてその水滴を追うように、その手を彼女の細い首に滑らすと、彼の眼の端に自然と飛び込んできた、彼女の痩躯。
白い薄手のブラウスは雨に濡れそぼち、マドカの華奢な身体に張り付いて、その奥には白い肌が覗いていた。
紺色のロングスカートは彼女の細い足に絡みつき、そのなだらかなウエストラインをはっきりと浮かび上がらせている。
その扇情的な姿に一瞬目を奪われ、手を止めた士度は、彼女が自分の名を呼んだことで我に還り、弾かれたようにその手を引いた。
見ると、不思議そうな顔をしながらこちらの様子を窺う、マドカの姿が・・・。
あぁ、彼女は“見えて”いないから・・・・だから自分が、今、どのような姿であるのか気がついていない。
自分が今、どんなに“雄”の本能を擽る姿でいるのか、彼女は知らない――
もしかしたら普段の自分の魅力にすら気がついていないのかもしれない。
だから今も、こんなに無防備に、無垢な、不思議そうな顔をして、俺の前に立っているのだ。
嫌な、眩暈がした―― 士度はそれを払おうと頭を振り、その両手を樹の幹についた。


マドカが士度を見上げるような形になる・・・・樹の陰よりも近く自分を覆う存在を、マドカは再びこの大樹と重ね合わせた。
そして、そのことを士度に告げようとしたとき、マドカの頭の辺りで幹に触れていた彼の手が、拳に変わる気配がした。
そして、彼の声が頭上から聴こえた―― 。

「―― けどな、マドカ・・・翼が乾いたその時には、鳥も、人も、その樹から飛び立たなければならないんだ・・・」

その言葉に、マドカは瞠目する。士度の言葉は続いた。その響きは、雨音に似ていた。

「冷たい雨から守ってくれる葉の下の静かに満ちた安らぎの中で、疲れた身と心が癒されたとき、
その軒下を借りていた者は、再び歩き出さなければならない――」

雨宿りを許されるのは、天が泣いているひと時だけなのさ・・・・それが自然の掟――。

彼女の耳元でそう囁いた士度の声は、まるで苦痛を孕んでいるかのようにマドカの心に届いた。
―― マドカは、彼の唇にその白く細い指を這わした・・・あぁ、また“見えた”―― 雨越しの、彼の、心。
でも、どうして――?どうして、こんなにも哀しい心が、あなたの方から流れてくるの・・・?
それに、私は――・・・。

「私、士度さんはこの樹に似ていると思いました・・・そして私は、いつもその下で雨宿りをさせてもらっているんだな、って・・・・」

士度が目を見開く気配がした。マドカは華奢な指を彼の頬へと滑らせた。

「でも・・・・」

士度の顔が、マドカと同じ目線まで降りてきた。彼の心が、揺れているのを感じた。

「でも、そこから再び離れなければならないなら、私、雨宿りをするのをやめます・・・」

「マドカ・・・・」

士度の手が、マドカの濡れた肩をそっと掴んだ。その指は、微かに震えていた。

「そして私は・・・・私も、士度さんのような樹になりたい・・・そしてずっとずっと、士度さんの隣に立っていたい・・・・。
お隣にいれば、葉は自然と重なり合うし、木の根は地下で結び合うことだってできますよね・・・
一緒に太陽の光を浴びることだってできますし、それに ―― ンッ・・・」

マドカの喉から甘い吐息が一瞬洩れて、そして大樹の下は再び静寂に包まれた。
士度が自分の頬を撫でるマドカの可憐な指をそっと手に取ると、その慈愛を伝える柔らかな唇に、唐突だが優しい口付けを落としたのだ。
雨の音だけが、二人を包んだ。

士度は・・・自らの内に優しく浸透していくマドカの言葉に、心震わせていた――そして・・・・
もう、どうしていいのか、分からなかった。これから何処へ行くのかも、知れなかった。
彼女へのこの想いも、二人の重なる心も、そして、この猛る熱情も・・・・。

雨脚が、少し弱くなった。
それでも二人は暫く手を取り合いながら、互いの温もりを感じ合っていた。
やがて雲間から太陽が再び顔を覗かせ、木漏れ日が二人を照らした、その時まで――。







パシャンッ・・・・・・・

肌を打つ熱いお湯が、雨に冷えた身体には心地良かった―― けれどその心には、溶けきれずに残っている塊が。
彼は―― あの時、泣いていた。彼の心が、どうしようもなく哀しんでいた・・・・。
それを感じていながら、その哀しみが何処からくるものなのか、どうしたら彼の憂いを癒せるのか、
まるで検討もつかず何もできない自分が、マドカはどうしようもなくもどかしかった。
そして、彼のそんな苦しみを感じながらも、
あの大きな樹の下で彼の素肌に抱かれながら、その温もりに酔いしれている自分がいたことに頬を赤らめる。
二人の心は重なっているはずなのに・・・互いの吐息を分かち合うほどに、近くにいるのに・・・・
彼の体温が離れてしまうと、彼が急に遠くなる―― そんな風に感じてしまう自分は、彼に依存しすぎているのだろうか?
彼は――
私を、守ってくれている。
私を、力強く、支えてくれている。
私と彼の間には、誰にも別つ事ができない絆がある―― そう、それは見えない私の眼にもはっきりと映る光・・・・そして私の生きる糧。
彼が隣にいるから、私を見ていてくれるから、私は強く生きていける。
そして、彼は・・・彼は、優しい。
その優しさに身を浸すことができるのは、何にも勝る幸福―― なのに・・・・

「・・・ときどき、その優しさが痛いの・・・。どうしてかな・・・士度、さん・・・・・」

湯気が立つシャワーの雨に打たれながら、マドカは小さく一人言ちた。
そして、パンッ!と両手で自分の頬を叩いた。
――しっかりして、マドカ!今日は士度さんのお誕生日!これから作るお料理には、笑顔というスパイスが不可欠よ・・・!――
マドカはそんな風に自分に対して半ば無理矢理気合をいれると、キュッと必要以上の力を込めてシャワーのお湯を止めた。






「あ〜・・・・もう・・・・――」

―― やべぇな・・・・―

火照った身体を冷ます為に、士度は二階のシャワールームで水を浴びていた。
心なしか、身が重い・・・・彼は大きな溜息を吐いた。

他に人の気配がしない別荘で、想い人と二人きり―― 俺だって男だ、どうにもならないはずがない。
あの執事にだって言ったんだ、
「俺とマドカを二人きりにしておくって、どーゆーつもりだ?」と。
そしたら
「お嬢様が嫌がるような事だけは、なさらないでくださいね。くれぐれも!・・・・それだけです。」
そう言い残してサッサと姿を消しちまいやがった。
自分の女主人がどうなっても良い―― そんな風に考えるような人間では無いはずだ・・・・
マドカが彼に、俺と二人だけも問題無い、とでも言ったりしたのか?
仮にそうだとして、そこにある深い意味をマドカは――
・・・・・意識してねぇよな、やっぱり。
車の中での様子からして絶対に。
いわゆる、“お誕生日のイベント”を、俺の為に精一杯用意して・・・・。
・・・・さっきの雨宿りの時も、かなりキた。
そんなことは無いと判ってはいるが―― まるで誘われているような錯覚に陥った。
それでも・・・・

「・・・大事にしてぇんだよ・・・お前だけは・・・」

壊したくない、哀しませたくない、怖がらせたくない・・・・守ってやりたい―― これまではそんな“想い”が、己の“欲”よりも勝っていた。
あの屋敷での穏やかな日々と、適度な人の眼が、丁度良いストッパーにもなっていた・・・けれど今はまるで、離れ小島に二人きり。

―― 分岐点・・・なのか?――

士度は苦々しく舌打ちをすると、栓を捻ってシャワーの水の勢いを強めた。

とにかく――!
士度は頭の中で言い訳のように、これからしなければならないことを無理矢理反芻する。

― マドカがあの長い髪を乾かしている間に、
出掛けにコックから貰ったメモを元に切らなきゃならない野菜を全て捌いて下ごしらえをしておかないと・・・・―
マドカは怒るだろうが、全部一人でやらせると、あの大事な指を絶対にどこかで傷つけてしまう―― とりあえずは、野菜に集中しろ、士度・・・・。


士度はシャワーを止めると、バスタオルに手を掛けた。
その時、目の前にあった姿見の中の自分と眼が合った―― 彼は自嘲気味に片方の口角を僅かに上げた。

「・・・・ッとに情けねぇ面
(つら)だな・・・オイ・・・」

その鏡を殴りつけてやりたい衝動に駆られながらも、拳を固く握り締めることによって辛うじてそれを押さえつける。
柄にも無く心の中で誰かに助けを求めている自分が、どうしようもなく腹立たしかった――。




ゆっくりと空に漂いはじめた夕焼けの気配は、二人の心に入る隙間を見つけられないでいた。




  


雨に打たれてシャワーに濡れて・・・・夜の足音はゆっくりと――。

“嵐の夜”以降、士度を濡らすことが好きみたいです・・・;
でも士度の裸を素敵に描写することがなかなかできません・・・・スランプ。