【3】

「・・・・もう!士度さん!!」

寝室で髪を乾かし終え、着替えを済ませてきたマドカは台所に入るなり士度に抗議を始めた。
台所には、新鮮な野菜を切った後の瑞々しい匂いが漂っていた・・・
マドカはキチンと材料別にボールに盛られている食材の数々を手で触って確かめながら、その綺麗な切り口と形に絶句する。

「・・・・全部、切ってしまったんですか?」

自分より明らかに上手であろう、士度のその包丁捌きに多少の嫉妬を感じながら、マドカ少し怒った風に言った。
士度の困っているような気配を、マドカは感じた。

「今日は、私が、士度さんの為に、お料理をするって、言いましたよね!」

それでもマドカはピーラー(皮むき器)を片手に、一言一句強調しながら、士度に迫った。
士度は困惑の表情を浮かべながら、マドカの怒りの波動を避けるように一歩下がる。

「・・・・悪かったって。何か考え事をしながらやってたら・・・いつの間にか全部切っちまってた。
でも、味付けするのはお前だし・・・いいんじゃねぇのか?共同作業ってことで。」

それに俺、お前の指に傷作ってもらいたくないんだよ・・・・そうばつが悪そうに呟く士度の言葉に、マドカはさらなる攻撃の機会を失った。
普段バイオリンを弾く自分の手を大事に思ってくれている士度の気持ちも、もちろん嬉しかったが・・・。
何よりマドカの耳をくすぐったのは、士度がサラリと述べた“共同作業”という言葉。
何気ないその言葉が、マドカの耳にはとても甘く、春めいた色を持って響いた。
何故だか分からなかったが、初々しいトキメキをマドカはそのフレーズに感じてしまっていた。
けれど、どうしてそんな感情が沸き起こってくるのかまるで理解ができなくて、マドカは黙ってその目を瞬かせる。

「・・・・マドカ?・・・そんなに気に入らなかったのか?」

固まったようにして立ち尽くすマドカの様子にただならぬものを感じ、士度が恐る恐る訊いてきた。
その言葉に、マドカはハッと我に還る。

「!!・・・いえ・・・。えっと・・・ありがとうございました。・・・じゃあ・・・あの、やっぱり、“共同作業”でお願いします・・・手伝ってくれますか?」

先程までご機嫌斜めだったマドカが何故急にしおらしくお願いしてきたのかなんて士度には分からなかったが、
とりあえず下手なケンカにならなくて済んだことを、彼は内心単純に喜んだ。

「そ、そうだよな。もう五時過ぎたしな・・・夕飯と一緒にこれからケーキも作るんだろ?
二人でやったほうがきっと早いだろうし・・・じゃあ、俺はこの玉葱でサラダでも・・・」

「!!その玉葱はダメです!」

スライスされたオニオンが大量に盛られたボールに手をかけた士度を、マドカは慌てて制した。

「・・・え?サラダ用じゃないのか?スープにするのか?」

コックに渡されたメモに書いてある分だけ切ったのはいいが、そういえばこの玉葱の量は尋常じゃあないよな・・・士度の顔に疑問符が浮かぶ。

「いいえ。ケーキに使うんです。だから士度さんは先にコンソメスープでも作っていてください。」

「・・・・へ?」

「あ、コンソメは確か・・・木のバスケットの一番下のほうに入っていたと思います。ちゃんとクルトンも持ってきましたし・・・」

「いや、マドカ、玉葱だぞ?」

「はい。玉葱ケーキを作るんです。甘くないから士度さんもきっと食べられますよv」

「・・・・・」

士度は自分の顔が引き攣るのを感じた。
確かに甘いケーキは苦手だが、生で食べても美味しそうなこのキラキラ光る玉葱を、
どうしてわざわざ“ケーキ”にしなければならないのかが士度には理解できなかった。
そして思わずその舌におぞましい食感を想像してしまう。士度は人知れずその口元を押さえた。

「・・・士度さん、今、思いっきり嫌な顔したでしょう?」

マドカの感情がまた斜めになる音を士度は聴いた。白い清楚なワンピースの上に、紺色のエプロンをつけながらマドカは士度の方を睨んでいる。

「!!いや・・・・玉葱でケーキなんて・・・個性的だよなって・・・・とりあえず楽しみだ・・・」

「絶対、美味しいんですから!・・・・一人でつくるのは初めてですけれど・・・ちゃんとコックさんから教わった通りに作ればきっと!」

しどろもどろに答える士度に向かってマドカは語気を強めにそう言うと、
点字のラベルを頼りに棚から砂糖を取り出した。
そしてそれを大匙一杯、大きなボールに入れる。塩も少々、次に強力粉にドライイースト、卵も綺麗な音と共にボールの中を滑っていった。
最後に牛乳が加えられ、マドカはそのボールを鼻歌交じりにかき回す。

そんな彼女の様子をチラチラと伺いながら、士度はスープ用に刻んだ野菜を盛ってあるボールを溜息混じりに手にとって、
さらに隣のボールから玉葱のスライスを少々掠め取った。・・・・お前はケーキの材料になる野菜じゃないと思うんだがな。
以前、マドカにニンジンケーキを食べさせられた。某有名店の限定品とか言われて。
・・・あれは人参に対する冒涜だ―― 甘ったるいだけで人参の“に”の字も士度は感じなかった。
ケーキの中に入っていた人参らしき欠片を、庭の兎に食べさせてみた。“砂糖のカタマリなんか寄越すな・・・”兎は欠片を吐き出した。
ある夜の食後にパンプキン・プティングとかいうものが出された。
南瓜の味がするから、士度さんにもきっと美味しいはず・・・マドカは嬉しそうに言った。
南瓜の味は、確かにした。不自然に洋酒の匂いも混じっていたが、確かに美味い・・・そう思えた。
ただし、そのプティングの上に大量に掛けられた、黒蜜のソースがなければの話だが。
先日マドカが煎茶クッキーを作った。甘さも控え目。食感も上々。クッキーというものも悪くない・・・初めてそう思えた。
それもこれも煎茶に良く合ったからだ。・・・・同じ煎茶だから当たり前か。

・・・・どうして巷の連中は新鮮な野菜の旨みや甘みを、わざわざ形を変えて味を加えて、複雑なものにしてしまうのだろうか?
そのまま食べた方が断然美味いし健康にも良いと俺は思うのだが・・・・。
鍋に入れた野菜の上に水を注ぎながら、士度がボンヤリとそんなことを考えていると、玄関の戸をカリカリと引っ掻く音がした。
愛犬たちが散歩を終えて帰ってきたのだ。鼻をクンクン鳴らしながら、この戸を開けて、と訴えている。

「あ、皆帰ってきたみたいですね。」 「俺が見てくるから、マドカは料理を続けてろ。」 

鍋を火にかけて、士度は玄関へと向かう。
はい、とマドカは愛らしく返事をしながらニンニク片手に卸し金を探していた。

<タダイマ〜!> <トモダチ、デキタ!タノシカッタヨ!> <ミドリ、イッパイ!ココ、スキ!> <オナカヘッタ〜!シド、ナンカ、チョウダイ!>

士度が扉を開けるなりなだれ込んできたレトリバーとボーダーとピレニーズとモーツァルトは、
それぞれ言いたいことをいいながら彼の足元に纏わりつく。士度は愛犬たちに適当に返事をしながら、再び台所へと足を運んだ。
大きな二匹と小さな二匹は尻尾を振りながら彼の後に続いた。

「ドッグフードは晩飯の時にやるから・・・今は・・・・そうだな、このベーコンでも・・・」

「あ、それもダメです!ケーキに使うんですから!!」

ニンニクを卸しながら、マドカは慌てて士度に声を掛ける。

「!?・・・そ、そうか・・・。・・・・じゃあ、お前らとりあえず牛乳でも飲んでろ。」

愛犬達から一斉にブーイングが上がったが、もう士度にはどうしようもない。
今日の料理の主導権はマドカにある・・・騒ぐ四匹を宥めつつ、士度は水で薄めた牛乳をペット用の皿に注いでやった。
そして士度がコトコトと音を立てる鍋に再び注意を向けたその時・・・・

「痛ッ!」

マドカが小さな悲鳴を上げた。士度は慌てて彼女の元へ駆け寄る。
見ると彼女の右手の人差し指から薄っすらと血が滲んでいた。誤って卸し金で自分の指まで擦ってしまったらしい。

「・・・!ホラ、いわんこっちゃねぇ・・・・」 「でも、右手は弓を持つ手ですから、この位はなんとも・・・・!!」

マドカの心臓が飛び跳ねた―― 士度が、まるでそれがあたりまえのように、怪我をした彼女の指先を口に含んだのだ。
そして、舌でゆっくりとその傷口をなぞる―― その柔らかい感触にマドカの背は人知れず震えた。
このほんの数秒の接触が、彼女にはとても長く感じられた。
―― 僅かばかりの出血を舐め終えた士度は彼女の指先をもう一度確認すると、「少し掠っただけだな・・・消毒液と絆創膏はあるか?」
と、安堵の表情混じりにマドカに問い掛ける。マドカは自分の鼓動の変化を悟られまいと、努めてゆっくりと士度に答えた。

「あ・・・二階を上がってすぐの寝室の・・・サイドテーブルの引き出し中に、救急箱が・・・・」

そうか、取ってくる―― 士度は去り際にコンロの火を止めてから、足早に二階へと向かっていった。
彼が階段を上がる足音を聞きながら、マドカはその場にヘタリ・・・と座り込む。
そして鳴り響く胸の鼓動を沈めるように僅かばかり身を屈めた―― 彼は、ときどき本当に唐突に、この激しい鼓動を呼び覚ましてしまう・・・・。
マドカは頬を赤らめながら、再び薄っすらと血が滲み始めた指先を、ソッと自分の口に含んだ。
そして彼の舌の軌跡と感触を思い出しながら、恐る恐る舌で傷口をなぞってみる―― チリッとした痛みがマドカを刺した。
―― たったそれだけの行為が、マドカにはとても淫らなものに感じられた。









「・・・・どう、ですか?」

ベーコンが飾りのようにトッピングされた黄金色のケーキを恐る恐る口に運んで咀嚼する士度の反応を逃すまいと、マドカは感覚を研ぎ澄ます。

「・・・・?・・・・・美味い。」

マドカの顔がパッと華やいだ。
士度はもう一切れフォークで口に運んで、そして不思議そうな顔をしながらも、もう一度「美味い」と呟いた。

「本当ですか!良かった・・・。ね、食わず嫌いはダメでしょう?」

ツヴィーベルクーヘン(玉葱ケーキ)って言って、ドイツのお料理なんですよ・・・
大分前に演奏旅行先で食べたのが美味しかったのを思い出して、これなら士度さんも食べられるかなって、レシピを調べてもらったんです・・・――
―― マドカは心底嬉しそうにして、身を乗り出しながら士度に説明した。

「このワインとも良く合うしな。玉葱がちゃんとケーキに・・・なるんだな。さっきのステーキの味付けといい、お前、また料理の腕をあげたよな・・・・」

士度は自分と同い年のワインを片手に、思ったままのことをサラリと口にしたが、その言葉にマドカはもう有頂天になるしかない。

「士度さんにそう言ってもらえて、とても嬉しいです!私、またお料理が好きになりました・・・!」

今日士度さんが作ってくれたコンソメスープのレシピも、今度ぜひ教えてくださいね・・・
―― そう言いながらマドカはワイングラスを居間のテーブルにそっと置いた。そして、ソファの隣に座る士度の手を取る。

「・・・士度、さん。」 「ん?」 「お誕生日、おめでとうございます」

唐突ではあったが、マドカはとても真摯な表情で祝いの言葉を述べた。
士度の手からも、ワイングラスが離れた。

「あぁ・・・ありがとな。」

―― こんなにも穏やかな誕生日が、自分に訪れるなんて・・・今まで考えたことがなかった。
マドカはいつも俺に・・・・初めての感情をもたらしてくれる―― 今までの俺にとって、“奇跡”にも近い感情を。
そして、俺は―― マドカへのこの狂おしいまでの気持ちをどうしたら良いのか、いつも迷ってばかりだけれど――

―― 愛しい ――

誰よりも、何よりも、マドカが。
この想いは―― 誰にも止められない。


ふと、彼女がその額をコツン、と士度の肩にあてた。
そして祈るように呟いた。

「来年も、こうやってお祝いしましょうね・・・・」

「・・・その前に、お前の誕生日だろ?」

俺がお前に何をしてやれるのかは、分からないけどな―― 士度はマドカの髪に口付けを落としながら小さく言った。

「私が望むことは、唯一つ―― 傍に、いてください・・・・」

「・・・・お前が、そう望むなら。」

―― それに、それは俺の・・・永遠の願い ――


滑るように降りてきた士度の唇を、マドカのそれは自然に受け止めた。
互いを慈しみあう、刹那の優しいキス―― この瞬間の、この気持ちが、永遠に続けばいい ―― 二人の想いは、確かに重なっていた。








コロコロと転がるマドカの声が心地良かった。
腹を満たした愛犬たちは涼しいテラスに寝床を求めて行ってしまった。
今日の料理のレシピを復習しながら、マドカは今後の改善点を一生懸命話していた。
士度の料理に対する見解も聞いてきた。今度は森の天然の材料だけで、“士度さんが喜ぶもの”を作りたい、と夢見るように言った。
明日は晴れるといいですね、そしたら森でピクニックと演奏会を・・・そう言いながらマドカはワインボトルに手を伸ばした。

「・・・・ちょっと待て、マドカ。それ、何杯目だ?」

「え・・・と。四杯目・・・・かな?」

そう言いながらマドカはワイングラスを再び朱に染めた。
その頬には桃色が微かに混じっている。
そして軽くなったワインボトルをテーブルに置き、満たしたばかりのグラスを手に取ろうとしたが、
置いたはずの其処にはしかし何もなく、手が思いがけず空回りしてしまった。
あら・・・・?――酔ったのかしら・・・?―― 小首を傾げながら不思議そうな顔をするマドカの頭上から、士度の静かな声が聞こえてきた。

「・・・・もう、やめておけ、マドカ。これ以上飲むとお前、前後不覚になるだろう?」

士度がマドカにこれ以上飲ませまいと、ワイングラスを下げたのだ。

「え・・・・でも・・・・。楽しいお酒ならそうなっても・・・士度さんがいるところでなら良いって、士度さんがいつもいってるじゃないですか?」

それなのに、今日はどうしてですか・・・?―― マドカは不満そうに訊いてくる。

「今日はお前にそうなってもらっちゃ、“俺が”困るんだよ・・・・」

「・・・・?どうして、ですか・・・・?」

士度の声に困惑が滲み出たことが気になって、マドカは隣に座る士度に更に近づいた。
士度は小さく溜息を吐く。

「・・・・犬達を除いたらこの家・・・お前と俺と・・・・二人っきりなんだぞ。」

士度の顔を覗き込むようにして触れてくるマドカの手を取りながら、士度は抑揚を控え目に言った。

「?知っていますよ・・・私は、嬉しいです。だって、士度さんのこと独り占めできて、こうやって楽しくお誕生日をお祝いできて・・・・」

士度さんは、楽しくないんですか?―― 目の前にいるマドカの疑問はどこまでも無邪気だ。
軽い頭痛が士度を襲う。

「・・・・俺とお前は、男と女で・・・・俺は・・・・お前に・・・・惚れているんだぞ?」

マドカの頤をゆっくりと持ち上げながら、士度は躊躇いがちに呟いた。マドカの見えない瞳が揺れた。
マドカは士度の頬に触れた。
やがて彼女はその両の腕をゆっくりと滑らすと士度の顔を引き寄せるようにして、その首筋にそっと顔を埋めた。
士度の体躯が微かに揺れる。
そして彼女は彼の人の耳元で恥じらいながらも囁く。

「その言葉・・・・とても嬉しい、です・・・・。私も・・・・・士度さんのこと、誰よりも、大好きですから・・・・」

僅かに込めらた、士度が自分を抱く力を、マドカはどうしようもなく愛しく思った――
すると、不意にマドカは士度に押し倒されるようにして、その身をソファに横たえられた。
彼の顔もマドカの首筋に埋められたままで、その表情は見えない―― 「士度・・・・さん・・・・?」

「・・・・マドカ。俺は、お前の事を・・・・大事にしてぇんだ・・・・」

苦しそうに士度の口から吐き出された言葉に、マドカの胸は締め付けられる―― あぁ、この感覚――
あの大樹の下での雨宿りのときに感じた、雨越しの彼の・・・・―― 哀しい心。でも、どうして・・・・・?だって、あなたは――

「―― 士度さんは、いつも私を・・・・とても大切にしてくれてるじゃありませんか・・・・」

―― 私、あなたにこれ以上望むものなんて・・・・・何もないのに・・・・――

士度の喉が小さく鳴った。

「・・・・だから、お前は・・・・今夜は正気を保っていてくれ・・・・そして・・・」

士度はマドカの耳元で、囁いた―― その声は低く、妙にはっきりとマドカの耳に突き刺さり、彼女はビクリと身を揺らして瞠目する。





「―― そして・・・俺のことを、ちゃんと拒絶してくれ・・・・」





空が闇の中で再び泣きはじめる音を、マドカは聴いた。