〜 今の僕らの悩み事 〜

       【2】
 
       「―― 血の匂い?」

       「そうです、ここのところ仕事があった時はいつも、帰ってきた父さんから微かなんですけれど・・・・血の匂いがするんです。」

       「・・・・獣引き連れて奪還屋稼業なんかやってるんだ、動物の血もつくだろーよ。」

       フ―― と煙草の煙を出しながらすかさず蛮がヘヴンの代わりに答えた。

       「・・・・動物の血か、人間の血かなんて、私たちには簡単に分かるんですよ。」

       だってずっと動物たちと一緒に暮らしてきたもの、と琴音は蛮の眼を真っ直ぐに見ながら言う。
       
       「でも、士度クンだったら、血の匂いを残して子供がいる家に帰るなんて真似は―― ッ!・・・何?」

       もう一度、士音の鋭い視線に捕まり、ヘヴンは再び言葉を詰まらす。

       「・・・・そうなんですよ。だから父さん、きっと仕事が終った後、家に帰る前にスポーツクラブか何処かで汗を流してから
       帰宅しているみたいなんです。きっと鼻が利く俺らや母さんを心配させない為に・・・それでも帰ったらすぐにシャワーを浴びてますけど。
       それに俺らだって、父さんの仕事のこと、ちゃんと分かっているつもりです。」

       「・・・・けれど、最近、ほんの少しずつだけど、その、血の残り香が強くなっているのに私たちは気がついたの。
        まだママには分からないくらいだけれど…」
 
       士音と琴音が立て続けに喋り始めた。

       「だから、俺たち考えたんです―― 父さん、今とても危険な仕事をしているんじゃないかって。」

       笑師がチラリ、とヘヴンの方を窺った。その顔には先ほどまで張り付いていた笑みはない。

       士音はヘヴンから眼を逸らさない― しかしヘヴンもその眼をジッと見つめ返しながら、
       先ほどまで気圧されていたのが嘘のような静かな声で答えた。

       「あなたたちのパパには―― 特別危険な仕事についてもらっているということは、今のところないわ。」

       まぁ、世間一般からいったら“危険”な仕事だろうけれど、彼にとってみれば“普通”よ、とヘヴンは付け加える。
       最近はそんな仕事ばかりよ、実際・・・・と卑弥呼も言葉を重ねる。
       
       「ほら、良かったじゃない〜士音くん、琴音ちゃん!きっと気のせいだよ!!」

       銀次が睨み合う士音とヘヴンの間に入るようにして、努めて明るく言った。

       「―― じゃあ・・・」
 
       しかし、そんな銀次の声を無視して士音が挑むように続ける。

       「・・・特別危険な人と、いつも組んで仕事をしているとか?」

       「―――!!」

       大人たちの間で緊張が走った。確か、最近、士度が仕事をする際に組んでいる相手は――。

       「たとえば、赤屍さん、とか。」

       俯き、カップの取っ手をなぞりながら、琴音がポツリと呟いた。

       <・・・・・何で、この子供(ガキ)どもはこんな余計なことに頭がまわるんだよ。>

       そう蛮が苦々しく思ったことと似たような事が、他の常連客たちの心にも過ぎった。
       
       確かに―― ドクター・ジャッカルこと赤屍蔵人は、人を殺めることを厭わない。むしろ好んで――。
       一方は、士度は人を殺めることを敢えて、しない。
       愛する者を、守るべき者たちを得てからの士度は、そう、だ。
       しかし、その本質は―― 士度の内の奥底には冷酷さと非情さが静かに横たわっている。
        ― それは王たる者が誰もが潜在的に持っているもの ―
       そしてそれは魔里人の、強いては魔里人と鬼里人の長となるべく運命と資質を備えた彼もまた例外ではない。
       それを赤屍も敏感に感じ取り、口には出さずとも認めているからこそ、
       “人を殺めない”ビースト・マスターと組むことに一度も苦言を呈したことがないのだ。

       そして士度も・・・彼は一奪還屋として赤屍とビジネスライクな付き合いをする。
       ようするに、仕事の上では個人的な好き嫌いを全く表に出さない。
       彼のその仕事に対する姿勢は、蛮や銀次のソレよりも、むしろ赤屍や卑弥呼に近い。
       故に、ヘヴンが士度に仕事を依頼する上で、蛮や銀次と違って、
       他の者たちのとの組み合わせに頭を悩ますことなどあまりないのだが・・・。
       
       ―― よもや、こんな所で横槍が入るとは思わなかった。
       よりにもよって、彼、のまだ年端も行かない子供たちから――。
       
       確かに― いくら底辺に非情さを持ち合わせているとはいっても、目の前で殺される必要が無い人間を数多見殺しにするほど、
       士度の情も薄くは無い。赤屍に殺される人間を減らすため―言い換えれば赤屍に極力殺しをさせないようにするためには、
       自分が動いて彼より多くの敵を倒していけばいい―― 。赤屍と組む輩は誰もがそう思い、それを出来る限り実行に移す。
       士度もまた然り。―― しかし、そうすることは、より近くで、より多くの敵の“返り血”を浴びる必要があるのも事実だ。

       以前、士度がヘヴンに、“血の匂いは― 持って帰りたくない”と一度漏らしたことがある。
       それは、“返り血”を浴びることへの嫌悪ではなく、他人の血の匂いを、自らの負の一面を、家族に覚られるのを避けるため――。
       長い付き合いの彼、の表情からヘヴンはそのとき、その気持ちを読み取った。
       
       ― 単なる、自己満足さ。 ―

       そう、寂しげに微笑んだ彼は、あぁ、その妻や子供たちに、こんな表情をさせたくないから―
       ― 今の士音や琴音の顔に浮かんでいる、父親の身を案じるがあまり怒りと悲しみと不安が綯い交ぜになったような、そんな表情を。
       それでも、特に最近は立て続けに赤屍と組んでもらうことが多かったから― 士度自身もそれに対して何も言わなかったから・・・。
       
       ―― 迂闊だったわ・・・。

       そう、ヘヴンが思った矢先、彼女は初めて士音の怒鳴り声を聞いた――。

       
       「――ッ!やっぱりそうなんだな!何であんたたちは黙ってるんだよ!!何でうちの父さんばかりそんな奴と――グッ!!」

       士音の叫びが途中で不自然に途切れる。

       「あかんでぇ〜、士音くん♪」

       笑師がいつの間にかカウンターの内側に入り、身を乗り出しながら、
       言葉を発している最中の士音の頬を横にビローン〜と引き伸ばしたのだ。

       「!何するんですか!笑師さん!!」

       士音ちゃんを放して!!と、笑師の手から逃れようと暴れる士音の代わりとばかりに、琴音が叫んだ。

       「・・・しかしホンマ、あかんでぇ、お二人さん。君らが今からこんな事で、こんな顔しよると、親父さん悲しみまっせ。」

       だから、ほら、笑わなあかんて♪と、笑師は士音の頬をそのまま上に引っ張った。
       この子たちにはまだ、彼らの父親たちのように裏世界で働く人間たちの心底なぞは分かるまい― しかし。
       子供特有の感受性の強さで、その表面的な危険を感じ取っているのだろう― でもそれは、齢10のこの双子たちには早すぎる。
       もっと簡単なことで笑って、泣いて―― 普通の子供であって欲しい・・・。
       痛いって!笑師さん!!―と、士音が身を捩ることで笑師を振り切り、
       「でもよ!―」とさらに言い募ろうとした、その時・・・・

       「士音くん。」

       波児の静かな声に、士音の言葉は遮られた。

       「―― 君たちのお父さんには、お父さんなりの事情ってものがあるんだよ・・・士音くんや琴音ちゃんにはまだ理解できないような―」

       波児は士音にココアのお代わりを、サービスだよ、と差し出した。

       「・・・・だって、パパ、お仕事のお話全然してくれないんだもの。
        それに、お仕事から帰ったとき、時々怪我をしていなくても、何だか少し痛そうなんだもの・・・だから・・・」

       琴音は半分、ベソをかいている。

       「自分たちの父親の心配をして何がいけないんだよ!」と、士音は波児をも睨んだ。

       「・・・・よーするにだ、大人の仕事に口出すなって話だよ。」

       オメーの親父だってきっとそう言うだろうよ、と蛮が士音の頭をグリグリと撫でながら言った。
       士音は嫌そうにその手を払いながらも、蛮の言葉に考えさせられているようだ。
       
       「オメーらが何を言ったて、ヘヴンはオメーらの親父に楽な仕事を振るわけでもねーし、
        オメーらの親父が今の仕事をやめるわけでもねーし。そんくらいお前らにもわかってるんだろ?」

       オメェたちにはまだ早すぎる話なんだよ、とグラサンの奥でウィンクをしながら蛮は言った。
       彼の眼に映る士音に、士度の姿が重なる。
       アイツは― 士度は俺たちと同じ疼きと渇望を持ち、それと葛藤しながら生きている― そういう種類の人間だ。
       ただ― 奴には守るべきものが、多過ぎる・・・。その分、俺らが持ち得ない安らぎと、そしてそれと同じくらいの悩みもあるのだろう・・・。
       
       「あんたたちのお父さんだって、あんたたちにこんな心配をさせたくないから、何も言わないんじゃないの?」

       だったら、子供は知らないフリをしているのが、賢明よ― あんたたちには、まだ分からないかもしれないけれど。
       と、卑弥呼はその言葉とは裏腹に、優しい眼差しで琴音の方を見た。
       琴音は少し不思議そうな表情で、卑弥呼の顔を見つめてきた。
 
       「それに、きっと―― ]

       銀次がポンッと士音と琴音の両肩を叩いた。

       「士度だって、いつか話してくれるし、君たちもにもいつか分かると思うよ、士度の気持ち。」

       だから、ほら、笑ってよ!と銀次は背後から二人を抱きしめた。
       彼らの父親の顔を思い浮かべながら、彼とこの子らの幸せを願いながら―。
       士音と琴音の瞳が、揺れている―― 大人たちの言葉を頭の中で反芻しながら、どうしたらよいのか戸惑っているようだ。
      
       「・・・・大丈夫よ!君たちのパパはこいつ等よりも器用に仕事こなしてるから、君たちが思っているよりも全然――何?琴音ちゃん?」

       ヘヴンがそう言いながら双子に頬擦りをすると、琴音がクン、と、彼女の匂いを嗅ぐような仕草をしたのだ。
       士音も少し怪訝そうな顔をする。
       蛮と銀次の抗議の声は、ヘヴンには届いていない。

       「ヘヴンさん、この石鹸の匂い・・・」

       先ほどまでは話に夢中で気が付かなかったが、
       ヘヴンがつけている香水の香りを縫うようにして、ほんの僅かだが双子の鼻をくすぐった、独特のハーブの香り・・・。

       「・・・・この間、一度だけ、パパの身体からした香りだわ。」

       「なッ!!」

       (((((((なんですと〜〜!!!))))))
        
       
       卑弥呼は思わず珈琲を気管に流し込んでしまい、大いに咽た。
       笑師と銀次は手を取り合って石化している。
       琴音のお代わりを作っていたレナの手からはメープルシロップが垂れ流し状態、
       夏実に切られていたチーズケーキの形は無残なものとなり、
       波児は新聞に煙草の灰を落として慌てていた。

       「オメェら・・・やっぱり・・・・」
       
       蛮の声に、思考回路が一時真っ白になっていたヘヴンが我に還る。
       一同の呆然唖然とした視線を一身に浴びながら、彼女の身体を嫌な汗が伝った・・・。
       
       

 


      ヘヴン、受難・・・。