【2】
「!士度さん、お帰りなさい!」
あら、卑弥呼さんもヘヴンさんもご一緒なんですか、こんにちは・・・
と庭先で士度の帰りに気がついた彼の妻であるマドカは、突然の訪問者に対してもにこやかに挨拶をした。
今日の彼女は上品な萌黄色のスーツを着ている。程よい化粧も、しかしどこか余所行き風だ。
「時間通りですね、良かった・・・。後一時間程であの子達の授業が始まりますから、
お疲れのところ悪いんですけれど士度さんも早く着替えて・・・・」
「「!?」」
その言葉を聞いて、ヘヴンと卑弥呼が虚を衝かれたような顔をした。
スーツももう用意してありますから・・・と彼の手を取ろうとしたマドカから、士度は慌てて一歩下がる。
「―?士度、さん?」
士度の外見の変化などもちろん感知しないマドカは、夫の行動の意味がわからず不思議そうな顔をした。
「あの・・・な、マドカ・・・実は・・・」
そう言い淀む士度に助け舟を出すように、マドカの傍らに居るジャーマン・シェパードの盲導犬が突然口を挟んだ。
<士度は今日、行けないみたいだ、マドカ。>
<? どういうこと、シベリウス?>
「あの、マドカさん・・・実は・・・・」
顔から疑問符が抜けないマドカに対して罪悪感を感じ、卑弥呼が事の成り行きを説明した――。
あらあらまあまあ・・・そんな顔をしてマドカは卑弥呼の話を聞いていた。
「――― という訳なの・・・。よりにもよって今日、父兄参観があっただなんて・・・・。本当にごめんなさい・・・・。」
そう深々と頭を下げる卑弥呼に、あまり気になさらないで下さい・・・・とマドカは穏やかに言った。
「・・・参観日は来学期もまたありますし、あの子たちもきっとわかってくれます。それに明日になったら元に戻るんですよね?
私や子供たちがいますから、一日や二日、彼の両手が不自由でも何も問題ないわ、卑弥呼さん・・・・」
でも、虎さんになっても士度さんは士度さんなんですね、全然判らなかったわ・・・・マドカはそう言いながら微笑むと、
スッと士度の腕に自分の細い腕を絡めた。
士度はその長く伸びてしまっている爪が彼女の肌や服を傷つけないよう気をつけている。
「おい・・・」
士度は俯いている卑弥呼に声を掛けた。
「さっきも言ったろ?不可抗力だ。気にするな。」
明日また寄ってくれ、そう言いながら踵を返し、彼は玄関へと向かった。
それでは、失礼しますね、・・・・マドカもペコリと頭を下げて、士度に続いた。
シベリウス、と呼ばれた盲導犬は歩調を主に合わせながらも、チラリ、とヘヴンと卑弥呼を一瞥すると、
フン、と鼻を鳴らしてすぐにまたソッポを向いた。
「「・・・・・」」
じゃあ、また・・・・と二人を見送ったヘヴンと卑弥呼は、互いの顔を見合わせると思わず大きな溜息を吐く。
「相変わらず動じない子ね・・・・」
「・・・・これで明日ビーストマスターが元に戻らなければ、あの双子に何を言われるか分かったもんじゃないわ。」
それにしても何よ、あの犬!私睨まれたわよ・・・・卑弥呼はシベリウスの態度が癇に障ったようだ。
「モーツァルトってワンちゃんはもう歳だから、あれが彼女の二代目の盲導犬よ。一代目と違って、
士度クンとマドカちゃん以外の人間にはまるで愛想がないのがたまに傷だけど・・・・」
士度クンがチョイスしたみたいだから結構優秀みたいよ・・・と苦笑いしながら卑弥呼の肩をポンッと叩く。
「さて、材料を取りにとりあえず戻ろっか?」
そうね・・・と卑弥呼もヘヴンのポルシェに乗り込んだ。
旧音羽邸、現冬木邸の庭からハーブの香りがした―― 明日私も寄ろうかな、と言いながら、ヘヴンはアクセルを吹かせた。
「―― 今日はポカポカと良い日和ですからお昼寝にはもってこいですよ。
士度さんはゆっくりしていて下さいね。士音と琴音の授業が終ったらすぐに戻ってきますから。
汗を流すのも帰ってからになって申し訳ないんですけれど手伝いますし、御飯を食べるのも・・・・。
あ、何だか楽しみですv士度さんにアーンって、できるなんて♪木佐さんに栄養ドリンクを頼んでおきましたから、ストローでなら飲めますよね。」
今の時間この屋敷で一番日当たりが良い書斎にあるカウチソファを整えながらマドカはそう言うと、
それでは行って来ます・・・・最後にキュッと士度に抱きついた。
いつもなら彼女のなだらかな肩や細い腰に回す士度の腕は、手持ち無沙汰に宙に浮いている。
「・・・・もどかしいな。」
ポツリ、と士度が呟いた。何がですか?と妻が訊ねている。
「その、何だ・・・。いつものようにお前を抱きしめられない、ことが・・・・。」
こーゆーことを言うのは柄じゃねぇけどよ・・・と士度は少し照れているようだ。
キンッ・・・と擦り合った彼の爪の音がマドカの耳に届いた。
綺麗な音ですね・・・そうマドカは微笑むと、クイッと彼のアスコットタイを軽く引っ張った。
それにつられるように士度の顔はマドカの元に降りてくる。
そしてマドカはフワリと触れるだけのキスを士度の唇に落とした。
「明日は今日の分まで沢山抱きしめてくださいね・・・・」
そして彼のタイを外し、シャツの襟元を寛げてやると、もう一度その頬へキスを・・・・。
行って来ます・・・彼の頬を両手で優しく包むようにしながらマドカはもう一度言った。
士度も、あぁ・・・と短く返事をしながらその柔らかな頬に口付けを落とす。
そして足元にいるシベリウスに、頼んだぞ、と声をかけた。
<まかせろ。>
尻尾を振りながら凛々しい愛犬は答える。
なるべく早く帰りますから!
そんな言葉を残してマドカは書斎から出て行った。
そして士度は一人書斎に残される――― 全てを切り裂くこの爪だ・・・何も持てない、触れない。
百獣の王より強いと言われている猛獣の擬態も、戦いの中ではともかく、実生活ではまるで役に立たない。
卑弥呼にかけてもらったサングラスも外す気にはなれなかった。
猫の目の桿体細胞― いわゆる光を感知する細胞は人間の六倍から八倍・・・・昼時前のこの明るい日差しの中、
色眼鏡を外してしまえばきっと、とんでもない量の光がこの眼に飛び込んでくるに違いない。
慣れない身体にそれは酷だ。
―― 慣れない、か・・・・。
百ある擬態をほとんど使いこなすことができる士度だが、一つの擬態を戦闘の時に使うのは長くてもせいぜい十数分。
それ以上の時間を擬態のままでいることが、こんなに疲れることだとは思わなかった。
これは是が非でも明日には元に戻ってもらわねば・・・・そして子供たちに今日の埋め合わせをしなくては。
あいつ等、きっと、怒るんだろうな―― 特に琴音は楽しみにしていたみたいだから。
そんなことを思いながら、士度は書斎の窓際にある、ウェーブウッドの背凭れが美しいカウチソファに身を横たえた。
僅かに開いている窓から入ってくるそよ風と、穏やかな日差しが心地良い。
そして―― 妙に眠い。
猫科の動物だからだろうか、と士度は思った。
寝心地が良いソファ、優しい風、丁度良い陽の光・・・・確かに昼寝にはもってこいだ。
猫にとっては天国だろう―― おそらく虎にとっても。
鋭く長い爪に注意を払いながら、士度は手を腹部の上で組んだ。
そして緩やかなまどろみに身を委ねる――。
僅かに開いた扉をノックして、執事がドリンクを持ってきたことを告げた。
―― 返事がない。
隙間から覗いてみると、この家の主はサングラスを掛けたままカウチソファで惰眠を貪っていた。
マドカ嬢の夫となった彼がこの屋敷に身を置いてから十数年、執事は彼のこのような無防備な姿を今日、初めて見た。
執事が部屋に入っても起きる気配がまるで無い。穏やかな寝息が室内に響いている。
コトリ、とサイドテーブルに、長いストローを挿した特製の栄養ドリンクを置いても変化無し。
先ほどエントランスで簡単に説明を受けた長い爪は、本当によく切れそうだ。
不思議なご主人―― しかしこれだけは事実だ・・・・彼は家族に愛されている。
庭にいる動物たちからも、そして我々使用人達からも。
彼は初めて見た主の寝姿にスッと一礼をすると、静かに書斎から出て行った。
部屋に熱が籠もらぬよう、その扉を僅かに開けたまま。
虎、我が家へ帰る・・・。
オリキャラになりますけれど、
執事の木佐さんは実は管理人の密かなお気に入りです。