【3】
<マドカ、マドカ!ドウシテ、シドノコト、タタイタノ?ネェ、マドカッタラ!>
マドカは足元で困惑しているモーツァルトの問いに答えず、無言でベッドに身を投げた。
そして枕を握り締め、顔を埋める。
―― 嬉しかったのに・・・とてもとても嬉しかったのに・・・彼が私のことを信じてくれて、
あんな記事を読んでも動揺一つしないで戻ってきてくれて・・
彼に支えられてる・・・守られてるって思えたのに・・・・
「・・・私の気持ち、全然分かってくれてないじゃない・・・」
マドカはその細くしなやかな指が白くなるくらい、枕を握る手に力を入れた。
―― 俺の存在がお前の迷惑になるようだったら ――
(そんなこと、ありえないのに・・・どうしてそんなことを言うの・・・?)
―― 俺はちゃんとこの屋敷を出て ――
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になって、今までにないくらい彼に腹が立って、悲しくて、切なくて・・・・
(あ・・・)
マドカは右手がしくしくと痺れて痛むのを今更ながらに感じた。
(・・・痛い。)
マドカは痛む右手を胸元に引き寄せた。
生まれて初めて−−力の限り人を叩いた。
しかも、誰よりも大好きな彼を。いつも自分を惜しみなく守ってくれる、優しい存在を。
士度さん・・・痛かったかな・・・吃驚したかな・・・理由も言わずいきなり叩くなんて・・・子供みたいだって呆れちゃったかな・・・・。
(あれは−−彼なりの優しさだって・・・不器用な彼が、うろたえる私を想って言った言葉だって、私はちゃんと分かっていたはずのに・・・)
それでも・・・気がついたら怒りにまかせて彼の頬を叩いていた。
そして今でも、心の中で“どうして?”が消えない。
どうして、そんなことを言うの?どうしてそんなことが言えるの・・・?
あなたの心の片隅にはもしかして、ここから距離をおきたいという願望があるの?
私と会えなくなっても・・・平気なの・・・?
「痛い・・・よ、士度・・・さん・・・」
想いを口にしたとたん、涙が頬を伝った。
「士度、さん・・・・痛い・・・・」
助けを求めるようにマドカは呟き、少し赤くなった右手で口元を覆った。
とめどなく溢れる涙をそのままに、マドカは広い寝室で一人泣き続けた。
ベッドの下からモーツァルトが心配そうな声をだしても、窓辺から小鳥達が“ドウシタノ?ドウシテナクノ?”と声をかけても、
マドカの華奢な身体は震えたまま。そして彼女はしばらくの間枕から顔を上げようとしなかった。
パーン・・・
微かな火薬の臭いと、大量の紙ふぶきが士度を出迎えた。
「めでたいな!猿マワシ!!これでオメーも晴れて俺ら“宿無し”の仲間入りだな!!先輩としていろいろと教えてやるぜ!!」
「ちょっと!蛮ちゃん・・・・そんなこと言ったら悪いよ!あの記事だって本当のことかどうか分からないじゃない!?」
クラッカーを鳴らしながら自分の前を飛び回る蛮を叩き伏せる気力も、銀次に事の成り行きを話す力も士度にはもはや無かった。
「士度さん・・・!どうしたの?ずぶ濡れじゃない!?」
珍しくHONKY TONKを訪れていたレンが花月と共に席を立ち、慌てて駆け寄って来た。
「レン、来てたのか・・・花月も、久し振りだな。」
何でもねぇんだ・・・士度はそう呟きながら手を振ると、マスター、シャワー貸してくんねぇか?と波児に向かって力無く言った。
もちろん、いいけど・・・どーしたんだい・・・?−−そう言いながら波児はプライベートルームに繋がる扉を開けて士度を招いた。
あと、後でブレンドな・・・波児の問いには答えず、士度はすれ違いざまにそう言うと、
ここへ来る途中で調達してきた着替えが入った紙袋片手に濡れ鼠のままカウンター裏へと消えていった。
「・・・士度、なんだか元気ないですよね・・・?やっぱりあの記事のせいでしょうか?」
それだけではないと思うんですけど・・・?−−そんな表情をしながら花月の視線は、士度と一緒に入ってきたヘヴンに向けられる。
「う・・・ん・・・まぁ、あの記事はやっぱり出鱈目だったみたいだけど・・・・」
あ゛〜面倒くさい!!--そんなことを言いながらも口を開いたヘヴンに、一同の視線が集中した。
・・・クスン。
あれからどのくらい経ったのだろう。
いい加減泣き疲れてしまった・・・そしてマドカは、結局は自分の事が載った記事と、自分の一方的な感情の高揚のせいで、
士度を煩わせてしまったことがどうしようもなく恥ずかしく思えてきた。
(とにかく、ちゃんと謝らなきゃ・・・。そして記事のこともキチンと説明して・・・)
小鳥たちに聞いてみたところ、やはり士度はあの後外出してしまったらしい。
ハンカチで涙を拭きながら、マドカは携帯電話を手に取った。ピ・・・とボタンを押すと、
“アドレス帳です”と、無機質な機械音声が。
そして二度ほどボタンを押すと、“冬木士度さんの電話番号です”・・・マドカは意を決して通話ボタンを押した。
今、彼の声を聞いてしまったらきっとまた熱いものが込み上げてくることを覚悟しながら。
しかし−−
<−−おかけになった電話番号は只今電波が届かないところにいるか、電源が入っていない為、かかりません・・・>
別の機械音声が、不安を煽るようなことをマドカに伝えてきた。
それから何回リダイヤルしても、同じ機械音声が聞こえてくるばかり。
(そんな・・・だって、外出するときはいつも携帯の電源をONにしているって、士度さん前に・・・)
たまたま偶然電源を入れ忘れているのか、それとも・・・
(私の声が聞きたくないほど、怒っているの・・・?)
―― 泣くなよ ――
朝日が差し込むエントランスで、士度が言った言葉が頭の中に響いた。
(・・・無理、です・・・士度さん・・・)
―― 涙って、枯れることを知らないものなのね・・・
携帯電話を片手に、マドカは不安と哀しみに押し潰されてどうにかなってしまいそうだった。
再び枕を濡らし始めたご主人を、モーツァルトはベッドの下でオロオロしながら見守ることしかできなかった。
士度は結構案外無頓着に携帯電話を使ってそうなので・・・。
きっと仕事関係とマドカの電話番号しかアドレスに入っていないんでしょうね・・・。