【5】
仲介屋につきあってもらった機種変更とやらに、やたら時間がかかってしまった。
通りすがりの公園の時計をみると、昼の時間はもうとっくに過ぎている。
(とりあえず・・・戻ってマドカに謝ろう・・・。)
あの雑誌の記事を読んだとき――マドカを疑うような気持ちは湧いてこなかった。
ただ少し・・・・ほんの少し、自分に自信がなくなっただけだ。
――俺は・・・・マドカと音楽のことを話せるわけでもねぇし、ロマンチックなデートとやらを演出できるわけでもねぇ・・・。
そんな子供じみたやるせなさが、士度の心に一瞬巣食っていたのは確かだ。
マドカはそんなことを気にしたりしない・・・・ありのままの自分を受け入れてくれている――自分たちにとってそんな当たり前の事が、
何故だか頭からすっぽりと抜けてしまっていたのだ。
マドカにしたってそうだったのだろう・・・あの狼狽えようといったら――たった2〜3ページの記事に、お互いすっかり踊らされちまったな・・・。
それに・・・・マドカに渾身の力で叩かれたとき――か弱い乙女の平手打ち、自分の頬はちっとも痛くなかった。痛かったのはむしろ・・・・
音羽邸が見えてきた。門の前で眼鏡をかけたメイドが一人ウロウロしている・・・・彼女は士度を見つけるなり、一足飛びに駆けてきた。
「・・・よお。マドカ、まだ怒っているのか・・・?」
事の一部始終を音羽邸の使用人たちに見られていたのも事実。
士度は気恥ずかしくなって照れ隠し半分に今一番重要なことを聞いてみた。
しかし、メイドは士度の思惑など全く頓着していないようだった。
「士度様!よかった・・・お戻りになられたんですね!お嬢様が士度様の携帯に何度お電話しても、
お出にならないのでそれはそれは心配されて・・・ご昼食も召し上がらないで朝からお部屋に閉じ篭ってずっとお泣きになって・・・
あ、士度様!!」
メイドの言葉を最後まで聞かずに、士度は門をくぐりエントランスを走りぬけ、二階の階段を駆け上がった。
「――マドカ!!」
バタンッ!!と勢いよく彼女の自室を空けると、白い大きな枕を握り締めてベッドに座っていたマドカがビクリッ・・・と大きく肩を揺らした。
そしてその面を慌てて枕に伏せ、その細い肩を再び小さく震わせた。
士度は持っていた紙袋を放り出すと、<マドカガ、タイヘンダヨ!>と士度の足元を纏わりつくモーツァルトに生返事をしながら、
彼女が座るベッドに駆け寄り、マドカのすぐ隣に腰掛けた。
「マドカ・・・俺が悪かった。弱気なこと言っちまって、お前の事、不安にさせちまったんだよな・・・。
もう二度とあんなこと言わねぇから・・・・頼む、顔を上げてくれ。」
士度の必死な言葉に、マドカは小さく頭を振る。
――とうとう嫌われたか・・・
・・・マドカのそんな態度に士度が途方に暮れかけたとき、小さな声が彼の耳に入ってきた。
「私・・・ずっと泣いていたから・・・今、きっと酷い顔してます・・・・見られたくない、です・・・」
―なんだ、そんなことか・・・
しかし、こんな状況でも見てくれのことを気にするなんて、女って難しい生き物だな・・・・。
――そう思いつつも、士度は内心安堵の溜息を吐きながらマドカの様子を窺った。
「別にかまわねぇよ・・・ほら、顔上げてくれよ・・・枕はもういいだろ?」
「イヤァ・・・!」
士度は嫌がるマドカから半ば強引に枕をとりあげると、それでも尚両手で顔を隠そうとするマドカの両手首をシーツに縫いつけ、
トサリ・・・とマドカの身体をベッドに倒した。
仰向けに倒されたマドカに覆いかぶさるようにして、士度がその涙顔を覗き込んでくる。
マドカはそれでも顔を見られまいと、片頬をシーツに押し付けた。
「・・・お前、目の周りが少し腫れてるぞ?眼も兎みたいに真っ赤だし・・・・何でこんなに泣く必要があったんだ・・・?」
「〜〜!!」
彼女の両手首から手を離し、代わりに彼女の両頬にそっと触れながら発した士度の愚鈍な言葉に、マドカは一瞬絶句する。
しかし、すぐにキッとその漆黒の瞳で士度を睨みつけた。
「士度さんが・・・『出て行く』なんて言うから!!」
ピシャリ・・・と言われ、士度は一瞬怯んだような表情をしたが、すぐに「・・・悪かった。」と呟き、彼女の腫れた目元にキスを落とした。
彼の唐突な行動に、マドカの瞳が見開かれる。
「・・・携帯に何度も電話したのに・・・出てくれなかったし・・・!」
それでもマドカは語気を緩めず言い募る。
「それは・・・川に落ちた子供を・・・いや・・・悪かった。」
言い訳をやめて謝罪の言葉を述べる士度の真摯な声に、マドカの声の力が弱まってくる。
「自分のこと・・・『迷惑になったら』とか言ったり・・・・そんなことありえないのに・・・・」
「それも、もう言わねぇ・・・・悪かった。」
乱れたマドカの髪を、士度の長い指が優しく梳いた。
「
マドカの声が震え、涙声に変わった。
「そんなことは・・・ない。俺は此処に居たい・・・。
マドカの耳元ではっきりと紡がれた士度の凛々しい声に誘われるように、マドカの瞳から雫が零れた。
「士度さんがいなくなるなんて、嫌・・・・」
普段は聞くことがない幼子のような言葉が、マドカの震える唇から漏れた。
「いなくならない。・・・・そんなことも、もう言わない。」
マドカの少し紅のさした頬に流れる涙を掬い取りながら、士度はそっとマドカを抱き起こした。
自分の迂闊な一言、二言で、マドカの心がこんなにも押し潰されてしまうなんて思ってもみなかったことだ。
そしてその涙の原因である自分自身をどうしようもなく歯痒く感じた。
「傍に・・・いて・・・」
士度の首筋にしがみつきながら、クスン・・・と掠れるような小さな声でマドカは言う。
「傍にいる。出ていかねぇし、離れているときも・・・・俺の心はいつもお前の隣にいるから・・・・」
だから、もう泣くなよ・・・・
そう言いながら士度はあやすようにポンポンッ・・・とマドカ背中を叩いた後、彼女の痩躯を強く抱きしめた。
「マドカッ――お前がいないと、俺はもう・・・・」
途中で切られた彼の言葉を、マドカは最後まで聞く必要がなかった。
自分も彼と同じ想いを胸に抱いているから。
ただただきつく抱きしめあうだけで、彼の気持ちが流れ込んできたから・・・・。
「・・・・ッ――叩いてしまって、ごめんなさい・・・っ!」
士度の首筋に顔を埋め、堰を切ったように泣きじゃくるマドカを慰めるのに、その痩躯を抱く術しか士度は知らなかった。
それでも――今はそれで十分だと、彼女の温もりが士度に伝えてきた。
そう――痛かったのは・・・・
――彼の頬を叩いた右手でも
――彼女に叩かれた頬でもなく・・・・
――互いの心が、どうしようもなく泣いていたんだ・・・・
小さな火種に不安を覚え、
“別れ”という可能性にどうしようもない恐怖を感じ、
彼の、彼女の存在を
――愛しく想うばかりに。
モーツァルトが<ナカナオリシタ?>とベッドの端から顔を覗かせてきた。
士度に縋りつくマドカを抱きながら彼女の愛犬に向けた士度の表情に、モーツァルトは尻尾を振った。