第五章

-das Traumorakel-





細く鋭くく鳴きながら、一羽の隼が高い空に弧を描く。
広く豪奢な庭園の噴水の前で、一人の青年がその太陽の中を舞う使いを見上げながら眩しそうに眼を細めた。
洗練された貴族の装いにノーブルレッドの重厚なマントを羽織った彼は女性かと見まがうばかりの、崇美でいて柔らかな面立ちをしていた――その人は長く美しい指を天に掲げると、その鳥を誘うようにゆらりと動かす。
肩先で少し跳ね上がっている、それでも真っ直ぐで眩い光沢を放つ亜麻色の髪が、どこかで
レイピアがかち合う鋭い音を運ぶ午後の風に優しく揺れた。
王室お抱えの鷹匠が慌てて彼のもとへと飛んできたが、その人は緩く手を挙げそれを制した。


「よい、余が自ら迎える」


アレは余と、余の友の鳥だ――


隼は慣れたようにその人の左肩に止まると――同じく慣れたように右足を軽く上げた。
蝋で封印された小さな筒が、凛々しい隼の骨ばった脚についている。
彼はその労を労うかのように隼の頭を掻いてやると、空の配達人から筒を受け取った――そしてその秀麗な貌は、蝋に押されてある紋章を見て思わず相好を崩す。

庭の向こうで誰かの呻き声と同時に、キンッ・・・・と剣が高く跳ぶ音、そして感嘆の声が木霊した。
そして続く、数多の拍手の音。
しかし、彼はそんな喧騒には興味を示さず、隼を鷹匠に預けると急いで封を切りながらの 四阿(あずまや)大理石の椅子に腰を下ろすと、その手紙の几帳面な筆跡に柔らかい微笑を湛えながら眼を走らせた――


すると庭の奥から一人の女性が姿を現す――怜悧な美しさを醸し出す涼やかなブルーの瞳が印象的なその女性が纏うものはしかし、ドレスではなく、シルクの白いシャツと、裾が長く絞られた黒いキュロット――太陽と同じ色をした豊かなブロンドが揺れ、彼女は侍女に手に持っていた剣を預けた。


「国王陛下はご機嫌麗しく――」


少し皮肉げな優美な声が楽しげに手紙を読んでいたかの人の耳に届いた。

国王――そう呼ばれた彼はお付の者に下がるように目配せすると、そのまま自分の背後から抱きついてくるその女性に眼を細めた。


「私の剣の稽古よりも、こんな固いお手紙の方をお楽しみなのですか――?」


君が勝つことは分かっていたからな――雅なイントネーションの方言が彼の口から飛び出し、女は思わず頬を緩めた。

何方(どなた)から・・・・?――彼女は彼を優しく見やりながら手紙の方へと首を伸ばす。


「ヴォルフィーからや・・・・探し物が見つかったらしい・・・・」

あらあら・・・・――女は大げさに驚いた素振りを見せると彼から身を離し、彼の向かいにある大理石の椅子に腰を下ろすと、国王を詰問するようにその長い脚を組んだ。

「貴方の従兄弟にして最愛の友であるヴォルフガング・S・v・ヴィンターバウム公爵のご婚約者殿は・・・・今はどちらにいらっしゃるのかしら?」


「――奪還屋の船やそうな・・・・えらいめに合わされたらしいで・・・・?」


「あら・・・GBの船?」

――その“えらいめ”というのも・・・・大方想像がつくわ・・・・


女は四阿の天井を見ながら呟いた。


「いいや、それがビーストマスターの船にいてはると・・・・ここには書いてあるんや。」


国王の笑いを含んだその言葉に、女は“あらまぁ”と眼を丸くする。そして――大丈夫かしら・・・?――と、やはり笑いを噛み殺すような声を出した。

――何が?

「いや、ね・・・・ヴィンターバウム公と違ってビーストマスターは・・・“女に手が早い”という噂をかねがね・・・・」

もし、ご婚約者殿がヴィンターバウム公にお会いする前にビーストマスターに恋焦がれてしまったら・・・・いったいどうなるのでしょうね・・・・?――


女は悪戯っ子のように彼の顔を覗き込んできた――彼女の言葉を聞いた途端、彼の眼がキラリと光り、美しい冷笑がその薄い唇を飾った。


「そんな女は・・・・僕の親友の奥方に、相応しくないなぁ・・・・・?」


――そんな悪い仔は・・・北山の
修道院クロースターにでも幽閉して・・・・一生罪を償ってもらわなあかんなぁ・・・・・


国王はクスクスと笑いながら愛しそうに手紙を懐へしまい、椅子から立ち上がった。
一方女は楽しそうに眼を細めながら彼を見つめている。


「父親と領民を殺されたあげくに海賊に拉致されて・・・辱められた女性が償う罪って・・・・何かしら?」


ゆっくりと立ち上がりながら紡いだ彼女の言葉に、国王は当たり前のように答える。


「仲人である僕を裏切った罪やろ、ルネ?」


名を呼ばれた女は嬉しそうに彼の腕に縋った。
国王は彼女の額に短く口づけを落とすと、二人は並んで四阿を降りてゆく。


「今日のお相手は准尉だったのかな?」

「いいえ、少尉よ・・・だんだん強い男が減っていく・・・・」

「あぁ、それじゃあ君の護衛は中尉以上にせなあかんなぁ・・・・」


そう言いながら国王がパチンと指を鳴らすと、どこに控えていたのか侍従が姿を現し、恭しく一礼をした。


「午後の会議の後に、剣の稽古の準備を。久方振りに妃と手合わせがしたくなった。」


ルネ――そう呼ばれた妃の瞳がお礼を言うかのように瞬きながら国王を見上げる。


「今日こそ一本取ってみせるわ、コウ・・・・」


「まだまだ・・・・腕は衰えていないつもりやけどなぁ・・・・?」


そんな軽口を叩きながら、二人の化身かと見紛うばかりの薔薇が神々しく咲き誇る庭を通り、宮殿へと戻っていく――キュイ・・・・と隼が高く鳴く音が、二人の耳に心地よい響きを残していった。













バタバタと甲板を歩く音、朝を告げる汽笛の声、柔らかに凪いでは戻る波の囁き――そして彼らはマドカを窓から緩く射し込む生まれたての朝の光と共に深い眠りから覚醒を促す。マドカがその細い光に眼を細めながらあたりを見回すと、そこは最近ようやく見慣れたばかりの、上品な船室――まるでマドカの訪れを待っていたかのような、優しい部屋。
やがて軽い羽毛の掛け布から這い出た彼女は、自分が身に着けているあまりにも薄い寝着が眼に入るなりその白い頬を桃色に染めた。
そして思い出されるのは、“彼”から与えられた深い 接吻(くちづけ)、優しく、労わるように触れられた熱――


「ア・・・・・・」


マドカは自らの痩躯を抱きしめながら、力が抜けたように床へと座り込んだ。
昨夜、彼が――この黒塗りの船の船長が触れた肌が、その軌跡を覚えていて――甘い疼きをマドカの躰に呼び覚ます。


(私・・・・男の人に触られたのに・・・・・)


痛く、なかった・・・・・?――



マドカは包帯とあて布だらけのだらけの躰を見回したが、新しい傷はどこにもついていない。


それに――


(恐かったのに・・・・泣いたのに・・・・)


――嫌じゃ・・・・なかったの・・・・・・?


海賊船で陵辱された後に躰を這いずりまわった、あのおぞましいまでの嫌悪感と吐き気と――心を潰されるような絶望感は、今のマドカの身に巣食ってはいなかった。
今、この身が感じているのは――彼女の花に触れた初めての、優しい人の手。
その新しい記憶は泣き出したくなるくらいに彼女の心を包み込み――


不意に――カーン・・・・と鐘板が六度、静かに、高く甲板に鳴り響き、明け六つを伝える。

朝食は七時から――昨日の遅刻で彼をかなり怒らせてしまったのだ、今日は遅れるわけにはいかない――
マドカは急いで立ち上がり、サイドチェストの上に置いてあった水差しからタブに水を入れ――鏡の前に立った。
すると眼に飛び込んできたのは、彼女の白い首筋に朱色に咲く、所有の印――


「――ッ!!」


マドカは再び顔を真っ赤にしながら思わず首筋に手をあてた――



――大丈夫だ・・・・マドカ・・・・触るだけだ・・・・・



彼の少し掠れた、優しい声が彼女の耳の奥で再生される。
マドカは身を震わせた――彼は、それがまるで当たり前のように――彼女の躰に触れ、快楽を与え、そして――



――マドカ・・・・・いい子だ・・・・



「・・・・・ァ」


自分は確かに――彼に縋りつき、泣き叫び、高い嬌声を上げていたのではなかったか・・・?

マドカは首を打ち振り、脳裏に深く刻まれた彼の声を振り払うようにバシャバシャと顔を洗った。

きっと自分は悪い子だ――こんなことを思い出して、胸が熱くなるなんて・・・・・


マドカは盥から顔を上げると――どんな顔をして朝食の席で――彼の眼を見つめればいいのかまるで分からないまま、ハイネックのドレスを探すために背後に積まれた箱を躊躇いがちに開け始めた。









彼――士度、と呼ばれている船長よりも、だいぶ早く甲板の食堂へと続く階段前に来てしまったらしい。
マドカがその入り口で所在なさげに立っていると、すでに一仕事終えたばかりの海の男達がぞろぞろとやってきて階段を下りていく。


「おはよう、お嬢さん!」  「おや、今日はよく似合うお召し物を着ているね?」  「昨日はよく眠れたかい、嬢ちゃん?」  「お頭を待っているのかい?早起きだねぇ!」


そして彼らはマドカにこんな風に声をかけたり、無言ながらもにこやかに挨拶をしたりしながら彼女の目の前を通り過ぎていく――マドカはビクビクオドオドと頷いたり小さく返事をしたりしながら、救いを求めるように士度の訪れを待った。
ローレライ号の船員たちは赤蜥蜴の船にいた海賊達よりもずっと紳士的で、まるでそれが暗黙の掟であるかのように彼女に無礼な振る舞いを一切してこなかった。

それでもマドカは――海賊と似たりよったりの背格好の男達を見るのが恐くて恐くてしかたがなかった。
彼らにはとても失礼な思いを抱いていると知りながら、この気持ちを払拭するにはまだ大分時間がかかるのではないのだろうか――そう彼女には思われた。
しかしそれでも、誰もそんな彼女の心の怯えを知ってか知らずか咎める事無く、皆、何故か努めて穏やかに接してくれている。

船員の中でただ一人を除いては――


「あ・・・・おはようございます・・・・」


歳が比較的近いと思われる――左目を眼帯で覆っている“范”と呼ばれている青年に、マドカが蚊の鳴くような小さな声で挨拶をしても、

「おはよう、お嬢さん」

そうにこやかに返してくるのは彼の隣にいるハキムという青年だけで――黒装束の范は無言でチラリとマドカを睥睨しただけだった。

そんな彼の視線にマドカが思わずたじろぎ、一歩後ろへ下がったそのとき――


「何だ、ちゃんと一人で起きられるんじゃねぇか・・・・」


いつの間にか甲板を闊歩してきた士度がマドカの頭をすれ違いざまにクシャリと撫でると、「来い!」と一声命令してそのまま食堂へと続く階段を下りていった。
昨夜の彼をあまりにも彷彿させない――そんな士度の様子に驚きながらマドカも慌てて彼の後へ続く――「おはよう・・・ございます・・・・」
――彼に届くかどうかさえ危い、小さな声で朝の挨拶をしながら。

そして目の前を行く――白いゆったりとしたシャツを身にまとった彼の広い背中を密かに上目遣いで見上げながら、マドカは再び頬を染めた。

彼のこの様子から察するに――きっと“
士度さんカレ”にとっては些細なことなのだ…――昨夜のあの行為は。

きっと彼にとっては、キスの延長の小さな戯れ。

それでも、穢れた娘になぞ触れたくないと突き放されることより、ずっとずっと…。


ツキリとした小さな寂しさが、彼女の心に澱を灯す――しかしその灯火はまだあまりにも仄かで――マドカの心の瞳にはまだ――ゆらりゆらりと幻想のように映るだけであった。









――ときどき、甲板をお散歩してもいいですか・・・?


マドカが朝食の席でオズオズと士度に問い掛けたら、一瞬場の空気が止まり――辺りからクスクスと笑い声が漏れた。
彼女は子供のような自分の問いに気づき、恥ずかしそうに視線を木のテーブルへと流す。
黒パンを齧っていた士度も呆れたように大きな溜息をつくと、


「・・・・いつまでも捕らわれの姫君気分でいるんじゃねぇよ。」


そう穏やかに言いながらマドカの頭をポンポンと撫でてきた。
マドカの瞳が微かに揺れながら、士度の精悍な顔を見つめてくる。


――お前はもう・・・・自由なんだ。


船員の邪魔をしたり、海に飛び込んだり、危険なことをしたりする以外はな・・・――
ワイン片手に士度が無表情に付け足したその言葉の端に、どこか哀が含まれていることに気がついたのは――彼に近しい船員達。

ブラウが主人のグラスに紅いワインを注ぎ足す音が、やけに大きく食堂に響いた。


「ドレスでも宝石でも欲しいモノがあれば何でも言え。あの部屋も狭ければもっと広いところに……」

「あ、あの…!!私…十分に良くして頂いていますから……!」


士度の言葉を遮るように、マドカが蒼褪めた顔をしながら小さく呟く――自分は拾われた身――なのに今隣にいる船長に(やや乱暴ながらも)何故か目をかけてもらい、上等なドレスや温かい食事、そして居心地の良い部屋を与えられ――そんな今の待遇は不安になるほどにまで良好なのに、これ以上自分は何を求めれば良いのだろうか?

ただでさえ小さな身体をさらに縮こまらせながら声を出したマドカの様子を、士度はグラスに口をつけながら無言のまま見つめていた。

すると――


「これはこれは…3000万ターラーのご身分とは思えない御発言で……」


食堂の奥から冷めた声がマドカの耳に突き刺さる――士度が徐に眉を顰め、ロートが声がした方を睨みつけた。

上座の者達の不機嫌な視線をものともせず、一斉に向けられる船員たちの視線や不思議そうに瞬きをするマドカの様子を気にもかけず、声の主は高らかに続ける――


「貴女はもう少し贅沢を口にしても良いお立場だと存じ上げますが……?」


なにせ貴女が王都に到着すれば、ヴィンターバウム公のご加護が――


パシャ……


静まり返った食堂に水が冷たく弾ける音が響くと共に、その声が唐突に途切れた――


「自重しろ、ハキム。」


見ると空のコップを片手に范が口上を述べていた褐色の友人に冷ややかな視線を送り―― 一方、水を頭から浴びた男は流れる水滴の下で皮肉気に口元を歪ませている。

「…お頭、コイツには自分の方から良く言い聞かせておきますので……!?」

やがて范はそう言いながら士度の方を振り向いたが、すでに彼の姿はそこに無く――バタン!!と食堂の扉が派手な音を立てて閉まったことで、一部の船員達は初めて、自分達のリーダーが拾ってきた娘と共にこの空間から出て行ったことを知った。

「……」

「……怒らせちゃったかな?」

まるで他人事のように軽く言葉を乗せるハキムを睨みつけると、范も戸に八つ当たりをしながら足早に食堂を去って行く。


「「「「「・・・・・・・」」」」」」


そして海の男達が集う朝の食堂に落ちる気まずい沈黙。


「……なぁ、今日も気付け代わりに…いつもよりちょっと多めに・・・・ダメかなぁ…?」


砲撃隊員のファルケが机に突っ伏しながらワイングラスを宙に掲げ、ボーイに向かって気怠るげな声を出した。

きっと今日のお頭はこれからずっと低気圧に違いない――どこぞの馬鹿のお蔭様で。

戸惑うボーイがコック長から受け取ったのは……渋々と了承するGoサインの目配せだった――








「士度…さん…士度、さん…!」


マドカの細い手を半ば無理矢理ひっぱりながら無言のまま足早に甲板を歩いていく船長を、彼女は自らの足を止めることでやっと自分の方を振り向かせた。彼のその凛々しい顔には、食堂を出る直前にマドカが垣間見たときと同様、“不機嫌”の文字が張り付いている。

――何だよ……

何も訊くな――まるでそう言っているかのような士度からの険しい視線に、マドカは一瞬怯んだが、それでも――小さな勇気を振り絞るかのように、彼女は糸のように細い声を出した。


「あ…あの…3000万ターラーって……それに公爵様のお名前が何故……」


「北の公爵はお前の身柄に3000万ターラーの懸賞金を出していた。」


――例えお前が死体でも…その身体を自分の目の前に持ってくれば1500万出すと言ってやがったんだ、あの粋狂な公爵はよ……!


士度の口からもたらされた、どこか苛立ちを込めた早い言葉のその内容に――マドカの体が硬直した。

3000万ターラーの懸賞金…?……私に?――何を言っているのだろう、この人は……こんなにもひ弱で穢れきった身体のどこにそんな……小さなお城が買えるのと同じだけの価値があるというの?たとえ冷たくなって動かない私にも1500万…?公爵様はどうして……


すっかり呆けてしまったマドカの姿に士度は舌打ちをすると――ガシガシと頭を掻きながら彼女から視線を逸らした。


「・・・・ようするに、公爵は・・・・“どんなお前でも” 公爵家に迎え入れる気があるってことだろうよ・・・・・」

「―――!!」


士度の言葉に弾かれたように、マドカは彼からパッと手を離した。
訝しがりながら振り向いた士度の眼に映ったのは――その手を自らの手で胸の前で包み、悲しそうに眼を伏せる彼女の姿。


「・・・・そんな・・・こと・・・・・いけません・・・・・」


細く震える声が朝のそよ風にのって士度の耳に辛うじて届く。
ともすれば泣き出してしまいそうな切ない声が、甲板の上で悲しげに響いた。


「公爵様は何もご存知ないから・・・・
海賊船あのふねで私はもう・・・・・公爵様に手をとっていただける資格を失ってしまったから・・・・こんな けがれた身体でどうして公爵家に――!?」


不意に――パシリとマドカは頬を打たれ、その儚い痛みよりも打たれた事実に目を丸くした。

目の前に立つ手を上げた張本人は――無表情にマドカを見下ろしている。


「お前が自分のことをどう思おうが勝手だがな・・・・――俺の前で自分を卑下する事は、止めろ。」


――俺はお前が穢れているなんて少しも思っちゃいねぇ・・・・


そういい残すと士度はそのまま甲板にマドカを残して船長室の方へと消えていってしまった――後に残された彼女はただぼんやりと彼の後姿を見送ることしかできず。


「・・・・・・・・」


ふと――叩かれた左の頬がちっとも痛くないことにマドカは気がついた。

シクシクと痛むのは自分の心だ――それとも、自分の意気地の無い心が、知らぬうちに彼を傷つけてしまっていたのかもしれない――その痛みが、きっと反射してきている――


思いがけず耳にしてしまった賞金話――けれどマドカには分かっていた。
自分に何かと目を掛けてくれている“彼”の優しさはそんなコトからくるものではないということを。

少し乱暴だけど、少しおっかないけれど・・・・きっと女子供には本質的に優しい人なのだろう・・・・。


――さっき私のことを叩いたのも・・・・きっと・・・・・勇気をくれる為だわ・・・・・


マドカは叩かれた頬に手をあてながら、少し困った顔をした。


いつまでも泣いたり悲しんだり恐がったりしている私に、もっと勇気を出せって・・・・――


この船にいる間に私は――ちゃんと士度さんに応えられるような勇気を持つことができるかしら・・・・?――そして、公爵様に真実を伝えることが・・・・――


心地よい風に誘われるようにしてマドカは視線を上げ、柔らかな太陽の光に目を細めた。


――・・・・ようするに、公爵は・・・・“どんなお前でも” 公爵家に迎え入れる気があるってことだろうよ・・・・・


そして反芻される、彼の声――


「駄目・・・・よ・・・・」


甘えちゃ、だめ・・・・・――空を見上げるマドカの頬に、一筋の雫が煌いた。


誰よりも大切な人だからこそ――誰よりも愛しい人だからこそ――身に纏わりついて離れないこの枷を晒すわけにはいかない。


空の向こうにいる公爵に思いを馳せながら、マドカは気丈な表情で蒼く高い空を見上げていた。


その涙が風に流され、止まるまで。










朝方、そんな話があって――船がゆっくりと帆を進める長閑な昼下がり、彼女は一人、甲板の屋根の影の下に座っていた。

目の前では士度が波児とブラウとロートと談笑しながら、一羽の隼の脚になにやら結び付けている。

男たちの話の輪の中へ入る勇気がないまま、マドカはその光景を羨ましそうに見つめていた――この船の人達は皆、マドカにとても優しくしてくれるが、士度以上に彼女と口を利くことはまずない。もっとも、今のままの状態の自分だと――多種多様な人々ととても談笑できる精神状態ではないのだが。唯一親しげに離してくれるヘヴンも、今日の昼間は仕事があると言って医務室に閉じこもりきりだ。
すると――


「マドカ・・・!来いよ!」


隼を肩に乗せた士度が一振り手招きをしてきたので、マドカは朝の彼の表情を思い出しながら心のどこかでホッと安堵の溜息を漏らすと、小走りに士度の方へと駆け寄っていった。







今朝方、思わず――彼女に手を上げてしまった。

あれはきっと、八つ当たりだ――もっと早く彼女に出逢っていれば――彼女はもしかしたら、一生背負うような傷を身にも心にも負わなかったかもしれない。
あんなにまで頑なに、自分を卑下することもなかったのかもしれない――全ては――全ては――?

時の流れには逆らえない。
海の広さにも、自分の非力さにも今はもう抗えない。
ただただ――呪うがいい――自らを。

そして最後に――女神の審判を受け――その身を絶望の淵から奈落へと落としてしまうがいい――


あれから士度は深い自己嫌悪の渦の中にいた訳だが、見ると屋根の影の下で所在なさげに座っている彼女は士度の想像と反して特に落ち込んでいる素振りは見せてはいない。


「ほら、寂しそうですよ・・・?士度様。」

「別にそんな風には見えねぇがな・・・・」

「そうかなぁ・・・?呼んであげたら、喜ぶと思うよ?」

「・・・・動物が嫌ぇかもしれねぇ・・・・」

「なら、貴方のお相手として相応しくありませんね・・・・?」


指先で風を見ながらサラリと言ってのけたロートの台詞に舌打ちをしながら、士度は思わず声を荒げた――


「マドカ・・・!来いよ!」


背後でクスクスと笑う年長者たちの声が多少癇に障ったが――どこか安心したような表情で駆けてくる彼女の顔を見てしまったら、そんなことはもうどうでも良くなってしまった。







「見ろよ・・・ほら・・・・」


マドカが士度のもとへ着くなり、士度は隼を空へと飛ばした。
隼は風にのってぐんぐんと上昇し――太陽の中へと入っていき、漆黒の綺麗なシルエットを作った。
マドカは空を仰ぐと――小さく感嘆の声を上げながら、手を額に翳し、その隼の動きを目で追っていく。

マドカがその眩しさに眼を細めている姿を、男たちは優しげに見守っている――ふと、マドカが気がついたように士度の方を振り向いた。


「士度、さん・・・・・あの鳥さんは・・・・・お手紙を運ぶのですか?」


確か、聞いた事がある――鳥の脚に蝋封をした書簡をつけて、遠く離れた人へ手紙を飛ばす方法。


「・・・・?あぁ、アイツはこれから王都に飛んで、また戻ってくる。」


どうしたんだと訝しげに訊いてくる士度の目の前で、マドカの表情が今までになく真剣な面差しになった。


今となっては、誰よりも大切な人へ――伝えたい想いが、彼女の心を駆け巡った。


「あの…私も…お手紙を書きたいのですが…」

――もしよろしければ、今度あの鳥さんが王都に行かれるときにでも…一緒に届けては頂けないでしょうか……


マドカの、小さいながらもしっかりと意思を伝えてくる声に、士度は微かに目を見開いた。





奇妙な沈黙が甲板の上を漂った。

ブラウは心配そうに士度の様子を伺い、ロートは隼が消えていった空の彼方に視線を流す。

「あぁ、あれは特に仕事用の鳥だから・・・・・」

沈黙を破るように発した波児の声に、


「別に・・・・かまわねぇよ・・・・・」


甲板に置いてあったロープを拾い上げながら呟いた士度の声が重なった。


「ただし・・・
この船ローレライの機密、どんな形にせよ漏らされては厄介だからな・・・・悪ぃが手紙の中身は検めさせてもらうぜ?」


士度からのそんなすげない言葉にも――「はい・・・!それでもかまいません・・・・!」――とマドカの貌が救われたように明るくなった。


「・・・・・紙とペンは波児から借りろ。」


そう言いながら士度は波児に目配せをすると――そのままブラウとロートを引きつれ、その場を後にしてしまった――


急に萎んでしまった彼のご機嫌に今更ながらに気がついたマドカは――すがるような困惑の表情を波児に向けると、



「・・・・さて、紙とペンを取りに行こうか?」


はぐらかすように促され――彼女は頷きながら彼の後についていくしかなかった――









数刻後――マドカは再び波児の部屋の前に立っていた。
扉をノックすると、船長の友人はパイプ片手にすぐに出てきて――「書けたのかい?」――そう穏やかにマドカに訊いてきた。


「・・・・・・」


マドカが黙って波児に差し出した二通の便箋は――蒼いインクの美しい文字で埋められてはいたが、そのところどころが水に濡れ――文字が滲んでしまっている。


「あの・・・・書きあがったのですが・・・・汚してしまったので・・・・もう二枚ほど便箋を貸していただけませんでしょうか・・・・?」


見ると彼女の目は泣き腫らしたせいか、ウサギのように真っ赤になっている。


「・・・・どれどれ?」


波児は彼女から便箋を受け取ると、その内容にザッと目を通し――


「・・・・いいよ、このまま出しておくからね・・・?」


そう言いながらその手紙をマドカの目の前で二つ折りにしてしまった。


「・・・・・!!あの、でも・・・・公爵様に文字の滲んだお手紙だなんてそんな無礼なこと・・・・!」


「涙の痕は何よりも正直な言葉だよ、お嬢さん・・・?」


慌てる彼女の声に、波児の優しい声が重なった――その声に導かれるように彼女の瞳には再び光るものが溢れたが――マドカはそれを我慢するように顔を伏せると、波児に急いでペコリとお辞儀をし――足早にその場を去っていった。


「・・・・本当の紳士なら、泣き出しそうなお嬢さんの肩をそっと抱いて――慰めてあげるんだけどねぇ?」


ねぇ・・・?――波児は便箋をひらひらと宙で回しながら、自分の肩越しに振り向いた。


「・・・・そうしてやれば良かったじゃねぇか。」


不機嫌そうな船長の声が、奥のソファの上から聞こえてくる。


「そうしても良かったのかい?」


楽しそうな波児の声に、士度は今日何度目かの舌打ちをしながら――ソファの上で寝返りを打つと、彼に背を向けた。






そして隼が船に戻ってきた一週間後――マドカの手紙は凛々しい郵便屋と共に、束の間の空の旅を楽しんだ。








「・・・・・彼女は・・・俺の妻にはなれないそうだ。」


パサリ・・・・と二通の便箋が立派な書斎机の上に投げ出された。
手紙を受け取った男は革張りの立派な椅子に身を沈めたまま、その長い脚をドカリと机の上にのせ脚を組み、しかめっ面をしながらアラベスク模様が眩い天井を仰いだ。


「貴方の正直なお気持ちを・・・・手紙にしたためてお送りすればよいのです、
ご主人様マイ・ロード。」


彼女のその決断も、きっと貴方様を思ってのこと・・・・――午後のお茶を淹れながら、従者は主人に優しく微笑みかける。

もう一人の従者が書棚の引き出しから紋章入りの便箋と、りっぱな羽飾りのついたペンを黙って取り出すと――その場にいた主人の友人がクスクスと控え目に笑いながらコトリとわざと音を立て、インク壷をまだ脚がのったままの机の上に置いた。


男はこめかみに指を当てながら――忌々しげにその美しい文具達を睨みつけた。

そしてティーワゴンでお茶を運んできた従者をチラリと見上げる。

主からの無言の視線に、従者は柔和な微笑を湛えると優しく微笑んだ。


「いけませんよ・・・・?ご自分でお考えなさいませ。彼女に勇気と希望を与える為の、愛の
コトバを・・・・」


今までも、ご自分で書くことができたではありませんか・・・・――ティーカップを主に差し出しながら、従者は柔らかに述べた。


「何時間も何日も、書斎に閉じこもってね・・・?」


男の友人はソファに座って脚を組みながら、本の下で笑いを噛み殺している。


男はティーカップを受け取りながら、深い溜息を吐いた――そしてもう一人の従者が差し出してきた婚約者からの手紙の――優しくも儚い文字に、もう一度目を走らす。


“けれど貴方様をお慕いする気持ちは終生変わらず・・・・・”


今すぐ、彼女のもとを訪れ、その細く華奢な身体を抱きしめることができれば――そしてただ一言を、何にも勝る勇気をもってして囁くことができれば――この手紙と共に運ばれてきた彼女の美しい涙を、止めることができるだろうに・・・・――


「まだ・・・・遠い・・・・・」


男はそう呟くと、その大きな掌を天井を仰いだままの貌にのせた。

男の友と二人の従者は黙って彼の言の葉を聴いていた――彼の心の痛みに目を伏せながら。

彼の幸せを――心密かに祈りながら。











公爵へ手紙を出したマドカが――その行方を問い掛けるかのように不安げに空を見上げていたある日の午後――
あずまの国の琴の音が高らかに海原に響いたかと思うと、ローレライ号の目の前に――白い桐の船が挨拶をしてきた。

ローレライからの許可を得たその船は、雅な音をかき鳴らしながら、黒いギャリオン船に渡し板をかける。

船員たちが忙しげに船同士の間合いを取り、士度やそのお付の者達もいつの間にか甲板に現れ――マドカが見慣れぬ衣装の白船の船員たちや、聴き慣れぬ汽笛に目を白黒させていると――


「士度・・・・!!」


腰まで伸びた艶やかな長い黒髪の――美しい女性が――煌びやかな東の着物を翻しながら、士度に抱きついてきた。

「・・・・久し振りだな、花月。」

士度は彼女を難なく受け止めると、微笑みながら彼を覗き込んでくるその人に珍しく笑みを見せた。
その客人の従者らしき――目を布で覆った若者が、その光景に不機嫌そうに口を歪ませる。

そしてそんな光景を目の当たりにしたマドカも、思わず立ち上がり――悲しそうに瞬きをした。
そして何故かツキリと痛んだ胸にそっと手をあて、士度が見知らぬ女性と親しげに、穏やかに言葉を交わしている――そんな目の前の出来事で泣き出しそうになる自分を不可思議に思った。
東の国の人が、親しげに彼の腕に手をあて、からかうように、甘えるように――柔らかな声を出す。
誰もが見蕩れるであろう美貌の人と並ぶ、凛々しい船長の姿――そんな眩い景色に、マドカが目を逸らそうとした、そのとき――


「あらら・・・・“彼”も相変わらずねぇ・・・・」


――ロートとジュウベエは相変わらず犬猿の仲みたいだし・・・・・


いつの間にかマドカの隣に来ていたヘヴンが、派手な扇片手に呆れたような声を出した。


「“彼”・・・・?士度、さん・・・・のことですか?」


ヘヴンを見上げながら、マドカが不思議そうに問い掛けると――彼女は気がついたようにクスリと笑った。


「いいえ・・・・マドカちゃんはまだ知らなかったわよね?あの、士度クンの隣にいる子・・・・あの子あれでも・・・・」


「“男”なんですよ、僕。」


少し棘のある声が、ヘヴンのからかうような声に重なった。
マドカが驚いて顔を上げると、優美な面立ちをしている“彼”が笑いを排除した顔でそこにいた――そして彼は挑発的な視線でヘヴンを見やると―― 一転優雅に微笑みながら、マドカに手を差し伸べてくる。


「初めまして、トーンフェーダー嬢・・・・・」


――“花月”と申します・・・・

恭しく彼女の手の甲に唇を落とす彼の姿を、士度はどこか複雑な表情で見つめていた――




  


1/6深夜に改訂&大幅追記して仕上げました・・・・いろいろと切腹モノの今回ですが;;
次回からまたキャラ増えますどうしましょう;;