第四章

-die Traenentropfen-



空いた片手でとりあえず傷口を塞ごうとしても、鮮血は裂かれた皮膚から止め処なく溢れ出て、白い布を赤く染め、奇麗に磨かれている木の床を汚した。血の匂いとその鮮やかすぎる色に眩暈を感じながらも、マドカは血の流れを止めようと、その華奢な両腕をとっさに伸ばしたが、「触るな!!」と目の前にいる男に一喝されて、弾かれたようにその手を引っ込める。代わりにヘヴンがウエストポーチから取り出した脱脂綿で血を拭いながら、傷口を確認した。

<シ、シド・・・・ゴメンナサイ!!>

「おい!!アマデウス!!」

初めて“主”を傷つけた黒豹はパニックになってしまい、耳を伏せ、尻尾を丸めて脱兎の如く逃げ出していってしまった。とっさにその友の名を呼んだ士度の声には怒りは含まれていなかったのだが、混乱したアマデウスの耳にはもはや届いてはいなかった。
士度はチッと軽く舌打ちをすると、戦闘後に着替えたばかりのシャツを再び朱色に変えながら、ベッドの上で怯えた表情を浮かべ震えている少女を睨みつけた。そんな様子を見たヘヴンはヤバイ!という台詞を顔に張り付かせ、士度の次なるアクションを止めようと彼の肩に手を掛けたが、士度はそれを軽く振り払う。そして――

「この・・・・バカ野郎!!」

月が綺麗な夜の海の上で静かに休んでいた船を叩き起こすかのような怒号が夜空を震わせた。それは甲板下の船室にまで届き、静かな夜をそれぞれ楽しんでいた船員たちも、この船の上では滅多に聞くことの無いその怒声に思わず顔を上げて驚きの表情を作る。

「・・・・・あれ、お頭の声か?」 「へぇ〜珍しいこともあるもんだ・・・・」 「あの温和なお頭を怒鳴らせるたぁ、どこの命知らずだ?」 「あの性格って・・・・“温和”って言わねぇんじゃねぇのか?」 「あ、俺上がり!」

食堂でカードを興じていたレーヴェ以下、砲撃隊の面々は上から聞こえてきた赫怒の声に、好き勝手な感想を述べながら天井を仰いだ。そしてその怒号に続くように、高く小刻みなメロディーが特徴的な汽笛が海面を震わせた。「お・・・薬屋が来たな・・・」 新たなカードをきりながらレーヴェが呟いた。すると隣の席で杯を傾けて合っていたインド系のハキムと中国系の范
(ハン)が席を立つ。

「何だ、今日は随分と切り上げるのが早いじゃないか?」 銃の名手でもあるファルケが自分のカードを確かめながら范に話しかけた。

「・・・・今宵は受け取る荷物が多いって言ってたからな。補給班を手伝いにいくんだよ・・・・」

隻眼の范は冷めた声で呟いた。その後ろで柔和な相貌のハキムがクスリと笑う。

「・・・・なんちゃってね。そのついでに“あの”お頭の逆鱗に触れた誰かさんの顔を拝みに行ったりして・・・・あ、凄い、まだ怒ってるよ?」

その言葉の内容までは聞き取れないが、士度が吼え続ける声が船内を揺らす。

「・・・・隊長ォ〜」 雛色の短く刈り上げた髪をスッと後ろへ撫で上げながら、ファルケは横目でレーヴェに御伺いをたてる。  「・・・・みなまで言うな・・・・よし、我々も補給班を手伝いにいくぞ!」 「「「待ってました!」」」」  砲撃隊長の号令のもと、カードがテーブルの上に無造作に散らばった。






「何考えてんだ!テメーはよ!!“猫”じゃねぇんだぞ!!豹だぞ、豹!!あの爪で薙ぎ払われたら掠り傷じゃすまねぇことぐらい見てわかんねぇのか!!?あんなでかい肉食獣の首筋に何の前触れもなく手ぇ伸ばすなんて、そんなに死にてぇのか、お前は!!」

士度は怒りに任せて容赦なくマドカを叱り飛ばした。一方、マドカは眼に涙を浮かべ、今は血塗れた掛布に半分顔を隠して、ごめんなさい・・・・ごめんなさい・・・とか細い声で呟き続けるしかなかった。士度の手の甲に大きく走った爪痕を確かめながら、ヘヴンは一人頭を抱えている。

「〜〜ッ痛ェ!!オイ、そのクスリ大丈夫なのか!?・・・・しかしいったい何だってあんな馬鹿なことを・・・・」 

「あのペンダント・・・・」

血をふき取りながら応急処置用の薬をつけるヘヴンに文句を言いながら片手間に問いかけた士度の声に、マドカの遠慮がちな声が重なった。

「あの猫さんがつけていたペンダント・・・・私のなんです・・・婚約者だった方から頂いた・・・・」

「ア゛ァ?」

とても大切なものなんです・・・・ベッドの上で小さくなりながら、マドカは震える声で告げた。マドカのその台詞に士度が片眉を跳ね上げたとき、ブラウとロートと波児が士度の怒号を聞きつけてやってきた。

「士度様、どうかなさいましたか――!!これは・・・・」

普段は清室なその部屋に派手に散った血の跡を見て、ブラウは思わず息を呑んだ。ロートは手の甲を血塗れにしている士度に慌てて駆け寄って、珍しく困惑の表情を浮かべながらヘヴンに傷の状態を訊く。波児も「君が怪我をするなんて・・・・」と心配そうに覗き込んでくる。

「・・・婚約者“だった”?お前、婚約解消でもされたのか?」

後から入ってきて質問を浴びせてくる連中に適当に返事をしながら、苛立った声で士度はマドカに問うた。マドカはその言葉に一瞬ビクリと反応して、更に俯きがちになると、聞き取れるか取れないかの声で呟く。

「・・・いいえ。でも、私、もう・・・・汚れて・・・・駄目なんです・・・もう公爵様のお嫁さんになる資格を失ってしまったから・・・・」

マドカは涙を隠すために掛布に顔を埋め、肩を震わせた。そんな彼女の態度とは裏腹に、士度はフン・・・と一度小さく鼻を鳴らした。

「・・・まぁ、何にせよ、あんなガラクタの為に今後はこんな・・・・痛ッ!!何しやがる!?ヘヴン!」

ヘヴンが士度の深い傷口をペチリと軽く叩いたのだ。しかし、その表情は真剣そのもので、彼女も負けじと士度を睨みつけてくる。何時もの如く長い弁舌が始まりそうな予感に、士度は眉を顰めた。

「ガラクタなんて、言いすぎよ!アクセサリーって、モノによっては持ち主のかけがえの無い大事な思い出が詰まっているものなのよ!アンタだってその金の鎖!お父様から頂いた大事な物だって言っていたじゃない?それにオンナノコにとって異性からプレゼントされたものは特に・・・・」

「士度は〜ん、薬屋が来たで〜♪それにしてもさっきは何をあんなに騒いで・・・・何やコレ!?どないしたんや!?スプラッタやんけ!!」

ヘヴンの長くなりそうな説教は、訪問船の到来を士度に告げにきた笑師の慌てふためく声に遮られた。

「・・・・・いいタイミングだ、笑師。ブラウ!海に飛び込んだりアマデウスに手をかけたりで忙しいお嬢サンが今度は首でも吊ったりしないように見張っておいてくれ!ヘヴン、すぐに受荷の確認だ・・・傷の手当てはこーなったら直接薬屋にやってもらう。波児はヘヴンを手伝ってやってくれ。ロートは補給班と相手の情報班から必要事項を・・・笑師!オメェは悪ぃけれど、この部屋元に戻してやってくれ。」

士度はもう一度傷口を確認しながら早口に指示を出すと、薬屋を迎えるべく踵を返した。他の面々も士度の指示に返令する。するとそれまで掛布に顔を埋めていたマドカはガパッとその面を上げて、慌てて士度に声を掛けた。

「あの!・・・・」

士度はピタリとその歩を止めて首だけを彼女の方へ回らせた。冴え冴えとした視線がマドカを射抜く。
その睥睨にマドカは一瞬たじろいだが、それでも懸命に声を絞り出した。

「あの・・・・傷のこと・・・・本当にごめんなさい・・・・その・・・助けて下さって、ありがとうございます・・・・」

「・・・・お前、暫く大人しくしていろ。」

士度は表情の無い声でそう告げると、フイッとマドカから視線を逸らした。
ったく綺麗な顔に傷でも残ったらどーするつもりだったんだよ・・・―― 去り際に彼がポツリと呟いた言葉はしかし、確かにマドカの耳に届いた。
涙に潤んだままのマドカの瞳が驚きに見開かれる――そしてその瞳は士度の背が見えなくなるまで、その姿を追い続けた。
そんな二人の様子に、ブラウは人知れず小さな溜息を吐く。
あーも〜何をやったらここまで血塗れにできるんや・・・・未だに状況がよく掴めていない笑師は、雑巾片手に頭を掻いていた。








「おせーぞ!!薬屋!!」

馴染みの薬屋を確認するなり、士度は声を荒げた。そしてデッキに出てきているこちらの要員の数がいつもの補給班より多いことに気がつく。士度の背後からついてきていたロートは士度の傷を気にしつつも列を離れて補給班長の元へと向かった。

「あら、アンタが怪我するなんて珍しーじゃない?どれ、見せて御覧なさい・・・・ふーん、神経はやられてないけれど、結構深いわね。少しだけど痕が残るわよ?」

士度の苦言をきれいサッパリ無視しながら告げた薬屋・卑弥呼のその言葉に、黙々と受荷の作業をしていたクルーたちからどよめきが上がる。

(お頭が怪我!?) (ここ三年ばかり掠り傷以上の怪我なんてしたことないのに!?) (うわ〜・・・・ありゃ、痛そうだな・・・・) (ホント、何処のバカがあんなこと・・・) (見ろよ、あの形相・・・・滅茶苦茶頭にキてるみたいだな・・・) (暫くは傍に寄らないほうが・・・・) (オイ、ロート!どうしてあんな・・・・)


コソコソと士度の様子を窺い合うシリウスの面々に苦笑しながらも、彼らの疑問を代弁するように卑弥呼は傷の大きさを測りながら問うた。

「ホント、いったいどーしたの?泣く子も黙る天下のビーストマスターが、こんな怪我を・・・」

「“猫さん”、にやられたんだよ。どっかの馬鹿が・・・・」 「よーするにレディを守って名誉の負傷なのよ。」 

士度からのこれ以上の罵詈雑言を避けるため、ヘヴンがすかさず口を挟んできた。へぇ〜と波児は感心した風に士度を見つめる。

「“猫”?・・・・あぁ、いつもアンタの傍に居るあのデッカイ猫ね・・・・。ね、また新しい傷薬作ったのよ。これだと痛み止めの薬と合わせて飲まなくて良いから、副作用も少ないし・・・・どう?」

小さな小瓶を士度の目の前で振りながら、卑弥呼は茶目っ気たっぷりにウィンクした。

「オメェの薬は確かに良く効くが・・・・その新薬やっぱり高けぇんだろ?いくらだ?」

「アタリvこれだって結構イイ材料使ってるのよ・・・・1万ターラー。」

波児がヒュ〜♪と口笛を吹き、士度はあからさまに嫌な顔をした。ヘヴンも「〜〜!?ちょっと!!それ、ぼったくりもいいところよ!?」と血相を変えて喚きたてている。

「・・・・冗談だろ。俺ばっかそんな高けぇ薬使うわけにゃいかねぇよ。ヘヴン、波児!受荷のチェックしてくれ。そん中にいつもの薬が・・・」

作業をしながら幹部たちの話を聞いていたシリウスのメンバーの動きが止まった。自分たちの怪我ならいざ知らず、士度はこのグループのトップだ。たとえ少し割高な値段でも、その傷が癒えるなら進んでそんな薬に手を出したとしても、誰も文句は言わない。何をそこまで・・・・・。ロートは後で自腹をきってでもあの薬屋に札束を握らせて件の薬を手に入れることを決意した。范は隙あらばあの色黒の女のウェストポーチごと掠め取ってやろうと思っていた。離船前に行えば気付かれるのが遅くて済む。そして後でお頭に張り飛ばされれば済む話だ・・・・。二度とスリはやらない・・・そうお頭には誓ったが、彼の為なら自分はその誓いを破ることを厭わない。小柄な薬屋の様子を上から下から観察し始めた范を横目でみながら、ハキムはやれやれ・・・と苦笑する。――お前、ホント、分かりやすい性格してるよな・・・。
シリウスのメンバー達のそんな思いが交錯する中、卑弥呼が新たな提案を持ちかけてきた。

「じゃあさ、5000にまけておくから、残りはこっちで払ってよ。」

卑弥呼が徐に士度のベルトのバックルを引っ張った。
士度は冷めた瞳で卑弥呼を睥睨する。

「ちょっと!アンタ何考えてんのよ!!」

片眉を跳ね上げただけの士度の代わりに、ヘヴンが卑弥呼にくってかかり、波児がまぁまぁ・・・と慌ててそれを制した。

「・・・・残念ながら傷の舐め合いをする気はないんでな、レディ・ポイズン。」

卑弥呼の頤を人差し指で持ち上げ、士度は皮肉気な笑みをしたためながら卑弥呼に告げる。

「・・・・アンタも痛いって顔、してるじゃない。」

「そりゃあ、これだけ派手にやられればな。一応俺にだって痛覚はあるんだぜ?」

士度はまだ鈍く痛む左手を振りながら、おどけるように言った。

「そっちじゃなくて、こっちの話よ・・・・ビーストマスター。」

卑弥呼はその華奢な人差し指で士度の左胸を突いた。チャリ・・・・と彼女の手首を幾重にも巻いている腕輪が鳴った。彼女の、何かを語りかけるような瞳が、士度の眼を見つめてくる。

「・・・・別に、アンタを慰めようなんてこと、思っちゃいないわよ。ただ・・・・」

「・・・・・ちゃんと治療してくれるんだろうな?」

士度はフッ・・・と軽く溜息を吐くと、傷が走る左手を持ち上げながら訊いた。

「当たり前よ。私の手にかかれば、一ヶ月は早く治るわよ!」

一転、挑むような眼で士度を見つめ返しながら、卑弥呼は応える。
じゃあ、決まりだな・・・士度はそう言うと、指を鳴らしてロートを呼んだ。

「二時間弱・・・コイツの船員らは待機することになるから、酒でも与えてやってくれ。」

ロートは会釈することで返令する。卑弥呼も自分のクルーたちに指示を出していた。そして士度は波児とヘヴンに後を託すと、卑弥呼を伴って船長室へと消えて行った。事の成り行きを見守っていた船員たちから口笛や冷やかしが飛ぶ。

「・・・・何よ!あのイタチ娘!!」

まったく、ときどきああやって士度クンを誘惑して・・・・―― ヘヴンは愚痴りながら荷物の紐を解きはじめた。

「まあまあ・・・でもさ、二人があーゆーことするのって、絶対お互いが“何か”あったときだけじゃない?」

パイプを片手に薬品をチェックしながら波児は呟いた。

「愛でも、恋でも・・・ましてや傷の舐めあいでもなく、さ。君にも分かるだろう?」

波児はヘヴンの方をチラリと窺った。彼女は荷を解く手を止めて、夜空を仰いだ。星が瞬く、雲ひとつ無い綺麗な夜だった。

「・・・分かってるわよ。私だって・・・・」

―― ヘヴンさん!こっちの荷を見てください!――

補給班員がヘヴンを呼ぶ声が聞こえてきた。

「―!・・・今行くわよ!」

やれやれ・・・・とヘヴンは立ち上がり、大きく伸びをすると、僅かに首を回らして船長室の方へ眼をやった。
その灯りは、未だ点いたままだった。





「なぁ・・・・」

卑弥呼は士度の左手の傷を縫い終わり、薬を塗りこめていた。

「・・・何よ?」

「蛇ヤローと何か・・・・・」  「あんな甲斐性無しでロクデナシの名前なんか口にしないで。」

士度の左手首を掴む力が僅かに強くなった。

「・・・・・」 「・・・・・・・」

「・・・・じゃあ鏡――」 「!!あんな変態でストーカーでセクハラ男の名前なんてもっと口にしないで!!」

「・・・・そうかよ。」

薬の上にガーゼをあて、真っ白な包帯を手早く、しかし丁寧に巻いていた卑弥呼は、その包帯を少し強く引っ張った。傷が微かに閉まるように感じ、士度は小さく呻く。

「痛ッ・・・オマエな!」 「はい、こっちの仕事はこれで御終い。今度はアンタの番よ・・・・」

そう言うと卑弥呼は士度の左手を放り出し、ベッドの端に腰掛けていた士度を押し倒すようにしながら乗り上げてきた。そして彼の首筋にキスを落とし、既にその逞しい肉体を晒している上半身に唇を這わしていく。

「・・・・なんで、俺なんだ?」

徐々に下がっていく卑弥呼の頭に手を乗せ、その髪を戯れに弄りながら士度は天井を見上げていた。

「・・・・・」

卑弥呼は士度のベルトを外しに掛かっていた。

「義妹と・・・寝るような男だぜ?」  「・・・・知ってるわよ。訳アリなのも、知ってる。それが、何よ・・・ン・・・・」

卑弥呼は士度の刀身を口に含んだ。士度が彼女の髪を撫でた。含みきれなかった幹の部分を手でゆっくりと扱き上げ、口内で器用にに舌を動かしながら、卑弥呼は徐々に硬さを増していく象徴を煽っていった。

「・・・・・ッ」

士度が微かに息を吐き、その反応に呼応するかのように卑弥呼は唇を巧みに滑らせる。

「・・・っ・・・ン・・・――!!」

卑弥呼がすっかり屹立した象徴と格闘していると、不意にその短く切られた髪を鷲掴みにされ、その小顔を相手の目の前に引っ張られた。

「何が望みだ?レディ・ポイズン・・・・」

彼女を見据えながら呟いた男の眼は、決して冷たいものではなかった。しかし、それは温かくもなく、その瞳に自分の心内が暴かれそうな錯覚に卑弥呼は陥る。

「・・・・酷く、抱いてよ。ビーストマスター・・・・・」

士度の首に手をかけ、眼を瞑り、触れるだけの口付けを幾度も彼の唇に落としながら彼女は続ける。

「優しくしないで、乱暴に抱いて・・・同情も、労わりもいらないから・・・傷つけてもいいから、痛いくらいに・・・・お願い、何も考えられなくなるくらい“欲”に沈めて・・・・」

すると、卑弥呼は強く腰を掴まれて、後ろ手を取られるようにして叩きつけられるようにベッドの上にうつ伏せにされた。不自由な体勢で首だけを回らすと、彼女の憂いを含んだ瞳が、男の物言わぬ視線とかちあった。

「テメェ・・・上等だ・・・・」

その低く、唸るような声に、卑弥呼の身体に戦慄が走る。彼女が背を震わせると同時に、その喉元が彼の逞しい腕に捕らえられ、後ろ手を取られたまま、シーツの上で組み伏せられる。そしてその肩口には噛み付くようなキスを見舞われ、卑弥呼は思わず悲鳴を上げた。彼女の濃い肌の色が、唇をあてられた其処だけ変色した。その唇はそのまま首筋を這い、耳朶に到達し、冷たい声が卑弥呼の耳に響いた。

「・・・・そんなにお望みなら・・・・壊してやるよ。」

卑弥呼がその言葉を認識する前に、何の前触れもないまま彼の怒張が身体の奥深くに入ってきた。声にならない叫びが彼女の喉から上がり、大きく背を仰け反らせてその唐突な快楽から逃れようとする。

「はっ!テメェで誘っておきながら逃げてんじゃねぇ!」  「ちょ、ちょっと!――ッ!!やぁっ!!」

体内の最奥を抉られるようにしてかき回され、卑弥呼の口から悲鳴が漏れた。そして、与えられるだけの一方的な身体の繋がりが継続される。その細い喉と、そして彼女の細い身体はひっきりなしに叫び声を上げていた。しかし、痛みと欲で掻き毟られるその心は、妙な安堵感で満たされていた。

―― 私は彼を・・・・利用している。

寂しさを紛らわせる為に、いつも瞼の裏にちらつく男を忘れる為に、そして見返りを求めない彼の――

「――アァ!!クッ・・・フ・・・ウ・・・・ッ!!ん・・・・ッ・・・もっと・・・・もっと“痛く”し、て・・・――ンッ!!」

脚を限界まで広げられて、その中心を飾る卑弥呼の蜜壷に叩きつけるような抽挿が繰り返された。そしてそれは新たな悲鳴を彼女の口から止む事無く誘う。卑弥呼にはもはや、士度の表情を窺う余裕など無かった。指が白くなる程にシーツを握り締め、ただただ嬌声を上げるだけ。眇めた瞳の奥で卑弥呼の悶える姿を捉えた士度の横顔は、どこか憂いを帯びていた。




どのくらい責め続けられたのだろうか、不意に・・・・卑弥呼の細い身体が持ち上げられ、繋がったまま後ろから抱きしめられる形になった。下腹部に与えられた急な衝撃に卑弥呼がくぐもった声を漏らすと、その首筋に口付けが振ってきた。士度のその行為に痛みから涙目になっていた卑弥呼の瞳が見開かれる。先程まで暴力的だった士度の動きが緩慢になった。汗で濡れる卑弥呼の肌を、士度は優しく愛撫し、そして彼の大きな掌で彼女の瞳が覆われた。途端、卑弥呼は大きく肢体を震わせて、士度の上で急に暴れだした。

「〜〜!!嫌、イヤァ!!・・・ッン!!優しくなんかしないで!お願・・・い・・・・ッ!ビーストマスター!――ふ・・・あ!!」

士度は彼から離れようともがく卑弥呼の腰を引き寄せ、繋がりを一層深めると、空いた片手で彼女の両手を無言で後ろ手に拘束した。視覚を奪われ、両手首も痛いくらいの力で掴まれた卑弥呼は、尚も身体を捩りながらも抗議の言葉を吐き続けた。

「ヤメ・・・ッ・・・ン・・・・わた・・・し・・・アンタに、優しく・・・・される資格なんて・・・無い・・・・・・の、に・・・・」

士度から与えられ続ける労わるような愛撫に躯が反応し、彼女の太股を汗が滑った。
自分は、見返りを求めたりしない彼の―― 優しさに甘えているのだ。苦しんでいる友を決して見捨てたりすることの無い彼の友情に寄りかかって、心の澱を洗い流そうとしているのだ・・・・。
彼には想い人がいることを知りながら、自分にも想う人がいることを自覚しながら。
なんて、卑怯な――。
でも今日は・・・・士度かれの姿を見たときから、彼に縋りつきたいと、彼の温もりに溺れたいと、そう思った。
この寂しい心を、悲しみではちきれそうになる胸を、鎮めて欲しいと。
痛みを望んだのは、彼へのせめてもの贖罪だったのだ・・・・・そう望むことで彼が激怒することも分かっていた。けれど心の奥ではやはり――彼の優しさを、信じていたのだ。


(オメーは俺の・・・・妹みたいな存在だろ・・・)
(昔っから、そーじゃねぇか・・・)
(きっとこれからも、このままの方がいいんだろうぜ・・・・俺達は・・・)



今朝方告げられた、幼馴染からの胸を抉られるような言葉。

「今なら・・・・」

士度が卑弥呼の耳元で、やや掠れた声で囁いた。

「・・・・他の男の事を考えてもいいんだぜ?」

「――!な・・・んで・・・・ッ?」

――こうやって目を瞑っていれば・・・俺の姿も一時的だが忘れられるだろう?

自嘲気味に呟いた士度の言葉に、卑弥呼の動きが止まった。士度は己の掌を濡らす熱い雫を感じた。

「・・・・馬鹿・・・ね。アンタはどこまで・・・・」

嗚咽交じりの小さな声が、耳を掠めた。―― 優しいのよ・・・・・・・。

「・・・・・冗談だろ。卑弥呼・・・・・」

手首への拘束を解いて士度は彼女の頤を捉えると、自分の方へと引き寄せた。

やっぱり、アンタには私の心内なんて何もかも――見透かされていたのね・・・・・。
それでも、私を――受け入れてくれたのね・・・・・。
ごめん・・・・士度。

まるで卑弥呼の心の声に答えるように、士度は彼女の溢れる涙を舌で掬い取った。

「そろそろ・・・・イかせてよ・・・・・士度。」

背を反らせ、自分からも彼の唇を求めながら、重なる瞬間に彼女は呟いた。
彼女の言葉に答えるように、この船の持ち主は再び薬屋の身体を慾に染めはじめる。
やがて、吐息と悲鳴を飲み込まれながらレディ・ポイズンの身体は大きく震え、その軽い体重を完全にビーストマスターに預けた。
身の内で熱い飛沫を感じながらも、彼女は遠のく意識を繋ぎとめられなかった。
ただ、背中越しに感じる男の体温が自分と同じように高いことが、彼女の心に少しの救いをもたらした。
余韻に身を震わせながら瞼を閉じる女の髪を、男はあやすように撫でた。





「――ん・・・・」

頬をヒヤリとした感触が滑った。士度が冷えたワインボトルを、目覚まし代わりに使ったのだ。シーツに身を沈めていた身体が妙にサッパリしていることに気がつきながら、卑弥呼はのろのろと身を起こした。

「・・・・気持ち良さ気にお休みのところ悪いがな、そろそろ出航の準備しねーと誰かが呼びに来ちまうぜ?」

赤いワインが揺れるグラスを卑弥呼に差し出しながら穏やかに告げた士度は、鮮やかな金糸で飾られたワインレッドのローブを羽織っていた。

「身体、拭いてくれたんだ・・・・ありがと。」

グラスに口をつけながら、卑弥呼は彼の心遣いに礼を述べた。士度は“なんでもない”、と目で述べながらベッドの端に腰掛け、自分もその赤い液体を味わい始める。
そんな彼の様子を見ながら、卑弥呼がフッ・・・と溜息を漏らした。士度が問いかけるように片眉を上げる。

「いや、ね・・・・。私、アンタのことを愛せれば良かったなって・・・・」

そしたら、もうちょっと楽な恋ができたと思う・・・・――ワイングラスの中身を揺らしながら卑弥呼は苦笑交じりに言った。

「・・・・奇遇だな。俺もそう思っていたところだ。」

士度は空になったグラスをサイドテーブルに置くと、今度はワインボトルに直接口をつけながら無表情に言った。

――アンタみたいな女に惚れてたら、さぞかし気持ち楽だったろうよ・・・・――ワインの銘柄をもう一度確かめながら、世間話をするように士度は付け加えた。

それは今も、そしてこれからも現実化することのない、ただの戯れ言だということを、二人は他の誰よりも理解していた。
ただ、今宵は二人とも・・・・そんな些細な慰めの言葉にでさえ、心を静めたいような心境だった。
卑弥呼はベッドの隅に律儀にも畳んで置いてあった服を手にすると、素早く身支度をし始めた。そして、姿見を見て服装を整えながら何とはなしに士度に話しかける。

「・・・・・探し物が見つかったって、聞いたわ・・・・。ローレライここに来る前、ジャッカルから。」

「あぁ・・・・でもまた、失くすかもな。」

空になったワインボトルに舌打ちをしながら士度が物騒なことを言ったので、卑弥呼は視線を彼の方へ泳がせた。

「・・・・アンタにしては珍しく、随分と消極的なことを言うじゃない?」

どーしたのよ・・・?アンタらしくないじゃない・・・・――トットッ・・・と身軽な足取りで卑弥呼が士度の傍まで来て、彼を見上げた。
そんな卑弥呼を見下ろした士度の瞳は穏やかなものだった。そして、士度は卑弥呼の頬に手を当てて優しく告げた。

「お前は、幸せになれよ・・・・レディ・ポイズン。」

「何言ってるのよ・・・・アンタにもきっと訪れるわ、ビーストマスター。」

その“幸福”しあわせってものがね・・・・士度の手を自らの手で包みながら、卑弥呼が目を細めた。そんな彼女の言葉に、士度は困ったように微笑した。
不意に、卑弥呼の船の汽笛がなった。あるじを呼んでいるのだ。
士度は卑弥呼の肩を抱くと、出口へと促した。
彼女の腕輪が再び、華麗な音を立てた。




渡り板が外され、レディ・ポイズンの船が再び旅路へと出航して行った。

「怪我、大事にね!!」

船の上から卑弥呼が叫んだ言葉に、士度は手を振ることで答えた。

―― ありがとう・・・・――

最後に、そんな言葉が風に乗って士度の耳に届いたが、士度は聞こえないフリをして、そのまま優美な船を見送った。
そして夜の帳が落ちたばかりの闇に彼女の船が消えると、士度は大きく伸びをした。彼の隣ではヘヴンが眉間に皺を寄せている。

「・・・・そんなに怒るなよ。」 「怒ってなんか、いないわよ!!」

湯を浴びて私はもー寝るからね!!おやすみ!!

ヘヴンは士度に向かってそう怒鳴ると、フンッ・・・と鼻を鳴らして踵を返し、真っ直ぐ自分の部屋へと帰って行った。

「あーゆーのを、“怒ってる”っていうんだけどね・・・・」

波児が呆れたようにヘヴンを見送る。

「・・・・わかんねーよな。女って・・・・」

士度は肩を解しながら一人言ちる。そしてもう一度大きく伸びをした。

「さて・・・と。波児、アマデウス見なかったか?」

「あぁ、“彼”なら船尾楼脇のベンチの下で丸くなってたよ。」

君を傷つけたことがよっぽどのショックだったんだね・・・・ありゃ完全にイジケモードだったよ・・・・。
波児が苦笑しながら船尾楼の方に目をやった。

「そっか・・・」

士度は波児に短く礼を言うと、真っ直ぐ船尾楼へと向かっていった。途中通りすがったマドカがいる部屋の前で扉越しに、見張りはもういい、とブラウと笑師に告げながら。




「・・・・おい、アマデウス。」

ベンチの下を覗くと、暗がりの中、金の瞳が怯えたように瞬いた。

<シ、シド・・・・ゴメンナサイ・・・・オコッテル?>

オドオドとした震えるような声で黒豹はベンチの下で丸くなったまま主に尋ねる。

「怒ってねーよ。アレはあの女が悪かったんだしな・・・・。けどな・・・・悪ぃけどそのペンダント、あの女に返してやってくれねぇか?元々アイツのもんだったんだとよ・・・・」

士度の最初の台詞を聞いたアマデウスの伏せられた耳がピョコンッ・・・と立ち上がる気配がしたが、後の台詞でその耳はまた伏せられたようだ。

<・・・デモ、ソシタラ、ボクノ、クビワ・・・・マタ、ナクナッチャウ・・・・・>

もっともだ。

「そーだよな。だからさ、代わりにコレやるからさ・・・・。お前、前から欲しがっていただろう?」

士度が手にしたものに惹かれて、アマデウスがベンチの下から顔を出した。




不意に、“あの人”の声が外から聞こえたかと思うと、扉付近で椅子に座っていた二人が返礼をしながら腰を上げた。“ブラウ”と呼ばれていた人はマドカのことをチラリと目の端に収めると、何も言わずに出て行った。“笑師”という名の人は「嬢ちゃん、バイバ〜イ・・・・」と小声で、そして小さく手を振りながらパタン・・・と扉を閉めた。一人、部屋に取り残されたマドカは、ベッドの上で大きく溜息を吐いた・・・・二時間強、眠っていた時間を差し引いても一時間近く、密室の中で二人の屈強な男に見張られていたのだ。神経が磨り減らないわけがない。

――今日、三度に渡って自分を助けてくれた青年は、あの青い眼の見張り役の男性の話によると、この船の主らしい。

「彼は―― 士度様は、この船、ローレライ号の船長にして、奪還屋グループ“シリウス”のリーダー、そして私のご主人でもあります。」

マドカが彼について恐る恐る訊ねてみたとき、ブラウ、という見張り役は掛布のカバーを取り換えながら無表情にこう答えた。しかし、その口調には少し誇らしげな響きが混じっていたようにマドカには聴こえた。その時、笑師、という人は鼻歌交じりに部屋の掃除をしていた。

「士度はんはな、一見恐いお人のよーに感じるやろーけど、とってもエエお人なんやで〜♪」

雑巾を絞りながら、笑師が口を挟んできたりもした。
そうなのかもしれない・・・・笑師の言葉に目を瞬かせながらマドカは彼の行動を反芻してみる――さっきは烈火の如く怒鳴られ、怒られたが、あの海賊船での彼の行動、海から自分を引き上げてくれたときの彼の声・・・・。私を、助けてくれた・・・・さっきも、身を挺して私を庇ってくれた・・・。
初対面の、見ず知らずの私にここまでしてくれるなんて・・・・本当に“いい人”なのかもしれない・・・。それに、この人は“奪還屋”って言っていたから・・・奪還屋は裏稼業だという話は聞いたことがあるけれども、海賊みたいに悪い職業ではないみたいだし・・・・。今度お会いしたら、もう一度ちゃんとお礼を言わなければ・・・・命の恩人なんですもの。

「トーンフェーダー嬢、少しお休みになられてはいかがですが?」

ブラウがシーツやカバーを取り替える間、部屋の隅で、そんなことを思いながら所在なさげに佇んでいたマドカに、彼が声をかけてきた。穏やかな声だったが、その裏には“寝なさい”という命令が含まれていることを、マドカは本能的に感じ取った。
そしておずおずとベッドに戻って、見張り役の彼らの視線から身を隠すように掛布を頭まで被った。すると案外早く睡魔がマドカを攫って行った。悲しみと不安と、そして安堵感と・・・・様々な感情がマドカの心と身体を知らぬうちに疲弊させていたのだ。
やがて、穏やかで可愛らしい寝息が、ブラウと笑師の耳に入ってきた。


(・・・・・かし、良かったなぁ〜・・・士度はんの“探し物”、はように見つかって・・・)
(そうですね・・・・しかし、これからがまたきっと・・・・とても難しいお立場ですので・・・・)
(そーかいな?・・・・う〜ん・・・そーかもなぁ。でも後二ヶ月経ったらこの仕事も終って、士度はんは――)
(シッ!!笑師殿!そういったご発言はここでは・・・・)
(え、でも、嬢ちゃん、寝てはる・・・・ゲッ・・・!)

男たちのヒソヒソ声に引かれるようにして、マドカは眠りの国から追い出されてしまった。そして眠い目を擦りながら身を起こし、まだボンヤリとした頭で周囲を見回した。何やら話していた男たちの会話は、ピタリと止まった。そして、その代わりに、

「良く、お休みになれましたか?」

という無機質な声が降ってきて、笑師からは水差しからグラスに注いだお冷やが、スッと差し出された。

「・・・・はい、ありがとうございます・・・・」

そして、大した会話もないまま一時間が経過した後、彼らは出て行ったのだった。


マドカは改めて部屋の中を見回してみた――調度品は派手では無いが、品のある木目が美しい、中流階級以上の者が使用するであろう家具で揃えられていたし、ベッドは一人で寝るには広すぎる代物、サイドテーブルには水差しとグラスと、小皿に並べられたクッキーもいつの間にか置いてあった。
ベッドの目の前にある大きな窓はカーテンが掛かっていた。その僅かな隙間から、蔦模様が美しい鉄格子がチラリ・・・と見えた。マドカはベッドからゆっくりと降りると、その窓にそろそろと近寄ってカーテンを開けてみた。
その窓はやはり、豪奢な紋様の鉄格子で覆われていた――こんなに素敵な家具やベッドが置いてあっても、ここも所詮は牢獄なのかしら・・・・マドカはそう思い、半ば落胆しながら鍵が掛かっていることを確かめる為にドアノブに手を掛けたとき・・・・カチャリ・・・・とその扉は音を立てて開き、涼しい夜風がマドカのネグリジェを揺らした。そして潮の香りがマドカを誘う・・・・マドカは裸足のまま、その扉からソッと抜け出した。


デッキには誰もいなかった。マストの上の見張り台で誰かが動くのが暗がりの中見えたが、その人に気付かれまいと、マドカは音を立てないように気をつかいながら海が見える所まで急いだ。デッキのところどころに設置されている松明やランプが、足元を照らしてくれた。
やがて誰にも遭遇しないまま、マドカは船の端までたどり着いた。そして少し背伸びをして、海面を覗き込む・・・・綺麗な三日月が漆黒の海に輝いて揺れていた。
マドカはしばらくの間、その波に漂う月を眺めていた。すると、いつの間にか、眼に熱いものが込み上げてきて・・・・

「父様・・・・コリーナ・・・・」

今は亡き、愛しい人たちの名を口にすると、マドカの大きな瞳から涙が溢れだし止まらなくなってしまった。本当は声を大にして泣いてしまいたかったが、そうするとまたこの船の人達に迷惑をかけてしまうような気がしたので、マドカは月に眼を落とし、肩を震わせながら声を殺して泣いた。どうして、こんなことになってしまったのだろう・・・・ほんの一ヶ月前までは、あの長閑なノイオプダハで、静かに、幸せに暮らしていたのに・・・・公爵様のお嫁さんになることを夢見ながら、コリーナと恋の話や流行のドレスの話や王都の噂話をしたり、父様に時々軍艦に乗せてもらってはしゃいだり、暖炉の前で母様の思い出話や将来の輝ける希望について語り合ったりしたていたのに・・・・。このたった一ヶ月で、自分の身体は穢され、公爵様の妻となることは絶望的になってしまった。父様とコリーナも、自分の手の届かない場所へ行ってしまった。島民も、もうあの島には残っていない。公爵様からいただいたあのペンダントも、もうきっと戻ってこない・・・・。
マドカの手に巻かれていた真新しい包帯は、瞬く間に涙色に染まっていった。思い出を辿るようにして見つめ続けていた三日月も、ボンヤリと形を歪めてくる。殺していたはずの声は、いつの間にか啜り泣きとなって音を成していた。
そんなマドカがもう一度手の甲で涙を拭った、その時・・・・。

「また、飛び込む気かよ、オメーはよ・・・・。」

背後から呆れたような、しかしとても静かな声が、マドカの耳に飛び込んできた。マドカが虚を衝かれたように振り返ると、そこには、この船の船長が・・・・。
マドカはもう一度慌てて両の手で涙を拭った。しかし、そこで自分がどんな格好で殿方の前に立っているのかということに改めて気付き、絶望的な気分になる――寝起きで髪は乱れ、薄いネグリジェのまま、裸足で、泣き顔で、しかも勝手に部屋を抜け出してきて・・・・穴があったら入りたい心境とは、正にこのことだ。そんなマドカが寝乱れた髪に慌てて手をかけたとき、船長が再び口を開いた。

「・・・せめて、この手が治るまで待ってもらいたいもんだぜ、海水が傷に沁みるんでな。」

「・・・・え?」

その言葉の意味が分からずマドカが眼を瞬かせると、男は真紅のローブを翻し、軽く溜息を吐きながらマドカの目の前までやってきた。

「・・・・お前がこの船にいる間は、俺がお前を守ってやる・・・・ってことだよ。お前に海に飛び込むようなマネは、もうさせねぇ。たとえ海に落ちたとしても、何度でも俺が引き上げてやる・・・・・」

「船長さん・・・・」

男の頼もしい言葉に礼を述べようとしたマドカの第一声に、士度は顔を顰めた。

「・・・・・“士度”だ。“マドカ”。」

「あ、あの・・・・“士度さん”ってお呼びしても良いのですか?」

いきなりファースト・ネームで呼ばれたことに対する驚愕と、涙で変色した包帯だらけの手を急にとられたことに困惑しながらマドカは訊ねる。

「・・・・好きにしろ。」

そう言いながら士度がマドカの掌にそっと乗せたものは・・・・籠に捕らわれた青い星のペンダント。
涙で濡れたマドカの瞳が驚きで見開かれた。

「あ・・・・これ・・・・!猫さんが返してくれたんですか!?」

そのペンダントを眼にするなり、マドカは弾かれたように顔を上げ、縋るように士度に訊いてきた。

「あ―・・・返したっていうか・・・・物々交換だな。コレ、ヤツも気に入っていたからな。それに、もともと海賊船でアイツが見つけたもんだから、タダで取り上げるわけにはいかなくってよ。」

士度は自分の首の付け根を、トントン、と人差し指で叩いた。マドカが眼をやると、そこに確かにあったはずの金の鎖がなくなっている。確かあの女医の話ではあれは彼が父親から貰った大事なものだと・・・。

「!!そ、そんな・・・あれはお父上から頂いた大切なものだとお聞きしました・・・・なのに・・・・」

戸惑うマドカの言葉を聞き流すと、―その手じゃ自分でベンダントつけられないよな・・・・そう言いながら士度はマドカの手から再び星をとり、つけてやるよ、と彼女の背後に回った。

「別に・・・・たとえ“猫”にでも、それなりの“等価”を支払うのが礼儀ってもんだろう。それにアイツはいつも俺の傍にいるんだ・・・・問題ないさ。」

ほら、髪あげろよ・・・・話の流れを変えるように士度にそう言われて、マドカは長い髪を持ち上げた。青い星が、目の前に下りてきたかと思うと、ゆっくりと元の持ち主の胸元に納まった。
士度は左手に傷を負っているにも関わらず、―― 千切れていたから鎖だけは新しいものに換えたからな・・・と言いながら、器用に銀の鎖の留め金を留めた。

「あの・・・・でも、私には・・・代わりにお渡しするものなんて、何も・・・・・」

あの大きな猫と士度が、それぞれの大事なものを犠牲にしたからこそ、マドカの唯一の慰みであるこのペンダントが戻ってきたのだ。そのお礼として手渡せるものを何も持っていない自分が、非常に無礼にマドカは感じた。
すると、マドカの細腰が彼の逞しい腕に捉えられ、徐に引き寄せられた。

「!?あ、あの・・・何を・・・・んッ・・・!!」

士度の右手がマドカの腰を掴み、左手で頤を持ち上げられ、緩く耳朶を噛まれた。そして囁かれた言葉は・・・・

「今、お前にあるのは、“この身一つ”か・・・・?」 

「!!―― あ・・・・・ん・・・・・ッ・・・・!」

彼の言葉の意味を瞬時に理解したマドカの身体に戦慄が走り、同時に士度の熱い掌で腰を撫で上げられ、自然と小さな喘ぎ声が漏れた。――ペンダントがこの手に戻ってきた喜びも束の間、再び暗い予感がマドカを襲う。
確かに・・・・今の自分にあるのは、この躯だけ・・・・すでに穢れきっているのだから、たとえこの身体を彼に差し出すことになったとしても、本質的には何も変わらないはず・・・・でも・・・・。
マドカは自分を陵辱し尽くした海賊たちと、何度も自分を助けてくれた、今背後にいるこの男を同列に並べたくはなかった。彼は、“違う”――そう信じたかった。けれど彼は、今、私を求めている・・・・・肌蹴たローブの下の男の素肌の熱が、マドカのネグリジェ越しに伝わってきた。そしてマドカの小さな身体はさらに引き寄せられ、男の熱と浅い息遣いがつぶさに分かってしまうほど身体の距離が縮まった。
嫌悪感は、無いのだ・・・・彼に。むしろ芽生え始めていたのは、信頼。そのはずなのに・・・・・。もし、今彼に抱かれてしまえば、自分の中の、“彼”という人物がきっと、変わってしまう・・・・この人のことをもっとよく、“知る”前に。
そのことがどうしようもなく哀しくて、苦しくて・・・・それでも、彼への恩に報いる為に、“何か”をしなければ・・・・そんな思いは消えなくて。

「・・・・お礼、したいんです・・・・でも、私・・・・本当に、この身体しかなくて・・・・それでも・・・・・」

彼女の腰をあやすようにゆっくりと撫でていた彼の手に、マドカは触れた。俯きながら告げられた彼女のその声は真摯なものであったが、たどたどしく揺れていた。士度が抱きしめたら折れてしまいそうなその痩躯は、怯える小鳥のように震えていた。
そして、真珠のような涙が彼女の頬を伝った――父と、親しいメイドの死、島に戻れない絶望、振り返りたくない一ヶ月・・・・今日一日流したどの涙とも違う哀情が含まれた熱い雫が、士度の手を濡らした。
士度の動きが止まり、彼女を力強く抱いていた力が不意に緩んだ。

「・・・?あの・・・・」

士度はマドカの顔を見ないままその痩せた肩を抱くと、その少女を促して彼女が寝かされていた部屋へと脚を向けた。促されるままに歩みながら途中マドカは窺うようにして士度の顔を見上げたが、その端整な顔からは何の表情も読み取ることができなかった。
部屋の前まで来ると士度はその扉を開け、エスコートするように彼女をその部屋へ入れた。しかし、彼自身はその部屋に入ろうとはしなかった。マドカは彼の真意が分からず、不思議そうにその男を見上げた。自然、二人の視線が絡まった。その刹那、先に言葉を発したのは士度の方からだった。

「・・・・今日はいろいろあって、疲れただろ。もう、寝ろよ。」

そう言い残して去ろうとする士度のローブをマドカは慌てて掴んだ。そういえば、私、まだお礼の言葉でさえ・・・・
無表情な顔が再びマドカの方を向いた。

「・・・・すみません、その・・・・お礼もろくに言わなくて・・・・。ペンダント、本当にどうもありがとうございました。そして・・・・怪我のことも・・・・申し訳御座いませんでした・・・・お大事になさって――!」

「おやすみ、マドカ。」

士度が彼女の言葉途中でその小さな手をとり、マドカの痩躯を引き寄せたかと思うと、彼女の額に軽くキスを落としたのだ。そしてそのまま何も言わず、彼女の言葉を聞くことも無く、踵を返して暗がりの中へと消えて行った。


マドカは胸元の青い星を握り締めながら呆然と彼の後姿を見送った。
今日出逢ったばりのひとなのに・・・・・海の中で与えられたキスからは優しさと労わりと哀しみを、おやすみのキスからは・・・まるで家族へ贈るような愛情が感じられた様な気がした。
そう、今日初めて会った人なのに・・・・・。


どうしてこんなにも速く、深く・・・・私の中に入ってこようとするの・・・・?

そしてどうして私の心は・・・・心臓は・・・・・こんなにも大きく響いているの・・・・・?



マドカはもう一度願うようにして、その青い星のペンダントを握り締めた。
そして彼の姿がもう見えない、闇に包まれたデッキを、いつまでもいつまでも眺めていた。





 



士度×卑弥呼初挑戦。結構好きかもです・・・・。
アマデウスはいつになったら“猫”から“豹”に昇格できるのでしょうか…。